登入龍蘭帝国の容赦ない夏の陽射しを遮るように、夜空へ無数の火が放たれる。
後宮の夏を彩る壮大な大祭『千涼祭(せんりょうさい)』。涼を競う名目のもと、きらびやかに飾り立てられた池の上の特設舞台では、今夜も各宮の妃たちが競うように華美な衣装をまとい、優美な大陸の舞を披露していた。 その宴の最中、いよいよ前座として、延明宮の代表たる朱璃の名が呼ばれる。 春の『桃源節』では、地味で退屈な落第姫だと嘲笑された。主である麗華(レイファ)徳妃からも、あからさまな二度目の公開処刑としてこの舞台に立たされた。誰もが「あの倭国の不器用な姫が、また無様な姿を晒すのだろう」と、冷ややかな、あるいは娯楽を期待するような視線を向けている。 だが、舞台に上がった朱璃の姿に、まず広間が小さくどよめいた。 まとい慣れた、くすんだ藍色の衣装ではない。動きやすさを重視して仕立て直させた、薄衣の装束。髪は高く結い上げられ、その手には――月光を冷たく反射する、一振りの真剣が握られていた。 後宮の宴において、刃物の持ち込みは本来許されない。しかし、倭国の武家が「神に捧げる儀礼」として用いる、刃を潰した儀式用の神剣という名目で、朱璃はこの場に剣を持ち込む許可を強引に勝ち取っていた。 ――トォン、と太鼓の音が響く。 その瞬間、朱璃の身体が爆発的な速度で動いた。 それは、春に踊った静かな神楽舞とは完全に一線を画すものだった。倭国の神事のステップをベースにしながらも、その身のこなしに融合されているのは、父から骨の髄まで叩き込まれた『神凪(かんなぎ)流剣舞』。 抜き放たれた白刃が、夜空に冷烈な弧を描く。 しなやかに跳躍したかと思えば、鋭い踏み込みと共に剣が風を「烈(れつ)」と引き裂き、飛び散る火花を両断するかのように激しく煌めいた。音もなく着地する足捌き、目にも留まらぬ速さで繰り出される突きと斬撃。流れるような一連の動作の裏には、一撃で人の首を刈り取れるような、圧倒的な体幹の強さと鋭い殺気が孕まれていた。 美しくも、あまりに恐ろしい、命を削り合う戦場さながらの剣舞。 刃が空気を切り裂く風切音だけが響く広間は、水を打ったように静まり返った。 演舞が終わり、朱璃が剣を美しく鞘へと収め、深く一礼して舞台を降りても、しばらくの間、誰も声を出すことができなかった。 やがて、会場の評価は真っ二つに割れる。 「な、何ですか今の野蛮なものは……! 剣を振り回すなど、あんなものは舞ではありませんわ、まるで兵卒の演習のようではないですか!」 頭の硬い年配の貴族や高位の妃たちは、己の理解を超えた異質で鋭利な美に、不快そうに眉をひそめて扇を握りしめた。 しかし、その一方で。 「……素晴らしい。なんという無駄のない剣筋だ。刃の重さに全く振り回されていない」 列席していた前線の武官たちや、目の肥えた一部の者たちは、その圧倒的な技量に息を呑み、感嘆の声を漏らしていた。 影を歩く兵たちの目も釘付けにしている。そして玉座の近くに座る第三皇子リウ・タイランもまた、きつく結んだ唇の端をわずかに上げ、その鋭い瞳で、朱璃の剣を収める手元を焼き付けるように見つめていた。 何より、最も激しく心を揺さぶられたのは、後宮の最下層で日頃から抑圧されて生きている、他のお妃付きの若い侍女たちや、身分の低い下位の妃たちだった。 (かっこいい……) 男たちの顔色を窺い、媚びを売るためだけの舞が溢れる後宮の中で、剣を握り、凛として自立し、圧倒的な強さを見せつけた朱璃の姿。それは彼女たちの目に、暗闇に差す一筋の光のように映ったのだった。この夜を境に、後宮のあちこちで「倭国の朱璃様」を密かに慕うファン(草の根の味方)の土台が、確実に出来上がりつつあった。 ◇ 千涼祭が幕を閉じ、翌日。新入りの妃たちが皇后の前に呼び集められた。 それぞれが祭りの働きに応じた言葉を賜る中、朱璃は 「また皇后陛下に睨まれるか、あるいは無視されるか」 と内心で身構えていた。 皇后は、鳳凰の冠を戴く最高権力者は、老獪な微笑を浮かべて朱璃を見つめた。 「倭国の神凪の娘よ。昨夜の剣舞、実に見事でした。他の貴妃たちの華やかさとはまた違う、我が後宮に新たな風を吹き込み、背筋が伸びるような素晴らしい実力。感銘を受けましたよ」 麗華徳妃らの顔を立てて彼女たちを一番に褒めつつも、朱璃の突出した実力を無視せず、正当に評価してみせたのだ。 拝領の手続きを終え、あてがわれた離れに戻った朱璃が、渡された冊封を開くと、そこには現在の『貴人(きじん)』から一階級上の、**『嬪(ひん)』**の位へ昇格させると記されていた。 「朱璃様、昇格おめでとうございます!」 「昨夜の剣舞、本当にかっこよくて、私、鳥肌が止まりませんでした! 剣がこう、キラーンって!」 部屋に入ってくるなり、小鈴(シャオリン)と春蘭(シュンラン)が大興奮で飛びついてくる。我がことのように涙ぐんで喜ぶ二人の姿に、朱璃は調子を狂わされ、頬をわずかに赤く染めて視線を彷徨わせた。 「……あ、ありがとう。大袈裟よ。ただ、生家の型を少し見せただけだから」 「大袈裟じゃありません! ねぇ春蘭、私たちも朱璃様みたいに凛とした強い女性になりたいですよね!」 「本当ですね。朱璃様、もしよろしければ、私たちにその……武芸というか、護身の術を教えていただけませんか?」 二人のきらきらとした真っ直ぐな瞳に見つめられ、朱璃は照れくさそうに頭を掻いた。 「……わかったわよ。貴方たちがそこまで言うなら、今度、基本の足捌きだけでも教えてあげるわ」 「やったー!」「ありがとうございます!」 と二人が歓声をあげた、その時。 延明宮の主殿から、麗華徳妃の使者がやってきた。 「徳妃様がお呼びです。すぐに本宮へお越しなさい」 と、冷たい声で告げられる。 (……やはり、面白いわけがないわね) 前座の分際で注目を集め、位まで上げてしまったのだ。また理不尽な嫌がらせや、きついお叱りを受けるのだろう。朱璃は内心でそう覚悟を決め、背筋を伸ばして麗華徳妃の部屋へと向かった。 「失礼いたします」 豪奢な部屋に入り、朱璃はいつも通り、麗華の前へと静かに跪いた。 上座に座る麗華は、高慢な態度で長い爪を弄んでいたが、朱璃が平伏すると、わざとらしく大きな溜息を一つ吐いた。 「……今回のそなたの振る舞い、まぁ、少しは我が延明宮の役に立ったと言ってあげてもよろしくてよ」 「え……?」 罵声を予想していた朱璃は、思わず小さく毒気を抜かれた声をあげた。 「勘違いしないでちょうだい! 皇后陛下がお褒めになったから、私も合わせてあげているだけよ。……ただ、お前が我が宮の雑用係であることに変わりはないのだから、そのことをしっかり心に留めておくことね!」 相変わらず突き放すようなツンとした物言い。だが、朱璃が 「失礼いたしました」 と少しだけ頭を上げると、麗華の顔はそっぽを向いていたが、その綺麗な耳の裏が、隠しきれずに真っ赤に染まっているのが見えた。 朱璃はハッとして、すぐに得心のいったような笑みを浮かべ、深く感謝の礼を伝えた。 「寛大なお言葉、恐れ入ります、徳妃様」 延明宮の本宮を離れ、自分の薄暗い離れへと戻る夜の道すがら。朱璃は心の中で小さく微笑んでいた。 (あの麗華徳妃様は……我儘でお嬢様だけれど、根っからの悪い方では無いのかもしれないな) ◇ 大きな祭りも終わり、後宮には再び、いつもの静けさが戻ってきた。 朱璃は『嬪』に昇格してからも、驕ることなくそれまで通りに過酷な雑用を黙々とこなした。周囲からは相変わらず「侍女同然の憐れな姫」に見えているだろうが、朱璃にとっては絶好の鍛錬であり、宮の偵察だ。 それに加え、夜には離れの庭で、約束通り小鈴と春蘭への「教育」を施すようになった。 「違う、腰が浮いているわ。もっと重心を下に落として」 「ひゃい! 難しいです、朱璃様!」 不器用ながらも必死についてくる二人の侍女。彼女たちとの絆は日ごとに深まり、朱璃は後宮の侍女たちの間で、今や絶大な信頼と憧れを集める存在になっていた。 そんな、ある深夜のこと。 侍女たちが寝静まり、静まり返った離れの裏庭。朱璃は一人、動きやすい白い単衣(ひとえ)姿になり、手にした木剣を夜風の中に振るっていた。 一太刀、二太刀。千涼祭を経て、さらに鋭さを増した神凪流の剣筋が、月光を綺麗に切り裂く。 ――その刹那。 朱璃の首筋の毛が、総立ちになった。 人の気配。それも、訓練された極めて密やかな、かすかな草の擦れる音。 武人としての本能が跳ね上がる。朱璃は躊躇うことなく踏み込み、音のした闇の方向へと、猛烈な速度で木剣を突き出した。 ヒュン、と風を切る音が響き、木剣の先端が、闇から現れた影の喉元、皮膚が一枚触れるかという極限の距離でピタリと止まる。 「おっと。……凄まじいな。寸止めでなければ、今ので俺の喉笛は砕けていた」 闇から姿を現したのは、一人の男だった。 仕立ての良い、上級の護衛武官のような衣服をまとった、体躯の優れた若い男。だが、後宮の近衛兵とは明らかに違う、底知れない、どこか裏の世界を歩く者のような独特の覇気を身に纏っている。 男は喉元に木剣を突きつけられたままでありながら、全く怯む様子もなく、不敵な笑みを浮かべてパチ、パチ、と静かに拍手を送ってきた。 「いやはや、驚いた。千涼祭での見事な剣舞、この目で見届けてはいたが……まさか、これほどの手練れとはな」 朱璃は木剣を引かず、刃のような鋭い視線で男を睨みつけたまま、低く冷たい声で問いかける。 「何者だ。ここは妃の領域。男が夜間に立ち入れば、いかなる理由があろうと死罪のはずだが」 男は朱璃の脅しを柳のように受け流し、さらに声を潜めて、月光の中で怪しく瞳を輝かせた。 「お前さん。それほどの本物の武才を、ただの『観賞用の舞』として、この狭い鳥籠の中で腐らせておくのは、いささか勿体ないとは思わないか?」 「……何が言いたい」 「我が主はね、表の近衛兵には任せられぬような、後宮の『裏の汚仕事』をこなせる、腕の立つ者を探していてな。……どうだ? 昼は『嬪』として静かにこの離れで爪を研ぎ、夜は『男装の護衛』として、俺たちの主の元でその力を振るってみる気はないか?」 「なっ……」 想定外の言葉に、朱璃は思わず息を呑み、突き出していた木剣の先をわずかに震わせた。 男の口から飛び出した、思いもよらない不穏な提案に、朱璃は眉をひそめて木剣を強く握り直した。 「馬鹿げたことを。お断りします。私はこれでも皇帝陛下にお仕えする妃の端くれ。護衛など……そんな真似、できるはずがありません」 真っ直ぐに拒絶する朱璃。しかし、男は緊迫した空気を楽しむように、うーん、と大袈裟に首を傾げてみせた。 「もったいないと思うんだけどなぁ。その腕、ここに隠しておくには本当に惜しい」 男はそこで一度言葉を区切ると、喉元に突きつけられた木剣から一歩、すっと後ろに下がって両手を軽くあげた。 「まぁ、今すぐ決めてほしいってわけじゃないからさ。急な話だったろ?」 不敵な笑みを深くした男は、そのまま一瞬で気配を消すように一歩後退する。 「また、近いうちに来るよ」 それだけ言い残すと、男はまるで初めからそこにいなかったかのように、音もなく夜の茂みの中へと消え去っていった。 朱璃はしばらくの間、男が消えた暗闇を木剣を構えたままじっと睨みつけていたが、やがて完全に気配が遠のいたことを確認し、ようやく深く、張り詰めていた息を吐き出した。 木剣を収め、静まり返った離れの部屋へと戻る。 月明かりだけが差し込む薄暗い部屋の中で、朱璃は己の手のひらを見つめた。 千涼祭の成功、そして『嬪』への昇格。後宮で生き残るための足がかりを得たと思った矢先に、投げかけられたあの言葉。 「……僕が、護衛?」 ぽつりと、誰もいない部屋で朱璃の口から漏れたのは、国にいた頃の、そして本来の自分のままである「僕」という一人称だった。 その言葉は、静かな夜の空気に溶けるように消えていく。 後宮の闇から突然現れた、謎の男。その奇妙な誘いが、朱璃をさらなる激動の運命――『男装の二重生活』へと引きずり込もうとしていた。ここまで読んでくださりありがとうございます! 夏の祭りといい、朱里の周りで起こる出来事が慌ただしいですね笑 男装護衛を果たして彼女はするのでしょうか? 次回以降をお楽しみに!
神凪朱璃(しゅり)が九等嬪から一気に『七等嬪』へと飛び級昇格を果たしてから数日。延明宮(えんめいきゅう)は、どこか浮き立ったような華やいだ空気に包まれていた。「麗華様、朱璃様! 内務府の太監様より、お二人の日頃の慰労と昇格のお祝いにと、結構なお品が届きましたよ!」 無邪気な声をあげて部屋へ入ってきたのは、離宮の若い侍女たちだ。うやうやしく掲げられた塗りの盆には、見たこともないような豪勢な銘菓と、色鮮やかな茶葉の詰まった壺が載せられていた。「あら、内務府から……? 珍しいこともあるものね。」 離宮の主である麗華は嬉しそうに目を細め、側近の翠蘭(スイラン)へ目配せをする。「翠蘭、せっかくのお心遣いだもの。皆でいただきましょう。お茶を淹れてちょうだい。」「かしこまりました、麗華様。」 手際よくお湯が注がれると、壺の中から取り出された茶葉がふわりと湯の中で広がった。その中には、乾燥された可憐な紫色の花びらや生薬が混ざっており、部屋中に甘く華やかな香りが満ちていく。(……内務府の太監が、わざわざ延明宮にこんな豪華なお祝いを……?) 侍女たちが「なんて綺麗なお茶!」と歓声をあげる中、朱璃だけは笑顔の裏で静かに眉の根を寄せた。前夜、正任近衛・高(ガイ)として瑛凱(エイガイ)殿下と密談した際、太監長をはじめとする内務府が皇后派の手先として動く危険性を確認したばかりだ。 やがて、淹れ立てのお茶が運ばれてくる。主である麗華が杯を口にする前に、長年の慣例に従って側近の翠蘭が一口含み、毒味を行った。「……とても香り高く、まろやかなお味でございます、麗華様。」 微笑みながら杯を置いた翠蘭。しかし、次の瞬間だった。「つ……っ!?」「翠蘭……?」 突如として翠蘭が胸をかきむしり、その場に激しく膝をついた。顔からは一瞬で血の気が引き、唇がみるみるうちに紫へと変色していく。
夜の静寂が、重々しく王宮全体を包み込んでいた。 月明かりが石畳を照らす中、巡回を行う近衛兵の靴音や夜警の拍子木が遠くで規則的に響いている。 神凪朱璃(しゅり)は、男装の衣装――『正任近衛・高(ガイ)』の装いに身を包み、堂々とした足取りで通路を歩いていた。王宮全域を守る近衛兵の中でも、見習い時代に第二皇子・瑛凱(エイガイ)殿下が居住する『驍駿宮(ぎょうしゅんきゅう)』周辺の警備部隊に配属されていた朱璃は、このあたりの巡回ルートや警備の隙を熟知している。さらに正任近衛となった今では、夜間に王宮内を移動していても怪しまれることはない。 すると、前方の角から松明を持った数人の近衛兵が歩いてくるのが見えた。朱璃が足を止めると、その先頭にいた見回り隊の隊長――張文(チャン・ウェン)部隊長が目を留めた。 「む、高(ガイ)か。」 「張部隊長。夜間の巡回、お疲れ様です。」 朱璃がすっと背筋を伸ばして礼をとると、張部隊長は満足そうに頷き、その肩をぽんと力強く叩いた。 「見習いを卒業して正任になったそうだな。お前の腕と判断力なら当然だ。ますますの活躍を期待しているぞ。」 「ありがたき幸せにございます。」 部隊長率いる隊がすれ違いざまに去っていくと、その隊の末尾にいた見習い時代の同期――気心知れた見習い近衛の友人二人組が、隊列から少し遅れて朱璃の元へニヤニヤしながら駆け寄ってきた。 「おいおい、相変わらず張部隊長からの受けがいいなぁ、漣(レン)!」 「本当だよ。正任昇格、おめでとう! さすが漣だな!」 声をかけてきたのは、華やかな顔立ちで優しい**明俊(ミンジュン)と、気さくで明るい永和(ヨンファ)**の二人であった。朱璃は苦笑いを浮かべながら声を潜めた。 「声が大きいよ、ふたりとも。……ありがとう。二人もじきに正任になれるさ。」 「へいへい。まあ俺たちはボチボチやるよ。……あ、そういえばお前、こんな時間に何してるんだ?」 永和が不思議そうに首をかしげると、朱璃はごく自然な様子で小さく微笑んで見せた。 「少し寝つけなくてな。夜風に当たるついでに、散歩がてら見回りをしていたんだ。」 「うわー、流石は正任の漣様だねぇ! 俺たちも一回でいいから『散歩がてら見回り』なんて格好いいこと言ってみてぇ
神凪朱璃(しゅり)の「九等嬪から七等嬪への飛び級昇格」という破格の沙汰は、瞬く間に後宮中を駆け巡った。 「朱璃様。七等嬪への昇格、本当におめでとうございます!」 「ふふ、あの皇帝陛下に認められて飛び級だなんて、後宮の歴史に残る快挙ですわね。」 華やかな彩りに満ちた宮殿で朱璃を迎えたのは、貴妃・蓮華(レンカ)様、賢妃・玲鳳(レイホウ)様、そしてもちろん主である麗華(レイファ)様であった。 二人は朱璃の快挙を心から祝福し、貴妃主催のお祝いの茶会を開いてくれたのだ。テーブルには、最高級のシルクの反物や、朱璃が好みそうな珍しい薬草・極上の茶葉といった豪華な祝いの品々が並べられている。 「お二人からの温かいお心遣い、身に余る光栄にございます。……ですが、私の方が位が下でございますのに、皆様に『朱璃様』と呼ばれるのは少し恐れ多く……。」 申し訳なさそうに遠慮する朱璃に、三人はそれぞれの反応を見せる。 「良いのですよ! あなたの淹れてくださるお茶やお菓子、知識には心から敬意を払っておりますの。私にとっては『朱璃様』ですわ。」 「ええ、位など関係ありません。私もそう呼びたいから呼んでいるだけですもの。」 上品に微笑む賢妃様と貴妃様。すると、横で聞いていた麗華様がパッと扇子を広げ、鼻息を荒くした。 「だ、ダメに決まっているでしょうお二人とも! 朱璃は私の延明宮の妃なのですからね! 私以外が気安くそんな……っ、でも、朱璃がすごいのは本当だから。……ふんっ、今回だけは許してあげますわ!」 相変わらずのツンデレを発揮する麗華様に、貴妃様たちは 「ふふっ。」 と笑い声を漏らす。 「いいのですよ、麗華様。困らせてしまい申し訳なかったわね。……それにしても、あの皇后派の苦々しい顔といったら…。…思い出すだけで胸がすくわ。」 悪戯っぽく微笑む貴妃様。楽しい時間はあっという間に過ぎ――。 「それじゃあ、そろそろお開きにしましょうか。朱璃様、またお茶会にご一緒していただけるかしら?」 「もちろんでございます、貴妃様。光栄に存じます。それでは、失礼いたします。」 朱璃はお暇の挨拶を静かに告げ、麗華様と共に離宮へと戻っていった。 * 離宮へ戻ると、留守番をしていた小鈴(シャオリン)が出迎えた。お祝いの品の豪華さに、
皇帝の重々しい一言が落ちた謁見の間。 息を呑むような静寂と張り詰めた空気の中、皇帝はそれ以上多くを語ることなく、静かに手元の杯を置いた。 「……見事であった。下がってよい。」 「はっ。身に余る光栄にございます。失礼致します。」 朱璃(しゅり)は静かに平伏すると、一切の乱れを見せない洗練された動作で立ち上がり、謁見の間を辞した。 その背中を見送りながら、玉座の横に座る皇后は (ふん……別に褒めそやされたわけでもない。ただ一言、気まぐれに言葉を賜っただけではないか) と、胸を撫でおろしつつ冷ややかな鼻笑いを漏らすのだった。 * 「朱璃! どうだったの!?」 「朱璃様! お咎めはございませんでしたか!?」 延明宮(えんめいきゅう)へ戻るなり、待たされていた麗華(レイファ)様をはじめ、小鈴(シャオリン)や翠蘭(スイラン)たちが一斉に駆け寄ってきて朱璃を取り囲んだ。 口々に問い詰めてくる皆に、朱璃が困ったように微笑みながら 「『見事であった、下がってよい。』とのお言葉をいただきました。」 と経緯を話すと、麗華様はほっと胸を撫でおろし、パッと扇子を広げた。 「……まあいいわ! 何も咎められず、皇帝陛下にお茶を召し上がっていただけただけでも上出来ですもの! よく頑張ったわね、朱璃!」 そこへ、侍女頭の桂花(ケイカ)が呆れたようにパンパンと手を叩きながら間に入ってきた。 「これこれ、みなさん。朱璃様がお困りですよ。お聞きしたい気持ちは分かりますが、無事に戻られたのですから少し休ませて差しあげなさい。」 桂花に窘められ、 「はーい……」 と散っていく侍女たち。そんな賑やかで和やかな時間を過ごし、その日は何事もなく平和に過ぎていった。 * ――翌朝。 朱璃が朝の支度をしながら、小鈴や春蘭(シュンラン)と昨日の謁見の思い出話をしていたときのことである。 バタバタバタッ! と廊下を激しい足音が駆け抜けてきた。 「し、朱璃様! 大変です、お客様がお見えです! 急いでお越しください!」 息を切らした侍女が飛び込んでくるなり叫んだ。 何事かと驚きつつも急いで支度を整え、朱璃たちが広間へと向かうと――そこではすでに麗華様がいつになくキリッとした表情で侍女たちにテキパキと指示を出
前夜の極秘の密会を無事に終え、朝を迎えた朱璃(しゅり)。 主である麗華(レイファ)様の元へ向かうと、案の定、麗華様は昨日の貴妃・賢妃との会話を思い出しては、気分が落ち着かないかのようにソワソワしていた。 「もうっ! 今日もあの二人のお姉さま方に朱璃を連れ回されたらどうしましょう。……朱璃は私の延明宮の九等嬪なのですからね!」 「ふふ、麗華様。そんなに怒られず、どうぞお気を鎮めてくださいませ。」 朱璃はくすりと微笑みながら、湯気の立ち上る淹れたてのお茶を麗華様の杯へと静かに注ぐ。 香り高いお茶の匂いが部屋に広がる中、朱璃は言葉を続けた。 「貴妃様と賢妃様お2人ともお茶の伝統や薬効に関心をお持ちなだけですわ。」 「そんなこと絶対にないわ! あの二人も朱璃の魅力に気づいたのよ。……絶対そうよ……!」 お茶を受け取りつつも、「私の朱璃」が他のお姉さま方に奪われてしまうかもしれない焦りから、キッと目を巡らせておこる麗華様。 そんな主の横で、専属侍女の翠蘭(スイラン)が 「まあまあ、麗華様……。朱璃様が他宮のお方からも高く評価されるのは、私共にとっても大変誇らしいことでございますよ。」 と苦笑しながら優しく宥めた。 そんな賑やかな朝のひとときを打ち破るように、宮の外から重々しい足音が近づいてきた。 現れたのは、皇帝直属の太監(たいかん)――侍従長であった。 「――九等嬪・朱璃に、皇帝陛下より勅命である!」 太監の甲高い声が響き渡り、一瞬で延明宮の空気が凍りついた。小鈴(シャオリン)はガタガタと震え出す。 「此度の茶会の噂、陛下の耳にも届いておられる。『泰然(タイゼン)王子を感銘せしめた倭国の茶と菓子を、直ちに御前(ごぜん)にて披露せよ』とのこと。急ぎ道具を整え、謁見の間へ参られたい。」 「えぇっ……。皇帝陛下からのお呼び出しですか!?」 驚く小鈴を余所に、パッと扇子を広げた麗華様は、待ってましたと言わんばかりに誇らしげに胸を張った。 「ふふん、当然ですわ! 朱璃の淹れるお茶やお菓子が世界一なのですから、皇帝陛下がお聞きつけになるのも時間の問題でしたのよ! ほら見なさい、私の朱璃が認められたのですわ!」 パッと扇子を広げて自慢げに胸を張る麗華様。周
「母上! あのような素晴らしいお茶や菓子を作れる朱璃殿が、なぜ九等嬪のままなのですか!? 父上もです! お二人はあの方の凄さを何もお分かりになっておられません!」 茶会が明けた翌日。皇后の宮には、興奮冷めやらぬ第3王子・泰然(タイゼン)殿下の叫び声が響き渡っていた。 「た、泰然……! なにを大声で言い出すのです、おやめなさい!」 「やめません! 私は……私は幼い頃から、倭国の朱璃殿が自分の婚約者になると聞いてずっと楽しみにしておりました! それなのに、いざ後宮へお迎えしてみれば九等嬪の雑用扱いだなんて、あまりに酷すぎます! なぜ私の大切な方をそのような扱いにされるのですか!?」 真っ直ぐな瞳に涙を浮かべんばかりにして、幼い頃からの憧れの姫への情熱と怒りを親にぶつける泰然殿下。 まさか自分の息子からそこまで痛烈に問い詰められるとは思ってもいなかった皇后は、動揺を隠せない。 (くっ……よりによって、この子があの倭国の姫にここまで執着していたなんて……!) 朱璃をハメようと意地悪く罠を仕掛けたはずが、かえって大事な息子の反抗期を引き起こし、隠していた不遇な扱いまで暴露されてしまったのだ。皇后は焦りを隠すように扇を固く握りしめ、厳しく言葉を返した。 「泰然、口を慎みなさい! どのような経緯があろうとも、一度後宮に入宮した者はすべて皇帝陛下の妃なのです。あなたが口を挟むことではありません!」 「ですが――っ!」 「泰然、貴方っ!」 「よい、皇妃。」 親子の激しい喧嘩を制したのは、それまで静観していた皇帝の重厚な声だった。 皇帝はあごに手を当て、どこか感心したように泰然を見つめる。 「ふむ……。そういえば倭国の九等嬪は、元はお前の婚約者として召し出された姫であったな。……泰然がそこまで熱弁を振るうほどのお茶と菓子か。一度、私も味わってみたいものだな」 「あ、えっと……父上……!」 「陛下……!?」 息子の一途な怒りと、それによって「朱璃」という存在に強い興味を抱いた皇帝。 皇后は自らの罠が完全に裏目に出て、息子にも夫にも朱璃の存在感を植え付けてしまったことに、ぐぬぬと唇を噛み締めて歯噛みするしかなかった。 さらに泰然殿下は、その日、同年代の幼い貴族や家臣たちにも 「朱璃殿の『くず餅』と茶は世界一な
神凪の屋敷の庭に、いつものように深い朝霧が立ち込めている。 つい昨日まで、この庭には木剣と木剣がぶつかり合う乾いた音が響いていた。手のひらを痺れさせ、腕を軋ませながら、父の重い一撃を必死に受け止めていたあの時間は、もうない。 代わりに、今朝の静寂を破って重々しく響くのは、旅支度をすべて終えた馬車の車輪が、湿った土を噛む音だけだった。 玄関先には、両親が並んで立っている。 父は武家としての威厳を保つように背筋を厳しく伸ばしているが、その瞳は朱璃を直視できず、どこか遠くの空を向いていた。その隣で、母は顔を伏せ、着物の袖口で小さく目元を幾度も拭っている。 ――家を、売る。 朱璃は
夕暮れの庭に、乾いた音が響いた。 木剣と木剣がぶつかり合い、火花の代わりに鋭い衝撃が空気を震わせる。「甘い」 低い声と共に、主人公の握る木剣が弾かれた。 手のひらが痺れる。 だが主人公――朱璃(しゅり)は、すぐに体勢を立て直した。乱れた呼吸を整えながら、再び父へ踏み込む。 夕日に照らされた長い黒髪が背中で揺れた。 本当なら、切ってしまいたい。 もっと短く。 弟のように。 そんな考えを振り払うように、朱璃は木剣を振るう。 しかし父の一撃は重い。 受け止めた瞬間、腕が軋み、木剣が地へ落ちた。 乾いた音が庭へ響く。「……参りました」 膝をつきながらそう言うと、父は