Masuk影山グループ――祐一と沙耶子は対峙し続けていた。やがて祐一のスマホ画面が点灯する。届いたメッセージを確認した瞬間、それまで張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。「ここまで話を聞いてきましたが、私に影山家への訴訟を取り下げて欲しい。それがあなたの望みですよね?」沙耶子はその質問を正面から答えなかった。「あの事故はね、たとえ私たちが関わらなくても、滝沢将吾が何かしら細工をしていた。私たちはただ、あの人の望みを後押しして、欲しい結果を手に入れさせてやっただけだ」「なるほど」祐一は低く笑った。「つまり、自分たちには罪がない、と?」そう言いながら姿勢を正し、組んだ両手をテーブルの上に置く。その顔から笑みがすっと消えた。「私はそうは思いません」沙耶子の表情が険しくなる。「どうしても影山家に責任を取らせるつもりなら、覚悟をしておくことだ。何せ、滝沢家も無傷では済まされないからね」「私を脅かしても無駄ですよ。さっき言いましたよね」祐一の声は氷のように冷たかった。「この件に関わった人間は――一人残らず責任を取らせると」「滝沢祐一!ふざけるのも大概にしなさい!」激怒した沙耶子は、テーブルの上のティーカップを薙ぎ払った。甲高い破砕音が室内に響く。だが祐一は眉一つ動かさない。ゆっくりとジャケットの襟を整え、静かに立ち上がった。「どうしても私とやり合うつもりなら、お好きにどうぞ。たとえ取り返しのつかないことになっても、私は祖父を見送った時と同じように――あなた方二人の最期も、きちんと看取らせてもらいますから」沙耶子の拳が震えた。胸が激しく上下し、怒りで顔色が変わっている。祐一はそんな彼女を一瞥することもなく、麗子を連れて会議室を後にした。――交渉は完全に決裂した。……祐一たちが去って間もなく、ラウラが戻ってきた。服も髪も乱れ、どこか狼狽えた様子だ。険しい表情の沙耶子を見て、それから出口で見かけた高級車を思い出し、状況を察したらしい。彼女は頭を下げた。「申し訳ありません、お母さん。計画が失敗しました」その言葉を聞き、沙耶子はようやく先ほどの祐一の余裕の理由を理解した。そして苦々しく息を吐く。「失敗したなら仕方がない。私があの人を甘く見ていたよ」……その後数日、和恵の事故について警察側の捜査が続いていた。関連の
浩輔は何が起きたのか理解できないまま立ち尽くしていた。だが次の瞬間、ラウラが由奈のコートの襟元を乱暴につかみ上げる。その力は凄まじく、由奈の体が大きくよろめいた。「姉さんを離せ!」我に返った浩輔は叫びながら駆け寄った。しかしラウラは躊躇なく警棒を振るう。鈍い音とともに警棒が浩輔の胸を直撃し、彼は数歩後ろへたたらを踏んだ。そのときだった。駆け込んできた卓巳が浩輔の体を支えると、すぐ安全な場所へ押しやる。そして靴箱の上に置かれていた傘をつかみ上げ、そのまま鋭く振り抜いた。警棒がラウラの手から弾き飛ばされる。「っ……!」ラウラは苦痛に顔を歪めた。由奈を拘束している余裕などなく、慌てて手を離して距離を取る。「姉さん!」浩輔はすぐに由奈のもとへ駆け寄り、その腕を引き寄せた。「大丈夫か?」「う、うん……」由奈はまだ動悸が収まらないまま頷き、卓巳とラウラへ視線を向ける。一方のラウラも、自分が厄介な相手に当たったことを理解したらしい。痛む手首をさすりながら苦笑した。「へえ。なかなかやるじゃない」「お前が弱すぎるだけだ」卓巳は鼻で笑う。「その程度の腕で乗り込んでくるとか、送り込んだやつも相当なおめでた頭だな」ラウラは意味を理解した途端、顔をしかめた。そして不満げに叫ぶ。「あなた――!この国の人間はみんな卑怯だって聞いてたけど、本当だったのね!」「おっと、負けそうになったら今度はそれか?」卓巳は呆れたように肩をすくめた。「便利な言い訳だね」そう言うと、今度は浩輔へ向き直る。「少しは懲りたか?知らない人間を簡単に家へ入れるなってことだよ。特にこういう、人を騙すのが得意そうな女はな。僕が怪しいと思って見張ってなかったら、今ごろどうなってたか分からないぞ」浩輔は言葉を詰まらせた。「ご、ごめんなさい……姉さんの友達だって言ってたから……」そこまで言うと、深く俯く。「ごめん、姉さん。俺のせいで危ない目に遭わせるところだった」「大丈夫よ」由奈は首を横に振った。「次から気をつければいいから」そう言ってから、卓巳の隣へ歩み寄る。そしてラウラを真っ直ぐ見据えた。「誰の差し金ですか?」「それは言えないね。別に私も、あなたを傷つけるつもりはなかったけど?」ラウラは首を傾げ、口元には人を食ったような笑みが浮かんでいた。「ただ、
祐一の顔から、すっと表情が消えた。瞳の奥には、隠そうともしない冷たい怒りが宿る。「祖父があなたを裏切ったことについては、私も弁解するつもりはありません。ですが――だからといって、無関係な人間まで巻き込んでいい理由にはならない」「無関係?」沙耶子は鼻で笑った。「本当に和恵が無関係だと思っているのかい?」祐一は腕時計の文字盤を指でなぞった。「どういう意味ですか?」「私の兄がどうして死んだと思う?」沙耶子はティーカップを勢いよくテーブルへ置いた。鈍い音が響き、熱い茶がこぼれて木目の上を筋のように流れていく。力の入った指先は白くなっていた。何十年も胸の奥に沈殿していた憎しみが、一気にあふれ出す。「芳樹に裏切られたことは、もう受け入れていた。忘れようともしたさ。でも兄は、私が泣き寝入りするのを見ていられなかった。だから私の代わりに筋を通そうとした。なのに和恵の実家に侮辱され、踏みにじられた!」彼女の声は震えていた。「それなのに芳樹はどうだった?親友のために一言だって口を利かなかった。兄はその一件から塞ぎ込み、病に倒れ、食事も喉を通らなくなった。それでも兄は生きていたんだよ。なのに和恵が病室に来て、『芳樹と仲直りしてほしい』、『もう水に流してほしい』なんて言った。兄に屈辱を飲み込めと迫ったんだ。兄は最後まで納得できなかった。あの悔しさを抱えたまま死んだんだよ」長年押し込めてきた感情を吐き出し終えると、沙耶子は荒く息をつきながら笑った。「和恵を今まで生かしてやっただけでも、私は十分情けをかけたと思ってる。そうでなければ、とっくの昔に芳樹のところへ送ってやってたさ」祐一は拳を握り締めた。祖父が沙耶子を裏切ったことは知っている。だが、祖母と彼女の間にどんな因縁があったのかまでは知らない。だから今の話がどこまで真実なのか、判断はできなかった。それでも一つだけ確かなことがある。――沙耶子は、祖母の事故と無関係ではない。祐一は静かに口を開いた。「長々と昔話をされたところで、結局は滝沢家への恨みを晴らしたいだけでしょう」指先でテーブルを軽く叩く。その声は氷のように冷たかった。「残念ですが、私は祖父たちみたいにあなたへ義理を感じていません。だから、私たちは分かり合えないかと」鋭い視線が沙耶子を射抜く。「例の事故に関
彰は由奈の視線から逃げるように目を伏せ、自嘲気味に笑った。「僕のこと、ひどいと思ったでしょ。でも僕はただ、あいつにしかるべき罰を与えただけだ」そう言って再び顔を上げた。「奈々美も、あいつの両親も同じだ。利益になるものに群がって、力のある者に媚びる。あの一家がどんな人間か、君だって見てきただろ」「奈々美たちに問題があることは認めます」由奈の表情は終始静かなままだった。怒りも憎しみも浮かんでいない。「彼女たちがどんな人間だったのか……そして、影山家がどんな一族なのかも、見てきたつもりです」彰は黙り込んだ。影山家がしてきたことについても、言い逃れするつもりはないようだ。「彰さん。あなたは確かに昔、私を助けてくれました。その善意が本物だったのか、それとも何か思惑があったのかはわかりません。でも少なくとも、私は助けられました」由奈は一度まぶたを伏せた。「だから、あの頃は本当に感謝していました」そして再び彼を見据える。「でも、この間の日を境に、私たちの関係が終わったんです」「あの日は、僕が衝動的になっただけで……由奈ちゃん、僕は本当にそんなつもりじゃ――」由奈は手を上げ、彼の言葉を遮った。「理由が何であれ、私はあなたを許すことはできません。なぜなら、私は妊娠してるんです。もしあの時、あなたのせいで私がお腹の子を失ってしまったら――私はあなたを一生恨むでしょう」彰は言葉を失った。妊娠。由奈のお腹に、赤ちゃんを……?「今日、お母さんは私に情で訴えてきました。昔あなたと仲が良かったから、一度は見舞いに来て欲しいって。でも、それが通じるのは今回だけです。私がここへ来たのは、あなたに一つだけ確認したいことがあったからです」「……何だ」彰はようやく声を絞り出した。もう期待はしていない。自分が何を失ったのか、嫌というほど理解したのだ。由奈は彼を見据えたまま尋ねる。「祐一の祖母と母親の事故に、あなたは関わっていましたか?」その一言に、彰の心臓が大きく跳ねた。しばらく黙り込み、視線を落とす。そして悲しげに笑った。「関わっていないと言ったら……信じるか?」「信じます」彰は再び目を見開く。由奈は静かに立ち上がった。「関わっていないなら、それで十分です。少なくとも、私が友人だと思っていた人が、救いようのない殺人者じ
敦は、沙耶子の言葉の裏にある意味を察していたが、あえて何も答えなかった。「ラウラ、前から海都市を回ってみたいって言ってたでしょう?せっかく来たんだから、少しゆっくりしていきなさい」沙耶子は隣に座る赤毛の女性へ目を向け、柔らかな笑みを浮かべた。ラウラはハーフらしい整った顔立ちをしている。しかし、言葉はまるでこの国でずっと暮らしてきたかのように流暢だった。「わかりました。お母さんがいらっしゃる間は、私も一緒にいます」「その方は……娘さんですか?」敦は意外そうに目を見開いた。沙耶子はラウラの手の甲をそっと撫で、慈しむように微笑む。「ラウラは私の実の娘じゃないよ。でも、小さい頃からずっと見てきた子なの。この子が私を母と呼ぶなら、私にとっても娘と同じだよ」……一方その頃――由奈と祐一は骨董品店を出たところだった。そのとき、祐一のスマホが短く震える。画面に表示された麗子からのメッセージを見た彼は、そろそろ午後の用事へ向かわなければならないことを悟る。「どうしたの?もう仕事に行く時間?」由奈が振り返って尋ねる。祐一はスマホをしまいながら頷いた。「ああ。今日の件はどうしても外せなくてな」「そうか。私とのデートよりも大事?」何気ない冗談のつもりだった。だが祐一が一瞬言葉を失ったのを見て、由奈は慌てて手を振る。「あ、今のは冗談。私だってわがままを言うつもりはないよ。大事な仕事なら、そっちを優先して当然。気にしないで」祐一は少し掠れた声で言った。「悪いな。加藤を迎えによこすよ」「うん、わかった」二人は商店街の出口で別れた。由奈は祐一を乗せた車が見えなくなるまで見送り、その後スマホのアルバムを開く。並んでいるのは十数枚の写真。そのどれにも祐一が映っている。胸がもやもやして、頭の中では二つの気持ちがせめぎ合っていた。――妊娠のこと、もう話してしまえばいいのに。――でも、あの人は何も説明しないまま離婚を切り出した。こっちの気持ちなんて考えてくれなかったのに、どうして私だけ気遣わなきゃいけないの?――だけど、彼が離婚を切り出したのは私を守るためであって……それに、妊娠のことはサプライズで伝えるつもりだったんでしょう?答えの出ない自問自答を続けていると、突然スマホが鳴った。見慣れない番号を見て、由奈は数
祐一は我に返り、視線を隣の由奈へ向けた。由奈は真剣な表情で絵馬に願い事を書き込んでいる。「お兄さんも一枚どう?神様に自分の願いを伝えるいいチャンスですよ」社務所のおばさんが並んだ絵馬を指しながら、満面の笑みで話しかけてくる。「じゃあ一枚をお願いします。支払いは彼女の分も一緒に」そう言って祐一は財布を出した。絵馬を受け取ると、祐一はマーカーでさらさらと数文字を書き込み、そのまま絵馬掛所に奉納した。ほんの数分の出来事だったので、由奈はまったく気づいていない。やがて隣まで来る彼に気がづくと、由奈は慌てて絵馬を胸元へ隠した。「見ちゃダメ!」「どうして?」「見られたら願いが叶わないんだって」祐一は数秒黙り込む。そして至極真面目な顔で言った。「でも、絵馬掛所に掛かってる絵馬はみんなに見られてるよな?それなら全部効力なくなってるんじゃないか?」「……」由奈は言葉に詰まった。確かに理屈としては間違っていない。反論できないのが悔しい。眉を寄せて本気で考え込む彼女を見て、祐一は思わず笑った。「分かった。見ないよ」そう言って背を向ける。由奈は書き終えた絵馬を絵馬掛所に奉納した。風が吹き抜け、絵馬同士が触れ合って澄んだ音を鳴らす。それから祐一のもとへ戻り、顔を覗き込んだ。「祐一は書かないの?」「もう書いた」「えっ、いつ?」不思議そうに首を傾げる由奈。祐一は顎で絵馬掛所の方を示した。由奈が振り返ろうとした瞬間――彼は後ろから片手で彼女の目を覆った。「君が言ったんだろ。見たら叶わなくなるって」「え?でも気になる。何書いたの?」由奈は諦めずに追及する。「君が書いた内容を教えてくれれば、教えてやってもいい」由奈は少し考えるふりをしてから、数歩前へ出た。そしてくるりと振り返り、にっこり笑う。「私はね――将来あなたが寂しくならないように、可愛らしいお友達ができますように、って書いたの」言い終えるなり、くすくす笑いながら駆け出した。祐一は呆れ半分、可笑しさ半分で息を吐き、大股でその後を追う。二人は雪化粧した並木の下を遠くまで走っていった。風が吹き、無数の絵馬が澄んだ音を立てる。そこには、数え切れないほどの願い事が書かれていた。その中の一枚、祐一が掛けた絵馬には、整った美しい字で、たった数文字だ