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33.残すものを決める

Author: 中岡 始
last update Petsa ng paglalathala: 2026-09-03 19:16:43

取引先ヒアリングを始めてから、美緒からの連絡はしばらくなかった。

鷹宮も、進捗を聞かなかった。

前回の打ち合わせで、美緒が見るものはすでに決まっている。

何が利益を残しているのか。

何を残す意味があるのか。

その両方を見る。

あとは、美緒自身が現場と数字を照らし合わせる仕事だった。

鷹宮が途中で口を挟めば、判断の順番まで変えてしまう可能性がある。

だから待った。

一週間ほど経った頃、美緒から事業体制について相談したいという連絡が入った。

具体的な案件名は書かれていなかったが、久世物産の初期診断がある程度進んだのだろうとは分かった。

夜、オンラインで接続すると、美緒の前には一冊のファイルと、数枚の資料が置かれていた。

以前のように大量ではない。

必要なものだけを残したように見えた。

「こんばんは」

「こんばんは。お時間ありがとうございます」

「どうぞ」

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  • 御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する   36.株式会社リブランシュ

    美緒から連絡が来たのは、平日の午後だった。鷹宮は投資先との会議を終え、執務室へ戻ったばかりだった。机の上には、次の打ち合わせで使う資料が三冊重ねられている。三崎から届いた確認事項へ目を通し、返信を一件送ったところで、スマートフォンが短く震えた。画面には、篠原美緒の名前があった。長いメールではない。メッセージだった。法人化の書類、進めます。鷹宮は、その一文をしばらく見た。法人化。言葉そのものは珍しくない。鷹宮のところには、会社を作りたいという相談も、作った会社を大きくしたいという相談も、日常的に届く。個人事業から法人へ移る。資本金を決める。定款を作る。口座を開く。契約主体を変える。従業員を雇う。事業を続けていれば、必要に応じて選ぶ一つの形にすぎない。だが、美緒からその言葉が届いたことには、別の重みがあった。鷹宮は以前、美緒が作った資料を思い出した。久世家にいた頃。まだ、自分の仕事を仕事として扱うことさえできていなかった頃。自分に何が提供できるのかを書き出してみるよう伝えたあと、美緒は一人で資料を作っていた。対象顧客。提供できる支援。実績。創業動機。そのどこかに、小さく書かれていた。起業?疑問符のついた二文字。決めた言葉ではなかった。できるかもしれない。でも、本当に自分がしていいのか分からない。そんな迷いまで、その疑問符には含まれているように見えた。鷹宮は、その文字を覚えていた。それから、美緒は久世家を出た。篠原という名前へ戻った。最初の仕事を取る前には、報酬表について相談してきた。この金額でいいでしょうか。高すぎないでしょうか。最初だ

  • 御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する   35.教えていたのは、どちらだったか

    藤崎と浜口の担当範囲について話すため、美緒とオンラインでつないだのは、久世物産の実行体制が固まり始めた頃だった。鷹宮が接続すると、美緒はすでに画面の前にいた。「こんばんは」「こんばんは。よろしくお願いします」「こちらこそ」机の上には、数枚の資料だけが置かれている。以前のように、何冊ものファイルを積み上げてはいない。必要なものだけを残し、話す内容も整理したのだろう。鷹宮はそれを見ても、もう驚かなかった。「藤崎さんと浜口さんについてですね」「はい」美緒は資料へ目を落とした。「久世物産側とも話が進んだので、今後の立ち位置を整理しました」「どうすることにしましたか」「藤崎さんは、久世物産を退職したあと、リブランシュと業務委託契約を結ぶ方向です」鷹宮は頷いた。「業務範囲は?」「EC導線の改善と、販売データの分析です。それから、商品ページの改善提案まで」「最終判断は?」「私がします」即答だった。以前なら、そこで鷹宮はさらに聞いていただろう。どこまで任せるのか。何を報告対象にするのか。顧客との直接連絡を認めるのか。成果物の責任は誰が持つのか。けれど、美緒は続けた。「顧客への最終提案は、リブランシュ名義で出します。藤崎さんが分析した内容も、私が確認してから提出します」鷹宮は黙って聞く。「久世物産の情報を、他案件へ使わないことも契約に入れます。退職前に知った情報と、リブランシュとして受け取る情報も分けます」「契約面は?」「真帆さんに見てもらっています」「報酬は?」「決めました」「本人とも合意済み?」「基本条件までは」鷹宮はそこで小さく頷いた。やはり、自分が確認しようとしたことは、ほとんど美緒の中で

  • 御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する   34.怜央の席

    久世物産の一次再建計画について、美緒から連絡が来たのは、取引先ヒアリングを終えてからしばらく経った頃だった。内容は簡潔だった。商品群の整理と、KUZÉ ma vieの縮小。販路別の採算管理。EC部門の再設計。取引先ごとの条件見直し。そして、実行段階に入るための責任体制の変更。鷹宮は添付された概要だけを確認した。詳細な計画書そのものは送られていない。送る必要もなかった。鷹宮が久世物産の再建計画を承認する立場ではないからだ。メールの最後には、今後は、診断から実行管理へ移ります。必要があれば、事業体制について改めてご相談します。と書かれていた。鷹宮は、承知しました。実行段階では、判断権限と責任の所在が曖昧にならないよう確認してください。とだけ返した。それ以上は書かなかった。美緒なら、もう分かっている。誰が決めるのか。誰が実行するのか。誰が結果に責任を負うのか。そこが曖昧な組織では、どれだけ正しい計画を作っても動かない。久世物産は、まさにそれを長く続けてきた会社だった。資料はある。現場にも知識はある。改善案を出した人間もいる。それでも、判断する場所まで届かなかった。ならば次に必要なのは、資料を増やすことではない。判断の流れを変えることだった。その数日後、鷹宮は地方銀行の法人担当者と定例の打ち合わせをしていた。話題の中心は別の企業だった。地方の食品メーカー。設備更新に伴う資金調達。事業承継。新しい販路開拓。一時間ほど話したあと、担当者が書類を閉じた。「そういえば、久世物産の方も、かなり動きましたね」鷹宮は手元のペンを置いた。

  • 御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する   33.残すものを決める

    取引先ヒアリングを始めてから、美緒からの連絡はしばらくなかった。鷹宮も、進捗を聞かなかった。前回の打ち合わせで、美緒が見るものはすでに決まっている。何が利益を残しているのか。何を残す意味があるのか。その両方を見る。あとは、美緒自身が現場と数字を照らし合わせる仕事だった。鷹宮が途中で口を挟めば、判断の順番まで変えてしまう可能性がある。だから待った。一週間ほど経った頃、美緒から事業体制について相談したいという連絡が入った。具体的な案件名は書かれていなかったが、久世物産の初期診断がある程度進んだのだろうとは分かった。夜、オンラインで接続すると、美緒の前には一冊のファイルと、数枚の資料が置かれていた。以前のように大量ではない。必要なものだけを残したように見えた。「こんばんは」「こんばんは。お時間ありがとうございます」「どうぞ」美緒は一度、手元の資料へ視線を落とした。「初期診断の方向が、少し見えてきました」「そうですか」鷹宮はそれ以上促さなかった。美緒が自分の順番で話し始めるのを待つ。「全部を残すのは無理だと思います」最初の言葉は、思っていたより明確だった。「そうでしょうね」「商品も、取引先も、今のまま全部続けることはできません」「はい」美緒は一枚の紙を取り出した。「ただ、切る前に見ておいてよかったと思いました」鷹宮は黙って聞く。「取引先へ話を聞いて、社内でも現場の方に確認しました」「何が分かりましたか」「久世物産が思っている強みと、外から見た強みが少し違っていました」美緒の声には、迷いより整理された感触があった。「久世物産の中では、長い取引実績や百貨店との関係が強みだと思われています」「違う?」「それも

  • 御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する   32.切れば数字は戻る

    前回のオンライン打ち合わせを終えてからも、美緒の言葉は鷹宮の中に残っていた。何を切れば数字が良くなるかではなく、何を残すために何を変えるのか。問いの順番が違う。その考え方を、鷹宮は頭の中で何度か組み直した。企業再生では、残された時間が少ないことがある。資金が尽きるまで半年。金融機関の支援期限まで三か月。翌月の給与すら危うい。そんな状況で、何を残したいかと丁寧に考えている余裕などないこともある。まず出血を止める。利益を生まない事業を閉じ、固定費を落とし、資産を現金に変える。それを鷹宮は何度もしてきた。必要なことだと思っていたし、今でもそう思っている。それでも、美緒の言葉を否定できなかった。数日後、美緒から再び連絡があった。久世物産の取引先ヒアリングを始める前に、確認しておきたいことがあるという。夜のオンライン打ち合わせだった。「こんばんは」「こんばんは」画面に映った美緒の前には、前回より資料が少なかった。代わりに、小さなノートが一冊置かれている。「今日は、久世物産の数字ではないんです」美緒が言った。「では、何ですか」「前回のお話についてです」鷹宮は少しだけ眉を上げた。「何を残すために、何を変えるかという話です」「はい」「取引先へ聞く前に、自分でも整理しておきたいと思って」美緒はノートを開いた。「会社を残すことと、関係を残すことは、同じではないですよね」「同じではありません」鷹宮は答えた。「場合によっては、会社を残すために関係を切る必要があります」「やっぱり、そうですよね」美緒の返事に落胆はなかった。確認しているだけだった。「取引先の事情を聞きすぎると、判断できなくなるのではないかとも思っています」

  • 御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する   31.資料はある。判断がない

    久世物産の初期診断が始まってから、十日ほど経った。その間、美緒から届いた連絡は二度だけだった。一度目は、追加で確認したい資料があること。二度目は、事業体制について少し相談したいというものだった。どちらも短く、久世家についての記述はなかった。怜央が何を言ったのか。宗一郎がどう対応したのか。以前、美緒が使っていた部屋を通ったのか。そうしたことを鷹宮は知らない。知らないまま、オンラインの接続時刻を迎えた。午後七時。鷹宮が会議画面を開くと、数秒後に美緒が入室した。「こんばんは」「こんばんは。お時間ありがとうございます」「構いません」美緒の前には、いつもより多くの紙が積まれていた。画面に映る範囲だけでも、付箋が何枚も見える。色分けされているらしく、黄色、青、薄い赤が資料の端から覗いていた。「かなり増えましたね」鷹宮が言うと、美緒は資料へ目を落とした。「増えました」声に疲労はある。ただ、困り切っているというより、考えることが多すぎて頭を使い続けている人間の声だった。「今日は、どの部分を整理しますか」「体制の前に、一度、診断そのものについてお話ししてもいいですか」「どうぞ」美緒は一枚の資料を手に取った。「最初に思っていたより、資料はあります」鷹宮は少し意外に思った。「ないのではなく?」「はい。かなりあります」美緒はページをめくる。「商品別の売上があります。粗利表もあります。在庫表も、返品記録もあります。百貨店別の販売実績も、ECのアクセス記録も、取引先別の条件一覧もあります」「それなら、問題は資料不足ではない」「そうなんです」美緒が頷いた。「資料はあります」そこで一度、言葉を切る。「でも、判断

  • 御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する   4.美緒なら分かるだろ

    怜央からのメッセージは、短かった。莉奈の資料、今日中に見られる?美緒は、ダイニングのテーブルに広げた企画書を前にして、その文字をしばらく見つめていた。今日中に。莉奈が言った「ちょっと相談」という言葉より、その四文字はずっと重かった。けれど、怜央からの頼みだと思うと、重いと感じる自分の方が間違っているような気がした。窓の外では、庭の木々が夕方の光を受けて暗い影を落とし始めている。昼間には明るく見えた苔の色も、今は深く沈み、飛び石の縁だけがかすかに白く浮いていた。古い振り子時計の音が、廊下の奥から一定の間隔で届く

  • 御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する   3.お義姉さんならできますよね

    スマホの画面には、莉奈の名前が表示されていた。お義姉さん、今日おうちにいますよね? ちょっと相談したい資料があって。美緒は、洗い終えた茶器を布巾の上に伏せたまま、その文面を見つめた。ちょっと相談。その言葉は軽かった。少なくとも、断るほど重いものには見えなかった。けれど美緒は知っている。久世家で使われる「ちょっと」は、たいてい、その言葉より少し重い。応接室には、まだ香の匂いが薄く残っていた。先ほどまで来客たちの笑い声が満ちていた部屋は、今は静まり返っている。茶器は洗い終えた。菓子皿も拭いた。座布団も元の位置に戻

  • 御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する   2.奥様と呼ばれる檻

    応接室の花は、すでに整っていた。けれど美緒は、もう一度だけ花器の向きを確かめた。床の間の掛け軸に対して、枝先がわずかに右へ流れている。ほんの少しのことだった。誰も気づかないかもしれない。けれど、佳乃子は気づく。この家では、気づかれないことよりも、気づかれたときにどう見えるかが大切だった。美緒は花器を両手で持ち、音を立てないように数ミリだけ動かした。陶器の底が畳の上の薄い板に触れる、そのわずかな感触にまで神経が向く。朝から動き続けているせいか、指先が少し冷えていた。応接室は、客を迎えるための部屋というより、久世家が久世家であることを証明するための部屋に見えた。磨かれた座卓。季節に合わ

  • 御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する   1.重い門の内側

    久世家の朝は、門が開く前から始まる。まだ空は薄く青く、庭石の縁には夜の湿り気が残っていた。高い塀の向こうから、坂道を上ってくる車の音がかすかに聞こえる。新聞配達のバイクが一度止まり、また遠ざかっていく。その音は門の内側へ届く前に、どこかよその世界のものになった。美緒は玄関先に立ち、新聞受けから取り出した朝刊を両手でそろえた。重い門は、まだ閉じている。外から見れば、それは久世家の格式を示すものなのだろう。代々この地方都市で名を知られてきた旧家にふさわしい、堂々とした門構え。高い塀の内側には手入れされた庭が広がり、松の枝は季節に合わせて整えられている。飛び石には落ち葉ひとつ残されておらず、

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