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第12話

Author: 花柳響
last update Last Updated: 2026-01-02 00:33:03

(……雇われる?)

 私は、目の前の男が何を言っているのか、本気で理解ができなかった。

 昨日、私が時給五万で雇った、はずの男。

 私をスイートルームで翻弄し、欲望のままに私を抱いた、はずの男。

 今朝、私の職場に現れて、「婚約者のドレスを選びに来た」と私を地獄に突き落とした、はずの男。

 その男が、今、私を「婚約者役として雇いたい」……?

「……っ、あんた、いい加減にして」

 私は、こめかみがズキズキ痛むのをこらえながら、彼を睨みつけた。

 この男の口から出る言葉は、どれもこれも私の常識を遥かに超えている。

「昨日から、ずっと私を弄んで……。そんなに楽しい? 人の心も身体も、めちゃくちゃにして」

「心と身体を弄んだ、か」

 湊は、私の言葉を訂正するように呟き、心底不思議そうに首を傾げた。その声には、罪悪感など微塵もなく、あるのは冷徹な計算だけだ。

「これは、ビジネスの話だ。昨夜のことは、まあ……契約の『手付金』のようなものだったとでも思えばいい。君にもメリットはあるはずだ」

「手付金……ですって?」

(……最低だ、この男)

 全身の血が沸騰するような怒りを感じた。

 昨夜の、あの熱いキスも、肌を合わせた感触も、私たちが共有した(と思っていた)刹那的な感情も。

 この男にとっては、ただのビジネスの「前払い」に過ぎなかったというのか。

 私が感じていた罪悪感や、ほのかなときめきが、音を立てて崩れ去っていく。残ったのは、冷たく乾いた「契約」という現実だけ。

「メリット……?」

 私は震える声で問い返した。

「私に、何のメリットがあるっていうのよ。あんたの遊び相手にされて、都合よく使われて!」

「俺は、とある事情で、早急に『婚約者』を必要としている」

 彼の目が、すっと細められる。それは、獲物を定めるような、冷徹な光だった。

「そして君は、昨日、見事に『恋人役』を演じきった。……ついでに言えば、元彼に裏切られ、プライドを傷つけられている」

「……!」

「どうかな。これは、君にとっての『復讐』の続きにもなる。俺の『婚約者』になれば、君を裏切った元彼も、その女も、二度と君を馬鹿にできなくなる。……悪くない提案だろう?」

 悪魔の、囁きだ。

 抗いがたい、甘い毒を含んだ響きを伴って、その声が私の耳に染み込んでくる。

 この男は、全部わかっている。

 私が、まだあの屈辱を引きずっていることも。

 私が、逆境に立たされると意地を張るタイプだということも。

 湊は、テーブルの上で長い指を組み、私を観察するように見つめている。その余裕綽々な態度が、どうしようもなく癪に障る。

(……なんなのよ、この男)

 腹の底から、熱いものがこみ上げてくる。

 この男は、私を、私の感情も、身体も、全部「コントロールできる駒」だと思っている。お金と、権力と、少しの甘い言葉があれば、私が喜んで尻尾を振ると思っているのだ。

(……面白いじゃない)

 屈辱と、怒りと、そして、ほんの少しの好奇心。

 この、底が知れない男の、「本心」を見極めてやる。

 私を「雇う」なんて、そんな思い通りに、なると思ってんの?

 私は、テーブルに置かれた契約書らしき紙を、指先でトン、と押し返した。

 心臓が早鐘を打っているけれど、表情だけは決して崩さない。

「……ビジネス、ね。わかったわ」

 私は、精一杯の虚勢を張って、彼を見据えた。

「いいわ。その『ビジネス』、乗ってあげる」

 私の、精一杯の強がり。

 本当は、耳鳴りがしそうなくらい頭が混乱していた。

 でも、ここで引いたら、この男の思う壺だ。泣いて逃げ出すなんて、私のプライドが許さない。

 昨日、私が「レンタル」したと思ったら、今度は私が「雇われる」?

 立場が逆転したみたいじゃない。

(……上等よ)

 この男が、一体何を企んでいるのかは知らない。

 でも、私をこんなにコケにしてくれたんだ。

 その「契約」、受けて立って、あんたのその余裕綽々なうすら笑いの仮面を、いつか絶対に剥がしてやる。

 私は、プライドと、「彼の本心を見極めてやる」という反骨心で、この無茶苦茶な契約を受け入れる決意を固めた。

「で?」

 私は、わざと足を組み、彼を挑発するように見上げた。

 膝が震えそうになるのを、テーブルの下で必死に押さえつける。彼に主導権を握らせたままなんて、絶対に嫌だ。

「ビジネスって言うからには、当然、報酬が出るんでしょうね? 私を『婚約者』として雇うのに」

 私は、カフェの喧騒を切り裂くように、声を張り上げた。

「――いくら払うっていうのよ!」

 カフェラウンジに、私の声が響き渡る。

 周囲の客が驚いてこちらを振り返る視線を感じるが、もう構っていられない。

 そうだ。金の話だ。これは仕事。そう割り切るしかない。

 割り切って、この男の懐に入り込んで、昨夜の屈辱と、この男の正体を、絶対に暴いてやる。

 私が叫んだ、その瞬間だった。

 二人がけの私と湊のテーブルに、ふわりと、影が差した。

 高級な、だが鼻をつくような少しキツい香水の匂い。

 そして、凛とした、それでいてどこか張り詰めた女の声が、湊の名を呼んだ。

「――湊様、お久しぶりです」

 見上げると、そこには、場の空気を一変させるような、洗練されたキャリアウーマン風の美女が立っていた。

 完璧にセットされた巻き髪、仕立ての良いブランドスーツ、そして私とは違う、生まれながらの上流階級のオーラが滲み出ていた。

 彼女は、金の話を叫んだばかりの私と、優雅にコーヒーを飲む湊を、値踏みするように冷ややかに見つめていた。

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