LOGIN朝、目が覚めても、昨日のことが頭から離れなかった。
白石由奈には、彼氏がいない。 たったそれだけの事実なのに、どうしてこんなにも胸に残るのか、自分でも分からない。 出社の準備をしながら、何度も昨日の光景を思い返してしまう。 男性社員と話しながら、ふとこちらを見る横顔。 一瞬だけ合った視線。 そして、口の動きだけで伝えられた「お疲れさまです」。 ——気にしすぎだ。 そう思おうとしても、心は簡単には言うことを聞いてくれない。 通勤電車の窓に映る自分は、いつもと変わらない顔をしていた。 眠そうで、少しだけ無表情で、感情を隠すのが上手な顔。 会社に着くと、すでに何人かは出社していて、オフィスにはいつもの空気が流れていた。 その中に、白石さんの姿もある。 わたしは、自分の席に向かいながら、無意識に彼女の方を見ていた。 今日も、周りに人がいる。 男性社員と、何かを確認している様子だった。 ——普通の光景。 それなのに、昨日とは違って見えるのは、わたしの気持ちが変わったからだろうか。 席に座り、パソコンを立ち上げる。 指を動かしながら、ちらりと視線を送る。 白石さんは、男性社員の話を聞きながら、何度か頷いていた。 そして、ふと、こちらを見る。 また、目が合う。 今度は逸らされなかった。 むしろ、わずかに視線が柔らぐのが分かった。 胸が、きゅっと締めつけられる。 ——なんで、見るの。 心の中でそう呟きながら、わたしは慌てて画面に視線を落とした。 気づかれたらおかしい。 意識しているなんて、知られたくない。 でも、白石さんは、何もなかったかのように会話を続けていた。 午前中は、仕事に集中しようと必死だった。 数字を追い、資料をまとめ、メールを返す。 それでも、ふとした瞬間に、視線が向いてしまう。 ——彼女には、彼氏がいない。 その事実が、何度も頭をよぎる。 昼休み、席を立つと、白石さんがちょうど給湯室の方へ向かっていた。 同じ方向。 少し距離を保ちながら、後ろを歩く。 話しかける理由はない。 話しかけられる勇気もない。 給湯室に入ると、白石さんはすでにコーヒーを淹れていた。 「あ……」 気づかれてしまった。 「篠原さんも、コーヒーですか?」 名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。 「は、はい」 それだけで、精一杯だった。 「この前の資料、助かりました。ありがとうございます」 白石さんは、こちらを見て微笑む。 近くで見ると、思っていたよりも柔らかい表情をしていた。 「いえ……仕事なので」 素っ気ない返事になってしまう。 本当は、もっとちゃんと話したいのに。 「篠原さんって、いつも静かですよね」 突然、そんなことを言われた。 「……そう、ですか?」 「はい。でも、そこがいいなって思ってます」 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。 「仕事、丁寧ですし。見てると安心します」 白石さんは、そう言ってカップを持ち上げた。 ——見てる。 その言葉が、胸に刺さる。 「……ありがとうございます」 それしか言えなかった。 沈黙が流れる。 気まずいはずなのに、なぜか嫌ではなかった。 「じゃあ、戻りますね」 白石さんは先に給湯室を出ていった。 その背中を、わたしはしばらく見送っていた。 午後、仕事に戻ってからも、白石さんの言葉が頭から離れなかった。 ——見てる。 自分だけが見ていると思っていた。 遠くから、勝手に。 でも、彼女もこちらを見ていた。 定時が近づく頃、白石さんがまた男性社員と話していた。 昨日と同じような光景。 わたしは、席に座ったまま、そちらを見ていた。 すると、白石さんが、また横目でこちらを見る。 視線が合う。 今度は、わたしの方から逸らさなかった。 白石さんは、男性社員の話を聞きながらも、確かにわたしを見ていた。 その視線は、昨日よりもはっきりしていて、迷いがなかった。 ——なに、それ。 胸が、熱くなる。 会話が終わると、白石さんは軽く会釈して男性社員を見送った。 そして、こちらに向かって歩いてくる。 「篠原さん」 「……はい」 「今日、少しだけお話しできてよかったです」 それだけ言って、彼女は自分の席に戻っていった。 短いやり取り。 それなのに、心臓は落ち着かない。 彼女には、彼氏がいない。 その事実は、 わたしの中で、もう「ただの情報」ではなくなっていた。白石さんは、ゆっくりと唇を離した。名残惜しそうに、でも追いすぎない距離。その加減が、相変わらずずるい。「……息、できてます?」からかう声。でも、目は真剣だった。「……できてません」正直に答えると、白石さんは小さく笑う。「ですよね」そう言いながら、わたしの額に額を軽く当てる。触れているのに、もうキスはしない。「篠原さん」静かな呼び方。「今の、どういう意味か」少し間を置いて。「分かります?」胸が、また強く鳴る。「……」言葉にしようとして、喉が詰まる。分かっている。分かっているのに、口に出すのが怖い。白石さんは、急かさなかった。代わりに、わたしの手を取る。指を絡めるほど近くない、でも離れない。「答え、今すぐじゃなくていいです」その声は、驚くほど優しい。「でも」視線が、まっすぐ向けられる。「確かめに来たってことは」指先が、きゅっと握られる。「もう、戻れないところまで来てるのは、分かってますよね」否定できなかった。わたしは、ゆっくりと頷く。「……はい」その一言で、白石さんの表情が少しだけ緩んだ。「よかった」それだけ言って、手を離す。離れた瞬間、少しだけ寂しくなる自分に、驚いた。「今日は」白石さんは、一歩下がる。「ここまでにしましょう」「……え」「これ以上は」軽く肩をすくめる。「篠原さんが、考える余裕なくなりそうなので」また、からかい。でも、どこか本気だった。「……ずるいです」同じ言葉を、また口にしていた。白石さんは、はっきり笑った。「知ってます」玄関まで送られる。靴を履きながら、胸の奥が落ち着かない。「……白石さん」呼び止めると、すぐに振り返ってくれる。「はい」「……」言いたいことは、たくさんある。でも、今は、ひとつしか出てこなかった。「……また、会ってもいいですか」白石さんは、一瞬だけ目を見開いてから、すぐに微笑んだ。「もちろん」即答だった。「そのために、待ってたので」扉が閉まる。夜の空気に触れた瞬間、ようやく息ができるようになる。帰り道、唇に残った感覚を、何度も思い出す。——確かめたかったはずなのに。確かめ終わってしまった気がして、それが少し、怖くて、でも。胸の奥は、不思議と静かだった。答えは、まだ言葉にしていない。でも。白石
白石さんは、わたしが何も言えずに立っているのを見て、少しだけ目を細めた。「……緊張してます?」「……してます」正直に答えると、白石さんは小さく笑う。「ですよね」一歩、近づいてくる。それでも、まだ触れない。「確かめたいって言いましたよね」「……はい」「じゃあ」白石さんは、わたしの前で足を止める。「逃げないでくださいね」そう言ってから、ゆっくりと手を伸ばしてきた。触れたのは、肩。強くない、逃げられる程度の力。それなのに、体が動かなかった。「……」白石さんの視線が、わたしの目から唇へと落ちる。その動きだけで、胸が大きく鳴る。「嫌だったら、今でも止めます」囁くような声。「……嫌、じゃないです」そう答えた自分の声が、思っていたよりも震えていた。白石さんは、その返事を聞いてから、ほんの少しだけ距離を詰める。額が、触れそうなほど近い。「じゃあ」一瞬の間。「……いきますよ」返事をする暇はなかった。唇が、重なる。軽く触れるだけ、じゃなかった。白石さんの唇は、確かめるように、ゆっくりと押し当てられてくる。逃げ道を塞ぐみたいに、でも乱暴じゃない。「……っ」息が、うまくできない。唇が離れると思った次の瞬間、また重ねられる。今度は、さっきよりも深く。白石さんの手が、肩から背中へと回る。引き寄せられて、距離が完全になくなる。キスが、長い。触れて、離れて、また重なって。そのたびに、息を奪われる。頭が、ぼんやりする。——考えたかったはずなのに。唇が触れているだけなのに、思考が全部溶けていく。白石さんは、焦らなかった。でも、迷いもなかった。まるで、「ここまで来るのを待っていた」みたいに。ゆっくりと唇が離れたとき、白石さんは、わたしの額に額を寄せたまま、低く言う。「……どうですか」息が、近い。「……」言葉が、出ない。胸が苦しいほど鳴っている。体が、熱い。それだけで、答えになってしまっている気がした。白石さんは、わたしの表情を見て、少しだけ満足そうに笑う。「その顔」親指で、わたしの唇の端をなぞる。「確かめに来た意味、ありましたね」「……ずるいです」やっと、それだけ言えた。白石さんは、静かに笑った。「でしょうね」もう一度、距離が縮まる。今度は、さっきよりも、迷いのないキスだっ
その日は、白石さんから何も仕掛けてこなかった。それが、いちばん落ち着かなかった。仕事は普通に終わった。首元も、誰にも指摘されないまま一日が過ぎた。なのに、心だけがずっと騒がしい。帰りの電車の中で、何度もスマホを見てしまう。——今日は、何もしません。——続きは、また今度。その言葉が、頭から離れない。家に着いて、コートを脱ぎ、ソファに座る。静かすぎる部屋。白石さんの声。視線。からかうような笑い方。考えないようにしようとしても、無理だった。スマホが震える。【ちゃんと帰れました?】画面を見つめて、少しだけ息を整える。【はい】すぐに既読がついた。【今日は、触ってないので】【安心してください】その一文を読んだ瞬間、胸の奥が、きゅっと縮む。安心しているのか。それとも、がっかりしているのか。自分でも、分からない。しばらく迷ってから、指を動かす。【……行っても、いいんですか】送信した直後、心臓が強く鳴った。——何を言ってるんだろう。でも、もう取り消せなかった。少しの沈黙。その数秒が、やけに長い。そして。【どうぞ】たった二文字。それだけなのに、胸が大きく跳ねた。考えるより先に、文字を打っていた。【じゃあ、今から行きます】送ってから、スマホを握りしめる。——どうして、行こうとしてるんだろう。白石さんに会いたい理由を、はっきり言葉にできない。でも、この気持ちが何なのか、確かめたかった。からかわれているから?触れられたから?それとも。彼女のことを考えると、胸が落ち着かなくなる、この感じ。それが何なのかを、知りたかった。上着を羽織り、鍵を手に取る。外に出ると、夜の空気が少し冷たい。白石さんの家までの道を歩きながら、何度も足を止めそうになる。でも、止まらなかった。——行くって決めたのは、自分だ。インターホンの前に立つと、指先が少し震えた。呼び鈴を押す。すぐに、扉が開く。「……早いですね」白石さんが、そこにいた。部屋着に近い服装。仕事のときより、ずっと無防備な雰囲気。「……すみません、急に」「いいえ」白石さんは、軽く首を振る。「来ると思ってました」その一言で、胸がまた騒ぐ。「……どうして」「顔、浮かんでたので」冗談みたいな言い方。でも、目は真剣だった。部屋に
その日の帰り道、わたしはずっと、首元を気にしていた。隠している。ちゃんと、隠しているはずなのに。——見られてる気がする。白石さんの視線が、まだそこに残っているみたいで、落ち着かなかった。駅までの道を歩きながら、今日一日を思い返す。触れられてはいない。でも、距離はずっと近かった。からかわれて、揺さぶられて。それなのに、決定的な一線は越えられない。「……ずるい」小さく、独り言が漏れる。家に着いても、すぐには落ち着けなかった。シャワーを浴びて、首元を洗う。鏡に映る自分を見て、息を止める。——やっぱり、ある。昼間よりも、少しだけ色がはっきりしている気がした。白石さんの声が、頭の中で蘇る。やっと気づいたんですね我慢、限界だったんですよ胸の奥が、じわっと熱くなる。「……何考えてるんだろ」相手のことなのか。自分のことなのか。布団に入っても、眠れなかった。白石さんは、どういうつもりなのか。からかっているだけなのか。それとも——。考えすぎて、答えが出ない。翌日。出社すると、白石さんはもう席にいた。こちらに気づくと、軽く会釈をする。それだけ。昨日までのからかいが嘘みたいに、普通だった。——あれ?少し、拍子抜けする。午前中、特に何も起こらなかった。距離も、視線も、いつも通り。逆に、それが気になってしまう。昼休み前、資料を届けに行ったとき。「篠原さん」静かな声で、呼ばれる。「はい」白石さんは、周りを一度だけ確認してから、少し身を寄せてきた。でも、昨日ほど近くない。「今日は」声を落として。「大丈夫そうですね」何が、とは言わない。「……何がですか」とぼけると、白石さんは小さく笑った。「隠すの」一瞬で、顔が熱くなる。「……もう、からかわないって言いましたよね」「言ってません」即答。「でも」白石さんは、わたしの表情を見て、少しだけ真面目になる。「昨日より、落ち着いてます」それは、褒め言葉なのか、観察なのか。「……それ、嬉しいんですか」聞いてしまった。白石さんは、一拍置いてから答える。「嬉しいですよ」はっきり。「篠原さんが、ちゃんと考えてくれてるって分かるので」その言葉に、胸が詰まる。「……考えさせてるの、白石さんですよ」思わず、本音が出た。白石さんは、少しだけ
目を覚ました瞬間、違和感があった。天井が、知らない。視界に入る白さも、光の入り方も、自分の部屋とは違う。「……?」ゆっくり瞬きをして、状況を確かめる。頭が、少し重い。体を起こそうとして、動きを止めた。——隣に、人がいる。心臓が一気に跳ねる。恐る恐る視線を向けると、白石さんが眠っていた。同じベッド。距離は近く、肩が触れそうなほど。「……っ」昨夜の記憶を辿ろうとする。夜ご飯。お酒。ふらついて……。そこから先が、途切れている。慌てて自分の体を見る。服は着ている。乱れていない。どこも痛くない。——何も、してない。その事実に、ほんの少しだけ息を吐く。それでも、この状況は落ち着かない。「……白石さん」小さく呼ぶ。反応がない。「白石、さん……」もう一度。少しだけ声を強める。白石さんが、ゆっくりと目を開けた。「……おはようございます」眠そうな声。でも、すぐにこちらを見て、口元が緩む。「起きました?」「……はい」自分の声が、少し掠れている。白石さんは、わたしの顔をじっと見たあと、視線を下げた。首元のあたり。何も言わずに、手を伸ばしてくる。「……?」指先が、首に触れる。軽く。確かめるように。「……白石さん?」名前を呼ぶと、白石さんは一瞬だけ動きを止めた。でも、すぐに指を離し、何事もなかったように体を起こす。「昨日、篠原さん、途中から完全に寝てました」淡々とした声。「家、遠かったので。連れてきました」「……そう、だったんですね」それ以上、聞けなかった。白石さんは、いつもの落ち着いた表情に戻っている。からかうような視線も、探るような仕草もない。ただ、距離だけが近い。「着替え、用意してあります」「……ありがとうございます」その気遣いが、逆に落ち着かない。準備をして、白石さんの部屋を出た。何も起きていない。そう、思うしかなかった。――――会社に着いてからも、頭はぼんやりしていた。白石さんとは、ほとんど言葉を交わしていない。目が合えば、軽く会釈するだけ。午前中、資料を整理していると、同僚が声をかけてきた。「篠原さん」「はい?」「首元、どうしたんですか?」一瞬、意味が分からなかった。「……え?」「赤くなってますよ。ここ」指で示される。心臓が、止まったみ
その日の終わりが近づくにつれて、わたしの神経は、ずっと張り詰めたままだった。触れられるたびに、体が反応してしまう。それを、自覚してしまっているからこそ、余計に苦しい。夕方、白石さんがまた、いつものように近づいてきた。何も言わずに、自然な動きで、手が伸びる。指が、わたしの手に触れようとする。その瞬間。「……やめて、ください」初めて、はっきりと声に出していた。白石さんの手が、止まる。周りには、人がいる。誰もこちらを見ていないけれど、心臓がうるさく鳴っている。白石さんは、少しだけ驚いたように目を瞬かせた。「……あ」それから、すぐに、口元が緩む。「やめて、ですか」声を落として、わたしの方へ顔を寄せる。「でも」わたしの耳元、ぎりぎり。「やめてほしい割には、いい反応してますけどね」からかうような声。胸が、ぎゅっと縮む。「……そういう意味じゃ」「分かってます」白石さんは、あっさり言った。「嫌なら、ちゃんと嫌って言えるのは、いいことです」そう言いながら、距離は保ったまま。でも、視線は外さない。「ただ」一瞬、間を置いて。「反応が、正直すぎるだけで」何も言い返せなかった。白石さんは、それ以上触れてこなかった。でも、それで終わりじゃなかった。「今日」少しだけ、声の調子が変わる。「夜、空いてます?」突然の話題に、言葉が詰まる。「……え」「ご飯、行きませんか」軽い口調。でも、視線は真剣だった。断った方がいい。頭では、そう思う。このまま一緒にいたら、どうなるか分からない。流されてしまう気がする。「……今日は」一度、言葉を切る。「……」白石さんは、待っていた。急かさない。でも、逃がさない。——気になってる。それは、否定できない。触れられて、揺れて、困って。それでも、離れたくないと思ってしまう。「……少しだけなら」気づいたときには、そう言っていた。白石さんの目が、ほんの少しだけ柔らぐ。「じゃあ、軽くで」仕事を終え、二人で会社を出る。夜の空気は、昼よりも落ち着いていた。歩く距離が、自然と近い。入ったのは、静かな居酒屋だった。照明は控えめで、周りの声も遠い。「お酒、飲めます?」「……強くは、ないです」「じゃあ、無理しないで」そう言いながら、白石さんは自分の分と一緒に







