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彼女には彼氏がいない
彼女には彼氏がいない
Penulis: 夜凪

第1話

Penulis: 夜凪
last update Terakhir Diperbarui: 2026-01-14 19:30:09

篠原澪は、キーボードを打つ手を止めた。

画面には、さっきから同じ行が表示されたまま動いていない。カーソルが規則正しく点滅しているのに、頭の中は別のところにあった。

少し離れた場所で、笑い声がする。

「それでさ、先方が急に仕様変えたいって言ってきて」

聞き慣れた声だった。白石由奈。

柔らかくて、よく通る声。職場の誰とでも自然に話せる人。

「えー、それは大変ですね」

男性社員の声が続く。由奈は書類を胸に抱えながら、少し身を乗り出して話していた。距離が近い。特別な意味はないと分かっているのに、私は視線を逸らせずにいた。

「でも、まあ何とかなるかなって。こういうの、嫌いじゃないし」

由奈はそう言って笑う。困ったようで、どこか楽しそうな表情。

自分が座っている椅子の背もたれに、わずかに体重を預けた。

ここから見えるのは、横顔と、少しだけ見える横目。

——まただ。

由奈の視線が、一瞬こちらに流れる。

目が合った。

ほんの一秒にも満たない。

けれど確かに、視線は私を捉えていた。

「……」

慌てて画面に視線を戻す。

何もしていないのに、見られた気がして、胸がきゅっと縮んだ。

「篠原さん」

名前を呼ばれて、肩が跳ねる。

「は、はい」

振り向くと、同じチームの先輩が立っていた。

「この資料、午後の会議で使うから、確認お願いできる?」

「分かりました。すぐやります」

返事をして資料を受け取る。

その間も、意識は完全には戻ってこなかった。

——白石さん。

呼び捨てにするほど親しくはない。

けれど、苗字に「さん」をつけるだけで、少し距離を感じる名前。

私は、由奈とまともに話したことがほとんどなかった。

挨拶と、業務上の最低限の会話。それだけ。

それでも、なぜか気になる。

由奈は、よく男性社員と話している。

明るくて、愛想がよくて、距離の詰め方が自然だ。

——きっと、彼氏がいる。

そう思うのが、普通だった。

だから私は、踏み込まなかった。

視線を向けるだけで、それ以上は望まない。

「篠原さん、集中してます?」

再び声がして、我に返った。

「す、すみません。今、確認します」

資料に目を落とす。

文字は読めるのに、頭に入ってこない。

そのとき、由奈たちの会話が途切れた。

「じゃあ、後でまたお願いします」

男性社員が去っていく。

残された由奈は、軽く息をついてから、くるりとこちらを向いた。

そしてまた、視線が重なる。

今度は、逸らされなかった。

由奈は、こちらを見たまま、ほんの少しだけ口角を上げた。

誰かに向ける社交的な笑顔とは違う、柔らかい表情。

どう反応していいか分からず、視線を彷徨わせる。

「……」

結局、会釈のようなものをして、再び画面を見るふりをした。

心臓の音が、やけに大きい。

——今の、何?

気のせい。

そう言い聞かせるには、妙に引っかかる。

午後になり、給湯室でコーヒーを淹れていると、聞き覚えのある声がした。

「白石さんって、彼氏いるんですか?」

背中が、ぴくりと反応する。

「え?いないですよ」

由奈の声だ。

即答だった。

「そうなんですか?てっきり、いるものだと」

「よく言われます。でも、いないです」

笑いながら答える声。

その会話は、それだけで終わった。

カップを持つ手を強く握りしめた。

——いない。

頭の中で、その言葉が何度も反響する。

職場に戻ると、由奈は自分の席に座っていた。

自然を装って席につく。

しばらくして、視線を感じて顔を上げると、由奈がこちらを見ていた。

今度は、はっきりと。

そして、由奈は小さく口を動かす。

「……お疲れさまです」

声は届かない距離。

けれど、確かに澪に向けられた言葉だった。

一瞬迷ってから、唇を動かす。

「……お疲れさまです」

声にはならなかったが、由奈はそれを見て、満足そうに微笑んだ。

彼女には、彼氏がいない。

それを知っただけで、

今まで見ていた景色が、少しだけ違って見え始めていた。

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