ログイン龍蘭帝国の容赦ない夏の陽射しを遮るように、夜空へ無数の火が放たれる。
後宮の夏を彩る壮大な大祭『千涼祭(せんりょうさい)』。涼を競う名目のもと、きらびやかに飾り立てられた池の上の特設舞台では、今夜も各宮の妃たちが競うように華美な衣装をまとい、優美な大陸の舞を披露していた。 その宴の最中、いよいよ前座として、延明宮の代表たる朱璃の名が呼ばれる。 春の『桃源節』では、地味で退屈な落第姫だと嘲笑された。主である麗華(レイファ)徳妃からも、あからさまな二度目の公開処刑としてこの舞台に立たされた。誰もが「あの倭国の不器用な姫が、また無様な姿を晒すのだろう」と、冷ややかな、あるいは娯楽を期待するような視線を向けている。 だが、舞台に上がった朱璃の姿に、まず広間が小さくどよめいた。 まとい慣れた、くすんだ藍色の衣装ではない。動きやすさを重視して仕立て直させた、薄衣の装束。髪は高く結い上げられ、その手には――月光を冷たく反射する、一振りの真剣が握られていた。 後宮の宴において、刃物の持ち込みは本来許されない。しかし、倭国の武家が「神に捧げる儀礼」として用いる、刃を潰した儀式用の神剣という名目で、朱璃はこの場に剣を持ち込む許可を強引に勝ち取っていた。 ――トォン、と太鼓の音が響く。 その瞬間、朱璃の身体が爆発的な速度で動いた。 それは、春に踊った静かな神楽舞とは完全に一線を画すものだった。倭国の神事のステップをベースにしながらも、その身のこなしに融合されているのは、父から骨の髄まで叩き込まれた『神凪(かんなぎ)流剣舞』。 抜き放たれた白刃が、夜空に冷烈な弧を描く。 しなやかに跳躍したかと思えば、鋭い踏み込みと共に剣が風を「烈(れつ)」と引き裂き、飛び散る火花を両断するかのように激しく煌めいた。音もなく着地する足捌き、目にも留まらぬ速さで繰り出される突きと斬撃。流れるような一連の動作の裏には、一撃で人の首を刈り取れるような、圧倒的な体幹の強さと鋭い殺気が孕まれていた。 美しくも、あまりに恐ろしい、命を削り合う戦場さながらの剣舞。 刃が空気を切り裂く風切音だけが響く広間は、水を打ったように静まり返った。 演舞が終わり、朱璃が剣を美しく鞘へと収め、深く一礼して舞台を降りても、しばらくの間、誰も声を出すことができなかった。 やがて、会場の評価は真っ二つに割れる。 「な、何ですか今の野蛮なものは……! 剣を振り回すなど、あんなものは舞ではありませんわ、まるで兵卒の演習のようではないですか!」 頭の硬い年配の貴族や高位の妃たちは、己の理解を超えた異質で鋭利な美に、不快そうに眉をひそめて扇を握りしめた。 しかし、その一方で。 「……素晴らしい。なんという無駄のない剣筋だ。刃の重さに全く振り回されていない」 列席していた前線の武官たちや、目の肥えた一部の者たちは、その圧倒的な技量に息を呑み、感嘆の声を漏らしていた。 影を歩く兵たちの目も釘付けにしている。そして玉座の近くに座る第三皇子リウ・タイランもまた、きつく結んだ唇の端をわずかに上げ、その鋭い瞳で、朱璃の剣を収める手元を焼き付けるように見つめていた。 何より、最も激しく心を揺さぶられたのは、後宮の最下層で日頃から抑圧されて生きている、他のお妃付きの若い侍女たちや、身分の低い下位の妃たちだった。 (かっこいい……) 男たちの顔色を窺い、媚びを売るためだけの舞が溢れる後宮の中で、剣を握り、凛として自立し、圧倒的な強さを見せつけた朱璃の姿。それは彼女たちの目に、暗闇に差す一筋の光のように映ったのだった。この夜を境に、後宮のあちこちで「倭国の朱璃様」を密かに慕うファン(草の根の味方)の土台が、確実に出来上がりつつあった。 ◇ 千涼祭が幕を閉じ、翌日。新入りの妃たちが皇后の前に呼び集められた。 それぞれが祭りの働きに応じた言葉を賜る中、朱璃は 「また皇后陛下に睨まれるか、あるいは無視されるか」 と内心で身構えていた。 皇后は、鳳凰の冠を戴く最高権力者は、老獪な微笑を浮かべて朱璃を見つめた。 「倭国の神凪の娘よ。昨夜の剣舞、実に見事でした。他の貴妃たちの華やかさとはまた違う、我が後宮に新たな風を吹き込み、背筋が伸びるような素晴らしい実力。感銘を受けましたよ」 麗華徳妃らの顔を立てて彼女たちを一番に褒めつつも、朱璃の突出した実力を無視せず、正当に評価してみせたのだ。 拝領の手続きを終え、あてがわれた離れに戻った朱璃が、渡された冊封を開くと、そこには現在の『貴人(きじん)』から一階級上の、**『嬪(ひん)』**の位へ昇格させると記されていた。 「朱璃様、昇格おめでとうございます!」 「昨夜の剣舞、本当にかっこよくて、私、鳥肌が止まりませんでした! 剣がこう、キラーンって!」 部屋に入ってくるなり、小鈴(シャオリン)と春蘭(シュンラン)が大興奮で飛びついてくる。我がことのように涙ぐんで喜ぶ二人の姿に、朱璃は調子を狂わされ、頬をわずかに赤く染めて視線を彷徨わせた。 「……あ、ありがとう。大袈裟よ。ただ、生家の型を少し見せただけだから」 「大袈裟じゃありません! ねぇ春蘭、私たちも朱璃様みたいに凛とした強い女性になりたいですよね!」 「本当ですね。朱璃様、もしよろしければ、私たちにその……武芸というか、護身の術を教えていただけませんか?」 二人のきらきらとした真っ直ぐな瞳に見つめられ、朱璃は照れくさそうに頭を掻いた。 「……わかったわよ。貴方たちがそこまで言うなら、今度、基本の足捌きだけでも教えてあげるわ」 「やったー!」「ありがとうございます!」 と二人が歓声をあげた、その時。 延明宮の主殿から、麗華徳妃の使者がやってきた。 「徳妃様がお呼びです。すぐに本宮へお越しなさい」 と、冷たい声で告げられる。 (……やはり、面白いわけがないわね) 前座の分際で注目を集め、位まで上げてしまったのだ。また理不尽な嫌がらせや、きついお叱りを受けるのだろう。朱璃は内心でそう覚悟を決め、背筋を伸ばして麗華徳妃の部屋へと向かった。 「失礼いたします」 豪奢な部屋に入り、朱璃はいつも通り、麗華の前へと静かに跪いた。 上座に座る麗華は、高慢な態度で長い爪を弄んでいたが、朱璃が平伏すると、わざとらしく大きな溜息を一つ吐いた。 「……今回のそなたの振る舞い、まぁ、少しは我が延明宮の役に立ったと言ってあげてもよろしくてよ」 「え……?」 罵声を予想していた朱璃は、思わず小さく毒気を抜かれた声をあげた。 「勘違いしないでちょうだい! 皇后陛下がお褒めになったから、私も合わせてあげているだけよ。……ただ、お前が我が宮の雑用係であることに変わりはないのだから、そのことをしっかり心に留めておくことね!」 相変わらず突き放すようなツンとした物言い。だが、朱璃が 「失礼いたしました」 と少しだけ頭を上げると、麗華の顔はそっぽを向いていたが、その綺麗な耳の裏が、隠しきれずに真っ赤に染まっているのが見えた。 朱璃はハッとして、すぐに得心のいったような笑みを浮かべ、深く感謝の礼を伝えた。 「寛大なお言葉、恐れ入ります、徳妃様」 延明宮の本宮を離れ、自分の薄暗い離れへと戻る夜の道すがら。朱璃は心の中で小さく微笑んでいた。 (あの麗華徳妃様は……我儘でお嬢様だけれど、根っからの悪い方では無いのかもしれないな) ◇ 大きな祭りも終わり、後宮には再び、いつもの静けさが戻ってきた。 朱璃は『嬪』に昇格してからも、驕ることなくそれまで通りに過酷な雑用を黙々とこなした。周囲からは相変わらず「侍女同然の憐れな姫」に見えているだろうが、朱璃にとっては絶好の鍛錬であり、宮の偵察だ。 それに加え、夜には離れの庭で、約束通り小鈴と春蘭への「教育」を施すようになった。 「違う、腰が浮いているわ。もっと重心を下に落として」 「ひゃい! 難しいです、朱璃様!」 不器用ながらも必死についてくる二人の侍女。彼女たちとの絆は日ごとに深まり、朱璃は後宮の侍女たちの間で、今や絶大な信頼と憧れを集める存在になっていた。 そんな、ある深夜のこと。 侍女たちが寝静まり、静まり返った離れの裏庭。朱璃は一人、動きやすい白い単衣(ひとえ)姿になり、手にした木剣を夜風の中に振るっていた。 一太刀、二太刀。千涼祭を経て、さらに鋭さを増した神凪流の剣筋が、月光を綺麗に切り裂く。 ――その刹那。 朱璃の首筋の毛が、総立ちになった。 人の気配。それも、訓練された極めて密やかな、かすかな草の擦れる音。 武人としての本能が跳ね上がる。朱璃は躊躇うことなく踏み込み、音のした闇の方向へと、猛烈な速度で木剣を突き出した。 ヒュン、と風を切る音が響き、木剣の先端が、闇から現れた影の喉元、皮膚が一枚触れるかという極限の距離でピタリと止まる。 「おっと。……凄まじいな。寸止めでなければ、今ので俺の喉笛は砕けていた」 闇から姿を現したのは、一人の男だった。 仕立ての良い、上級の護衛武官のような衣服をまとった、体躯の優れた若い男。だが、後宮の近衛兵とは明らかに違う、底知れない、どこか裏の世界を歩く者のような独特の覇気を身に纏っている。 男は喉元に木剣を突きつけられたままでありながら、全く怯む様子もなく、不敵な笑みを浮かべてパチ、パチ、と静かに拍手を送ってきた。 「いやはや、驚いた。千涼祭での見事な剣舞、この目で見届けてはいたが……まさか、これほどの手練れとはな」 朱璃は木剣を引かず、刃のような鋭い視線で男を睨みつけたまま、低く冷たい声で問いかける。 「何者だ。ここは妃の領域。男が夜間に立ち入れば、いかなる理由があろうと死罪のはずだが」 男は朱璃の脅しを柳のように受け流し、さらに声を潜めて、月光の中で怪しく瞳を輝かせた。 「お前さん。それほどの本物の武才を、ただの『観賞用の舞』として、この狭い鳥籠の中で腐らせておくのは、いささか勿体ないとは思わないか?」 「……何が言いたい」 「我が主はね、表の近衛兵には任せられぬような、後宮の『裏の汚仕事』をこなせる、腕の立つ者を探していてな。……どうだ? 昼は『嬪』として静かにこの離れで爪を研ぎ、夜は『男装の護衛』として、俺たちの主の元でその力を振るってみる気はないか?」 「なっ……」 想定外の言葉に、朱璃は思わず息を呑み、突き出していた木剣の先をわずかに震わせた。 男の口から飛び出した、思いもよらない不穏な提案に、朱璃は眉をひそめて木剣を強く握り直した。 「馬鹿げたことを。お断りします。私はこれでも皇帝陛下にお仕えする妃の端くれ。護衛など……そんな真似、できるはずがありません」 真っ直ぐに拒絶する朱璃。しかし、男は緊迫した空気を楽しむように、うーん、と大袈裟に首を傾げてみせた。 「もったいないと思うんだけどなぁ。その腕、ここに隠しておくには本当に惜しい」 男はそこで一度言葉を区切ると、喉元に突きつけられた木剣から一歩、すっと後ろに下がって両手を軽くあげた。 「まぁ、今すぐ決めてほしいってわけじゃないからさ。急な話だったろ?」 不敵な笑みを深くした男は、そのまま一瞬で気配を消すように一歩後退する。 「また、近いうちに来るよ」 それだけ言い残すと、男はまるで初めからそこにいなかったかのように、音もなく夜の茂みの中へと消え去っていった。 朱璃はしばらくの間、男が消えた暗闇を木剣を構えたままじっと睨みつけていたが、やがて完全に気配が遠のいたことを確認し、ようやく深く、張り詰めていた息を吐き出した。 木剣を収め、静まり返った離れの部屋へと戻る。 月明かりだけが差し込む薄暗い部屋の中で、朱璃は己の手のひらを見つめた。 千涼祭の成功、そして『嬪』への昇格。後宮で生き残るための足がかりを得たと思った矢先に、投げかけられたあの言葉。 「……僕が、護衛?」 ぽつりと、誰もいない部屋で朱璃の口から漏れたのは、国にいた頃の、そして本来の自分のままである「僕」という一人称だった。 その言葉は、静かな夜の空気に溶けるように消えていく。 後宮の闇から突然現れた、謎の男。その奇妙な誘いが、朱璃をさらなる激動の運命――『男装の二重生活』へと引きずり込もうとしていた。ここまで読んでくださりありがとうございます! 夏の祭りといい、朱里の周りで起こる出来事が慌ただしいですね笑 男装護衛を果たして彼女はするのでしょうか? 次回以降をお楽しみに!
昨晩の暗殺未遂事件による緊迫した空気のまま迎えた、収穫祭の翌日。 後宮の大庭園にて、女人たちが集めたキノコ狩りの成果に対する授与式が執り行われていた。 後宮は男子禁制の聖域。かしこまる者たちの中に一般的な男子の姿はなく、控えているのは後宮専属の宦官たちと侍女のみ。 正面の玉座には、後宮の絶対的な支配者として君臨する皇后殿下が座し、そのさらに奥――薄い絹の簾(すだれ)の向こう側には、皇帝陛下が静かに事の始末を見守っていた。 皇后殿下の手によって妃嬪(ひひん)たちへ順に労いの言葉と褒美が授けられる中、最も多くのキノコを収穫した者として名が呼ばれたのは――延明宮(えんめいきゅう)所属の『朱璃(しゅり)』であった。 朱璃がその場に膝をつくと、玉座の皇后が悠然とした、しかし冷ややかな声を響かせた。 「九等嬪・朱璃。そなたの知識は、倭国の姫の名に相応しく立派であった。よってそなたには、これを授ける。」 恭しく捧げ持たれたのは、後宮の厨房を管理する『御厨(みくりや)の技師資格』の札。一見すると誉れ高く見えて、実質は「姫の身分でありながら、厨房の下働きのと同等」と暗に侮辱する、皇后らしい冷酷な品であった。 「……ありがたき幸せにございます。」 朱璃が深く頭を下げると、その横に控えていた魏淑妃(ぎしゅくひ)が、扇子で口元を隠しながら甲高い笑い声を上げた。 「あら、さすが自然豊かなところで育った姫様だこと。皇后様の慈悲に感謝するのよ? ――ふふ、私からも、延明宮の主である鳳得妃(ほうとくひ)様の顔を立ててあげるために贈り物を渡すわ。ほらこれよ。」 淑妃の侍女が不気味な笑みを浮かべ、朱璃の前に差し出したのは、埃をかぶった正体不明の古びた木箱であった。中から何とも言えぬ嫌な気配が漂うそれを目にして、淑妃は目を細めて囁く。 「貴女なら使えるのではなくて? ……クスッ。」 得妃の名を引き合いに出しつつ、怪しげなガラクタを押し付ける露骨な嫌がらせ。周囲の妃たちが忍び笑いを漏らす中、朱璃は眉一つ動かさず、静かに拝礼した。 「……淑妃様のお心遣い、恐悦至極にございます。」 * 延明宮へ戻るや否や、爆発したのは鳳 麗華(レイファ)様であった。 「なによあの女たち! 皇后様まで朱
――太子殿下、襲撃。 その衝撃的な噂は、夜が明ける頃にはすでに王宮内を文字通り震撼させていた。当然、朱璃(しゅり)の住まう延明宮(えんめいきゅう)も例外ではない。 「朱璃様! 昨日、本当は何があったのですか!? 狩りが途中で中止になるなんて前代未聞です。」 「そうですよ朱璃様! 巷では太子殿下が暗殺されかけたなんて恐ろしい噂まで飛び交っていて……!」 翌朝、自室で身支度を整えていた朱璃は、春蘭(シュンラン)と小鈴(シャオリン)の二人から、文字通り詰め寄られていた。いつになく必死な形相の二人に、朱璃は困ったように微笑みながらも、兜の奥の「高 漣(ガオ・レン)」としての顔を崩さないよう、努めて冷静に言葉を返した。 「大丈夫よ、二人とも。色々あったけれど、太子殿下はかすり傷一つ負わずにご無事だから。私はただ、近衛として当然の務めを果たしただけ。」 「当然の務めって……朱璃様、また何か無茶をしたんじゃないですよね?」 少鈴が心配そうに疑わしげな目を向けるが、朱璃は 「さあ、どうかしら。」 と、はぐらかすようにお茶を濁した。表向きはまだ、一介の見習い近衛がたまたまその場に居合わせたことになっている。しかし、その「たまたま」がどれほどの神業であったかを知る者たちの間では、すでに別の嵐が巻き起こっていた。 * 同時刻、太子・劉 瑛良(エイラ)の住まう『清耀宮(せいようきゅう)』の一室。 次期皇帝の宮にふさわしい清廉で美しい佇まいとは裏腹に、そこには昨晩の襲撃についての事後処理に追われる、緊迫した空気が漂っていた。白鑾衛(はくらんえい)の趙 延峰(チャオ・エンフォン)隊長を伴った太子・瑛良の元へ、のっそりと、しかし強烈な覇気を纏った男が乗り込んできた。 第二皇子・劉 瑛凱(エイガイ)である。その背後には、いつもと変わらぬ涼しい顔をした梁 雲雀(ユンケ)が影のように従っていた。 「なんだアニキ、無事で何よりだ。――で、どうだった? 俺が直々に送り込んだ『お気に入り』は。ちゃんと役に立っただろ?」 瑛凱は部屋の椅子にどかりと腰掛け、兄の無傷な姿を見て不敵に笑った。 その言葉に、太子・瑛良は驚いたように目を丸くし、それから全てが合点がいったように苦笑を漏らした。 「……なるほど、そういうことか。趙隊長が『驍駿宮
「――敵襲ッ!! 太子殿下をお守りせよ!!」 渓谷に響き渡った悲鳴と同時に、夜闇の奥から無数の黒い矢が牙を剥いた。それと同時に、草むらから黒装束の集団が抜刀して躍り出てくる。狙いはただ一人、白馬の上の太子・劉 瑛良(エイラ)だ。 「防陣を組め! 太子殿下の前に出ろ!」 白鑾衛(はくらんえい)の趙 延峰(チャオ・エンフォン)隊長が怒号を上げるが、乱入してきた刺客の剣部隊に応戦するため、近衛たちの防壁はどうしても左右に分散せざるを得なかった。 その隙を突くように、二の矢、三の矢の豪雨が太子の無防備な頭上へと降り注ぐ。近衛たちが一瞬の動揺に身をすくませる中、警護陣 of 末席にいた『高 漣(ガオ・レン)』 ――朱璃(しゅり)の身体は、思考よりも先に動いていた。 地を蹴り、弾かれた弾丸のように太子の前へと割り込む。 ザシュッ、ギィンッ! と、夜闇の中で火花が散った。朱璃は腰の刀を極限の速さで引き抜き、衣服をかすめるほどの精密さで、太子へと殺到する矢を次々と叩き落としていく。 だが、敵の狙いは矢だけではなかった。 (――後ろ!?) 朱璃の武人としての鋭敏な五感が、太子の真後ろから迫る尋常ならざる殺気を捉えた。一人の刺客が、他の近衛たちの目を盗んで完全に太子の死角へと回り込み、その背中に向けて鋭い突きを放とうとしていたのだ。 上空からは未だに矢の雨が降り注いでいる。矢を捌きながら、背後の敵も止めなければならない。 「太子殿下、その場から動かないでください!!」 朱璃は鋭い叫び声を上げると同時に、太子の馬の腹を掠めるようにしてその背後へと跳んだ。 キィィィィィンッ!!! 渓谷に、鼓膜を震わせるような激しい金属音が響き渡る。朱璃の放った一撃が、太子の背中に届く寸前で刺客の刃を力任せに弾き返したのだ。 そのまま二の太刀、三の太刀と激しい火花が散る。朱璃は近衛刀一本で迫り来る刃を受け流すが、刀身から伝わる重い衝撃に、わずかに眉をひそめた。 (……この男、強い。ただの捨て駒の刺客じゃない。完全に人を殺し慣れている手練れだわ……!) 朱璃の猛攻を受けながらも、刺客は不気味なほど冷静に刃を返してくる。朱璃は乱れる風の音の中に、再び上空から迫る風切り音を聞いた。さらに弓矢
「――あの、瑛凱(エイガイ)殿下。私は弓の扱いにはあまり慣れていないのですが、そのような私が狩りのお供などしても宜しいのでしょうか?」 驍駿宮(ぎょうしゅんきゅう)の執房。差し出された偽の通行証を前に、朱璃(しゅり)は少し困ったように眉を下げて問いかけた。倭国(日本)にいた頃、一通りの武芸は叩き込まれたものの、大国である龍蘭(りゅうらん)帝国の本格的な狩猟に「見習い近衛」として同行するとなれば、勝手が違うかもしれないという、もっともな懸念だった。 しかし、それを聞いた第二皇子・劉 瑛凱は、一瞬の静寂のあと、椅子から転げ落ちんばかりに大笑いした。 「ははははは! 面白いことを言うお妃様だ! お前が弓は苦手だと?」 瑛凱は不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。 「だが、武家の娘だ。それなりにはできるだろう。……おい雲雀(ユンケ)。そのへんの庭でお相手してやれ。高(ガオ)見習いの『不慣れ』がどの程度のもんか、俺に直接見せてみろ」 「いやあ、殿下も人使いが荒い。では高見習い、まずは僕が放つ矢を避けてみてください。そのあと、僕を目掛けて射返してくれればいいですからね」 そう言って、普段の典衛(てんえい)としての柔和な笑みを浮かべたのは、梁 雲雀だった。しかしその裏の顔は、裏の隠密組織を統括する『武衛典侍(ぶえいてんじ)』。彼もまた、朱璃の実力を測るためにその細い目を怪しく光らせていた。 夜の驍駿宮の庭。松明の灯りだけが揺れる静寂の中、朱璃は近衛の練習用の弓を手に、雲雀と対峙した。 雲雀が 「いきますよ」 と告げた瞬間――空気が爆ぜた。 雲雀が放った目にも留まらぬ速さの木矢を、朱璃は身体をわずかに捻るだけで完璧にかわし、同時に自身の弓を引き絞って矢を放つ。夜闇を切り裂くような鋭い風切り音が響き、雲雀の頬をかすめて背後の木々へと、寸分の狂いもなく突き刺さった。 「おっと、危ない……!」 雲雀は本気の目になり、さらに二の矢、三の矢を連続で放つが、朱璃はそれらすべてを最小限の動きで見切り、逆に雲雀の足元や肩口ギリギリを正確に射抜いていく。 「そこまで」 特等席で観戦していた瑛凱が、満足げに手を叩いた。 「素晴らしいな。お前の『不慣れ』は、俺の宮の並の近衛を数人まとめて撃ち抜ける
驍駿宮(ぎょうしゅんきゅう)から戻った翌朝、朱璃(しゅり)は自身の離宮の奥の間へと、小鈴(シャオリン)と春蘭(シュンラン)の二人だけを呼び寄せた。他の女人や侍女たちを完全に下がらせ、部屋の扉をきっちりと閉める。 普段とは違う主のただならぬ雰囲気に、二人は緊張した面持ちで固まっていた。「二人によく聞いてほしいことがあります。――これから私は夜の間だけ、後宮を抜け出し、第二皇子・瑛凱(エイガイ)殿下の元で『高 漣(ガオ・レン)』という名の見習い近衛として働くことになりました」 その言葉が落ちた瞬間、小鈴は「ひゃぅっ!?」と短い悲鳴を上げて口を塞ぎ、昨晩の不穏な空気を肌で知っている春蘭は、驚きに目を見開いた。「な、何をおっしゃるのですか朱璃様……! バレたら死罪です、いえ、それどころか我が国との外交問題にも……!」「朱璃様のお体が心配ですっ!夜までそんな男たちに混ざって戦うなんて、もしお怪我をされたらどうしたらいいんでしょう……!」 口々に不安と心配を募らせる二人に、朱璃は優しく両手を差し伸べ、その手をそっと握りしめた。「心配をかけてごめんなさい。でもね、私はやっぱり、ただの飾り物として鳥籠の中にいるだけの人生は嫌なの。これは私の意志よ。……後宮で、そしてこれから始まるであろう激動の中で生き残るために、私にはこの力が必要なの。お願い、二人の協力が必要不可欠なのよ」 真っ直ぐな朱璃の瞳。その強い覚悟に射抜かれ、小鈴と春蘭は互いに顔を見合わせた。やがて、二人は涙をグッと堪え、同時に深く頭を下げた。「……朱璃様がそこまでお決めになられたのでしたら、私たちはどこまでもお供いたします」「夜間のアリバイは、私たちが命に代えてもお守りします。朱璃様のお心のままに……!」 こうして、朱璃の超過酷な二重生活の幕が切って落とされた。 それからの日々は、目まぐるしいほどの忙しさだった。 昼間は、麗華徳妃に頻繁に本宮へと呼び出され
使者の男に導かれ、朱璃(しゅり)は延明宮の勝手知ったる華やかな回廊を離れ、王宮のさらに奥深くへと歩みを進めていた。 後宮を区切る重厚な門をくぐり、政治の表舞台である外廷エリアへ。その一角にある、成人した皇子たちが居を構える宮殿の一つ――第二皇子、劉 瑛凱(リウ・エイガイ)の住まう『驍駿宮(ぎょうしゅんきゅう)』が、今回の目的地だった。 お付きの侍女として連れてきた春蘭(しゅんらん)は、あまりの厳重な警備と張り詰めた空気に、生きた心地がしない様子で朱璃の斜め後ろを付いてきている。 やがて、驍駿宮の奥深くにある、一見すると何の変哲もない、しかし周囲に人の気配が一切ない不気味な一室の前へと辿り着いた。 「瑛凱皇子殿下。朱璃様をお連れいたしました」 使者の男が扉に向かって低く声をかける。 一瞬の静寂の後、奥から響いたのは、どこか気だるげで、それでいて不思議と耳に残る低音だった。 「――入れ」 朱璃は一度、後ろの春蘭を振り返った。怯える彼女を安心させるように小さく頷いて見せると、「ここで待っていなさい」 と静かに告げる。そして、引き締まった表情のまま、一人で部屋の扉を押し開けた。 「失礼いたします。第二皇子、瑛凱様に拝謁いたします」 入室するなり、朱璃はお妃様としての完璧な所作で膝を突き、深々と頭を下げた。 龍蘭(りゅうらん)帝国の第二皇子、劉 瑛凱。国民から「優しく賢いお兄ちゃん」として絶大に慕われている太子・劉 瑛良(リウ・エイラ)のすぐ下の弟であり、世間では「身の程をわきまえない、やんちゃでちゃらついた皇子」と噂されている人物だ。 「面を上げよ。そこに楽に座れ」 投げやりな声に促され、朱璃は静かに顔を上げた。 視線の先、豪華な椅子に浅く腰掛け、だらしなく片足をひじ掛けにかけながら、退屈そうに金の扇を弄んでいる若き皇子の姿があった。整った容姿にはどこか不真面目な笑みが浮かんでおり、噂通りのちゃらけた風情に見える。 ――しかし、朱璃の「武人の目」は騙せなかった。 (……見事な構えだわ) 朱璃は内心で息を呑んだ。 だらしなく座っている
神凪の屋敷の庭に、いつものように深い朝霧が立ち込めている。 つい昨日まで、この庭には木剣と木剣がぶつかり合う乾いた音が響いていた。手のひらを痺れさせ、腕を軋ませながら、父の重い一撃を必死に受け止めていたあの時間は、もうない。 代わりに、今朝の静寂を破って重々しく響くのは、旅支度をすべて終えた馬車の車輪が、湿った土を噛む音だけだった。 玄関先には、両親が並んで立っている。 父は武家としての威厳を保つように背筋を厳しく伸ばしているが、その瞳は朱璃を直視できず、どこか遠くの空を向いていた。その隣で、母は顔を伏せ、着物の袖口で小さく目元を幾度も拭っている。 ――家を、売る。 朱璃は
夕暮れの庭に、乾いた音が響いた。 木剣と木剣がぶつかり合い、火花の代わりに鋭い衝撃が空気を震わせる。「甘い」 低い声と共に、主人公の握る木剣が弾かれた。 手のひらが痺れる。 だが主人公――朱璃(しゅり)は、すぐに体勢を立て直した。乱れた呼吸を整えながら、再び父へ踏み込む。 夕日に照らされた長い黒髪が背中で揺れた。 本当なら、切ってしまいたい。 もっと短く。 弟のように。 そんな考えを振り払うように、朱璃は木剣を振るう。 しかし父の一撃は重い。 受け止めた瞬間、腕が軋み、木剣が地へ落ちた。 乾いた音が庭へ響く。「……参りました」 膝をつきながらそう言うと、父は