Se connecter院長でもある母さんは、研修医になったばかりの弟・久遠修斗(くおん しゅうと)に少しでも場数を踏ませたい一心で、勝手に俺・久遠蒼一(くおん そういち)の脳腫瘍の手術を任せてしまった。 俺は「これが本当に最後のチャンスなんだ、執刀医を替えてくれ」と母さんにすがって頼んだ。 なのに母さんは俺の頬を平手打ちし、「どうしてあんたみたいな自己中の出来損ないを産んじゃったんだろうね。弟はやっと研修に入ったばかりなのに、少し腕を磨かせてやるくらいで死ぬわけないでしょ!」と怒鳴りつけた。 やがて手術は失敗に終わり、俺はそのまま息を引き取った。母さんは、その夜のうちに髪が真っ白になるほど一気に老け込んだ。
Voir plus警官が手錠を取り出して母さんの手にはめると、母さんはもう抵抗もせず、悔しそうな顔でそのままパトカーに乗り込んでいった。警察署に着くと、母さんは自分に不利な資料をすべて差し出し、一つも隠そうとはしなかった。公判を待つあいだ、母さんは運ばれてくる食事をことごとくひっくり返した。毎日、独房の隅に背中を預けたまま、ほとんど眠ろうともしなかった。口の中ではいつも、「蒼一、ごめんね。全部母さんが悪かった。来世ではちゃんと償うからね」と繰り返していた。気づけば俺も思わず答えていた。「もういいよ、母さん。来世では、母さんの息子にはなりたくない」母さんは、突然俺が見えたみたいに顔を上げて、「蒼一、帰ってきてくれたのね。やっぱり母さんのこと、置いていけなかったんでしょう?」と言った。俺も、その反応に思わず息をのんだ。もう一度声をかけてみる。「母さん、俺のこと見えてるの?」母さんは嬉しそうに身を乗り出してきて、「当たり前でしょ、ばかね。母さんにあんたが見えないわけないじゃない」と笑った。俺はあわてて身を引いた。「でも、俺もう死んでるんだよ……」母さんはすぐに、「こら、縁起でもないこと言わないの。ほら、こうしてちゃんと元気じゃない」と言い返した。そう言いながら、母さんの目がじわっと赤くなっていくのを見て、ようやく気づいた。死んだことを忘れているんじゃない。ただ、現実を認めたくないだけなんだと。俺は母さんの目の前までふわりと近づき、「母さん、もう自分をごまかすのはやめよう」と言った。母さんは胸を押さえながら声を上げて泣き、「蒼一、ごめんね。全部母さんのせいだよ。謝るから……許してくれない?」と訴えた。俺は首を横に振った。生まれて初めて、母さんの頼みを突っぱねた。母さんは肩を落としてうつむき、「そうよね、許されなくて当然だわ。あんたを殺したのは母さんなんだもの。今からでも、命をもって償うから」と呟いた。異変に気づいた看守が慌てて駆けつけ、ちょうど扉を開けようとした瞬間、母さんは「蒼一!母さんはあんたを愛してるよ!」と叫んだ。そしてそのまま勢いよく壁に頭を打ちつけた。どれほどの覚悟を決めてそうしたのかも、何日もろくに食べていない身体のどこにあんな力が残っていたのかも、俺には分からなかった。駆けつけた医師が診たときには
母さんはどこか上の空のまま俺の遺体の引き取り手続きだけ済ませると、そのあと数日は病院にも顔を出さずに家にこもっていた。葬式の準備をする時間以外は、一日中ベッドに横になって、ただぼんやりと天井を見つめているだけだった。驚いたのは、一晩のうちに髪が一気に白くなり、見た目まで一気に十歳は老け込んでいたことだ。この数日ろくに口にもしていないせいで、顔色は土気色にやつれ、まるで重い病気にでもかかった人みたいになっていた。そうして何日かが過ぎ、ようやく俺の葬式の日がやって来た。後ろめたさがあったのか、母さんは俺のためにそれなりに立派な葬儀を整えてくれた。会場には親戚一同と病院の医者たちも顔をそろえ、あちこちでひそひそとささやき合っていた。母さんが長年修斗ばかりを可愛がり、俺にはいつも冷たかったことなんて、ここにいる誰もが知っている。それでも母さんの気性もよく分かっているから、誰一人として波風を立てようとはせず、ただ黙って様子をうかがっているだけだった。そんな中、参列者の列に父さんと文江の姿もあった。父さんは入ってくるなり、勢いよく母さんの頬を平手で打ちつけた。俺が状況を飲み込めないでいると、父さんは低い声で言い放った。「綾野さんから全部聞いた。証拠もそろえて警察に渡した。お前たち、覚悟しておけよ」父さんとはずっと連絡は取り合っていたが、離婚して海外に渡ってからは顔を合わせる機会もほとんどなく、電話でもいつも明るい話しかしなかった。俺が病気になったことも、一度も打ち明けていない。倒れたときに世話を焼いてくれたのは文江で、その恩返しのつもりで、万が一のときは父さんを頼れと名刺を渡し、もし手術が失敗したら、俺の代わりに父さんへ全部伝えてくれとお願いしておいた。まさかそれが、こんな形で自分自身のためになるとは思ってもいなかった。父さんはバリバリのビジネスマンで、ことが分かるや否やすぐに弁護士を動かし、証拠集めに走らせた。ざわついた会場に、突然サイレンの音が割り込んできた。母さんは自分のことを迎えに来たのだと悟っていたのか、どこか観念したような顔つきになった。ところが警官たちは、真っ直ぐ修斗のほうへ歩み寄って行った。「久遠修斗さん。あなたは職務を悪用して多額の金品を受け取り、偽装した医療事故によって久遠蒼一さんを死亡
回想に沈んだままぼんやりしているあいだに、母さんは一人で寝室へ行き、俺の電話番号を探し始めた。彼女は何度もためらった末に、ようやく俺の番号に発信した。けれど俺は、もう一週間も前に死んでいる。電話になんて出られるはずがない。母さんは怒り心頭でメッセージを送りつけてきた。「たかが修斗にちょっとした手術を任せただけでしょ?それで拗ねて、母さんの電話まで無視するつもり?そこまでやるなら、もう二度と家に帰ってこなくていい!死にたいなら勝手にどっかで死ねば?なんであんたみたいな出来損ないを産んじゃったんだろうね。一日中、私を苛立たせることしかできないくせに!綾野が味方してるからって、何もかも怖くないつもり?私が本気になれば、あの子なんか一言でクビにできるのよ。二人で好き勝手やってなさい」文江のために何か言い返したくても、声は一切喉から出てこず、ただ焦りでその場で足踏みすることしかできなかった。文江がそこまでしてくれるのは、ただ根っから優しいからだ。それなのに、世界で唯一俺をあたたかくしてくれた人が、こんな理不尽な目に遭うのは耐えられなかった。俺は心の中でそっと呟いた。「母さん、そんなことばかりしてたら、本当にいつか全部が表に出て、そのときこそ罰を受けることになるからな」いつまでも既読もつかないのを見て、母さんも少し不安になったようだ。生きていた頃の俺は、母さんからの連絡を無視するなんて考えたこともなく、電話だって出るのが数秒遅れただけでひどく怒鳴られていた。母さんは落ち着かない様子で修斗に話しかけた。「修斗、お兄ちゃんの病気、本当にただの普通の脳腫瘍なの?」修斗は自信満々にうなずいた。「兄貴の頭のCT、俺もちゃんと見たよ。ごく小さい、ありふれた腫瘍でさ、注意して見なきゃ分からないくらいのやつ。さっと切っちゃえばそれで終わりだよ」そこでようやく、母さんが俺の言うことをいつまでも信じようとせず、俺を「大げさに騒いでいるだけだ」と決めつけていた理由が腑に落ちた。俺の脳に巣食っていたのは、ごくありふれた腫瘍なんかじゃない。悪性のグリオーマだった。修斗がああ言ったのは、単に腕が未熟で本当の怖さが分かっていなかったのか、それとも、母さんに俺のことなんて気にしてほしくなかったのかもしれない。けれど、もうこんなに日がたってから、修
母さんは、さっきまで小さなウサギみたいにおどおどしていた文江が、今は噛みつくような態度を取ってくるのを見て、ますます腹が立ったようだった。「綾野、いい?自分の立場をよく考えなさい。私、本気を出せばすぐクビにできるのよ。今すぐ私の前から消えなさい。そうすれば、まだ見逃してあげるかもしれないわ」文江は喉につかえたように言葉を失い、そのまま背を向けて、涙をぬぐいながら立ち去っていった。俺は、自分のために必死で動いてくれたのに一方的に罵られる文江を見て、何とか庇おうとした。けれど、どれだけ声を振り絞ろうとしてもまったく音が出ず、ただ、角を曲がったところで堪えきれずに泣き崩れる彼女を、涙を拭いてやることすらできずに見送るしかなかった。文江が去ったあと、修斗は母さんの肩にそっと手を置いてなだめた。「もういいじゃん、母さん。そんなに怒んないでよ。兄貴だって、この前僕が医学賞の枠をもらったこと、まだ根に持ってるだけなんだよ」母さんは大きくため息をつき、「あんな性根の腐った人間が賞を取ったところで、何になるのよ。人を救うどころか、人を傷つけずに済めばまだましってレベルでしょ」と吐き捨てた。その言葉に呼応するみたいに、頭の奥がズキンと痛み、二年前の記憶の断片が一気に浮かび上がってきた。魂になってからの俺の記憶は、ところどころ霧がかかったみたいに曖昧だったが、いまの会話がちょうど、その一角を指さしてくれたようだった。あの頃、修斗は医者になりたてで、俺はその賞の最年少受賞者になるはずだった。ところが母さんは、こっそり自分の立場とコネを使って、その栄誉をごっそり修斗のほうへ回してしまった。当然もらえると信じていた俺は、その日、きちんとスーツに身を包んで会場へ向かった。だが、客席から拍手が湧き起こり、司会者の口から読み上げられたのは、修斗の名前だった。もし受賞者が別の誰かだったなら、俺だって素直にその実力を認めただろう。けれど、大学の五年間のうち四年半はサボって遊び歩いていたような修斗が、研修に入ったばかりでこんな大きな賞を取るなんて、俺が何も言わなくても、そこにどんな力が働いたかは誰の目にも明らかだった。家に戻ってから、俺はついに母さんに食ってかかった。「母さん、どうしてあんな真似をしたの?この賞が俺にとってどれだけ大事か、分かってる?