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第2話

Author: 花柳響
last update Last Updated: 2025-12-29 13:26:40

 もうダメだ。今すぐ踵を返して、世界で一番遠い場所まで逃げ出したい。

 そう思って、涙が滲む目でエントランスの大理石の柱に寄りかかろうとした、まさにその瞬間。

 視界の端に、一人の男が立っているのが入った。

 息が、止まった。

 まるで彼一人にだけ、特別なスポットライトが当たっているかのような錯覚を覚えた。

 他のゲストとは明らかに違う、圧倒的な存在感。周囲の空気が、彼を中心にして冷たく澄み渡っていくようだ。

 身長は百八十五センチはあるだろうか。恐ろしく仕立ての良い、艶のあるダークネイビーのスーツが、その身体を包んでいる。スレンダーだが、決して華奢ではない。スーツの上からでも、鍛え上げられた体幹と、シャツの下に隠された筋肉の躍動がわかるほどだ。

 無造作にかき上げられた黒髪が、額にかかり、整いすぎた顔立ちに色気のある影を落としている。切れ長の瞳、通った鼻筋、薄い唇。それは神様が気まぐれに作った芸術品のように美しく、そしてどこか冷ややかだった。

(……綺麗)

 切羽詰まった状況だというのに、それが私の最初の感想だった。

 男が、ふと左腕を優雅な動作で上げた。白く糊の効いたシャツの袖口から覗く、家が一軒買えそうな高級時計に視線を落とす。その何気ない仕草だけで、周囲の女性客が色めき立つのがわかった。

 そして、ゆっくりと顔を上げた彼と、真正面から視線がぶつかった。

 心臓が、鷲掴みにされたみたいに痛んだ。

 その瞳は、獲物を品定めするような、冷徹で理知的な光を宿していた。だが、私と目が合った瞬間、彼の口元に、面白がるような、からかうような……なんとも表現しがたい「半笑い」が浮かんだのだ。

 その笑みを見た瞬間、私の中で、焦りが怒りを突き破って爆発した。

(この男だ!)

 間違いない。こんな非現実的なレベルのイケメン、普通のゲストのはずがない。一般人が持ち合わせるオーラではない。

 これが、時給五万の「完璧な偽恋人」!

 レビューにあった通り、現実感がないほどの男。写真よりもずっと実物のほうが破壊力がある。

 だけど!

(遅刻ってどういうことよ! しかも、何その余裕!?)

 私はもう、なりふり構っていられなかった。タイムリミットはとっくに過ぎている。私の社会的生命がかかっているのだ。

 私は、床を蹴るように、七センチのハイヒールで彼に向かってまっすぐ突き進んだ。かつかつと、石畳にヒールの音が響く。

 男は、驚くでもなく、むしろ興味深そうに目を細めて、猛進してくる私を見ている。その余裕綽々な態度が、さらに私の怒りに油を注いだ。

「遅い!」

 私は彼の目の前で仁王立ちになると、ほとんど叫ぶように言って、その筋張った腕を力任せに掴んでいた。

 硬い。

 高級スーツの生地越しに伝わる腕は、まるで鋼鉄のように硬く、熱かった。

 ◇

 私が掴んだ腕は、びくともしない。

 その男は、私の「遅い!」という怒声を受けても、わずかに片眉を上げただけだった。口元に浮かんだ、人を小馬鹿にしたような、けれどどうしようもなく魅力的な「半笑い」が、ほんの少しだけ深くなる。

 何を考えているのか、その冷徹な分析眼が、私を頭のてっぺんから爪先までスキャンするようにゆっくりと往復する。

 まるで、私の選んだドレスの価値も、気合を入れたメイクの下の顔色の悪さも、その瞳に宿った怒りも焦りも、なけなしのプライドも、すべてお見通しだと言わんばかりに。

 普通なら、こんな見ず知らずのヒステリックな女の手は振り払って、警備員でも呼ぶところだろう。なのに、彼はそうしなかった。むしろ、この異常な状況を、退屈しのぎのゲームとして楽しんでいるようにすら見える。

(……何なの、この余裕。ムカつく)

「すまない」

 男は、意識的にトーンを落としたような、低く甘い声を出した。それは、耳ではなく脳髄に直接響くような、重低音のバリトンボイスだった。

「待たせたね。……心配したかい?」

「は……?」

 予想外の謝罪と、まるで恋人に囁くような甘い響きに、私は一瞬、毒気を抜かれて面食らった。

 だが、すぐに我に返る。そうだ、こいつはプロだ。時給五万も取るナンバーワンだ。このくらいの演技、即座にできて当然だ。

「心配っていうか、あんたが来なかったら、私が社会的に死ぬところだったのよ! もういい、延長料金でも何でも払う! 払うから、完璧にやりなさいよ!」

「もちろんだとも」

 男は、私が掴んでいた自分の腕に、そっと逆の手を重ねた。

 びくっ、と私の肩が小さく跳ねる。

 男の手は、大きくて、骨ばっていた。触れられた部分から、カッと熱くなるような感覚が走る。

「……報酬分は、きっちり働かせてもらう」

 男は意味深にそう言うと、重ねた手で、私の強張った指を一本一本、優しく、しかし有無を言わせぬ力強さでほどいた。

(え、なに、帰る気!? やっぱり断るつもり!?)

 私が青ざめたのも束の間、男は、今度は自分の腕を私の腰に、ぐっと引き寄せるように回したのだ。

「なっ……!」

 身体が密着する。

 予期せぬ距離の近さに、私は小さな悲鳴を上げた。

「恋人役、だろう?」

 半笑いのまま、男が顔を近づける。近すぎる。長い睫毛の一本一本まで数えられそうな距離に、整いすぎた顔がある。彼から漂う、シトラスとムスクが混じったような、高級で官能的な香りがふわりと鼻腔をくすぐった。

 心臓が、ドクン、と大きく鳴る。それは怒りなのか、緊張なのか、それとも別の何かなのか、自分でも判別がつかない。

(ち、近い……! これも演技!? 今のホストってここまでやるの?)

 私は混乱し、頬が熱くなるのを感じながらも、ここで負けてはいられないと、必死に彼を睨み返した。彼のペースに飲まれたら、復讐なんて成功しない。

「……っ、当たり前でしょ! とにかく行くわよ!」

 もう、どうにでもなれだ。

 私は、男の腕が腰に回されているのも構わず、彼を式場の重い扉へとぐいぐい引っ張っていく。

 扉の前で、私は一度だけ足を止め、大きく深呼吸した。

 この扉を開ければ、そこは戦場だ。

(見てなさい、拓也、美咲。私の、完璧な彼氏よ。あんたたちなんかより、ずっと素敵な人と幸せになった私の姿を、その目に焼き付けてやる)

 隣の男を見上げ、最後の確認をする。

「いい? 私の人生かかってんだから。ヘマしたら承知しないわよ!」

「心得ているよ」

 男は、まるで愛しい子供を見るような、あるいは手のかかるペットを見るような眼差しで私を見下ろし、口角を上げた。その傲慢な笑みに、私はムカつきながらも、今はそれに乗るしかなかった。

 ◇

 よし、と。

 私は、掴まれていた腰を強引に捻り、一度男の腕から逃れた。そして、今度は自分から、その完璧なスーツに包まれた男の左腕に、これ見よがしに自分の腕をしっかりと絡ませた。

 ぎゅっ、と抱きつくように密着する。

(……硬い。スーツ越しなのに、筋肉の形がわかる)

 一瞬、伝わってきた男性的な体温と硬質な感触に、身体の奥が疼くような錯覚を覚えるが、すぐに首を振って雑念を払う。

 今は、目の前の戦いに集中する時だ。この男は武器だ。私のプライドを守るための、最高級の武器。

 私は、絡ませた腕にぐっと力を込め、扉の向こうにいるであろう裏切り者たちを睨みつけるように、まっすぐに前を見据えた。

 隣の男をちらりと見上げ、最後の釘を刺す。

「行くよ、時給分しっかり働いてもらうんだから!」

 宣言と同時に、私は空いている手で、式場の重厚な扉を力強く押し開けた。

 眩いシャンデリアの光と、大勢のゲストの楽しげな喧騒が、一気に二人を包み込む。

 地獄か、それとも逆転のステージか。

 復讐の舞台は、今、幕を開けた。

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