登入大国の権威を誇示するような、圧倒的な朱色の城門。龍蘭帝国の後宮に足を踏み入れた朱璃(しゅり)を待っていたのは、息を巡らせる暇もないほどの混沌だった。
到着した時期は、ちょうど春の盛りの大祭『桃源節(とうげんせつ)』の直前。後宮全体がその準備で蜂の巣を突ついたような大騒ぎになっており、他国から来たばかりの、まだ寵愛も得ていない端くれの姫である朱璃など、誰もまともに相手をしてはくれない。あてがわれた宮の侍女たちとも、一言二言の挨拶を交わすのが精一杯という慌続きだった。 そして、何一つこの国の作法を教えられないまま、春の祭り当日を迎える。 絢爛豪華な大広間。金銀の装飾が施された衣装をまとい、妖艶で華やかな大陸の舞を披露する他国の姫たち。その姿に、玉座に座る皇帝や皇后、あるいは第三皇子リウ・タイランが退屈そうに視線を送っていた。 やがて朱璃の番が回ってくる。生家である神凪(かんなぎ)の地、倭国(わこく)の厳かな神事しか知らない朱璃は、心を込めて、静かで格式高い「神楽舞(かぐらまい)」を踊った。指先まで神経を尖らせた、神に捧げるための美しい舞。 しかし、この後宮が求めるのは「男の目を惑わせる色香」だ。静寂を重んじる朱璃の舞は、彼らにとって退屈極まりないものでしかなかった。 「まあ、陰気な舞。まるで死人を弔っているようですわ」 「せっかくの桃の節句が台無しね。倭国の野蛮な娘には、この国の華やかさは理解できないのかしら」 他国の姫たちの間で、容赦のない嘲笑が響く。玉座の皇帝や皇后は興味なさげに一瞥をくれただけで、すぐに視線を外した。こうして朱璃は、後宮に足を踏み入れた初日に「地味で退屈な、落第姫」という烙印を押されたのだった。 ――だが、嘲笑の嵐が吹き荒れる広間の中で、ただ一人、違う目をしている男がいた。 第三皇子、リウ・タイラン。 彼は頬杖を突いたまま、遠ざかる朱璃の背中をじっと見つめ、周囲の喧騒に消え入るような小声でボソッと呟いた。 「……なんと、華麗な舞なのだ。軸が一切ぶれていない。これが神に捧げるという、倭国の舞なのか」 その瞳には、退屈の代わりに、獲物を見つけたかのような深い興味の光が鈍く宿っていた。しかし、その呟きに気づく者は、まだ誰もいなかった。 ◇ 祭りが終わり、後宮が本来の静けさを取り戻した頃、新入りの姫たちの配属が発表された。 後宮において、まだ寵愛を受けていない身分の低い姫に、独立した一つの「宮(きゅう)」が丸ごと与えられることはない。最高位である四貴妃のいずれかの宮に、居候のような形で所属することになる。 朱璃に言い渡されたのは、『延明宮(えんめいきゅう)』への所属だった。 その決定を聞いた瞬間、廊下ですれ違う他のお妃付きの侍女たちが、朱璃の背中に向かってクスクスと、しかし憐れむような声を潜めて囁き合っていた。 「お可哀想に。倭国の姫様、よりによって麗華(レイファ)徳妃様の宮に配属されたんですって」 「麗華様といえば、親が皇帝陛下の側近だからって、寵愛もないのに我が物顔でいらっしゃる、わがまま放題のお嬢様貴妃でしょう? あそこに入ったら最後、まともな扱いなんて受けられないわね……」 そんな同情の声を背中で聞きながらも、朱璃の表情はぴくりとも動かなかった。むしろ、その切れ長な瞳の奥に、冷徹な計算を走らせる。 (好都合だ。我儘な主のいる宮ほど、綻びが多い。情報収集には丁度いい) 延明宮へ挨拶に赴くと、主である麗華徳妃は、案の定、扇で顔を隠しもせず朱璃を値奢るように睨みつけた。親の権力を傘に着た、いかにも高慢そうな美女だ。 「倭国の野蛮な娘に、我が延明宮の美しい部屋を貸すなど、宮に泥を塗るようなもの。お前はあっちの薄暗い離れにでも引っ込んでおいで。それから、我が宮でただで飯を食わせるわけにはいかないわ。今日からは侍女たちと共に、宮の雑用をこなしなさい」 それは、一国の姫に対するあからさまな侮辱であり、事実上の奴隷宣告だった。 さらに朱璃付きとしてあてがわれたのは、わずか二人の侍女。彼女たちもまた、日頃から麗華徳妃に目を付けられ、いじめられていた小鈴(シャオリン)と春蘭(シュンラン)という少女たちだった。 「……朱璃姫様、申し訳ございません。このような、物置同然の場所に……」 案内された宮の最果てにある離れは、何年も使われていないようで、床には分厚い埃が積もり、蜘蛛の巣が張っていた。小鈴は今にも泣き出しそうな顔で頭を下げ、少し知恵の回りそうな春蘭も、諦めきった目で床を見つめている。 しかし、当の主人はといえば、すっかり腕をまくっていた。 「何を泣いているの。汚れているなら、掃除をすればいいだけでしょう」 「え……?」 二人が呆気に取られる中、朱璃はバケツに水を汲み、雑巾を手に取ると、凄まじい手際の良さで掃除を始めた。武家育ちで鍛え上げられた体幹と筋力だ。重い家具を軽々と動かし、あっという間に部屋の隅々まで磨き上げていく。 その圧倒的な行動力と、姫とは思えない気さくさに、小鈴と春蘭は目を丸くし、慌てて手伝い始めた。日が暮れる頃には、薄暗かった離れは見違えるほどピカピカになり、心地よい風が通り抜ける空間へと生まれ変わっていた。 ◇ それからの数ヶ月間、朱璃の生活は「ほぼ侍女同然」のものとなった。 毎朝早くに起き、麗華徳妃から命じられる過酷な雑用を黙々とこなす。重い薪を運び、庭の広い敷地を掃き清め、宮の廊下を雑巾がけする。 周囲の妃や侍女たちは、そんな朱璃の姿を見て「哀れな落ちこぼれ」と蔑み、笑った。 ――だが、彼らは誰も気づいていなかった。 (ふん、この程度の重さ、倭国での木剣に比べれば軽いものだ。良い筋力トレーニングになる) 朱璃は、雑用をすべて己の「鍛錬」へと変換していたのだ。重い荷物を運ぶことで足腰を鍛え、雑巾がけで体幹を研ぎ澄ます。さらに、宮の雑用で歩き回ることを口実に、延明宮の構造、警備兵の交代時間、死角になる場所をすべて頭の中に叩き込んでいた。 そんな朱璃の裏表のない誠実さと、時折見せる凛とした格好良さに、一番近くにいた小鈴と春蘭は、数ヶ月の間にすっかり魅了されていた。 ある夜、慣れない労働で手が荒れてしまった小鈴に、朱璃が倭国から持ってきた貴重な薬を優しく塗ってやったとき、小鈴はついに涙を溢れさせた。 「朱璃様……どうしてそんなに優しいのですか。私たちは、徳妃様に嫌われた、何の力もない侍女なのに……」 春蘭もまた、静かに居住まいを正して朱璃を見つめる。 「私たちは、もう麗華様のためではなく、朱璃様のために生きたい。どうか、私たちを本当の部下にしてください」 朱璃は二人を見つめ、ふっと、これまでの「大人しい姫」とは違う、武人としての不敵な笑みを浮かべた。 「いいわ。その言葉、忘れないで。これから私は、この退屈な鳥籠を少し揺らしようと思っているの。手伝ってくれる?」 「はい……!」 二人の侍女との間に、損得勘定抜きの、本物の信頼関係が結ばれた瞬間だった。気心の知れた二人が味方になったことで、春蘭の持つ後宮の噂話や情報網、小鈴のフットワークの軽さが、朱璃の大きな武器となった。 屋敷の離れで、三人でささやかな夕食を囲み、笑い合えるようになった初夏のある日のこと。 延明宮の主、麗華徳妃の使者が、一通の派手な手紙を朱璃のもとへ叩きつけるように届けてきた。 「徳妃様からの伝達です。来月行われる、夏の『千涼祭(せんりょうさい)』において、我が延明宮の代表として、お前が前座の舞を踊りなさい、とのことです。春のような恥ずかしい真似は許されませんよ」 使者の侍女は鼻で笑って去っていった。 あからさまな、二度目の公開処刑の企みだ。春の祭りで評価の低かった朱璃を再び大舞台に立たせ、今度こそ完全に恥をかかせて、二度と這い上がれないようにするための嫌がらせ。 手紙を見つめる小鈴と春蘭の顔が、怒りと不安で真っ青になる。 しかし、朱璃は手紙を静かに机に置くと、窓の外の青空を見上げ、楽しそうにクスクスと肩を揺らした。 「……ふん。数ヶ月間、大人しく雑用ばかりで、少々身体が鈍りかけていたところだ。麗華徳妃も、粋な計らいをしてくれるじゃないか」 その瞳に宿ったのは、大人しい「姫」の光ではない。 獲物を狙う、飢えた猛禽のような、鋭く恐ろしい武人の輝き。 「今度は、僕の本当の舞を見せてやろう。……ただでは起きないわよ」 彼女の口から漏れた、低く鋭い「僕」という呟き。 隣にいた小鈴と春蘭は、荷物の整理に追われ、主人のその小さな独白を聞き落としていた。 (すまない、二人とも。……君たちを騙す意図はないんだ。けれど、いずれ話すことになるだろうな。本当の、僕という人間の姿を) 心の中で二人に小さく詫びながら、朱璃は自らの内に眠る戦士の魂を呼び覚ます。 初夏の風が、朱璃の長い黒髪を激しく揺らす。 爪を研ぎ続けた鳥が、ついにその牙を剥く時が近づいていた。ここまで読んでくださりありがとうございます。 応援してくださると嬉しいです! 次回をお楽しみにお待ちしていてください!
神凪朱璃(しゅり)が九等嬪から一気に『七等嬪』へと飛び級昇格を果たしてから数日。延明宮(えんめいきゅう)は、どこか浮き立ったような華やいだ空気に包まれていた。「麗華様、朱璃様! 内務府の太監様より、お二人の日頃の慰労と昇格のお祝いにと、結構なお品が届きましたよ!」 無邪気な声をあげて部屋へ入ってきたのは、離宮の若い侍女たちだ。うやうやしく掲げられた塗りの盆には、見たこともないような豪勢な銘菓と、色鮮やかな茶葉の詰まった壺が載せられていた。「あら、内務府から……? 珍しいこともあるものね。」 離宮の主である麗華は嬉しそうに目を細め、側近の翠蘭(スイラン)へ目配せをする。「翠蘭、せっかくのお心遣いだもの。皆でいただきましょう。お茶を淹れてちょうだい。」「かしこまりました、麗華様。」 手際よくお湯が注がれると、壺の中から取り出された茶葉がふわりと湯の中で広がった。その中には、乾燥された可憐な紫色の花びらや生薬が混ざっており、部屋中に甘く華やかな香りが満ちていく。(……内務府の太監が、わざわざ延明宮にこんな豪華なお祝いを……?) 侍女たちが「なんて綺麗なお茶!」と歓声をあげる中、朱璃だけは笑顔の裏で静かに眉の根を寄せた。前夜、正任近衛・高(ガイ)として瑛凱(エイガイ)殿下と密談した際、太監長をはじめとする内務府が皇后派の手先として動く危険性を確認したばかりだ。 やがて、淹れ立てのお茶が運ばれてくる。主である麗華が杯を口にする前に、長年の慣例に従って側近の翠蘭が一口含み、毒味を行った。「……とても香り高く、まろやかなお味でございます、麗華様。」 微笑みながら杯を置いた翠蘭。しかし、次の瞬間だった。「つ……っ!?」「翠蘭……?」 突如として翠蘭が胸をかきむしり、その場に激しく膝をついた。顔からは一瞬で血の気が引き、唇がみるみるうちに紫へと変色していく。
夜の静寂が、重々しく王宮全体を包み込んでいた。 月明かりが石畳を照らす中、巡回を行う近衛兵の靴音や夜警の拍子木が遠くで規則的に響いている。 神凪朱璃(しゅり)は、男装の衣装――『正任近衛・高(ガイ)』の装いに身を包み、堂々とした足取りで通路を歩いていた。王宮全域を守る近衛兵の中でも、見習い時代に第二皇子・瑛凱(エイガイ)殿下が居住する『驍駿宮(ぎょうしゅんきゅう)』周辺の警備部隊に配属されていた朱璃は、このあたりの巡回ルートや警備の隙を熟知している。さらに正任近衛となった今では、夜間に王宮内を移動していても怪しまれることはない。 すると、前方の角から松明を持った数人の近衛兵が歩いてくるのが見えた。朱璃が足を止めると、その先頭にいた見回り隊の隊長――張文(チャン・ウェン)部隊長が目を留めた。 「む、高(ガイ)か。」 「張部隊長。夜間の巡回、お疲れ様です。」 朱璃がすっと背筋を伸ばして礼をとると、張部隊長は満足そうに頷き、その肩をぽんと力強く叩いた。 「見習いを卒業して正任になったそうだな。お前の腕と判断力なら当然だ。ますますの活躍を期待しているぞ。」 「ありがたき幸せにございます。」 部隊長率いる隊がすれ違いざまに去っていくと、その隊の末尾にいた見習い時代の同期――気心知れた見習い近衛の友人二人組が、隊列から少し遅れて朱璃の元へニヤニヤしながら駆け寄ってきた。 「おいおい、相変わらず張部隊長からの受けがいいなぁ、漣(レン)!」 「本当だよ。正任昇格、おめでとう! さすが漣だな!」 声をかけてきたのは、華やかな顔立ちで優しい**明俊(ミンジュン)と、気さくで明るい永和(ヨンファ)**の二人であった。朱璃は苦笑いを浮かべながら声を潜めた。 「声が大きいよ、ふたりとも。……ありがとう。二人もじきに正任になれるさ。」 「へいへい。まあ俺たちはボチボチやるよ。……あ、そういえばお前、こんな時間に何してるんだ?」 永和が不思議そうに首をかしげると、朱璃はごく自然な様子で小さく微笑んで見せた。 「少し寝つけなくてな。夜風に当たるついでに、散歩がてら見回りをしていたんだ。」 「うわー、流石は正任の漣様だねぇ! 俺たちも一回でいいから『散歩がてら見回り』なんて格好いいこと言ってみてぇ
神凪朱璃(しゅり)の「九等嬪から七等嬪への飛び級昇格」という破格の沙汰は、瞬く間に後宮中を駆け巡った。 「朱璃様。七等嬪への昇格、本当におめでとうございます!」 「ふふ、あの皇帝陛下に認められて飛び級だなんて、後宮の歴史に残る快挙ですわね。」 華やかな彩りに満ちた宮殿で朱璃を迎えたのは、貴妃・蓮華(レンカ)様、賢妃・玲鳳(レイホウ)様、そしてもちろん主である麗華(レイファ)様であった。 二人は朱璃の快挙を心から祝福し、貴妃主催のお祝いの茶会を開いてくれたのだ。テーブルには、最高級のシルクの反物や、朱璃が好みそうな珍しい薬草・極上の茶葉といった豪華な祝いの品々が並べられている。 「お二人からの温かいお心遣い、身に余る光栄にございます。……ですが、私の方が位が下でございますのに、皆様に『朱璃様』と呼ばれるのは少し恐れ多く……。」 申し訳なさそうに遠慮する朱璃に、三人はそれぞれの反応を見せる。 「良いのですよ! あなたの淹れてくださるお茶やお菓子、知識には心から敬意を払っておりますの。私にとっては『朱璃様』ですわ。」 「ええ、位など関係ありません。私もそう呼びたいから呼んでいるだけですもの。」 上品に微笑む賢妃様と貴妃様。すると、横で聞いていた麗華様がパッと扇子を広げ、鼻息を荒くした。 「だ、ダメに決まっているでしょうお二人とも! 朱璃は私の延明宮の妃なのですからね! 私以外が気安くそんな……っ、でも、朱璃がすごいのは本当だから。……ふんっ、今回だけは許してあげますわ!」 相変わらずのツンデレを発揮する麗華様に、貴妃様たちは 「ふふっ。」 と笑い声を漏らす。 「いいのですよ、麗華様。困らせてしまい申し訳なかったわね。……それにしても、あの皇后派の苦々しい顔といったら…。…思い出すだけで胸がすくわ。」 悪戯っぽく微笑む貴妃様。楽しい時間はあっという間に過ぎ――。 「それじゃあ、そろそろお開きにしましょうか。朱璃様、またお茶会にご一緒していただけるかしら?」 「もちろんでございます、貴妃様。光栄に存じます。それでは、失礼いたします。」 朱璃はお暇の挨拶を静かに告げ、麗華様と共に離宮へと戻っていった。 * 離宮へ戻ると、留守番をしていた小鈴(シャオリン)が出迎えた。お祝いの品の豪華さに、
皇帝の重々しい一言が落ちた謁見の間。 息を呑むような静寂と張り詰めた空気の中、皇帝はそれ以上多くを語ることなく、静かに手元の杯を置いた。 「……見事であった。下がってよい。」 「はっ。身に余る光栄にございます。失礼致します。」 朱璃(しゅり)は静かに平伏すると、一切の乱れを見せない洗練された動作で立ち上がり、謁見の間を辞した。 その背中を見送りながら、玉座の横に座る皇后は (ふん……別に褒めそやされたわけでもない。ただ一言、気まぐれに言葉を賜っただけではないか) と、胸を撫でおろしつつ冷ややかな鼻笑いを漏らすのだった。 * 「朱璃! どうだったの!?」 「朱璃様! お咎めはございませんでしたか!?」 延明宮(えんめいきゅう)へ戻るなり、待たされていた麗華(レイファ)様をはじめ、小鈴(シャオリン)や翠蘭(スイラン)たちが一斉に駆け寄ってきて朱璃を取り囲んだ。 口々に問い詰めてくる皆に、朱璃が困ったように微笑みながら 「『見事であった、下がってよい。』とのお言葉をいただきました。」 と経緯を話すと、麗華様はほっと胸を撫でおろし、パッと扇子を広げた。 「……まあいいわ! 何も咎められず、皇帝陛下にお茶を召し上がっていただけただけでも上出来ですもの! よく頑張ったわね、朱璃!」 そこへ、侍女頭の桂花(ケイカ)が呆れたようにパンパンと手を叩きながら間に入ってきた。 「これこれ、みなさん。朱璃様がお困りですよ。お聞きしたい気持ちは分かりますが、無事に戻られたのですから少し休ませて差しあげなさい。」 桂花に窘められ、 「はーい……」 と散っていく侍女たち。そんな賑やかで和やかな時間を過ごし、その日は何事もなく平和に過ぎていった。 * ――翌朝。 朱璃が朝の支度をしながら、小鈴や春蘭(シュンラン)と昨日の謁見の思い出話をしていたときのことである。 バタバタバタッ! と廊下を激しい足音が駆け抜けてきた。 「し、朱璃様! 大変です、お客様がお見えです! 急いでお越しください!」 息を切らした侍女が飛び込んでくるなり叫んだ。 何事かと驚きつつも急いで支度を整え、朱璃たちが広間へと向かうと――そこではすでに麗華様がいつになくキリッとした表情で侍女たちにテキパキと指示を出
前夜の極秘の密会を無事に終え、朝を迎えた朱璃(しゅり)。 主である麗華(レイファ)様の元へ向かうと、案の定、麗華様は昨日の貴妃・賢妃との会話を思い出しては、気分が落ち着かないかのようにソワソワしていた。 「もうっ! 今日もあの二人のお姉さま方に朱璃を連れ回されたらどうしましょう。……朱璃は私の延明宮の九等嬪なのですからね!」 「ふふ、麗華様。そんなに怒られず、どうぞお気を鎮めてくださいませ。」 朱璃はくすりと微笑みながら、湯気の立ち上る淹れたてのお茶を麗華様の杯へと静かに注ぐ。 香り高いお茶の匂いが部屋に広がる中、朱璃は言葉を続けた。 「貴妃様と賢妃様お2人ともお茶の伝統や薬効に関心をお持ちなだけですわ。」 「そんなこと絶対にないわ! あの二人も朱璃の魅力に気づいたのよ。……絶対そうよ……!」 お茶を受け取りつつも、「私の朱璃」が他のお姉さま方に奪われてしまうかもしれない焦りから、キッと目を巡らせておこる麗華様。 そんな主の横で、専属侍女の翠蘭(スイラン)が 「まあまあ、麗華様……。朱璃様が他宮のお方からも高く評価されるのは、私共にとっても大変誇らしいことでございますよ。」 と苦笑しながら優しく宥めた。 そんな賑やかな朝のひとときを打ち破るように、宮の外から重々しい足音が近づいてきた。 現れたのは、皇帝直属の太監(たいかん)――侍従長であった。 「――九等嬪・朱璃に、皇帝陛下より勅命である!」 太監の甲高い声が響き渡り、一瞬で延明宮の空気が凍りついた。小鈴(シャオリン)はガタガタと震え出す。 「此度の茶会の噂、陛下の耳にも届いておられる。『泰然(タイゼン)王子を感銘せしめた倭国の茶と菓子を、直ちに御前(ごぜん)にて披露せよ』とのこと。急ぎ道具を整え、謁見の間へ参られたい。」 「えぇっ……。皇帝陛下からのお呼び出しですか!?」 驚く小鈴を余所に、パッと扇子を広げた麗華様は、待ってましたと言わんばかりに誇らしげに胸を張った。 「ふふん、当然ですわ! 朱璃の淹れるお茶やお菓子が世界一なのですから、皇帝陛下がお聞きつけになるのも時間の問題でしたのよ! ほら見なさい、私の朱璃が認められたのですわ!」 パッと扇子を広げて自慢げに胸を張る麗華様。周
「母上! あのような素晴らしいお茶や菓子を作れる朱璃殿が、なぜ九等嬪のままなのですか!? 父上もです! お二人はあの方の凄さを何もお分かりになっておられません!」 茶会が明けた翌日。皇后の宮には、興奮冷めやらぬ第3王子・泰然(タイゼン)殿下の叫び声が響き渡っていた。 「た、泰然……! なにを大声で言い出すのです、おやめなさい!」 「やめません! 私は……私は幼い頃から、倭国の朱璃殿が自分の婚約者になると聞いてずっと楽しみにしておりました! それなのに、いざ後宮へお迎えしてみれば九等嬪の雑用扱いだなんて、あまりに酷すぎます! なぜ私の大切な方をそのような扱いにされるのですか!?」 真っ直ぐな瞳に涙を浮かべんばかりにして、幼い頃からの憧れの姫への情熱と怒りを親にぶつける泰然殿下。 まさか自分の息子からそこまで痛烈に問い詰められるとは思ってもいなかった皇后は、動揺を隠せない。 (くっ……よりによって、この子があの倭国の姫にここまで執着していたなんて……!) 朱璃をハメようと意地悪く罠を仕掛けたはずが、かえって大事な息子の反抗期を引き起こし、隠していた不遇な扱いまで暴露されてしまったのだ。皇后は焦りを隠すように扇を固く握りしめ、厳しく言葉を返した。 「泰然、口を慎みなさい! どのような経緯があろうとも、一度後宮に入宮した者はすべて皇帝陛下の妃なのです。あなたが口を挟むことではありません!」 「ですが――っ!」 「泰然、貴方っ!」 「よい、皇妃。」 親子の激しい喧嘩を制したのは、それまで静観していた皇帝の重厚な声だった。 皇帝はあごに手を当て、どこか感心したように泰然を見つめる。 「ふむ……。そういえば倭国の九等嬪は、元はお前の婚約者として召し出された姫であったな。……泰然がそこまで熱弁を振るうほどのお茶と菓子か。一度、私も味わってみたいものだな」 「あ、えっと……父上……!」 「陛下……!?」 息子の一途な怒りと、それによって「朱璃」という存在に強い興味を抱いた皇帝。 皇后は自らの罠が完全に裏目に出て、息子にも夫にも朱璃の存在感を植え付けてしまったことに、ぐぬぬと唇を噛み締めて歯噛みするしかなかった。 さらに泰然殿下は、その日、同年代の幼い貴族や家臣たちにも 「朱璃殿の『くず餅』と茶は世界一な
神凪の屋敷の庭に、いつものように深い朝霧が立ち込めている。 つい昨日まで、この庭には木剣と木剣がぶつかり合う乾いた音が響いていた。手のひらを痺れさせ、腕を軋ませながら、父の重い一撃を必死に受け止めていたあの時間は、もうない。 代わりに、今朝の静寂を破って重々しく響くのは、旅支度をすべて終えた馬車の車輪が、湿った土を噛む音だけだった。 玄関先には、両親が並んで立っている。 父は武家としての威厳を保つように背筋を厳しく伸ばしているが、その瞳は朱璃を直視できず、どこか遠くの空を向いていた。その隣で、母は顔を伏せ、着物の袖口で小さく目元を幾度も拭っている。 ――家を、売る。 朱璃は
夕暮れの庭に、乾いた音が響いた。 木剣と木剣がぶつかり合い、火花の代わりに鋭い衝撃が空気を震わせる。「甘い」 低い声と共に、主人公の握る木剣が弾かれた。 手のひらが痺れる。 だが主人公――朱璃(しゅり)は、すぐに体勢を立て直した。乱れた呼吸を整えながら、再び父へ踏み込む。 夕日に照らされた長い黒髪が背中で揺れた。 本当なら、切ってしまいたい。 もっと短く。 弟のように。 そんな考えを振り払うように、朱璃は木剣を振るう。 しかし父の一撃は重い。 受け止めた瞬間、腕が軋み、木剣が地へ落ちた。 乾いた音が庭へ響く。「……参りました」 膝をつきながらそう言うと、父は