Masuk登世は愛おしそうに星乃の頭を撫でた。「本当はね、あなたのお母さんがあなたを悠真と結婚させたかったのは、一つには、正隆が再婚したあとあなたがつらい思いをしないようにって心配してたから。もう一つは、あなたに自分の好きな人と結ばれてほしかったからなの」母親の話になると、星乃は胸の奥がじんと痛んだ。母が早くから婚約を決めていたのは、正隆のことも関係していたのだろうとは薄々感じていた。しかし当時の自分は、母が冬川家に恩があったから、自分が冬川家に嫁げば、たとえ悠真に好かれていなくても、冬川家は恩義に免じて少しは大事にしてくれる、と思っていた。けれど母は、ずっと前から自分が悠真を好きだったことまで知っていたのだ。――もし、あの頃好きじゃなかったら。その後のすべては、起きなかったのだろうか。そんな星乃の考えを見透かしたように、登世は続けた。「この件は、あなたのせいじゃないのよ。たとえあなたがいなかったとしても、悠真と結衣は長くは続かなかったと思うわ。結衣は家柄が釣り合わなかったし、悠真とはそもそも住む世界が違ったの。あなたがいなくても、いずれ価値観の違いで別れていたはずよ。それに、二人が別れるときには、私とあなたのお母さんで結衣に補償もしているの」「補償を……?」星乃は目を見開いた。扉の外にいた悠真も、ぴたりと動きを止めた。そんな話は、結衣から一度も聞かされたことがなかった。登世は静かに頷く。「あの子は悠真とは合わなかったし、佳代も結衣を冬川家に嫁がせるつもりはなかった。だから後になって、私とお母さんで彼女に内緒で会いに行って、取引をしたのよ。海外の大学にも話をつけて、十分なお金も用意した。海外へ留学して勉強を続ける代わりに、悠真と別れて、冬川家との結婚を諦めてもらったの」「……結衣は、それを受け入れたの?」登世は再び頷いた。「見ていればわかったわ。あの子、自尊心がとても強い子だったから。私たちが言わなくても、自分と悠真の間にある差くらい、ちゃんと理解していたのよ。だからこそ、これはあの子にとってのチャンスでもあったの」登世はそう付け加えた。星乃は探るように口を開く。「私と悠真って、婚約してから結婚するまで一年あるよね。もし結衣が本当に悠真を愛していたなら、その一年の間に戻ってくることだってで
「あのバカ孫、全部あいつが原因なんだよ」登世は腹立たしそうに言った。話題はどうしても悠真のことへ移っていく。相手が別の人なら、星乃はきっとさりげなく話を逸らしていただろう。しかし相手は登世だ。悠真は、なんだかんだ言っても彼女の大事な孫なのだから。それに登世は、本気で怒っているようだ。呼吸まで少し荒くなっている。星乃はそっと背中をさすりながら、それでも悠真をかばうように口を開いた。「でも、あのとき彼もできる限りのことはしてたし……彼自身もかなり大変だったよ」すると横にいた使用人も言った。「聞いた話ですけど、悠真様、星乃様を探している途中で崖から落ちたそうなんです。雨で地面が滑りやすく、救助隊の人たちもいったん撤収していたんです。皆が悠真様にも戻るよう説得したのに、悠真様は応じようとせず、先に星乃様を探すと言い張っていたようで……本当に、星乃様のことを心配してたんですよ」最後の一言は、使用人が星乃に向けて言ったものだった。その話は、星乃もあまり知らなかった。後になっても悠真は、自分がどうして落ちたのかについては何も話さなかった。だから星乃は、ただ足を滑らせたのが恥ずかしくて黙っているのだと思っていた。まさか、そんな事情があったなんて。「自分で起こした問題なんだから、自分で必死になるのは当然だよ」登世は冷ややかに言った。「そんなことしたからって、まだ少しは人の心が残ってるって程度さ。あの子が最低な男だって事実は変わらないよ」ちょうどそのとき、ドアの前に来た悠真が、その言葉を耳にした。彼の足がぴたりと止まる。「……」登世は雑談でもするような口調で、さらに尋ねた。「星乃、実はね。おばあちゃん、あなたがどうしてあのバカ孫を好きになったのか、ずっと気になってたんだよ。実は、あなたのお母さんが条件を出す前から、あなたが悠真を好きなのは気づいてたんだ。だから後で『悠真と結婚させてほしい』って話をされたときも、私は迷わず了承したんだよ。そうそう、実はお母さんも、あなたが悠真を好きなの知ってたんだからね」そう言って登世は、どこか含みのある表情を浮かべた。星乃は驚いて、小さく声を漏らした。「えっ……」もう悠真とのことは過去の話として整理できているからだろうか。今こうして改めて話題にされても、嫌な
考えれば考えるほど、つらくなっていく。花音も思わず口を開いた。「さっき聞いたんだけど、星乃がおばあちゃんのところに行ったみたいなの。星乃って昔からおばあちゃんの言うことはよく聞くじゃない?おばあちゃんから、結衣さんと争うのはやめるように説得してもらえないかな……」……悠真が庭へ出ると、誠司も後ろからついてきた。「怜司はどこだ?」悠真は袖を肘までまくりながら尋ねた。誠司は少し離れた倉庫を指差す。「ボディーガードたちが何人か見張ってます」悠真はそのまま倉庫へ向かった。その背中を見送りながら、誠司は怜司にひそかに同情の念を抱いた。来るべき時が来た、という感じだった。案の定、しばらくすると倉庫の中から怜司の悲鳴が響き渡った。どれくらい続いただろうか。ようやく悠真が出てきた頃には、怜司は顔を腫らし、口元に血を滲ませながら後ろをついてきていた。「朝倉家にはこう伝えろ。よく考えた結果、病院で青春を無駄にするよりも、自分の学んだ知識をもっと多くの人に広めたい。自分の医術で、より多くの命を救いたいそう決意した。だから明日からは、自ら望んでレバニア共和国へ行って、医療ボランティアに参加するって」悠真は冷え切った声で言った。「自ら望んで」行くことになった怜司は、泣きそうな顔になる。「悠真……さすがにそれは酷くないか?」ただ普段、星乃を挑発して、少しきついことを言っただけだろ?ただ星乃に、あの写真を何枚か送っただけだろ?ただ結衣のために偽の妊娠診断書を作っただけだろ?ただ結衣に頼まれて、星乃を陥れる工作に協力しただけだろ?……考えれば考えるほど、怜司の背筋は寒くなっていく。けれど、考え直せば全部、悠真と結衣の恋を応援したかったからじゃないか!「酷いかどうかは、残りの人生でゆっくり考えろ」そう言い残し、悠真はもう相手にしなかった。そのまま庭へ戻り、花壇の縁石に腰を下ろす。庭師が花壇の手入れをしていたので、悠真は彼に頼んで煙草を一箱買ってきてもらった。箱から一本取り出して口にくわえ、ライターで火をつけた。悠真に煙草を吸う習慣はない。普段なら、会社の仕事がどれだけ忙しくても、プレッシャーがどれだけ重くても、一本か二本吸えば少しずつ気持ちは落ち着いていく。だが今日は違った。半箱近く吸って
「今日の件を知ってる人間はそう多くない。しばらく時間を置いてから、結衣の流産については適当に理由を作ればいい。この件はそれで終わりだ。結衣との結婚式は中止してもいい。だが、星乃との復縁だけは絶対に認めない」雅信は冷たい口調で言った。佳代も気持ちを落ち着かせると、軽く頷き、その判断に同意した。今の星乃は、頭の中がUMEと律人のことでいっぱいだ。たとえ結婚するとしても、冬川家に何かしら目的があるに違いない。そんな大きな火種を抱えるわけにはいかない。今の佳代は、むしろ結衣を受け入れるほうがまだましだと思っている。結衣と星乃の間にある揉め事など、佳代にはどうでもよかったし、結衣が本当に星乃を陥れたのかも気にしていなかった。だが、結衣は冬川家と利害が一致している。それに、今回は妊娠していなかったというだけで、これから先も子どもができないと決まったわけではない。二人の態度がはっきりしていることは、悠真も最初からわかっていた。彼は軽く笑っただけで、それ以上は何も言わなかった。どうせ何を言っても無駄だからだ。五年前、星乃の母親の遺言を理由に、冬川家が自分に星乃との結婚を強いた時点で、すでに彼らの「結婚」に対する考え方を見抜いていた。両親が自分を愛しているのは確かだ。だが、彼らには自分よりも優先すべきものがある。それが冬川家の利益だ。そう思うと、悠真の口元には皮肉めいた笑みが浮かんだ。「わかったよ。二人の言う通りにする。なら、冬川夫人の席は、このままずっと空席ってことで。俺は用事があるから、先に行く」雅信と佳代は、それが感情的な言葉だと分かっていたため、特に気に留めなかった。悠真はそこまで反抗的な性格ではない。一生結婚しないなどあり得ないし、本当に自分たちに隠れて星乃と復縁するとも思えない。「でも、星乃のほうはどうするの?結衣さんが妊娠してなかった以上、星乃は絶対に彼女を放っておかないわ」悠真が出て行ったあと、花音がためらいがちに口を開いた。「私たち、どうすればいいの?これまで通り結衣さんを守る?それとも……」冬川家の面子を守るために、ここで完全に線を引くべきなのか。その言葉はまさに核心だった。佳代も頭を抱えていた。もし結衣がこの先も冬川家に嫁ぐのなら、彼女は未来の「冬川夫人」であり、家族だ。
自分はずっと、結衣こそ世界でいちばん優しくて、完璧で、芯の強い女性だと思っていた。なのに、どうして……佳代は隣で電話を終えると、そのままスマホの電源まで切った。「たとえ事情があったとしても、事前に私たちへ話すべきだったわ。勝手に動いて、こんな騒ぎにするなんて」佳代が言った。「先に説明して、彼女の隠し事に協力しろってことか?」悠真は淡々と問い返した。「それとも、一緒になって『星乃が彼女を突き飛ばして流産させた』ってニュースでも作るつもりだったのか?」佳代は情報が早い。結衣がしていたことも、きっと以前から知っていたはずだ。それでも、自分が崖下に閉じ込められていた時期、遥生が訴訟を起こした際も、佳代は結衣を庇い続けた。佳代は唇を引き結ぶ。「これは冬川家に関わる問題よ。大局を優先するべきだわ」「大局、か」悠真は皮肉っぽく笑った。「じゃあ星乃は?彼女は冤罪を着せられても仕方ないって?」佳代は、その言葉の裏にある感情を察した。小さくため息をつき、口を開く。「あなたが星乃と長く一緒にいた分、まだ気持ちが残っているのは分かる。でも現実を見なさい。あなたたちはもう離婚してるのよ。彼女には彼女の立場がある。でも、あなたにもこれから進む道があるの。彼女のために、自分の利益を何度も犠牲にするべきじゃない」最後の一言は、はっきりと強い口調だった。以前のような説得ではない。まるで警告、いや、命令に近いものだ。悠真は少し黙ったあと、その場にいた全員を凍りつかせる言葉を口にした。「もし俺が、彼女と復縁したいと言ったら?」「……何ですって?」佳代は目を見開いた。聞き間違いかと思ったのだ。だが、悠真の目は真剣そのものだった。冗談でも、勢いで言っているわけでもない。佳代は信じられないという顔で言った。「ここまで揉めておいて、それでも復縁するつもりなの?」悠真は迷いなく頷く。佳代は怒りで言葉を失った。震える指先で悠真を指差し、唇まで怒りと動揺で小刻みに震えている。すると、長く黙っていた雅信が、ついに口を開いた。深く眉を寄せ、低い声で言う。「当時、星乃はお母さんの誕生日会で、君との離婚を公の場で切り出した。冬川家の面子など一切考えずにな。それなのに今さら復縁だと?瑞原市の人間が冬川家をどう見ると思っている。
誠司に付き添われ、悠真がホールへ入った頃には、家中はすでに大混乱になっていた。佳代自身は、この謝罪会見にそこまで関心はなく、本来なら見ようとも思っていなかった。だが、結衣の件が冬川家に悪影響を及ぼすのではと気がかりで、最初から最後まで人をつけて監視させていた。だから、結衣が星乃を陥れたあの騒動も、始まった時点ですぐに知っていた。結衣が去ったあと、佳代は真っ先に記者たちへ口止めをさせた。それでも、一部の記者は生配信をしていて、業界内の何人かには騒ぎを見られてしまった。事情を探るように奥様連中から次々と電話がかかってくる。口では心配しているふりをしていても、実際は面白がっているだけだった。雅信の付き合いのある層は、佳代たちほど噂好きではない。だが、そのぶん影響は大きかった。すでに話がまとまりかけていた取引が、いくつも白紙になっている。冬川グループの株価にも、わずかながら影響が出始めている。誰も口にはしないが、雅信には相手が何を考えているのか痛いほど分かっていた。この半年、悠真はずっと結衣を庇い続け、星乃を邪魔者のように扱っていた。結衣の妊娠騒動が出たあとも、冬川家はその子供を守るため、遥生や世間の声を敵に回してきた。なのに今になって、その妊娠が嘘だったとわかるや否や、悠真は人前で態度を翻して、結衣をあそこまで追い詰めた。今日は結衣だった。けれど、明日、切り捨てられるのは誰なのか……それに、星乃の件では、悠真はすでに多くの人間の利害に踏み込んでいた。今回の件を口実に、不満をぶつけている者も少なくなかった。花音のもとにも、友人たちから確認の連絡がいくつも届いていた。だが彼女は見るのも嫌になり、そのままスマホの電源を切った。ぼんやりとソファに座り込み、頭の中は真っ白だった。昨夜、悠真から聞かされた話だけでも、まだ整理しきれていない。だから今日は結衣と顔を合わせる気になれず、部屋に閉じこもっていた。けれどまさか、今日さらに、自分の価値観を揺さぶられるような事実を知ることになるなんて思ってもいなかった。「お兄ちゃん、さっきのって本当なの?彼女、本当に妊娠してなかったの?今日の謝罪だって、星乃を陥れるためだったの?」悠真が部屋に入ってくるなり、花音は堪えきれず駆け寄り、立て続けに問いかけた。悠真は彼







