LOGIN約束の時間より十五分遅れて、靖彦は現れた。真由美は内心苛立っていたが、今日は今後の協力について話しに来た立場であるゆえ、感情を表には出さず、どうにか抑え込む。ただ――警戒だけは解かなかった。「中道さん、私たちの計画……まさかお忘れじゃありませんよね?」できるだけ柔らかな声を装いながら続ける。「もうこんなに時間が経っているのに、そちらからは何の連絡もないものですから。少し心配していたんです」そう言ったものの、本当に心配していたのはただ一つ。途中で条件を吊り上げられることだ。靖彦は席に着いてから、水にも手をつけず、しばらく黙り込んでいた。やがて、かすれた声で口を開く。「悪いが……協力の話は、なかったことにしてくれ」「なかったことに?」真由美の声が思わず跳ね上がる。「中道さん、冗談ですよね。こちらがあれだけの誠意を見せたというのに、今さら『なかったことに』ですって?」すぐに調子を切り替え、追い込むように続ける。「私は引いても構いません。でも――あなたは引けるんですか?滝沢家の後ろ盾がなければ、中道家でどうやって他の人間と張り合うつもりです?このまま一生、傍流のままで終わってもいいんですか?」靖彦の表情がわずかに固まる。だが、しばらく沈黙した末に出てきたのは、たった一言だった。「俺、まだ死にたくないんだよ」彼は自嘲気味に笑う。「首をナイフで切られたことがあるか?きっとないはずだ。俺はな、生きてるだけでも上出来だって、やっと分かったんだ」そのまま立ち上がる。「それに――滝沢祐一が中道家と縁談を進めてるなら、いずれ両家は親戚同士になる。俺がどれだけ端っこにいようと、中道家の人間だ。甥の智宏が家を継いだとしても、路頭に迷わせるほど冷たくはしないだろう。祐一を相手にしたいなら、他を当たってくれ」真由美の表情など気にも留めず、そのまま立ち去ろうとする。だが数歩進んだところで足を止めた。「祐一は、お前が栄東市にいることも知ってた。俺にも会いに来たよ。滝沢グループは、お前がどうにかできる相手じゃない――そう伝えてくれってな」そう言い残し、靖彦は去っていった。真由美はしばらく席に座ったまま動けなかった。やがて、握りしめたカップの取っ手がきしむほど、指に力がこもる。怒りが体の奥から噴き上がり、店の空気さえ歪ませそうだった。計画は――始まる前
「花織さんに騙されていた可能性は、考えたことがないのか?」智宏の声は静かだった。だが、それは穏やかな湖面に投げ込まれた小石のように、重く、鋭く響いた。徹也の表情がわずかに曇る。「どういう意味?」「あなたはあの人の子どもじゃない。そして、中道家とも血の繋がりがなかった」徹也は一瞬、言葉を失い――やがて小さく笑った。「私を止めたいからって……ずいぶん思い切ったことを言うね」そう言いながら、彼女は智宏の脇をすり抜け、横へ回り込むようにして続けた。「昔はね……本気で思ってた。もし私たちに血のつながりなんてなかったらって……」そこで言葉が途切れる。その先は――口にできなかった。それはあまりにも歪で、決して許されない感情だった。世間が受け入れるはずもないし……きっと、智宏自身だって同じはずだ。「もう私を説得しようとしなくていい」徹也は背を向けたまま言い放つ。「私がまだ正気でいられるうちに帰って。今なら見逃してあげる」わずかに間を置き、静かに続けた。「でなければ――どうなっても知らないから」その声は落ち着いていたが、どこか張り詰めた危うさを帯びていた。それでも智宏は動かなかった。ただ静かに、彼女の背中を見つめたまま言う。「花織さんは当時、妊娠したと偽って海外に渡り、そのまま出産の名目で滞在していた。そのとき知り合ったのが、あなたの実の母親――浪川園子(なみかわ そのこ)だ。園子さんは生まれも育ちも海外で、国内に来たことは一度もない。だから、祖父と知り合うはずもない」智宏は淡々と続けた。「それでも、あなたが祖父の血を引いていると証明するために、花織さんはDNA鑑定に細工をした。あなたがどうやって彼女が実の母親じゃないと知ったのかは分からない。でも――」声が一段低くなる。「彼女が自分の思惑のためにあなたを利用していた以上、身の上の真実を誰かに悟られるはずがない。ただ一人を除いて」徹也は振り返らない。だが、その背中は明らかに強張っていた。「当時の付き添いの使用人だ。その人だけが真実を知っている」智宏の声が、静まり返った室内に響く。「とはいえ、あの使用人を見つけられなくても、今、あなたの身の上を確かめる方法なら一つある。違うか?」徹也は智宏の言葉を否定できなかった。今まで、徹也自身も何度か自分のことを本気で調べようと
しばらくして、由奈は祐一とともに庭を出た。由奈はまだ先ほどの信三の反応が信じられない様子で、どこか上の空のまま歩いている。足取りも少し遅い。祐一が身分を明かしたとき、信三がどう出るか――それなりに覚悟はしていた。けれど……さすがにあっさりしすぎじゃない?祐一は途中で立ち止まり、かなり後ろを歩く由奈に気づいて振り返った。少し待ってから、くすっと笑う。「だから言っただろ。俺の本当の身分を知っても、あの人は受け入れてくれるって」祐一が身分を隠していたのは、中道家の人たちに対してではなかったのだから。由奈は腕を組み、わざとらしくため息をつく。「結局、滝沢祐一って名前がどこでも通用するってことよね」祐一は軽く笑い、彼女を見た。「君の前では通用してないみたいだがな」由奈は足を止め、一瞬だけ言葉に詰まる。それから顔をそむけ、そのまま彼の前を通り過ぎた。「……田辺義久のほうが、いい響きだったけど」祐一は視線を落として小さく笑い、そのまま何気ない調子で後ろから続く。「じゃあ、滝沢義久にしようか」「え?」由奈が振り返る。祐一は少し首を傾け、目元に笑みを浮かべたまま言った。「子どもの名前」由奈は固まった。耳の先がじわりと赤くなる。それでも平静を装って歩き続けながら言い返す。「べ、別に子どもを産むなんて言ってないからね!」祐一はすぐに追いつき、隣に並ぶ。晩秋の風に声が少しだけ散りながらも、その調子は不思議と落ち着いていた。「じゃあ、俺が産む」由奈は返事をしなかった。けれど、笑いをこらえきれず肩が小さく揺れる。祐一は目を細める。「それでどうですか、池上先生?」由奈は咳払いをして向き直る。「本当に産めるみたいな言い方しないで。私は産婦人科にも入ったことあるのよ。実際に産んだことはないけど、どれだけ大変かくらい分かるから……まだ心の準備ができてないの」祐一は口元をゆるめた。「俺も別に急いでるわけじゃないよ」「だったら、なんでそんな話するの?」「君が田辺義久のほうがいいって言っただろ。名前は変えられないから、代わりに提案してみただけ」またからかわれたと思い、由奈はむっとして先に歩き出した。けれど数歩進んだところで立ち止まる。振り返りはしない。ただ、ポケットから手を出して、体の横にそっと差し出した。指先が少し
その考えがふと胸に浮かんだ瞬間、紬は内心でぎくりとした。――自分は本当に、祐一と由奈のことを祝福しているのだろうか。それとも……「どうしたんですか?」紬の様子に気づいた由奈が、心配そうに声をかける。「え?ううん、なんでもない……じゃあ私、もう行くね」資料を抱えたまま、紬はそそくさとその場を離れた。倫也の研究室の前を通りかかったとき、ちょうど中から報告の声が聞こえてきた。涼太が仕事の件で説明をしているらしい。ガラス越しに室内をのぞくと、倫也は大きな黒い革張りの椅子に腰掛け、長い指で書類をめくっていた。眉をわずかに寄せ、真剣な表情で読み込んでいる。この人……仕事してるときは、やっぱり格好いいな……そう考えている時だった。ふいに倫也が顔を上げ、まっすぐこちらを見た。ガラス越しにも、その視線は正確に紬を捉えている。一瞬で身体が固まり、胸の奥で鼓動が激しく跳ねた。――このままでは、心臓が飛び出しそう……!紬は慌てて視線を逸らし、逃げるようにその場を離れた。曲がり角まで来てようやく足を止め、壁にもたれて深く息をつく。この感じ……間違いない。自分はあの人のことを――好きになっている。……昼休み。由奈は休憩の合間を縫って、祐一と一緒に靖彦の見舞いに病院を訪れていた。靖彦はなんだかんだ言って彼女の叔父だ。見舞いに来るのは当然としても――「祐一も一緒に来るなんて、ちょっと意外」隣を歩く彼を見上げて、由奈が言う。祐一は笑った。「ただの見舞いってわけじゃないからな」「じゃあ、何しに?」「ちょっと話があって」そう言って祐一は先に病室に入った。由奈もあとに続く。二人の姿を見た靖彦は、明らかに驚いた様子だった。「お前たち……どうしてここに?」由奈が答えるより先に、祐一が口を開いた。「靖彦さんは、もう私の身分をご存じでしょう。私もこれ以上隠すつもりはありません」由奈は思わず靖彦を見る。靖彦は反射的に視線を逸らした。「何のことだか分からないな……」祐一はソファに腰を下ろした。「真由美さんが、あなたに会いに来てましたよね?」真由美が栄東市に……?その話は、由奈も初耳だった。つまり――祐一が「田辺義久」だということも、もう隠し通せないということだ。靖彦は額を押さえた。「頭が痛い。少し休みた
「違う」智宏は少しも迷わずに言った。その声は静かだったが、はっきりとした重みがあった。「僕が言いたいのは――僕たちは同じ道を歩む人間じゃない、ということだ」徹也は呆然と彼を見つめる。智宏は続けた。「君の気持ちは理解できる。でも、やり方には賛成できない。それに……僕だって中道家の人間だ。君を傷つけた人間たちは、僕の家族でもある」徹也の手が強く握りしめられた。しばらく唇を噛みしめてから、低く言う。「もし立場が逆だったら?私みたいな目に遭ったのが、あなたの妹――由奈だったら?」智宏は数秒考えた。そして答える。「罪を犯した人間には、必ず責任を取らせる。でも――殺しはしない」その言葉が落ちたあと、どれほどの時間が流れたのか分からないほど、周囲は静まり返った。やがて徹也が、ふっと笑って顔を背ける。潤んだ目の奥で、何かがゆっくりと固まっていく。智宏の答えは――最初から分かっていた。彼女の知っている智宏は昔からまっすぐな人で、自分の隣に立つはずがない。もし立ったとしたら、それはもう智宏ではなくなる。それでも――ほんの一瞬でもいい。自分の味方でいてほしかった。たとえ嘘でもいいから。徹也は視線をそらした。感情を押し殺し、冷たく言う。「もう帰れ」智宏は動かない。「帰れって言ってるだろ!」低く怒鳴る。「お前なんてもう必要はない!」智宏の目がわずかに揺れる。それでも静かに言った。「……まだ引き返せる。今なら、まだやり直せるんだ」その言葉が終わる前に――「出て行け!」徹也は近くのテーブルの上に置かれていた物を一気に払い落とした。激しい物音が響き、その音に執事が駆けつけてきた。床に散らばったものを見て、一瞬言葉を失う。智宏はそれ以上何も言わなかった。静かに背を向け、その場を後にする。明るいリビングへ戻ると、一人のボディーガードが近づいてきた。周囲に聞こえないよう、小声で言う。「智宏様。秀雄様が、ご無事かどうか気にかけておられます」智宏はすぐに理解した。彼は秀雄の部下だ。「徹也に付いていたんじゃなかったのか?」男は気まずそうに笑う。「今は秀雄様の配下です。ただ表向きは徹也様に従っている形でして……ご無事と分かれば、秀雄様も秀明様も安心されます」智宏は階段の手前で足を止め、男が近づくのを待った。「
智宏は振り返りもせず、静かに断った。「温泉に入る習慣はありません。用があるなら、明日にしてください」すると執事は穏やかな口調で言う。「温泉は心身の緊張をほぐします。ここ数日、ずっと気を張っておられましたでしょう。徹也様も、そのことを案じておられます」その言い方に、言外の意味があることを智宏はすぐに察した。ゆっくり立ち上がる。「……どうしても行かせたいようですね。なら、彼が何を企んでいるのか、直接確かめましょう」執事は微笑むだけで何も答えず、先に部屋を出た。智宏が後に続いているのを確かめると、そのまま前を歩いて案内する。やがて二人は裏庭の露天温泉へと辿り着いた。だが、温泉の周囲には誰の姿もない。背後で執事が軽く頭を下げる。「ではごゆっくりどうぞ」智宏が何か言うより早く、執事はその場を離れてしまった。智宏は眉をひそめる。もともと温泉に興味はないし、入るつもりもない。なぜここまで呼び出されたのか、見当もつかない。何より、肝心な本人の姿はどこにも見当たらなかった。考え込んだそのときだった。背後で、かすかな足音がした。智宏が振り返る。そこに立っていたのは、バスローブ姿の美しい女性だった。夜の温泉に突然現れた女性。しかもこの格好だ。智宏は思わず視線を逸らす。「失礼しました」短く詫びると、そのまま立ち去ろうとする。「もう、私のことが分からないのか?」聞き慣れた声だった。その瞬間、智宏の足が止まる。驚いた表情で振り返った。徹也はゆっくりと体の向きを変える。今夜はきちんとメイクもしている。気づかれなかったのも無理はない。彼女は少し誇らしげに言う。「驚いた?こんな格好、人前でするのは初めてだけど」智宏の視線が一瞬だけ彼女の胸元へ落ち、すぐに逸れる。顔には動揺がはっきりと浮かんでいた。「君が……女性だったのか……?」これまでずっと叔父だと思っていた相手が女性だった。あまりにも予想外だったのだ。「ええ、私は女だった」徹也の目はすぐに暗く沈んだ。「花織さえいなければ……自分の性別すら選べない人生になんてならなかったよ」その声には、抑えきれない憎しみが滲んでいた。智宏はその視線の奥にあるものを読み取り、すぐに表情を引き締めた。「だから……花織さんを殺したのか?」「彼女は死んで当然の人間だ」徹也の声は静かだった。
病室には重い沈黙が落ちていた。しばらくして、祐一は歩実の手をそっと外し、静かな声で言った。「何かあったら、俺の部下に連絡してくれ」それだけ告げて、彼は病室を出ていく。歩実は目を赤くしたまま、その背中を見送った。シーツを握る指に、思わず力がこもる。――自分が彼を救った存在だと思わせれば、また特別扱いしてもらえる。そう信じていた。だが、彼の反応は想像と違った。喜ぶどころか、どこか距離を取っているようで……まるで、自分を救ったのは、彼女であって欲しくなかったのようだ。……祐一は病院を出て車に乗り込むと、すぐに電話が鳴った。麗子からだ。――加藤陽子の居場所が判明した、という
「倫也、僕は……まだ彼女と仲直りできるのかな」ソファに脚を組んで身を預け、古医書を読んでいた倫也は、向かいの男の独り言めいた問いを聞いて顔を上げた。「さあ。私に聞いても仕方がないと思うが」その男――彰は自嘲気味に笑う。「だよね。こういう話に、君が興味を持たないのは分かってる」長年の付き合いだが、倫也が恋などに関心を示したことは一度もない。彼の世界にあるのは、ただ医学だけだ。そんな相手に、由奈のことを相談したところで、答えが返ってくるはずもない。「君が、女性のことで悩むなんて珍しいな」倫也は視線を本に落としたまま言った。「今まではね。でも……」彰は唇を結び、低く続ける。「僕は
由奈はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。「……案内してください」スタッフに連れられ、レストランの二階へ向かう。窓際の席に、彰が座っていた。確かに、ここからなら、さきほどまでの彼女の様子もよく見えていたはずだ。スタッフがチップを受け取って下がると、彰は変わらぬ穏やかな笑みで口を開く。「何か飲む?ここのハーブティーはなかなかいいよ。試してみる?」「ありがとうございます。でも結構です」由奈は彼の向かいに腰を下ろし、以前よりも一歩距離を取った態度で答えた。「今日は、その気分じゃなくて」彰は視線を落とす。「……僕のこと、まだ怒ってるのは分かってる。それでも、言わせてほしい
由奈は長い沈黙のあと、以前彰が語った滝沢家との因縁を思い出し、彼を見つめた。「じゃあ……Aというのは、滝沢家の人なんですね?」「そうだ」彰は否定しなかった。「そしてBの妹は僕の祖母。その女の子が、僕の母だ」由奈は息を呑む。彰の母親は、滝沢家の血を引いていた。もし滝沢家が彼女を認めていれば、今ごろ彼女は滝沢家の長女として生きていたはずだ。「……それを、どうして私に?」「正直に話すよ」そう言って、彰は由奈の手を取った。「最初は、君を利用するつもりで近づいた。でも……由奈ちゃん、僕は後悔したんだ。君と久美子さんが僕をあんなに信頼してくれた時から後悔したんだ。もう、これ以上嘘をつき