ログイン秀明は、息子のことを誰よりもよく分かっていた。縁談を持ちかけたことがないわけではない。紹介した女性も、家柄と容姿が申し分のない名家の令嬢ばかりだった。それなのに、息子はことあるごとに細かく条件をつけ、あれこれ選り好みしては、結局首を縦に振らなかった。しまいには、父親である秀明のほうが息子の結婚問題について諦めの境地に入ってしまったほどだ。生涯独身になるのは自分ではないのだから。「もしかしたら、私が紹介した相手ならお兄さんも気に入ってくれるかもしれませんよ?」由奈はくすりと笑った。「ほう?」秀明は途端に興味を示す。「それはどこの家のお嬢さんだ?仕事は何をしている?」「今はM国で留学していて、美術を専攻しているんです。ただ、裕福な家庭のお嬢様というわけではありません。出身は江川市で、お父さんは大学教授です」「大学教授か……それはいいね」秀明は納得したように頷いた。「お父さんが教授なら、いわゆる学者の家柄と言えるだろう。家柄に問題がなく、人柄もしっかりしていて、それから何より大事なのは、智宏が気に入ってくれること。そこさえ問題なければ十分だ」「じゃあ、この話がうまくいったら、今度はお義姉さんを連れて帰国して、お父さんに会わせますね」そう言って、由奈は電話を切った。通話を終えても、秀明はしばらく呆然としていた。お茶を淹れていた執事は、主人が何やら困惑した表情を浮かべているのに気づき、思わず尋ねる。「旦那様、お嬢様は何とおっしゃっていたのですか?」秀明は笑い出した。「あの子が智宏に恋人を紹介しようとしてるんだよ。しかも、まるで本当にうまくいくみたいな口ぶりで……智宏の性格を知らないわけでもないのに」半ば冗談めかして続ける。「あいつを説得するのがどれだけ大変か……由奈が無駄骨を折ることにならなければいいがな」「お嬢様なら坊ちゃんの心を動かせるかもしれませんよ」秀明はティーカップを手に取り、一口飲む。「そんなにうまくいくかな?」「お嬢様が戻ってきてからというもの、坊ちゃんがずいぶん変わられたように思えます。お嬢様のためなら、以前は政略結婚まで受け入れようとなさったではありませんか」その話を聞いた秀明は、小さくため息をついた。「兄妹の絆が深いことは分かっている。だが、私はな……智宏の隣に立つ相手は、あい
ミシェルは由奈を見ると微笑んだ。「迎えが来たみたいですね。それじゃ、私はこれで」由奈はうなずいた。「お疲れ様でした」ミシェルを見送ってから、由奈は少し離れた場所に停まっている車へ向かう。卓巳はすぐに一歩下がり、後部座席のドアを開けて恭しく手で促した。「どうして私がこの辺にいるって分かったんですか?」由奈は祐一の隣に腰を下ろし、首をかしげる。祐一はスマホをしまいながら答えた。「研究所の人に聞いた」「え?研究所へ行ってたの?」「そうだ」祐一は由奈の手の甲をそっと包み込むと、その手を自分の胸元へ導いた。「最近、仕事で相当無理をしてるだろ」由奈は一瞬きょとんとしたあと、思わず吹き出した。「最近のあなた、ちょっと調子が狂うんだけど」祐一は目を細める。「じゃあ、前の俺ならなんて言う?」由奈は真面目な顔を作り、祐一の口調を大げさに真似した。「『由奈、お腹には俺たちの子どもがいることを忘れるな。仕事なんかしてないで、ちゃんと休め。いいな?』……って絶対言うでしょ?」言い終えるより早く、卓巳が思わず吹き出した。祐一は額に指を当て、何とも言えない表情を浮かべる。由奈は顔を覗き込みながら笑った。「どう?滝沢社長、私のモノマネが上手だった?」「……もう二度とやるな、頼む」祐一は照れ隠しのように窓の外へ視線を逸らした。見栄っ張りなところは、相変わらずだった。由奈はくすっと笑い、彼の顔をそっとこちらへ向ける。「安心して。今日で一区切りついたから、これからは仕事のペースもちゃんと調整する。できるだけ、赤ちゃんに負担をかけないようにするから」祐一は彼女の手首を優しくつかみ、眉をひそめた。「俺が心配してるのは、赤ちゃんのことだけだと思ってるのか?」「そんなこと、一言も言ってないけど?」その言葉に、祐一は目を伏せると、彼女の手のひらを自分の頬にそっと当てた。「俺は、君の体が心配なんだ。この研究が君にとってどれだけ大切かは分かってる。だから止めるつもりはない。ただ、無理だけはするな。休めるときはちゃんと休め。分かったか?」由奈は優しく笑ってうなずく。「はいはい、分かりました」……夕方。智宏が階下へ降りると、由奈が食卓についているのを見つけ、少し驚いた。「今日は珍しくちゃんと夕飯を食べるんだね」
ここ数日、由奈は出勤すると、すぐに実験室へこもった。昼は実験を進め、夜は遅くまで研究報告書を執筆する。わずかにできた空き時間は、すべて仮眠に充てていた。休日の日も仕事に打ち込んでいた。食事の時間になると、智宏は由奈を呼びに行くが、何度声をかけても返事がなく、不思議に思って部屋をのぞくと、由奈は机に突っ伏したまま眠っていた。パソコンの画面だけが、まだ明るく光っている。「最近の池上さん、本当に忙しそうですね」心愛もやって来た。同じ屋根の下で暮らしていても、この数日は由奈とほとんど顔を合わせていない。仕事に没頭しているのだろうと、容易に想像がついた。智宏は由奈を起こさず、静かにドアを閉める。「先に食事にしましょう」「はい」食事を始めると、心愛のスマホにグループチャットの通知が届いた。エミーがグループを退会したという知らせだった。エミーに流された根も葉もない噂が、ふと頭をよぎる。あの一件は終わったはずなのに、胸の奥にはまだ小さなしこりが残っていた。「松本勲は、その後もうあなたに接触してきていませんよね?」不意に智宏が尋ねた。心愛はスマホを置き、小さく首を振る。「はい。一度もありません。淳平さんがあんな事件を起こしましたし、非があるのは松本家です。勲さんも、これ以上騒ぎを大きくしたくはないんだと思います」「……そうなら安心ですが」智宏はそう言って、静かに心愛を見つめた。その視線とぶつかった途端、心愛は気まずそうに目を逸らし、黙って箸を動かす。――後ろ盾。――貢いでくれる太客。エミーの吐き捨てた言葉が、また胸の奥によみがえった。そんなのは、根拠のない言いがかりだ。智宏が動いたのは、自分のためじゃない。妹を守るためだった。その結果として、自分も助けてもらっただけ。……それに。あの人は、そんな下心で人を助けるような人じゃない。……翌朝も、由奈は早朝から研究所へ向かった。心愛は朝食を用意して待っていたが、あまりにも慌ただしく出て行こうとする由奈は、一口も口をつけなかった。そんな日が何日も続く。手つかずの朝食を見つめながら、智宏は何かを考え込むように黙っていた。……幾日にも及ぶ研究の末、由奈たちはついに、アルツハイマー病の新たな治療方針をまとめ上げた。ミシ
数日後、ヴィニーの投資チームは松本家の会社から資本を引き揚げ、松本グループはついにM国での上場計画を断念した。松本家の失脚が知れ渡ると、かつて淳平に苦しめられていた人々は、ようやく長い暗闇から解放された。それ以来、勲が再び心愛の前に姿を現すことはなかった。……「古澤さんって、やっぱり後ろ盾があるよね?松本家を潰せるなんて、只者じゃないよ」心愛がアトリエ棟の廊下を歩いていると、不意に背後から自分の噂話が耳に入った。思わず足を止める。聞き覚えのある声が混ざっている。――エミーだ。「今の後ろ盾は、松本さんなんかよりずっとすごい人だよ。配信でも一番の太客になってるんだから」「えっ、その太客が後ろ盾なんだ」「会ったことあるの?どんな人?」周囲の学生たちは興味津々でエミーを見つめた。エミーは眉をひそめる。あの日、心愛と一緒にいた男性が、本当にあの太客なのかは分からない。もしそうだとしたら――心愛は運が良すぎる。そう思うと、唇を噛み、何気ない口調で言った。「ただのおじさんだよ」「ほんと?」「えー、古澤さんっておじさんと付き合ってるんだ。やだぁ」一人の女子学生が笑いながら顔を上げた瞬間、こちらへ歩いてくる心愛の姿を見つけ、笑顔が凍りついた。慌てて隣の友人を小突く。エミーも心愛に気づき、明らかに動揺したものの、平静を装って声をかけた。「心愛、どうし――」その言葉が終わる前に。パシンッ!乾いた平手打ちの音が廊下に響いた。鋭い一撃がエミーの頬を打ち、彼女は顔を大きく横へ振られる。頬を押さえたまま、信じられないという顔で心愛を見上げた。心愛は怒りを押し殺しながら、まっすぐエミーを見据えた。「……前から、あなたが私をどう思ってるかくらい分かってた。でも、わざわざ言い返すつもりはなかったの。でも、今のは違う。そんな決めつけで人を侮辱するなんて、黙って聞き流せない」その場にいた学生たちは顔を見合わせるばかりで、誰一人としてエミーをかばおうとしなかった。人前で叩かれ、面目まで失ったエミーは、ついに取り繕うことをやめた。「私は本当のことを言っただけ!あなたこそ、普段は清純ぶってるくせに、男にちやほやされるのは嫌じゃないんでしょ?松本さんには興味なくても、この前寮まで送ってきた男
心愛はどこか驚いたような表情を浮かべていた。こんなことを言ってくれた男性は、父親以外では智宏が初めてだった。実のところ、さっきの問いかけには、智宏の本心を探ってみたいという目的もあった。もし彼が曖昧な答えを返していたなら――きっと彼もまた、自分の容姿しか見ていない人なのだと疑っていただろう。けれど――彼は想定外の答えを出してくれた。心愛の胸に、そっと安堵が広がる。智宏は、本当にあの人たちとは違うのだと、はっきり分かった。張り詰めていた表情が少しずつ和らいでいく心愛を見て、智宏も静かに息をつく。彼女には知らないが、さっきの言葉は、一つ残らず智宏の本心だった。彼には分かっていた。心愛は、人一倍傷つきやすく、人の視線を気にしすぎる性格だということを。本来なら、自信に満ち、太陽のように笑っていていいはずの女性が、ただ人より少し容姿に恵まれているというだけで、何をするにも遠慮し、自分を責め続けている。だからこそ、あの言葉には慰めだけではなく、「もう他人の評価に縛られなくていい」という願いを込めた。その思いが伝わったのだろう。心愛は小さく胸をなで下ろし、その表情はようやく柔らかなものへと変わっていく。それを見届けた智宏の口元にも、自然と穏やかな笑みが浮かんだ。……由奈は昨夜かなり遅くまで起きていたうえ、朝も早かった。ミシェルから送られてきたデータを確認し終えると、そのままソファにもたれ、いつの間にかうとうとと眠り込んでしまう。しばらくして、誰かが耳元で優しく名前を呼ぶ声が聞こえた。薄く目を開けると、視界にはぼんやりとした人影しか映らない。由奈はそのまま身を預けるように相手の胸へ寄りかかり、両腕をだらりと首へ回した。「祐一の……バカ……」甘えるように呟く。抱きつかれた祐一は、ぴくりとも動けなかった。今の由奈の体に、小さな命が宿っている。少しでもぶつけたり転ばせたりしたら大変だ。「社長、池上さん、ぐっすりお休みでしたね」脇で見ていた卓巳が、思わず口を挟む。その声を聞いた瞬間、由奈はぱちりと目を開いた。見上げた先には、祐一の顔。「目が覚めたか?」由奈はきょとんとしたあと、卓巳へ視線を向ける。卓巳はにこやかに会釈した。「お久しぶりです、池上さん」由奈は周囲を見
心愛は呆れてしまった。――自分に後ろ盾なんてあるわけがない。だが、彼女が弁解するより早く、智宏が落ち着いた口調で言った。「彼女は妹の友人だ。そういえば、伝え忘れていたが、あなたの弟が攫ったという2人は、僕の妹と彼女なんだ」勲は完全に言葉を失った。智宏が松本家に敵意を持ってわざと言いがかりをつけてきたのだと思っていたが、まさか、先にちょっかいを出したのが弟だったとは。勲が呆然としている間に、智宏は心愛へ視線を向ける。「送りますよ。ちょうど帰る方向が同じですから」心愛は、智宏が自分を助けようとしてくれているのだと察し、小さくうなずいた。そして智宏のもとへ歩み寄り、彼とその場を離れた。数歩進んだところで、智宏はふと振り返り、勲を一瞥する。その眼差しは、鋭く冷え切っていた。我に返った勲の掌には、いつの間にか薄く汗が滲んでいる。男同士だからこそ、その視線の意味は痛いほど分かった。――余計な気を起こすな。そう無言で警告しているのだ。智宏相手なら、弟が返り討ちに遭ったのも無理はない。……駐車場まで来ると、心愛は振り返った。勲が追ってくる気配はない。さっきから勲が智宏を見た瞬間の反応が気になっていたため、口を開いた。「……あの人とは、ずっと前から知り合いなんですか?」智宏は助手席のドアを開けながら答えた。「高校時代の同級生です」「そうだったんですね」心愛は納得したようにうなずき、助手席へ乗り込んだ。智宏も運転席に座ると、彼女は顔を向けて言う。「さっきは助けてくれて、本当にありがとうございました。でも……」そこで何かに気づいたように窓の外を見やる。「どうしてうちの大学に?どなたかに会いに来たんですか?」智宏は一瞬だけ黙り込み、ハンドルに手を添えたまま答えなかった。心愛も、それ以上は尋ねなかった。きっと話しづらい事情があるのだろう。他人である自分が、そこまで踏み込む必要はない。しかし、しばらくの沈黙のあと、智宏が静かに口を開いた。「松本家の人間があなたを探しに来るだろうと思って、来ました」その言葉に、心愛は息を呑んだ。驚いたように彼を見つめる。――その言葉には、二通りの解釈ができる。一つは、松本家の誰かが自分に接触してくると予想して来た、という解釈。も







