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弟のメスで死んだ日

弟のメスで死んだ日

Par:  匿名Complété
Langue: Japanese
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院長でもある母さんは、研修医になったばかりの弟・久遠修斗(くおん しゅうと)に少しでも場数を踏ませたい一心で、勝手に俺・久遠蒼一(くおん そういち)の脳腫瘍の手術を任せてしまった。 俺は「これが本当に最後のチャンスなんだ、執刀医を替えてくれ」と母さんにすがって頼んだ。 なのに母さんは俺の頬を平手打ちし、「どうしてあんたみたいな自己中の出来損ないを産んじゃったんだろうね。弟はやっと研修に入ったばかりなのに、少し腕を磨かせてやるくらいで死ぬわけないでしょ!」と怒鳴りつけた。 やがて手術は失敗に終わり、俺はそのまま息を引き取った。母さんは、その夜のうちに髪が真っ白になるほど一気に老け込んだ。

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Chapitre 1

第1話

院長でもある母さんは、研修医になったばかりの弟・久遠修斗(くおん しゅうと)に少しでも場数を踏ませたい一心で、勝手に俺・久遠蒼一(くおん そういち)の脳腫瘍の手術を任せてしまった。

俺は死んだ。弟のメスの下で。だが予想外だったのは、死んだあと、俺の魂は母さんのそばへ引き戻された。

そのとき母さんは、修斗を必死になだめていた。「大丈夫よ、修斗。蒼一はしぶといんだから、そう簡単に倒れたりしないわ。まずは家に帰って、ゆっくり休みなさい」

母さんが修斗のほうを見るその目には、溢れんばかりの愛おしさと痛ましさが宿っていた。生きていた頃、一度も向けられたことのない優しさだった。

ここ何年も、母さんが俺に向けるのはいつだってうんざりしたような態度で、口を開けば苛立ちがにじんでいた。

普段の俺は何でもないふりをして、へらへら笑ってごまかしていたけれど、本当は何も気にしていなかったわけじゃない。ただ、弱いところを誰にも見せたくなかっただけだ。

もう死んでしまった今になって、胸の底に溜め込んできた苦さが、抑えきれなくなってあふれ出す。

家に戻った途端、母さんのスマホがけたたましく鳴り出した。

電話口で病院の医者が、俺がもう亡くなったと告げると、母さんは食い気味に言い返した。

「ありえないわ!あの子の病気なんて、大したことないでしょ?腕のいい先生がいくらでもいる病院で助けられないはずがないじゃない。

どうせ修斗に手術なんてさせるから拗ねて、あんたたちと組んで私を脅かそうとしてるんでしょ。そんな安っぽい芝居、私が騙されると思わないで!」

電話を切ったあとも、母さんは最後まで全部俺の我がままだと信じて疑わない様子で、むしろ自分を責めるように顔を歪めた。

「修斗、ごめんね。全部お母さんが悪いわ。怖い思いさせちゃって。蒼一が帰ってきたら、お母さんがきつく叱ってやるからね」

言い終えたそのとたん、また母さんのスマホが鳴った。

さっきまで優しい声を出していた母さんは、画面を一瞥すると眉間にしわを寄せ、露骨にうんざりした口調になった。「さっきはっきり言ったでしょ。蒼一に伝えて。死にたいならさっさと一人で死ねって。いちいち何度も私を巻き込まないでって!」

しばらく沈黙が続いたあと、電話の向こうの声が慎重に名乗った。「久遠さんですね。私どもは警察です。久遠修斗さんが医療事故に関与している可能性がありまして、ご本人と連絡がつかないため、少しお話をうかがいたいのですが」

母さんはそこでとうとう堪忍袋の緒を切らした。「さっきから医者だの警察だのって、今度は何なのよ。あんたが誰だか知らないけど、でたらめ言うのはやめてちょうだい。いい加減なこと言ってたら、ただじゃ済まないわよ!」

相手はあわてて言い返す。「久遠さん、なにか誤解があるのかもしれませんが、私たちも法律に則って捜査を――」

母さんは、そばで怯えきった顔をしている修斗を一瞥し、露骨にうんざりした声で怒鳴った。「もういい!蒼一に伝えて。いい加減、こんなくだらない騒ぎはやめなさいって!修斗がどれだけビクビクしてるか分かってるの!」

言いたいことだけ言うと、母さんはまた一方的に通話を切った。

俺が倒れて入院してからというもの、母さんはずっと機嫌が悪かった。こんな程度でわざわざ病院にいる必要なんてないと決めつけて、俺が構ってほしくて騒いでいるだけだと思っていた。

その横で修斗が涙を浮かべ、いかにも心細そうに母さんを見上げる。「僕、怖いよ、お母さん。兄貴に本当に何かあったら、どうしたらいいの?」

母さんの目は冷え切っていた。「あの子は最初から私に見せつけたくて大げさにやってるだけよ。それに、途中でちゃんと病院で一番腕のいい先生にメスを渡したんだから、事故なんか起きるわけないでしょ。そんなことまでネタにして騒ぐなんて、本当に図に乗りすぎよ」

まだ死んだばかりの俺に向けられるこの冷たさを目の当たりにして、胸の奥がすうっと冷えていく。これまでどれだけ母さんの愛情を、哀れなくらいに一かけらでも求めてきたかを思い出すと、そんな自分が情けなくて、笑えてくる。
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第1話
院長でもある母さんは、研修医になったばかりの弟・久遠修斗(くおん しゅうと)に少しでも場数を踏ませたい一心で、勝手に俺・久遠蒼一(くおん そういち)の脳腫瘍の手術を任せてしまった。俺は死んだ。弟のメスの下で。だが予想外だったのは、死んだあと、俺の魂は母さんのそばへ引き戻された。そのとき母さんは、修斗を必死になだめていた。「大丈夫よ、修斗。蒼一はしぶといんだから、そう簡単に倒れたりしないわ。まずは家に帰って、ゆっくり休みなさい」母さんが修斗のほうを見るその目には、溢れんばかりの愛おしさと痛ましさが宿っていた。生きていた頃、一度も向けられたことのない優しさだった。ここ何年も、母さんが俺に向けるのはいつだってうんざりしたような態度で、口を開けば苛立ちがにじんでいた。普段の俺は何でもないふりをして、へらへら笑ってごまかしていたけれど、本当は何も気にしていなかったわけじゃない。ただ、弱いところを誰にも見せたくなかっただけだ。もう死んでしまった今になって、胸の底に溜め込んできた苦さが、抑えきれなくなってあふれ出す。家に戻った途端、母さんのスマホがけたたましく鳴り出した。電話口で病院の医者が、俺がもう亡くなったと告げると、母さんは食い気味に言い返した。「ありえないわ!あの子の病気なんて、大したことないでしょ?腕のいい先生がいくらでもいる病院で助けられないはずがないじゃない。どうせ修斗に手術なんてさせるから拗ねて、あんたたちと組んで私を脅かそうとしてるんでしょ。そんな安っぽい芝居、私が騙されると思わないで!」電話を切ったあとも、母さんは最後まで全部俺の我がままだと信じて疑わない様子で、むしろ自分を責めるように顔を歪めた。「修斗、ごめんね。全部お母さんが悪いわ。怖い思いさせちゃって。蒼一が帰ってきたら、お母さんがきつく叱ってやるからね」言い終えたそのとたん、また母さんのスマホが鳴った。さっきまで優しい声を出していた母さんは、画面を一瞥すると眉間にしわを寄せ、露骨にうんざりした口調になった。「さっきはっきり言ったでしょ。蒼一に伝えて。死にたいならさっさと一人で死ねって。いちいち何度も私を巻き込まないでって!」しばらく沈黙が続いたあと、電話の向こうの声が慎重に名乗った。「久遠さんですね。私どもは警察です。久遠修斗さんが医療事故に
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第2話
少し前、俺は母さんが働いているこの病院で、脳腫瘍だと診断された。情けないことに、院長である母さんはそのことを知ろうともしないどころか、俺のことを「また大げさに騒いでいるだけだ」と決めつけていた。診てくれた担当医は、今の俺の状態はかなり危険だと言い、「もし全国的に名の知れた脳腫瘍の権威・倉田教授に執刀してもらえれば、まだ助かる見込みがあります」と教えてくれた。しかも、その倉田教授は、母さんの学生時代の同期で、今も付き合いのある友人だという。俺は何度もカルテを握りしめて母さんのところへ行き、助けてほしいと頭を下げた。けれど母さんはカルテに目もくれず、書類を床に叩きつけて言い放った。「私は忙しいのよ。いい加減、毎日こんな茶番に付き合わせるのはやめてくれない?」そのうち俺の病状はみるみる悪化し、視神経が圧迫されたせいでついには失明してしまい、毎日ベッドに寝たきりで、痛みだけを黙って耐える日々になった。見かねた担当医が母さんのもとを訪ね、「院長、蒼一くんは本当に危険な状態です。どうか助けてあげてください」と訴えてくれた。母さんは顔を上げもしないで、氷のように冷たい声で答えた。「あの子に何を渡されたの?そこまでして私を騙す芝居に付き合って、楽しい?どうせ私の気を引きたいだけでしょ。脳腫瘍だなんて、それらしい病名まで持ち出してさ。本当に脳腫瘍だったら、それはそれで静かになってくれて助かるくらいよ。これ以上あの子の茶番に付き合うなら、あなたごとクビにするわよ。さっさと出て行きなさい!」医者はまだ何か言おうとしたが、微動だにしない母さんの横顔を見て、諦めたようにそっと首を振った。倉田先生に頼むことはできなかったが、もうこれ以上は待てないほど、俺の病状は限界まで進んでいた。そこで主治医は仕方なく、せめてもの手として、この病院で一番腕の立つ脳外科医に、先に執刀を依頼する段取りをつけてくれた。手術の前に、俺は担当医に頼み込んで、母さんにビデオ通話を繋いでもらった。もう両目は見えなかったけれど、それでも母さんの声が聞きたかったし、最後の最後でもう一度だけ、本当に病気なんだと信じてほしかった。なのに返ってきたのは、やっぱり母さんの嘲りだった。「あら、今度は新しいネタ?今度は目が見えないフリまでして。そんな芝居で、私が信じるとでも思って
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第3話
手術の日、母さんは手術室の前でそわそわしながら中の様子をうかがっていた。けれど、母さんが気にかけていたのは俺じゃなく、初めてメスを握る修斗のほうだった。臆病な修斗は、俺の頭にメスが入ったその瞬間から、ずっと手を震わせていた。そばにいた指導医が「もうここまでにしろ」と止めたのに、修斗はそれでも「自分の力を証明したい」と言い張った。手術が始まって間もなく、彼のミスが原因で俺の心拍は一気に危険なラインまで落ち込んだ。慌てた別の医師が、修斗の手からメスをもぎ取るように取り上げた。修斗はひどく取り乱し、そのまま手術室を飛び出して母さんのところへ走って行った。だが母さんは、命の危機にある俺のことなどまるで眼中になく、ひたすら修斗をなだめ続けるばかりだった。そのうえ母さんはわざわざ休みを取って、怯えきった修斗に付き添うため、家で一緒に過ごすことにした。俺が死んだあとも、病院の医者や警察が何度も母さんに電話をかけてきたが、母さんは全部途中で切ってしまった。数日後、修斗は「精神的にもう限界で、メスなんて握れない。どこかへ行って気分転換したい」と言い出した。母さんはすぐさまモルディブ行きのチケットを予約し、修斗の付き添い役として一緒に旅行へ出かけた。俺が生きていた頃、何度か母さんに「家族でどこかに旅行に行きたい」と言ったことがある。母さんとちゃんと向き合って過ごせる数日が欲しかったのだ。けれどそのたびに、母さんは冷たく言い捨てた。「私は毎日、忙しくて死にそうなのよ。あんたの遊びに付き合ってる暇なんかあると思う?」後になって分かったのは、母さんがそこまで断り続けた理由はただ一つ、病院に入ったばかりの修斗が心配で、少しでも長くそばにいてやりたかったからだということだった。ここ何年も、母さんはそのほとんどを修斗に費やしていて、俺が学会で賞を取ったときでさえ、祝うどころか一分たりとも時間を割こうとはしなかった。母さんにとって俺は、ただの厄介者で、余計な手間を増やす面倒な存在でしかなかった。それなのに今、その「忙しくて死にそう」が口癖だった母さんが、修斗の気晴らしのために一ヶ月も仕事を休んで、一緒にのんびり旅に出ている。飛行機が着陸した途端、修斗は大きく伸びをして言った。「やっぱり場所を変えるとさ、気分がだいぶ楽になるね。…
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第4話
母さんが修斗ばかりを可愛がるのには、ちゃんと理由がある。小さいころ、修斗がビン一つまるごと飴を盗み食いして、母さんにお尻を叩かれたことがある。その翌日、母さんが俺と修斗を連れて遊びに出たとき、信号待ちの横断歩道で、根に持っていた修斗がいきなり母さんの背中を突き飛ばした。修斗はまだ小さくて、力なんてほとんどなかったのに。それでも、不意を突かれた母さんはよろめき、そのまま車道の端に倒れ込んだ。倒れた拍子に思わず差し出した手を、猛スピードで走ってきた車に踏みつけられて、骨が砕けた。母さんが振り返って俺たちを見たとき、母さんをつかもうとして伸ばしていた俺の両手は、まだ宙に残ったままだった。その瞬間から、母さんの中で俺は「生まれつき性根の悪い子ども」として刻み込まれてしまった。自分の明るい将来を潰したのは俺だと、本気で思い込んだのだ。一方で、本当の張本人である修斗は、その場に突っ立ったまま大声で泣きじゃくり、それがまた母さんの胸を締めつけた。母さんは、その涙は自分を心配してのものだと信じて疑わなかった。でも、本当に母さんの未来を壊したのは、誰より可愛がっている末っ子の修斗だってことを、母さんは知らない。幸い、あの事故で母さんの命までは奪われなかった。手術のおかげで手そのものはなんとか残ったが、心臓外科医としてメスを握る力は二度と戻らなかった。ちょうどその頃、病院の院長が引退することになり、そのポストは腕のいい母さんに回ってきた。けれど母さんの夢は、世界トップレベルの心臓外科医になることだった。若くして一介の公立病院の院長で終わるなんて、とても受け入れられる話じゃなかった。それからの母さんは、毎日ふさぎ込んでは、ふとした拍子に激しく怒りを爆発させるようになった。鍋も食器も、冷蔵庫もテレビも、目につくものは何でも次々と叩き壊された。父さんも何度か母さんをなだめようとしたが、聞く耳を持たないどころか、ときにはそのまま父さんまで殴りつけた。父さんの顔や体には、なだめようとして逆に引っかかれた爪痕がいくつも残っていた。最初のうち、父さんは「自分が辛抱強く寄り添っていれば、そのうち妻も立ち直ってくれる」と信じていた。けれど、穏やかなはずの父さんも、あるとき錯乱した母さんに振り回された包丁で手首を切られ、危うく
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第5話
運転手が慌ててブレーキを踏み、沈んでいた回想から一気に現実へ引き戻された。男の運転手は気まずそうに母さんを振り返り、「すみません、危うく通り過ぎるところでした」と頭を下げた。いつもなら相手を言い負かすまで引き下がらない母さんも、今は頭の中が修斗のことでいっぱいらしく、運転手にはろくに返事もせず、荷物だけつかむとさっさと車を降りた。俺も外を見回してみて、思わず目を見張った。ここは前に母さんに話したことのある、あの豪華なオーシャンビューの部屋だった。本当は、母さんがまとまった休みを取れたときに、ここ数年働いてコツコツ貯めた金で、母さんと修斗をこのホテルに連れて来るつもりでいた。結局こうして二人と一緒に来ることにはなったけれど、ここにいるのは生身の俺じゃない。ただの、さまよっている魂だ。見栄っ張りの修斗も、目の前に広がる景色にはさすがに圧倒されたようで、スマホを取り出しては何度も自撮りして、インスタに立て続けに投稿していた。母さんと修斗はモルディブに着いてからというもの、ついこの前手術を受けたばかりの俺のことなんて、すっかり頭の外に追いやってしまったようだった。毎日、ビーチで日光浴をするか、あちこちで飲んだり食べたりして遊び歩いている。俺の体調を気にして電話一本かけてくるわけでもなく、会話の中で俺の名前が出ることさえ、一度もなかった。そんなふうに鬱憤ばかりが溜まっていった頃、なんと主治医の綾野文江(あやの ふみえ)が、わざわざここまで彼女たちを追いかけて来た。母さんは、こんな南の島でまで顔を合わせることになった文江に目を丸くし、「ちょっと、あんた、なんでここにいるの?」と眉をひそめた。文江は目を赤く腫らしたまま母さんを見つめ、「院長、もう何日も病院に戻ってきていませんよね。蒼一くんが、その……」と言った。母さんは、文江が何を言い出すのかおおよそ察していたらしく、最後まで言わせる前に遮った。「蒼一が死んだ、でしょ?その話、もう耳にタコができるほど聞かされてるの。いい加減、違うネタを持ってこれないわけ?」文江はどうすれば母さんに信じてもらえるのか分からず、いても立ってもいられない様子で、「院長、今回だけでいいですから、私の言うことを信じてください。蒼一くんのご遺体は、もう一週間も霊安室に安置されたままなんです。あとは、院
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第6話
母さんは、さっきまで小さなウサギみたいにおどおどしていた文江が、今は噛みつくような態度を取ってくるのを見て、ますます腹が立ったようだった。「綾野、いい?自分の立場をよく考えなさい。私、本気を出せばすぐクビにできるのよ。今すぐ私の前から消えなさい。そうすれば、まだ見逃してあげるかもしれないわ」文江は喉につかえたように言葉を失い、そのまま背を向けて、涙をぬぐいながら立ち去っていった。俺は、自分のために必死で動いてくれたのに一方的に罵られる文江を見て、何とか庇おうとした。けれど、どれだけ声を振り絞ろうとしてもまったく音が出ず、ただ、角を曲がったところで堪えきれずに泣き崩れる彼女を、涙を拭いてやることすらできずに見送るしかなかった。文江が去ったあと、修斗は母さんの肩にそっと手を置いてなだめた。「もういいじゃん、母さん。そんなに怒んないでよ。兄貴だって、この前僕が医学賞の枠をもらったこと、まだ根に持ってるだけなんだよ」母さんは大きくため息をつき、「あんな性根の腐った人間が賞を取ったところで、何になるのよ。人を救うどころか、人を傷つけずに済めばまだましってレベルでしょ」と吐き捨てた。その言葉に呼応するみたいに、頭の奥がズキンと痛み、二年前の記憶の断片が一気に浮かび上がってきた。魂になってからの俺の記憶は、ところどころ霧がかかったみたいに曖昧だったが、いまの会話がちょうど、その一角を指さしてくれたようだった。あの頃、修斗は医者になりたてで、俺はその賞の最年少受賞者になるはずだった。ところが母さんは、こっそり自分の立場とコネを使って、その栄誉をごっそり修斗のほうへ回してしまった。当然もらえると信じていた俺は、その日、きちんとスーツに身を包んで会場へ向かった。だが、客席から拍手が湧き起こり、司会者の口から読み上げられたのは、修斗の名前だった。もし受賞者が別の誰かだったなら、俺だって素直にその実力を認めただろう。けれど、大学の五年間のうち四年半はサボって遊び歩いていたような修斗が、研修に入ったばかりでこんな大きな賞を取るなんて、俺が何も言わなくても、そこにどんな力が働いたかは誰の目にも明らかだった。家に戻ってから、俺はついに母さんに食ってかかった。「母さん、どうしてあんな真似をしたの?この賞が俺にとってどれだけ大事か、分かってる?
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第7話
回想に沈んだままぼんやりしているあいだに、母さんは一人で寝室へ行き、俺の電話番号を探し始めた。彼女は何度もためらった末に、ようやく俺の番号に発信した。けれど俺は、もう一週間も前に死んでいる。電話になんて出られるはずがない。母さんは怒り心頭でメッセージを送りつけてきた。「たかが修斗にちょっとした手術を任せただけでしょ?それで拗ねて、母さんの電話まで無視するつもり?そこまでやるなら、もう二度と家に帰ってこなくていい!死にたいなら勝手にどっかで死ねば?なんであんたみたいな出来損ないを産んじゃったんだろうね。一日中、私を苛立たせることしかできないくせに!綾野が味方してるからって、何もかも怖くないつもり?私が本気になれば、あの子なんか一言でクビにできるのよ。二人で好き勝手やってなさい」文江のために何か言い返したくても、声は一切喉から出てこず、ただ焦りでその場で足踏みすることしかできなかった。文江がそこまでしてくれるのは、ただ根っから優しいからだ。それなのに、世界で唯一俺をあたたかくしてくれた人が、こんな理不尽な目に遭うのは耐えられなかった。俺は心の中でそっと呟いた。「母さん、そんなことばかりしてたら、本当にいつか全部が表に出て、そのときこそ罰を受けることになるからな」いつまでも既読もつかないのを見て、母さんも少し不安になったようだ。生きていた頃の俺は、母さんからの連絡を無視するなんて考えたこともなく、電話だって出るのが数秒遅れただけでひどく怒鳴られていた。母さんは落ち着かない様子で修斗に話しかけた。「修斗、お兄ちゃんの病気、本当にただの普通の脳腫瘍なの?」修斗は自信満々にうなずいた。「兄貴の頭のCT、俺もちゃんと見たよ。ごく小さい、ありふれた腫瘍でさ、注意して見なきゃ分からないくらいのやつ。さっと切っちゃえばそれで終わりだよ」そこでようやく、母さんが俺の言うことをいつまでも信じようとせず、俺を「大げさに騒いでいるだけだ」と決めつけていた理由が腑に落ちた。俺の脳に巣食っていたのは、ごくありふれた腫瘍なんかじゃない。悪性のグリオーマだった。修斗がああ言ったのは、単に腕が未熟で本当の怖さが分かっていなかったのか、それとも、母さんに俺のことなんて気にしてほしくなかったのかもしれない。けれど、もうこんなに日がたってから、修
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第8話
母さんはどこか上の空のまま俺の遺体の引き取り手続きだけ済ませると、そのあと数日は病院にも顔を出さずに家にこもっていた。葬式の準備をする時間以外は、一日中ベッドに横になって、ただぼんやりと天井を見つめているだけだった。驚いたのは、一晩のうちに髪が一気に白くなり、見た目まで一気に十歳は老け込んでいたことだ。この数日ろくに口にもしていないせいで、顔色は土気色にやつれ、まるで重い病気にでもかかった人みたいになっていた。そうして何日かが過ぎ、ようやく俺の葬式の日がやって来た。後ろめたさがあったのか、母さんは俺のためにそれなりに立派な葬儀を整えてくれた。会場には親戚一同と病院の医者たちも顔をそろえ、あちこちでひそひそとささやき合っていた。母さんが長年修斗ばかりを可愛がり、俺にはいつも冷たかったことなんて、ここにいる誰もが知っている。それでも母さんの気性もよく分かっているから、誰一人として波風を立てようとはせず、ただ黙って様子をうかがっているだけだった。そんな中、参列者の列に父さんと文江の姿もあった。父さんは入ってくるなり、勢いよく母さんの頬を平手で打ちつけた。俺が状況を飲み込めないでいると、父さんは低い声で言い放った。「綾野さんから全部聞いた。証拠もそろえて警察に渡した。お前たち、覚悟しておけよ」父さんとはずっと連絡は取り合っていたが、離婚して海外に渡ってからは顔を合わせる機会もほとんどなく、電話でもいつも明るい話しかしなかった。俺が病気になったことも、一度も打ち明けていない。倒れたときに世話を焼いてくれたのは文江で、その恩返しのつもりで、万が一のときは父さんを頼れと名刺を渡し、もし手術が失敗したら、俺の代わりに父さんへ全部伝えてくれとお願いしておいた。まさかそれが、こんな形で自分自身のためになるとは思ってもいなかった。父さんはバリバリのビジネスマンで、ことが分かるや否やすぐに弁護士を動かし、証拠集めに走らせた。ざわついた会場に、突然サイレンの音が割り込んできた。母さんは自分のことを迎えに来たのだと悟っていたのか、どこか観念したような顔つきになった。ところが警官たちは、真っ直ぐ修斗のほうへ歩み寄って行った。「久遠修斗さん。あなたは職務を悪用して多額の金品を受け取り、偽装した医療事故によって久遠蒼一さんを死亡
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第9話
警官が手錠を取り出して母さんの手にはめると、母さんはもう抵抗もせず、悔しそうな顔でそのままパトカーに乗り込んでいった。警察署に着くと、母さんは自分に不利な資料をすべて差し出し、一つも隠そうとはしなかった。公判を待つあいだ、母さんは運ばれてくる食事をことごとくひっくり返した。毎日、独房の隅に背中を預けたまま、ほとんど眠ろうともしなかった。口の中ではいつも、「蒼一、ごめんね。全部母さんが悪かった。来世ではちゃんと償うからね」と繰り返していた。気づけば俺も思わず答えていた。「もういいよ、母さん。来世では、母さんの息子にはなりたくない」母さんは、突然俺が見えたみたいに顔を上げて、「蒼一、帰ってきてくれたのね。やっぱり母さんのこと、置いていけなかったんでしょう?」と言った。俺も、その反応に思わず息をのんだ。もう一度声をかけてみる。「母さん、俺のこと見えてるの?」母さんは嬉しそうに身を乗り出してきて、「当たり前でしょ、ばかね。母さんにあんたが見えないわけないじゃない」と笑った。俺はあわてて身を引いた。「でも、俺もう死んでるんだよ……」母さんはすぐに、「こら、縁起でもないこと言わないの。ほら、こうしてちゃんと元気じゃない」と言い返した。そう言いながら、母さんの目がじわっと赤くなっていくのを見て、ようやく気づいた。死んだことを忘れているんじゃない。ただ、現実を認めたくないだけなんだと。俺は母さんの目の前までふわりと近づき、「母さん、もう自分をごまかすのはやめよう」と言った。母さんは胸を押さえながら声を上げて泣き、「蒼一、ごめんね。全部母さんのせいだよ。謝るから……許してくれない?」と訴えた。俺は首を横に振った。生まれて初めて、母さんの頼みを突っぱねた。母さんは肩を落としてうつむき、「そうよね、許されなくて当然だわ。あんたを殺したのは母さんなんだもの。今からでも、命をもって償うから」と呟いた。異変に気づいた看守が慌てて駆けつけ、ちょうど扉を開けようとした瞬間、母さんは「蒼一!母さんはあんたを愛してるよ!」と叫んだ。そしてそのまま勢いよく壁に頭を打ちつけた。どれほどの覚悟を決めてそうしたのかも、何日もろくに食べていない身体のどこにあんな力が残っていたのかも、俺には分からなかった。駆けつけた医師が診たときには
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