LOGIN張り詰めていた糸が、ぷつりと切れる音がした。
全身から力が抜けていくのがわかる。安堵と、高ぶりすぎた感情の揺り戻しで、指先が微かに震え出した。 その時、隣の彼が、私にだけ聞こえる声量で、そっと耳元に囁いた。 「朱里、大丈夫かい?」 会場の喧騒が、一瞬遠くなる。 「辛かったら、僕の手を握って」 その声の甘さに、心臓が跳ね上がった。 見上げると、彼は先ほどの冷徹な「氷の貴公子」の顔ではなく、ほんの少しだけ心配そうな、どこか幼ささえ感じる優しい瞳で私を覗き込んでいた。 (……ダメだ、ダメ。これは演技。仕事だ) 私は自分を叱咤する。けれど、震える手は救いを求めていた。 私は、テーブルの下で震えそうになる自分の手を隠すように、彼の差し出した大きな手のひらをぎゅっと握りしめた。 熱い。 男の人の体温が、こんなにも高く、安心感を与えるものだなんて知らなかった。彼の手は私の手をすっぽりと包み込み、宥めるように親指で私の甲をゆっくりと撫でた。その愛撫のような仕草に、身体の奥がじんわりと熱くなる。 「……っ、演技、うまいじゃない。時給分は働いてるわよ」 そう言ってそっぽを向くのが、精一杯だった。耳まで赤くなっているのが自分でもわかる。 私の強がりを聞いた湊は、小さく喉の奥で笑ったようだった。ククッ、と響く振動が、繋いだ手と肩から伝わってくる。 「……それはどうも。クライアントにご満足いただけて光栄だよ」 彼はそれ以上何も言わず、再び完璧なフィアンセの仮面を被り、優雅な仕草でシャンパンのグラスを口に運んだ。 その横顔は、あまりにも整いすぎていて現実味がない。長い睫毛が頬に落とす影、すっと通った鼻筋、薄く形の良い唇。 (……この人、本当にホストなの?) さっきの拓也たちへの対応は、時給五万でも安すぎるくらい、見事なものだった。まるで、ああいう修羅場や、人間の悪意、嫉妬といった泥臭い感情をあしらうことに慣れ切っているかのように。 彼が隣にいるだけで、私まで格上の人間になったかのような錯覚に陥る。守られている、という絶対的な安心感。 その後の披露宴は、私にとってひどく曖昧で、夢の中の出来事のように過ぎていった。 美咲と拓也が幸せそうにキャンドルサービスでテーブルを回ってくる時も、湊は私の肩に手を回し、完璧な笑顔で拍手を送っていた。その手が触れている部分だけが、ドレスの薄い生地越しにじりじりと熱く、私の意識の全てを奪っていく。 湊は、私が何も言わなくても、私が何をされたら嫌なのか、どう守ってほしいのかを、全て先読みしているかのようだった。 それは、ただの「演技」なのだろうか。 それとも、彼が言うところの「時給分」の仕事なのだろうか。 あれがもし、彼の素の優しさだとしたら――。 (……馬鹿。何考えてんの、私) 私はぶん、と頭を振った。男に裏切られたばかりのくせに。こんな作り物の優しさに、また絆されそうになるなんて。 これは全部、お金で買った、偽物の関係だ。一時の夢だ。 そう自分に強く言い聞かせているうちに、とうとう、地獄のような披露宴が終わりの時を迎えた。◇
会場の出口では、新郎新婦と両家の両親が並び、ゲストを見送っている。
私も、湊にエスコートされながら、その列に進んだ。 最後の総仕上げだ。 「美咲、拓也。今日は、本当におめでとう」 私は、プロのブライダルコーディネーターとして培った、完璧な笑顔を貼り付けて言った。声も震わせない。 「……朱里。来てくれて、本当にありがとう」 美咲は、一瞬泣きそうな、縋るような顔をしたが、すぐに笑顔を取り繕った。拓也は、私の隣に立つ湊を警戒しているのか、気まずそうに視線を逸らし、「あ、ああ……」と頷くだけだ。 もう、彼らに未練も怒りもない。あるのは、ただの哀れみだけだった。 「では、お幸せに」 湊が、私の腰に手を添えて、軽く退出を促す。その手つきは、最後まで私を大切に扱う宝石のように丁重だった。 私たちは、完璧な「幸せな婚約者同士」を演じきり、式場の喧騒を背にして、エントランスホールへと抜け出した。 回転扉を抜けて外に出ると、ひんやりとした夜風が、火照った頬に心地よかった。 都会の夜景が滲んで見える。 (……終わった) 全身の力が抜けて、その場にへたり込みそうになる。疲労困憊だ。ハイヒールの足が悲鳴を上げている。 でも、それと同時に、胸の奥にあった黒い屈辱の塊が、嘘のように軽くなっていた。 あの二人に、惨めな姿を見せずに済んだ。それどころか、完膚なきまでに打ちのめしてやった。 すべて、隣にいるこの「時給五万の男」のおかげだ。 私は深呼吸をして、隣の彼を見上げた。 街灯の下、彼はポケットに片手を突っ込み、どこか気だるげにネクタイを少し緩めていた。その仕草すら、ファッション誌の1ページのように様になっている。 「……あの」 私は、財布を取り出そうとバッグに手をかけながら、彼に向き直った。 ここで清算して、終わりだ。魔法が解ける時間。 「今日は、その……本当に、助かりました。完璧な仕事だったわ。ええと、料金は……」 いくらになるんだろう。三時間拘束したから、十五万? それに、あの神対応のオプション料金とか……。手持ちで足りるだろうか。 そんなことを考えていると、男は、私をじっと見つめていた。 ホテルのエントランスの明かりが、彼の整った顔に影を落としている。逆光で表情がよく見えない。 けれど、彼が纏う空気が、先ほどまでの「優しいフィアンセ」のものから、別質の何かに変わったのを感じて、私はごくりと喉を鳴らした。 獲物を見定めた肉食獣のような、危険な気配。 彼は、ゆっくりと口を開いた。唇の端を吊り上げ、あの、人を食ったような不敵な「半笑い」で。 「お疲れ様。……いいショーだったよ」 低い声が、夜の空気に溶ける。鼓膜を甘く痺れさせるような、低い響き。 彼は私との距離を一歩詰めると、逃げ場を封じるように覗き込んだ。 「さて、」 その瞳が、妖しく光った気がした。 「契約延長といくかい?」耳朶に、熱い吐息が直接吹きかかる。低く、鼓膜を震わせる声。それでいて有無を言わせぬ、絶対的な響き。「報酬が高くつく」――その言葉が、アルコールで痺れた頭に警鐘を鳴らす。(まずい。この男、本気だ) 私は、彼の胸板を必死に押そうとする。滑らかなスーツの生地越しに、岩盤のような硬さが伝わってくる。だが、アルコールで熱を持った指先は、その上を虚しく滑るだけだ。「……っ、はな、して……」 抗議の声は、自分でも情けないほどか細い。 湊は、そんな私を面白そうに見下ろしていたが、やがて、ふっと息を吐いた。「……これでは、話にならないな」 そう呟いたかと思うと、次の瞬間。 私の膝裏と背中に、彼の腕が差し込まれた。「え……?」 ふわり、と身体が浮いた。膝裏と背中に差し込まれた腕は、驚くほど安定的で、びくともしない。いわゆる、お姫様抱っこ。彼の高価なスーツと、微かなムスクの香りに、身体ごと包み込まれる。(嘘でしょ!?) あまりの展開に、酔いも何もかもが吹き飛びそうになる。「ちょっと! 降ろしなさいよ! 自分で歩ける!」「ふらついている人間が、何を言う」 湊は私の抵抗などまるで意に介さず、私を抱きかかえたまま、寝室であろう奥の部屋へとこともなげに歩き出す。スレンダーに見えたのに、スーツの下には、鍛え上げられた分厚い筋肉が隠されているのが、腕に回された感触で嫌というほどわかる。(え? 嘘、このまま流されちゃうの私?) 時給五万のホストに、復讐の道具として雇った男に、スイートルームで? 私のプライドが、そんな屈辱的な結末を許さない。「降ろして! これは契約違反よ! 追加料金、払わないから!」「……騒ぐと、唇で塞ぐぞ」 ドクン、と心臓が喉まで跳ね上がった。 その、冗談とも本気ともつかない低い声に、私は息を呑んで固まった。 本当に、やりかねない。この男なら。
「―――は?」 一瞬、思考が停止する。 きみで、いい? それが何を意味するのか、数秒遅れて理解した瞬間、カッと全身の血が頭に上った。「……っ、ふざけないで! あんた、自分が何言ってるかわかってんの!?」 私は、持っていたバッグを盾にするように一歩後ずさる。 この男は、どこまで私を馬鹿にすれば気が済むのだろう。「金は払うって言ってるでしょ! 時給五万、三時間で十五万! それ以上払えって言うなら……!」「落ち着きなよ」 湊は、私の剣幕を意にも介さず、片方のワイングラスを優雅に私に差し出した。 グラスの中で揺れる深紅の液体が、妖艶な光を放つ。「まずは乾杯でもどうかな。君の『戦勝祝い』だ」「いらない!」「そう言うなよ。……それとも、僕が注いだお酒は飲めない?」 まただ。あの、人をからかうような、余裕たっぷりの半笑い。 その瞳は、獲物が罠にかかるのを待つかのように、楽しげに細められている。(……馬鹿に、して) こっちは、人生最大の屈辱を晴らすために、必死だったっていうのに。 拓也と美咲への怒り。目の前の男に翻弄される悔しさ。そして、一日中張り詰めていた緊張の糸。それらが、ごちゃ混ぜになって私の中で爆発した。「……っ、飲むわよ! 飲めばいいんでしょ!」 私は、彼の手からグラスをひったくると、勧められるまま、その赤い液体を煽った。 高級なワインなのだろう。芳醇な、とろりとしたベリーのような甘い香りが鼻を抜ける。だが、今の私には、その味わいなんてどうでもよかった。喉を焼くアルコールの刺激だけが、かろうじて現実を感じさせてくれる。「……っ」 空になったグラスを突き出すと、彼が面白そうに眉を上げ、もう一度注ぐ。それも一気に飲み干す。「どうよ! これで文句な……」 数杯、立て続けに空にした時だっ
(……雇われる?) 私は、目の前の男が何を言っているのか、本気で理解ができなかった。 昨日、私が時給五万で雇った、はずの男。 私をスイートルームで翻弄し、欲望のままに私を抱いた、はずの男。 今朝、私の職場に現れて、「婚約者のドレスを選びに来た」と私を地獄に突き落とした、はずの男。 その男が、今、私を「婚約者役として雇いたい」……?「……っ、あんた、いい加減にして」 私は、こめかみがズキズキ痛むのをこらえながら、彼を睨みつけた。 この男の口から出る言葉は、どれもこれも私の常識を遥かに超えている。「昨日から、ずっと私を弄んで……。そんなに楽しい? 人の心も身体も、めちゃくちゃにして」「心と身体を弄んだ、か」 湊は、私の言葉を訂正するように呟き、心底不思議そうに首を傾げた。その声には、罪悪感など微塵もなく、あるのは冷徹な計算だけだ。「これは、ビジネスの話だ。昨夜のことは、まあ……契約の『手付金』のようなものだったとでも思えばいい。君にもメリットはあるはずだ」「手付金……ですって?」(……最低だ、この男) 全身の血が沸騰するような怒りを感じた。 昨夜の、あの熱いキスも、肌を合わせた感触も、私たちが共有した(と思っていた)刹那的な感情も。 この男にとっては、ただのビジネスの「前払い」に過ぎなかったというのか。 私が感じていた罪悪感や、ほのかなときめきが、音を立てて崩れ去っていく。残ったのは、冷たく乾いた「契約」という現実だけ。「メリット……?」 私は震える声で問い返した。「私に、何のメリットがあるっていうのよ。あんたの遊び相手にされて、都合よく使われて!」「俺は、とある事情で、早急に『婚約者』を必要としている」 彼の目が、すっと細められる。それは、獲物を定めるような、冷徹な光だっ
「……は?」 契約延長? 私は、その言葉の意味が瞬時に理解できず、間抜けな声を上げた。 エントランスの冷たい夜風が、急に生々しく感じられる。「けいやく、えんちょう……って、何よ。もう、あの二人はいない。私の復讐は終わったわ。あんたの仕事も、ここまでよ」「そうかな?」 湊は、ポケットに片手を突っ込んだまま、あの人を食ったような半笑いを崩さない。都会のネオンを反射して、彼の瞳が底知れなく光る。「君は、あのまま帰るつもりだったのかい? あの二人……拓也、と言ったかな。彼らが、君たちが本当に付き合っているか、まだ疑っているとしたら?」「……!」 心臓を冷たい手で掴まれたような感覚。 確かに、そうだ。今日のところは完璧に撃退できたと思った。でも、後で「あの男、誰だったの?」「本当に付き合ってるの?」と共通の友人に探りを入れられるかもしれない。あの二人の性格なら、あり得ることだ。もし嘘だとバレれば、今日の勝利は一転、惨めな道化の戯言と化す。「中途半端な復讐は、かえって自分の首を絞めることになる。……違うかい?」 ぐうの音も出ない。この男は、私の浅はかなプライドと、その裏にある脆い弱さを、最初から完全に見透かしている。 悔しいけれど、彼の言う通りだ。「……で。延長っていくらなのよ。言っとくけど、私、そんなにお金持ってないんだから!」 私がなけなしのプライドで財布を握りしめて睨みつけると、湊は心底おかしそうに、ふっと息を漏らした。「料金の話は、場所を変えてしよう。ついてきて」 そう言うと、彼は有無を言わさず私の手首を掴んだ。 骨張った、けれど力強い指先。その体温の高さに、びくりと肩が跳ねる。「ちょっ、どこ行くのよ!」「僕の職場さ」 抵抗する間もなく、彼が向かった先は、なんと、今しがた式を挙げたホテルの、その上層階へと続く専用エレベーターだった。 重厚な
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れる音がした。 全身から力が抜けていくのがわかる。安堵と、高ぶりすぎた感情の揺り戻しで、指先が微かに震え出した。 その時、隣の彼が、私にだけ聞こえる声量で、そっと耳元に囁いた。「朱里、大丈夫かい?」 会場の喧騒が、一瞬遠くなる。「辛かったら、僕の手を握って」 その声の甘さに、心臓が跳ね上がった。 見上げると、彼は先ほどの冷徹な「氷の貴公子」の顔ではなく、ほんの少しだけ心配そうな、どこか幼ささえ感じる優しい瞳で私を覗き込んでいた。(……ダメだ、ダメ。これは演技。仕事だ) 私は自分を叱咤する。けれど、震える手は救いを求めていた。 私は、テーブルの下で震えそうになる自分の手を隠すように、彼の差し出した大きな手のひらをぎゅっと握りしめた。 熱い。 男の人の体温が、こんなにも高く、安心感を与えるものだなんて知らなかった。彼の手は私の手をすっぽりと包み込み、宥めるように親指で私の甲をゆっくりと撫でた。その愛撫のような仕草に、身体の奥がじんわりと熱くなる。「……っ、演技、うまいじゃない。時給分は働いてるわよ」 そう言ってそっぽを向くのが、精一杯だった。耳まで赤くなっているのが自分でもわかる。 私の強がりを聞いた湊は、小さく喉の奥で笑ったようだった。ククッ、と響く振動が、繋いだ手と肩から伝わってくる。「……それはどうも。クライアントにご満足いただけて光栄だよ」 彼はそれ以上何も言わず、再び完璧なフィアンセの仮面を被り、優雅な仕草でシャンパンのグラスを口に運んだ。 その横顔は、あまりにも整いすぎていて現実味がない。長い睫毛が頬に落とす影、すっと通った鼻筋、薄く形の良い唇。(……この人、本当にホストなの?) さっきの拓也たちへの対応は、時給五万でも安すぎるくらい、見事なものだった。まるで、ああいう修羅場や、人間の悪意、嫉妬といった泥臭い感情をあしらうことに慣れ切っているかのように。 彼が隣に
重厚な両開きの扉がスタッフの手によって恭しく開かれた瞬間、視界を埋め尽くすようなまばゆいフラッシュの光と、数百の瞳が一斉にこちらを向く物理的な圧力が、突き刺さるように私に集まった。 一瞬、足がすくむ。 天井高く吊るされた豪華絢爛なシャンデリアが、残酷なほど会場の隅々までを照らし出している。そこは、私を裏切った元彼と親友を祝福するための、広すぎる披露宴会場。 祝福という名の好奇に満ちた視線が、場違いな来訪者である私と――そして私の隣に立つ、あまりにも完璧すぎる男に注がれているのが肌でわかった。(……ヤバい。息が、できない) 心臓が早鐘を打ち、指先が冷たくなる。 ぎゅっ、と。私は無意識に、とっさに絡ませた男の腕を強く握りしめていた。 シルク混の上質なスーツ生地越しに、硬く引き締まった筋肉の感触が伝わってくる。その熱と固さが、唯一の命綱だった。 すると、隣の男――今日から私の「偽物の彼氏」となった彼は、その無数の視線を楽しむかのように、唇の端に浮かべたあの半笑いを一層深くした。「堂々と。……君は、今日の主役より美しい」 耳元で囁かれた声は、まるで上質なベルベットのようだった。 低く、甘く、鼓膜を震わせ、私の芯にある不安だけを狙って溶かしていくような響き。吐息が耳朶を掠める感触に、背筋にぞくりとした電流が走る。(うわ……。これが時給五万の「演技」……) わかってる。わかっているけれど、その計算された声色と、腕から伝わる頼もしい体温に、心臓が言うことを聞かない。「……っ、わかってるわよ、仕事でしょ!」 私は彼にだけ聞こえる小声で悪態をつき、彼から見えないように頬の熱を誤魔化しながら、精一杯背筋を伸ばした。 そうだ、私は今日、ただ祝いに来たのではない。奪われたプライドと、屈辱を晴らしに来たのだ。 私たちが会場に足を踏み入れたことで、ざわめきがさざ波のように大きくなる。「おい、あれって茅野だよな?」「隣の男、







