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第9話

藤崎 美咲
悠真は険しい表情のまま、財産分与の項目を指さした。「俺はおまえと財産分与の話なんてした覚えはないけど?」

星乃は一瞬言葉を失った。まさかそんな切り口で来るとは思ってもいなかったからだ。

悠真の実家、冬川家は資産に困るような家ではない。確かに彼の態度はいつも冷たかったが、お金のことに関して細かく文句を言われたことは一度もなかった。むしろ、過去に離婚をほのめかされた時の条件は、今回よりもはるかに高額だった。

だからこそ星乃は深く考えずに、自分が受け取るべき正当な財産の理由を記した書類と、弁護士が算出した明細を彼に差し出した。

「つまり、俺と結婚したことがお前にとって損失ってわけか?」

協議書を見した悠真は嘲るような笑みを浮かべ、冷たく言い放つ。「星乃、おまえの能力じゃ月に20万円の収入でも上出来だろ。それを、どこの誰が月給40万円もらって当然なんて言えるんだ?」

「それに家のことは全部恵子がやってる。自分は何一つ動かしてないくせに、家事分の報酬なんてよく言えたもんだな?」

「それから――」

悠真は彼女が請求した金額を一つひとつ否定していった。

星乃の顔から血の気が引いていく。

悔しいのはお金を失ったことではない。

彼のために夢を捨て、何年も支えてきたこと――それが彼にとっては、何の価値もないことだったと知ったからだ。

唇をぎゅっと結び、呼吸を整えようと必死だった。

仕事のことは証明できない。だが、これまでの努力を無にされたまま引き下がるわけにはいかない。

「……ずっと、私が家のことを管理して――」

「家のことを?」

星乃の言葉を遮り、悠真は冷笑した。

彼は彼女の腕を乱暴に掴み、抵抗も無視して玄関のほうへ引っ張った。そして手すりに押し付け、無理やり頭を下げさせて階下の様子を見せつける。

そこには恵子がしゃがんで床を掃除していた。

「旦那様!申し訳ありません、すぐに片づけます!」恵子は彼を見つけて慌てて立ち上がり、深々と頭を下げた。

その様子を見て、悠真の口元にさらなる嘲笑が浮かぶ。

「星乃、これがお前の言う管理してきた家か?」

「じゃあ今ここで掃除している恵子は、一体何をしているというんだ?」

星乃が反論しようとした瞬間、悠真は恵子に視線を向け、わざとらしい笑みを浮かべて言った。「恵子、お前から話してくれ」

「星乃は家のことは全部自分がやってきたと言っているが、お前は長くこの家に勤めている。彼女が何をしてきたか、よく見てきただろう?」

その言葉に恵子の手がぴたりと止まった。

次の瞬間、彼女は床にへたり込み、大げさに太ももを叩きながら泣き始めた。「奥様、いったいどういうつもりですか?何か気になることがあればはっきりおっしゃってください。私、何でも改善します。でも、私がやってきたことを全部なかったことにするなんて……」

「うちには年老いた親も、小さな子どももいます。この仕事がなくなったら、家族みんなが路頭に迷うんです!」

恵子の演技は見事だった。

もし星乃が彼女のことをよく知らなければ、きっと信じ込んでいただろう。

正直、芸能界の方が向いているのではと思うほどだ。

こんなところで掃除しているのがもったいない。

「で、星乃。まだ何か言いたいことはあるか?」

悠真が冷たく問いかけた。

もう何も言葉は残っていなかった。

星乃は、自分でもわかるほどにかすかに笑った。

彼がどれだけ自分を信じていなかったか。

五年も夫婦として暮らしてきたのに、彼は他人の言葉を信じ、自分を最初から信じていなかった。

「……もう、いいわ」

星乃は苦笑した。「じゃあ……どう分けたいのよ?」

かすれた声でそう言い、彼をまっすぐに見つめた。

かつて夢にまで見たその横顔は、今や冷たく凍りつき、真っ黒な瞳は夜の湖のように底知れず冷たい。

「財産は一切なし。身一つで出て行け」そう尋ねる星乃に対し、悠真は唇の端を冷たく上げて静かに言った。

その言葉に星乃は一瞬、呆然とした。

身一つで出て行け――つまり、彼はこれまでの自分の存在と努力をすべて否定したのだ。

悠真が自分を見下していることはとっくにわかっていた。だがここまで、自分のすべてを「なかったこと」にされるとは思っていなかった。

声にならない思いが喉につかえ、胸が苦しくなった。「……どうして?」

彼だってわかっているはずだ。こんな条件は誰だって受け入れられない。

それでも彼はずっと離婚したがっていた。あの結衣と一緒になりたくて、何度も別れを口にしたはずなのに。

今になって、なぜこんな条件を突きつけてくるのか。まさか――離婚したくないのか?

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