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第3話 レンタル彼氏は来ない

Author: 花柳響
last update publish date: 2025-12-30 06:00:42

「……来ない」

 元恋人と元親友の披露宴開始まで、あと十五分。

 私は式場のエントランスで、スマートフォンを握りしめていた。画面は真っ暗。充電は切れている。予約したはずのレンタル彼氏からの連絡は、もう確認できない。

 今日の私は、外見だけなら隙がなかった。

 シャンパンゴールドのドレス。早朝に整えた髪。崩れないメイク。足元のヒールは少し痛いけれど、それも気合の一部だと思っていた。

 なのに、隣にいるはずの男だけがいない。

 受付へ向かうゲストたちの笑い声が、遠くから波のように聞こえてくる。あの重い扉の向こうには、拓也と美咲がいる。

 私が一人で入れば、笑われる。

 彼氏はどうしたの、と。

 やっぱり嘘だったのか、と。

 やっぱり朱里は俺を引きずっていたんだな、と。

「最悪……」

 声が喉に落ちた。

 逃げる? 仮病を使う? いや、逃げたら終わりだ。あの二人の前で啖呵を切った私まで、全部笑い話にされる。

 喉が狭くなり、視界が滲みかけた。その時だった。

 ホテルの柱のそばに、一人の男が立っているのが見えた。

 背が高い。

 艶を抑えたダークネイビーのスーツは、身体の線にぴたりと沿っているのに、少しも軽薄ではない。無造作にかき上げた黒髪。切れ長の目。白いシャツの袖口から覗く時計は、きっと私の年収より高い。

 ただ立っているだけで、周囲の空気が薄くなる。そう思わせる男だった。

 彼が顔を上げる。

 目が合う。

 彼の口元に、面白がるような笑みが浮かんだ。

(この人だ)

 普通のゲストじゃない。こんな男が、偶然この場にいるわけがない。

 時給五万円の、完璧な偽恋人。

 そう思い込むには、十分すぎるほど現実離れしていた。

 私は床を蹴るように歩き出した。

 ヒールの音が、エントランスに高く響く。

「遅い!」

 男の腕を掴む。

 硬い。スーツ越しなのに、鍛えられた体温がはっきり伝わってくる。

 男は驚かなかった。ただ片眉を上げ、私を見下ろす。怒鳴り込んできた女を相手にしているというより、予定外の面白い余興を見つけたような顔だった。

「すまない」

 思ったより、ずっと低い声だった。

 耳ではなく、胸のあたりに落ちる声。

「待たせたね」

「待たせたね、じゃないわよ。私の人生がかかってるの。延長料金なら払うから、ちゃんとやって」

「なるほど」

「何がなるほどよ」

 男は、私の手を見た。それから、扉の向こうを見た。

 何かを測るような間があった。

「恋人役、でいいのかな」

「婚約者役よ」

 言ってから、自分でも無茶だと思った。

 けれど男は、少しだけ笑みを深めただけだった。

「名前は?」

「茅野朱里」

「僕の名前は、湊でいい」

「でいい、って何よ」

「今はそれで十分だろう」

 腹が立つ。

 けれど時間がない。

 私は彼の腕に、自分の腕を絡めた。すると、湊の手が私の腰に添えられる。必要以上に乱暴ではないのに、逃げ場だけはきれいに消えた。

 近い。

 シトラスとムスクが混じった香りが、ふわりと鼻をかすめる。

「顔を上げて、朱里」

 湊が囁いた。

「君は、負けに来たんじゃない」

 胸が跳ねた。

 演技だ。仕事だ。そう思うのに、その一言で足の震えが止まった。

「……時給分、しっかり働いて」

「心得ている」

 私は息を吸い、重い扉を見据えた。

 この先は戦場だ。

 拓也。

 美咲。

 見ていなさい。

 ◇

 扉が開いた瞬間、視線が刺さった。

 シャンデリアの光。ゲストたちのざわめき。グラスを持つ手を止めてこちらを見る、数えきれない瞳。

 祝福という名の好奇と、同情と、少しだけ下品な期待。それらが一斉に、ドレスの薄い布地を通して肌に触れてくる。

 一瞬、足がすくんだ。

 反射的に湊の腕を握る。

 上質なスーツの下にある硬さが、馬鹿みたいだけれど命綱のように感じられた。

「大丈夫」

 耳元で声がした。

「今日、君が一番綺麗だ」

「仕事でしょ」

「仕事だとしても、嘘とは限らない」

 やめて。

 そういう言い方は、心臓に悪い。

 頬の熱を誤魔化すように、私は背筋を伸ばした。

 奥のメインテーブルで、美咲の笑顔が固まる。拓也はグラスを持ったまま、私の隣の男を凝視していた。口元だけ笑おうとして、失敗している。

 勝った、と思う。

 まだ何もしていないのに、胸の底で黒い高揚が跳ねる。

 湊のエスコートには隙がなかった。私の歩幅に合わせ、ドレスの裾にまで目を配る。視線を浴びても、揺らがない。私たちが招かれざる客ではなく、この場にいて当然の二人なのだと、歩き方だけで周囲に思わせてしまう。

 乾杯の挨拶が始まった。

 私は高級フレンチにほとんど手をつけられなかった。喉を通るわけがない。けれど湊は違った。ナイフとフォークを扱う指先まで落ち着いていて、同じテーブルの知人たちに「朱里とは共通の知人のパーティーで」と、もっともらしい嘘を穏やかに振りまく。

 話しすぎない。

 黙りすぎない。

 距離は近いのに、品がある。

 嘘をついている時の彼は、なぜこんなにも魅力的なのだろう。

「朱里、来てくれたんだ」

 美咲が近づいてきた。その隣には、拓也もいる。

 純白のウエディングドレス。幸せそうな笑顔。けれど、目だけは少しも笑っていない。私のドレス、髪、メイク、そして湊を、順番に値踏みしている。

「隣の方が、例の婚約者さん?」

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