六年前―― 高橋裕香(たかはし ゆか)は、指先一つ水仕事もしたことのないお嬢様。わがままで気まぐれ。 京極時久(きょうごく ときひさ)は、安物の白シャツを着た貧しい秀才。清く貧しく、孤高。 六年後―― 裕香は、生活苦に喘ぐシングルマザー。卑屈で孤独。 時久は、フォーブスランキングに名を連ねる大富豪。気高く、華麗。 再会のとき、彼は血走った目で彼女の耳元に顔を寄せ、憎しみを滲ませて囁いた。 「裕香、お前のおかげで、今の俺があるんだ」 彼女は涙を堪えて顔を上げ、無邪気な笑みを浮かべた。 「だったら京極社長、感謝すべきでしょう?私がいなかったら、あなたは今でも何も持たない貧乏学生のままだったはずよ」 その後、時久は彼女を壁際に追い詰め、怒りと痛みを滲ませて叫んだ。 「裕香、どうして他の男と結婚して、子どもまで産んだんだ?」 さらにその後、裕香は蒼く果てしない海に向かって身を躍らせた。 「時久、この命はあなたに返したわ。これで、私はもうあなたに何の借りもない」 そして、またその後、時久は狂ったように「高橋裕香」という名の女を探し続けた。 声が似ていても駄目。顔が似ていても駄目。性格が似ていても、やっぱり駄目。 必要なのは彼女、唯一無二の裕香だけだった。 彼は言った。 「裕香、戻ってきてくれ。俺はまた同じ過ちを繰り返してもいい。今度は、たとえお前に殺されても構わない」
View More「止まれ」男の声は低く響き、支配者特有の威厳と逆らえぬ力を含んでいた。裕香の足は無意識に止まったが、振り返らずに答えた。「京極社長、何かご用でしょうか」「金を稼ぎに来たんだろう?なら、なぜ急いで帰る?」裕香は拳を強く握りしめ、不吉な予感が胸をよぎった。「パシッ!」時久は分厚い札束を机に乱暴に叩きつけた。彼は片眉を上げ、まるで見世物でも見るような口調で言った。「この酒を全部飲めば、この金はお前のものだ」お酒……?裕香の背筋が震え、唾を飲み込んだ。「京極社長、申し訳ありません。私はアルコールアレルギーなんです」時久はふっと笑い、軽く放り投げるように言った。「そうか、忘れていたな」冷たい、あまりにも冷たい。忘れていたって……裕香はアルコールに触れるだけで蕁麻疹が出る。アルコール度数の低い果実酒でも全身が赤くなり、焼酎などを飲めば命に関わるほどだ。六年前、誤ってアルコール入りの飲み物を口にし、全身が真っ赤に腫れ上がった時、時久は夜中に彼女を背負って病院へ駆け込んだ。点滴で腕が腫れると、一晩中横で腕を揉み、家に帰れば自ら薬を塗ってくれた。あの時、彼は言った。「もう二度とお前に酒は飲ませない。お前を失うことなんて絶対にできない」そう、もう覚えていない……つまり、この酒は飲まざるを得ない。裕香の目が熱を帯び、鼻をすすって涙を拭うと、彼女は振り返り、唇にかすかな笑みを刻んだ。「いいですよ、飲みます。京極社長が約束を破らないことを願います」時久が飲めと言えば、飲まなければ帰れない。彼女は知っている。彼がどれほど自分を憎んでいるか。その酒はウォッカ、アルコール度数56度。カクテル用だが、ストレートで飲めば、酒に強い者でも無理だろう。思織が家で待っている。これを飲めば帰れる。裕香は札束に目をやり、薄く笑った。「これ、全部で六十万円ですか?」時久の冷ややかな黒い瞳が彼女を射抜いた。「七十万だ。一本の酒でそれだけ稼げるんだ、儲けものだろう」「そうですね、かなり……」これで思織の入学金ができる。そう呟き、裕香は瓶に手を伸ばした。与一が慌てて酒瓶を押さえた。「時久!アレルギーならやっぱ無理だ!」与一は見ていられなかった。裕香は帝都大学出身で、彼の後輩でも
以前は行きたくなかった。それは、値打ちもない尊厳のためだった。だが今や、子ども一人養うことすらできない。「高橋家の令嬢」だの、「テレビ局のアナウンサー」だの、そんな細々とした誇りなど、何の役にも立たない。……夜八時、ナイトクラブ「ウキヨ」、888号室の豪華な個室にて。「今日あのバカな司会者、一体何を質問しやがったんだ?よりによって、あの触れてはいけない初恋の話を!与一、あれは潰さねえとな!」「もう連絡してクビにさせた。今日は時久の誕生日だ、後で来たら、不愉快な話はするな」「誰がそんな話をするか!俺にそんな度胸はない。あの高橋……チッ! 縁起でもねえ!完全に彼の地雷だ!」話しているのは、SYグループの常務の二人、陸田律(りくた ただし)と江口与一(えぐち よいち)だ。二人は時久と最も親しい門下の兄弟分だ。間もなく、時久が到着した。背後には黒いスーツを着た二人のボディーガード。律が時久の肩を抱き、「今日は誕生日だ、笑えよ!この部屋、俺と与一が手ずから準備したんだ。驚いたか?」時久は部屋いっぱいの風船とリボンを一瞥し、冷たい眉目でソファに腰を下ろし、長い脚を組んだ。「ただの誕生日だ。祝うほどのことじゃない」「お前なあ、若いくせに、どうして何にも興味がないような顔をしてるんだ……今夜は美女を呼んでやる、少しは羽を伸ばせ!」与一が茶化すように言った。「京極社長がお前みたいに『欲求不満』だと思うか?時久、実は今夜、お前にサプライズを用意してある……」言い終わらぬうちに、888号室の扉がノックされた。「こんばんは、江口様からご依頼いただいた歌手です。入ってもよろしいでしょうか?」与一が笑った。「ほら、ちょうどいい。サプライズが来たぞ。入りな!」カチャリと、扉が開いた。裕香がバイオリンを抱えて入ってきた。室内は薄暗い。だが彼女が顔を上げた瞬間、隅の深い瞳と視線がぶつかった。目が合った一瞬、裕香の血が逆流し、凍りついた!足は床に釘付けになり、前にも進めず、後ろにも下がれない。ただ、全身に冷気を帯びた鋭い黒い眼差しと、ぎこちなくも真正面から向き合うしかなかった。裕香だけでなく、律も一瞬呆然とした。我に返ると、彼は鼻で笑った。「おやおや、これは西洲の高橋家のお嬢様じゃないか
六年後。帝都で最も華やかで喧騒な中心街、その巨大なLEDスクリーンには、あるインタビュー映像が流れている。「このほど、SYグループがニューヨーク証券取引所に上場しました。スタートアップ企業から巨大な財閥へと成長するまで、わずか六年。その実質的な持株者でありCEOである京極時久氏は、ウォール街で語り継がれる神話となり、一週間前には『タイム』誌の表紙を飾りました。本日は光栄にも、彼がいかにしてSYを商業帝国へと築き上げたのかをお聞きします」履歴書を抱え、金内ビルから肩を落として出てきた裕香は、ふと顔を上げた。そこには、スクリーンの中で輝きを放つあの男の姿があった。画面の中には、冷たい灰色のスーツに黒いシャツを着て、襟元には銀灰色のネクタイをきっちり締めた男がいた。白い肌と彫りの深い端正な顔立ちで、骨ばった長い指を膝の上に重ね、カメラに向かう姿は、くつろいでいるようでいて背筋はまっすぐだった。冷ややかな笑みは礼儀を保ちながらも距離を感じさせ、その全身から上位者特有の落ち着きと威圧感が漂っていた。司会者の質問に、彼はあっさりと答えた。「恨みの力です」司会者は冗談かと思ったが、せっかくの話題を逃すまいと、さらに切り込んだ。「一部の噂では、京極社長は六年前、初恋の女性に陥れられて服役させられたとか。本当でしょうか?」その瞬間、会場の空気が一気に凍りついた。時久は相変わらず優雅に座り、表情は波ひとつ立たぬ静けさ。しかし、その瞳の奥には鋭く冷たい殺気が走った。彼はゆっくりとスーツのボタンを留め、優雅に立ち上がり、感情を読めない一言を残した。「好奇心が、必ずしも良いものとは限らないです」……スクリーンを見上げる裕香の背筋が硬直し、顔色も青ざめた。六年。時は時久を、完璧な支配者へと彫刻し、より深く、内に秘めた性格の人物へと変えた。六年前、彼が投獄された過去はすでに「物語」と化し、今ではその傷跡すら、彼という商界の天才に神秘と深みを与える装飾となっている。人は強者を尊敬する。神秘で、しかも強い存在は、人々を惹きつけてやまない。そして世間の噂好きたちは、ただこう呟くだろう――「昔、京極時久の初恋の女、見る目がなかったのね。きっと後悔して胸を叩いてる」裕香は自嘲気味に笑った。後悔?そう、後
一帆は冷酷だった。もし従わなければ、母親も時久も、待ち受ける運命はさらに悲惨なものとなるだろう。もう、どうしようもなかった。裕香は深く息を吸い込み、顔を上げて裁判官を見据え、一語一語、はっきりと答えた。「はい。六月六日夜十時、私は時久の助手席に座っていました。彼が車で人を轢き殺すのを、この目で見ました」被告席の時久の全身が、びくりと硬直した。瞳の光が、その瞬間、完全に消え落ちた。「被告人・京極時久、何か言いたいことはありますか?」男の目の奥は氷の穴のように冷え切り、眼角は血走っていた。彼は裕香を凝視し、絶望と憎悪をないまぜにした冷笑を浮かべた。「言うことは、何もない」かつて心の最も奥で慈しみ、大切にしてきた少女が、今や自分の敵として立ち、容赦なく自分を殺人犯と貶めている。全世界が時久を裏切ろうとも、なぜよりにもよって――彼女、裕香なのか。カン!木槌が再び打ち下ろされた。「では、判決を言い渡します。主文、被告人・京極時久を、過失運転致死罪で懲役三年及び罰金一千万円に処する。次に理由について述べます。被告人は刑法に違反し、原告・原田良平の死亡を招き……」審理が終わり、看守が囚人服姿の時久を連行した。そのとき、彼は振り返り、彼女を深く一瞥した。その眼差しには、消えることのない憎しみが満ちていた。裕香は悟った。今、彼は自分を心底憎んでいる。彼女は自らの手で、本来ならば輝かしい未来を歩むはずだった時久を、無残に壊してしまったのだ。裕香の細い指先は、掌に深く食い込み、血がにじみ出ていた。……三日後。裕香はようやく時久との面会許可を得た。一枚のガラスを隔て、二人は受話器を手に向かい合った。「時久、必ずあなたを救い出すから!」男は薄く冷笑を浮かべた。「裕香、俺たちはもう終わった。お前は高橋家のお嬢様をやればいい。俺は獄中の囚人として生きる」「時久……ごめんなさい……」涙が目から、そして心から溢れ、呼吸すら苦しくなった。「ここは、高橋家のお嬢様が来るべき場所じゃない」時久は囚人服のポケットから小さなノートを取り出し、彼女の目の前でひらひらと揺らした。それは、かつて裕香がこっそり描いた彼の肖像画だった。ページのすべてに、彼の姿が描かれている。時久はそれを宝物の
「時久、私たち、ずっと一緒にいられるのかな?」十八歳の高橋裕香(たかはし ゆか)は頬を赤らめながら、京極時久(きょうごく ときひさ)の胸に身を縮め、溢れんばかりの愛情を瞳にたたえて彼を見つめていた。「ええ、ずっと」男は確固たる声でそう答え、深く燃えるような眼差しで彼女の清らかで華やかな顔を見つめた。その腰がぐっと沈んだ瞬間……痛い!裕香の背筋が震え、指先が時久のしなやかで力強い腕の筋肉に食い込んだ。それほどの痛みだったのに、裕香は顔を上げて、時久に向かって無邪気に微笑んだ。「時久、愛してる」男は彼女の目尻の涙を優しく唇で拭い取りながらも、彼女を強く抱きしめ、耳元で低く支配的に宣言した。「裕香、お前は俺のものだ。永遠に」裕香は彼の首にしがみつき、彼の腕の中で、まるで初めて恋を知った人魚姫のように笑みを咲かせた。だが後に裕香は知ることになる。あのとき二人が語った「永遠」とは、その瞬間の情熱を誇張するための言葉に過ぎなかったのだと。そして、「愛してる」という言葉も、やがては「憎んでる」という一言に敵わなくなるのだと。……重々しく厳粛な法廷。「証人、高橋裕香、六月六日の夜、あなたは被告人、京極時久とずっと一緒にいましたか?」「はい」六月六日は裕香の十八歳の誕生日だった。だが裕香は家族と過ごすことなく、時久の狭いアパートで、彼と朝まで過ごした。身も心も溶け合うような一夜、一生忘れることなどできるはずもない。あれが彼女の初めてだった。時久は彼女を慈しみながらも、何度も我を忘れ、彼女を痛めつけた。裕香はゆっくりと顔を上げ、被告席に立つ時久を見つめた。彼は囚人服をまとい、端正な顔には疲労の色が濃く、黒い瞳には血のような赤が滲んでいた。だがその目が彼女を見つめるときだけ、かすかに優しさが宿った。拘留されてから一週間、彼は明らかにやつれ、少しばかり無様になっていた。けれど、その圧倒的な存在感は今も彼女の視線を奪ってやまなかった。京極時久――帝都大学の金融学と法学のダブルメジャーの俊才。貧しい家庭に育ちながらも、その将来はまばゆいほどに明るかった。彼の恩師はこう語った。「百年に一度現れるかどうかの逸材、法の天賦と投資の眼力を併せ持つ男」と。本来なら、彼の未来には栄光が約束されていた
Comments