登入送信ボタンの上で、親指が止まっていた。
これを送れば、すべてが壊れる。
二人の結婚も、評判も。
たった一度タップするだけで、灰の中に残されるのは私だけではなくなる。
――それでも。
脳裏に浮かんだのは、十六歳のザーンだった。
誰からも相手にされなかった、物静かで不器用な私に、自分の昼食を分けてくれた少年。
そして十八歳のジョヴィエンヌ。
私の手を握り、「私の服なら何でも貸してあげる」と笑ってくれた少女。
私が一度も、自分にはもったいないと思っていた友情を、当たり前のように与えてくれた。
二人は裏切った。
それでも同時に、私の人生そのものだった。
私はメッセージを削除した。
スマートフォンを助手席へ放り投げる。
自分自身に腹が立った。
復讐するための完璧な手段を、この手に握っていたのに。
私は、それを実行できなかった。
何もかも失った今でさえ、私はまだ――
二人を愛しすぎている少女だった。
私にとって、たった二人の友人だった。
それからさらに一時間ほど車を走らせた。
気づけば、見たこともないバーにいた。
知らない街。
知らない店。
私はジンをストレートで注文した。
バーテンダーは何も聞かなかった。
そのとき、スマートフォンが光った。
次々と届くメッセージの振動で、テーブルが小さく震える。
ジョヴィ:
《ネリ、お願い。あれは間違いだったの。ほんの一瞬、弱くなっただけ。話をしましょう。》ザーン:
《ベイビー、お願いだ。どこにいる? 頭がおかしくなりそうだ。説明させてくれ。》私はスマートフォンを伏せた。
そして、もう一杯注文した。
その頃には、酒が少しずつ私の判断力を奪い始めていた。
そして――
その手が、私に伸びてきた。
「おい、寂しい女。俺たちと楽しもうぜ」
見知らぬ男が私の身体を掴んだ。
ビール臭い息。
安っぽい香水。
腰に回された手が、私を椅子から引きずり下ろそうとする。
「……あっち行って」
頭が重い。
視界が揺れる。
「気が強いな。そういうの、好きだぜ」
ぼやけた視界の中で、男が笑った。
そのとき――
反対側から、別の手が伸びた。
今度は、もっと強い。
私は押し返そうとした。
けれど、身体が言うことを聞かない。
ジンが効いていた。
「……やめて」
低い声が漏れた。
その瞬間。
「彼女がやめろと言っている」
背後から声がした。
静かで、平坦だった。
大声ではない。
それなのに、バーの喧騒を切り裂き、背筋が震えた。
私の身体を掴んでいた手が、強く引き離される。
男たちの手が震えたのを感じた。
そして、消えた。
私は振り返った。
そこにいたのは――
ヴァンスだった。
ブラックウッド家の後継者。
冷たく、近寄りがたいその雰囲気だけで、二人の男を退かせてしまった。
高級なスーツ。
冬のように冷たい灰色の瞳。
今朝、私に軽くうなずいた男。
そして――
ついさっき、自分の妻によって私の結婚を壊された男。
彼の目が私を捉えた。
その瞬間、何かが揺れた。
七年前。
彼がジョヴィと結婚した日。
私は醜い花嫁付添人のドレスを着て、親友の結婚を見守っていた。
あの日、一度だけ。
彼が私を見ていた。
ほんの一瞬の視線。
そして、それはすぐに消えた。
忘れていた。
今まで。
「立てるか?」
彼にそう聞かれて、初めて気づいた。
こんな低く、掠れた声をしていたのだ。
私は立ち上がろうとした。
けれど、足に力が入らない。
床が傾いた。
ヴァンスはため息もつかなかった。
呆れた顔もしなかった。
ただ腕を私の身体に回し、冷たい夜の空気の中へ連れ出した。
強い腕が、私をしっかり支えている。
私は彼にもたれかかった。
温かい。
しっかりしている。
高級なウールの香り。
その奥に、どこか鋭い香りが混じっていた。
彼は住所を聞かなかった。
何も質問しなかった。
ただ私をホテルへ連れて行き、部屋を取ると、ベッドへ放り込んだ。
まるで荷物でも置くように。
彼が立ち去ろうとした。
私は、とっさに彼のジャケットを掴んだ。
「……行かないで」
なぜそんなことを言ったのか、自分でも分からなかった。
でも、どうでもよかった。
「お願い……一人にしないで」
彼は立ち止まった。
私を見下ろしている。
表情は読めない。
けれど、その瞳の奥で何かが揺れた。
七年前と同じものかもしれない。
一瞬だけ現れて、すぐに消えた。
「離せ」
「どうして……みんな彼女を選ぶの?」
私は彼の言葉を無視した。
「どうして私は、いつも足りないの?」
「どうして私のベッドまで……?」
声が崩れる。
「彼を奪うだけじゃ、足りなかったの?」
私は彼を引き寄せた。
そして、その唇に自分の唇を重ねた。
キスは、めちゃくちゃだった。
ジンの味。
涙の味。
絶望と塩辛い涙。
私はただ、何かを感じたかった。
何でもいい。
結婚が崩れ落ちたあとに残った、あの空洞以外なら。
一瞬、彼は石のように動かなかった。
まさか、自分の部下に。
酔った私に。
こんなふうにキスされるとは思っていなかったのだろう。
けれど――
次の瞬間。
彼も私にキスを返した。
強く。
求めるように。
まるで彼自身も、同じように何かを求めていたかのように。
彼の手が私の頬を包む。
親指が顎をなぞる。
数秒間、世界から音が消えた。
そこにいたのは、ただ二人。
声にできない痛みを、互いにぶつけ合うように。
けれど、彼の理性が戻った。
ヴァンスは突然、私から身体を離した。
荒い息。
薄暗い部屋の中で、その灰色の瞳は何かを失ったように揺れていた。
彼は手の甲で唇を乱暴に拭った。
まるで、罪を消そうとするように。
そしてジャケットを整える。
目の前で、自分を組み立て直していく。
冷徹で強大なCEOの仮面が、再び顔に戻った。
「寝ろ」
低く、掠れた声。
彼は振り返った。
そして、一度もこちらを見ることなく部屋を出ていった。
ドアが静かに閉まる。
私は天井を見つめたまま、長い間動けなかった。
朝は、二日酔いとともにやってきた。
容赦なく。
残酷に。
見慣れない天井。
柔らかすぎるベッド。
目を覚ました瞬間、私はパニックになった。
ここはどこ?
私は自分の身体を確かめる。
服は着たままだった。
弱々しい安堵の息が漏れる。
けれど――
次の瞬間、昨夜の記憶が津波のように押し寄せた。
強い腕。
重なった唇。
アルコールの匂いに混じった、かすかな男の香水。
私は息を呑んだ。
そのとき、バスルームのドアが開いた。
ヴァンスが出てきた。
白いバスローブ。
濡れた髪。
すでに整えられた表情。
まるで昨夜の出来事などなかったかのように、私を見る。
いや――
まるで、昨夜の私が彼のデスクに一晩放置された厄介な書類でしかなかったかのように。
私は思い出した。
私が彼を引き寄せる直前。
あの灰色の瞳が私を見つめていたことを。
――違う。
ヴァンスじゃない。
誰でもよかった。
でも、彼だけは駄目だった。
「……私、ヴァンス・ブラックウッドとキスしたの?」
自分の上司と?
胃がねじれるように痛んだ。
もっと最悪なのは――
親友に夫を奪われた、その夜。
私はその親友の夫にキスした。
私は毛布を強く握りしめた。
指が痛くなるほど。
頬が熱くなる。
恥だけじゃない。
嫌悪。
怒り。
自分自身への怒りだった。
昨夜、私はずっと二人を裏切り者と罵っていた。
その私が――
ヴァンスの前で、同じことをした。
私の表情を見て、ヴァンスが近づいてくる。
けれど、私のところではない。
テーブルの上から腕時計を取り、淡々と手首に装着する。
「バーの床みたいな匂いがする」
平坦な声だった。
「シャワーを浴びろ。9時半に会議がある。リディアから聞いている。ハリントン案件の最終数字を持っているそうだな」
あまりにも普通だった。
私は言葉を失った。
「……え?」
「シャワーを浴びろ」
彼はシャツの袖口を整え、腕時計を確認した。
まるで昨夜のことなど、別の誰かが経験した出来事のように。
まるで、私の人生最大の失敗が、ただの面倒事に過ぎないかのように。
「私は……」
昨夜のことを聞きたかった。
なぜ私を拒まなかったのか。
なぜキスを返したのか。
後悔しているのか。
今、私を軽蔑しているのか。
でも、冷たい瞳で私を見つめる彼を前にすると、言葉が喉に詰まった。
「……分かりました」
私はゆっくり立ち上がった。
彼の視線を避け、そのままバスルームへ入った。
温かいシャワーを浴びながら、私は何度も願った。
この水が、昨夜のキスも。
裏切りの記憶も。
全部洗い流してくれますように。
唇が痛くなるほど擦った。
それでも、キスの感触は消えなかった。
十五分後。
私たちは一緒にホテルを出た。
廊下のカーペットは妙に厚かった。
私たちの間に流れる沈黙は、気分が悪くなるほど重かった。
エレベーターへ向かって角を曲がった。
そして――
そこにいた。
ザーンとジョヴィエンヌ。
製氷機の前。
ザーンの腕が彼女の肩を抱いている。
彼女は彼に寄り添っていた。
二人とも疲れ切った顔をしていた。
不安そうで。
そして――一緒だった。
私たちの気配に気づき、二人が顔を上げる。
ザーンの視線が、私の乱れた服からヴァンスの濡れた髪へ。
そして、私たちの間にある距離へと移っていく。
彼の顔から、血の気が引いた。
怒りではない。
理解したのだ。
ジョヴィの手が口元を覆う。
彼女の目が私とヴァンスの間を行き来する。
驚き。
そして――憤り。
完璧なまでに、偽善的な憤りだった。
誰も何も言わなかった。
やがて、ヴァンスの声が響いた。
低く。
冷たく。
人生そのものを凍らせるような声。
「……ジョヴィエンヌ」
ただ、名前を呼んだだけ。
彼は一歩、前へ出た。
「やっと見つけた」
私はこの十五分間、自分も彼らと同じくらい自分勝手な人間になってしまったのではないかと考えていた。
けれど――
二人が寄り添う姿を見た瞬間。
その考えは、跡形もなく消えた。
ジョヴィの笑顔は、ただ消えたわけではなかった。死んだ。彼女の視線が、絶望に沈んだ私の顔から、無機質な病院の空間へと移る。そして――ヴァンスへ。車椅子に置かれた彼の手。いつも完璧に整っている髪が、今は乱れている。そして何より――彼の身体全体が、私へ向けられていた。まるで、私と世界の間に立つ壁のように。ジョヴィは見ていた。彼女が知らない夫の姿を。「ネリ……?」ザーンの声が掠れた。彼は半歩、前へ出る。ジョヴィを支えていた腕が緩んだ。「何が……あった?」彼の目が、答えを求めていた。簡単な答えを。風邪。食あたり。何でもいい。真実以外なら。ヴァンスが答えた。その声は、凍った氷が割れるように冷たかった。「彼女には休息が必要だ」そして車椅子を押す。「失礼する」ザーンが動いた。反射だった。愚かなほど純粋な反射。守る側だった頃の本能。彼は手を伸ばし、車椅子のハンドルを掴んだ。私たちを止める。「待ってくれ!」声が震えた。「何があったのか教えてくれ。俺に助けさせてくれ」一瞬、息を詰まらせる。「俺は……彼女の夫だ」俺は、彼女の夫だ。その言葉が、胸の奥を殴った。何かが砕けた。麻痺していた感覚が。冷静さが。副社長としての仮面が。戦略家としての自制が。全部、消えた。残ったのは――血を流し、傷つき、怒り狂った一人の女だった。私は泣き叫ばなかった。絶叫した。「流産したのよ、ザーン!」廊下中に声が響いた。「私たちの赤ちゃんが……死んだの!」静寂。叫びすぎて、息が苦しい。胸が激しく上下する。ザーンの手が、火傷でもしたように車椅子から落ちた。顔から血の気が完全に引いた。灰色になった顔。開いたままの口。もう片方の手にあった――彼らの赤ちゃんの超音波写真が、指から滑り落ちた。ひらりと舞い、私たちの間の床へ落ちる。ぼやけた画像が、こちらを向いていた。ジョヴィが息を呑んだ。鋭く、醜い音だった。彼女の両手が自分の腹部へ飛ぶ。守るように。そして――まるで所有物を抱え込むように。その仕草が、私の胸を殴った。ヴァンスは完全に動きを止めていた。ただ、車椅子を握る手だけが、私をこの世界につなぎ止めている。私の叫びは、やがて途切れた。荒い呼吸へ変わる。そして――堰が切れた。声
ヴァンスは帰らなかった。カーテンで仕切られた入口のそばに立ち、背中を壁に預けている。大きな黒い影が、廊下から差し込む光と騒音を遮っていた。彼は私を見ていない。ただ、向かいの壁の一点を見つめ、身体を硬くしていた。超音波のプローブが肌に触れる。冷たく、異物のような感触だった。モニターには、ぼやけた灰色と黒の世界が映っている。何を見ているのか分からない。何を意味しているのかも。心臓が、肋骨の中で狂ったように暴れていた。お願い。声にならない祈りが、胸の奥からこぼれる。お願い。お願いだから。技師がプローブを動かす。キーボードを操作する。一枚の画像が画面に止まった。灰色の影。彼女は何かを測っている。眉間に皺を寄せたまま、何も言わない。部屋の沈黙が、胸を押し潰すように重くなる。聞こえるのは、機械の低い音だけだった。さらに何枚か画像を撮る。クリック。沈黙。クリック。また沈黙。やがて技師は、私の腹部からジェルを拭き取った。「先生に確認してもらいますね」彼女は私と目を合わせないまま、出ていった。しばらくして、ドクター・エヴァンスが戻ってきた。彼女は画面を長い間見つめた。優しかった顔には、慎重に感情を隠した表情が浮かんでいる。そして私を見る。「ネリッサ……」その声は優しかった。だからこそ――胃が落ちるような感覚がした。「本当に残念だけれど……心拍が確認できないわ」私は息を止めた。「おそらく妊娠六週前後です」一拍。「流産です」言葉が落ちた。でも、最初は意味が分からなかった。心拍。六週。流産。それが一つずつ、頭の中に入ってくる。心臓がない。鼓動がない。私の赤ちゃんが――もう、いない。いつからいなかったのかも分からない。喉から音が漏れた。泣き声ではなかった。自分でも知らないうちに抱えていた希望と、すべての空気が、一度に身体から抜けていくような音だった。視界が傾く。モニターの灰色の影が滲み、意味のない模様へと変わっていく。私はヴァンスを見た。彼も振り返っていた。暗い超音波画像を見つめている。そこにあるのは、命の証拠ではない。命がないという証拠だった。彼の顎が強く引き締まる。頬の筋肉が、小さく震えた。その目は冷たくなかった。むしろ――燃えていた。純粋な怒り。
ヴァンスは電話を切った。彼は、私の名前を使った。これまで、私たちがどれだけ戦略について話しても、彼はいつも私を「サリヴァン」と呼んでいた。だから今――秘書に「ネリッサ」と告げたことが、妙に胸に残った。それは、私が彼の世界にいる人間だと認められたような気がした。街の明かりが、窓の外を流れていく。再び、ヴァンスのスマートフォンが震えた。画面に表示された名前を見て、私は息を止めた。ジョヴィエンヌ。ヴァンスは鳴り続ける電話を見つめた。顔は硬い。もう一度、着信が鳴る。彼は拒否ボタンを押した。そして――電源そのものを切った。小さなクリック音が、叫び声よりも大きく聞こえた。ヴァンスは暗くなった画面を見つめたまま、私を見なかった。「父は……」低い声だった。いつもの洗練された冷静さが、少しだけ剥がれている。「三十年かけて、ビジネスにおける誠実さという評判を築いた」短く息を吐く。「温かさじゃない。誠実さだ」彼は窓の外へ視線を向けた。「父は、それこそが決して価値の下がらない唯一の通貨だと信じていた」一拍。「築くのに一世代。たった一度の軽率な結婚で、それを笑い話にされる」私は黙っていた。彼は――ジョヴィを拒絶した。この状況で。私のために。その事実があまりにも大きすぎて、私は考えるのをやめた。病院にはすぐに着いた。救急入口のドアが開く。すでに看護師が車椅子を用意して待っていた。表情は完璧な医療従事者のものだった。「ブラックウッド氏? こちらへ」ヴァンスが私を車椅子へ座らせる。その手は優しかったわけではない。ただ、無駄がなく、確実だった。それでよかった。今、優しくされたら――私は壊れてしまいそうだった。私たちは明るい廊下を急いで進んだ。いくつものドアを抜け、青いカーテンで仕切られた静かなエリアへ入る。3番ベイ。そこに、一人の女性が立っていた。鋭い顔立ち。白衣。「ドクター・エヴァンスです」彼女はヴァンスに軽く頷き、それから私を見る。「ヴァンス」「ジェーン」ヴァンスが短く答えた。「彼女はネリッサ。突然の激しい腹痛とめまい。顔色も悪い」ドクター・エヴァンスが私の前へ来た。ペンライトを手にしている。「ネリッサ、エヴァンス医師よ。痛む場所を教えてくれる?」私は下腹部を指した。彼女の
画面上の数字が、灰色の霧のように滲んでいた。私は強く瞬きをした。それでも焦点が合わない。デスクの時計は、午後9時17分。エグゼクティブフロアは墓場のように静かで、聞こえるのはノートパソコンのファンが回る音だけだった。このオフィスは、私が手に入れたばかりの新しい場所。けれど今は、街の上空に吊るされたガラス箱のように感じる。私はスマートフォンを無視していた。母からの心配そうな留守番電話。ザーンからの必死なメッセージ。どれも開かなかった。唯一、現実に感じられるのはハリントン案件のデータだった。数字は明確だった。論理的だった。嘘をつかない。誰かを愛して、私を裏切ることもない。けれど――数時間前から、腰に鈍い痛みがあった。椅子のせい。ストレスのせい。そう思って無視していた。立ち上がった瞬間、激しいめまいが襲ってきた。床が傾いたように感じ、私はデスクの端を掴んだ。食べればいい。眠ればいい。ただ、しばらく何も考えなければいい。そう自分に言い聞かせる。けれど、これは空腹ではなかった。下腹部を、鋭い痛みが締めつけた。いつもの生理痛とは違う。痛みが背中へ広がり、激しい頭痛まで襲ってくる。胸の奥に、小さな恐怖が灯った。けれど押し込める。ストレスだ。悲しみのせいだ。それだけだ。私は再び椅子に座り、腹部を押さえた。そういえば――生理が遅れている。数日。いや、一週間?もう分からない。こんな状況なのだから、周期が乱れても不思議ではなかった。スプレッドシートへ目を戻す。数字が滲む。また痛みが走った。私は歯を食いしばり、息を吸った。――おかしい。私は水を飲もうと立ち上がった。再びめまいが襲う。視界の端に黒い点が踊った。デスクに手を伸ばしたが、ファイルの山を倒してしまう。ドサッ!静かなオフィスに、大きな音が響いた。私はデスクにしがみつき、深呼吸した。ドアまで。トイレまで行って、顔を洗えばいい。一歩。もう一歩。ようやくドア枠に辿り着いた。廊下が果てしなく遠い。エレベーターまでは、何キロもあるようだった。そのとき――「サリヴァン?」私は顔を上げた。ヴァンスだった。「大丈夫です」声は細かった。「急に立ったから、少しめまいがしただけです」ヴァンスは何も言わず、三歩で私のと
私はずっと、ザーンとの間に子供が欲しかった。何年も願っていた。二人で努力して、期待して、それでも――叶わなかった。なのに今。彼は別の女との間に、たった一度でそれを成し遂げた。私たちの結婚を壊した、あの一週間に。私たちのベッドで。不公平だった。許せなかった。私は胸が痛くなるほど泣いた。ヴァンスが見ていることさえ、もう気にならなかった。ようやく顔を上げたとき、頬は涙で濡れていた。ヴァンスは動いていなかった。片手は強く握りしめられ、顎も固くなっている。その瞬間、私は理解した。ジョヴィがいつも言っていたことを。自分の夫は冷たくて、他人の気持ちに寄り添えない、と。けれど――ヴァンスの喉が、わずかに動いた。彼は視線を逸らした。私に冷たいからではない。ただ、私の痛みにどう向き合えばいいのか分からないのだ。彼の人生は、論理と計算とコントロールで成り立っている。けれど、悲しみはそのどれにも従わない。その無力さが、私をさらに泣かせた。そして――今度は腹が立った。「何か言って」私は涙声で吐き出した。「何を言えばいい? 泣くな、とでも?」声は荒かった。けれど、冷たくはなかった。「涙を流しても事実は変わらない。これは、俺たちの状況を何も変えない」ヴァンスは一度、息を吐いた。「ただ、あいつらに都合のいい話を与えるだけだ」「都合のいい話?」私は袖で涙を拭った。「これは話なんかじゃない!」声が震える。「赤ちゃんよ! 一人の人生なの!」「その人生について、あいつらは説明しなければならなくなる」ヴァンスは妊娠検査薬と検査報告書を拾い上げ、バッグへ戻した。「こういう秘密は重い。いずれ、あいつら自身がその重さを感じ始める」彼は静かに言った。「今は待てばいい」ヴァンスはキッチンへ向かい、すぐにグラス一杯の水を持って戻ってきた。私に差し出す。「飲め」私はグラスを見つめた。「それから、顔を整えろ」震える手でグラスを受け取る。「……すべてが変わった」私は小さく呟いた。「分かっている」「これから、どうすればいいの?」「家に帰れ」ヴァンスは迷いなく答えた。「何も知らないふりをしろ。誰にも話すな」彼の目が私を捉える。「あいつらに秘密を抱えさせろ。その秘密が、あいつらを不安にさせるまで」「もし……演
パーティーの翌朝。私は静かな家のキッチンカウンターに座っていた。ザーンは早朝に出ていった。今は、静寂が重かった。午前十時。玄関のチャイムが鳴った。配達員が一通の封筒を差し出した。中に入っていたのは、キーカードと住所。力強く、迷いのない筆跡だった。『The Aerie PH 70 午前7時』メモも説明もない。ただ、ヴァンスからの指示だった。行きたくはなかった。けれど、今日は他に予定もない。私はすぐに向かった。The Aerieは、アステラ・スパイアの隣に建つ高層住宅の最上階だった。エレベーターが、そのまま部屋の中へ開く。全面ガラスの窓。広すぎる空間。整然と並ぶ家具。けれど、生活の気配はない。まるで人が住む場所ではなく――美術館のようだった。ヴァンスは窓際に立っていた。スーツではない。ダークカラーのパンツに、グレーのセーター。いつもとは違う姿に、思わず息を止める。「座って」「ハリントンからの最終修正案だ。責任条項を確認して」私は椅子に座り、書類を開いた。けれど、文字が頭に入らない。昨夜の出来事が何度も蘇っていた。「……本当なの?」口にしてから、自分でも驚いた。ヴァンスのペンが止まる。「何が?」「あなたは……彼女を愛していないの?」彼が振り返る。「二人の関係を見ても、あまりにも無関心に見える」ヴァンスはしばらく黙った。「君は、私が彼女を愛しているかと聞いた」「答えはノーだ」彼は続けた。「私は彼女と愛で結婚したわけじゃない。家同士に付き合いがあり、目的も一致していた。それで十分だと思っていた」一拍。「だが、彼女は別のものを欲しがった」「私には与えられないものを」「……愛?」「そうだ」私は眉を寄せた。「どうして私にそんなことを話すの?」「君が聞いたからだ」ヴァンスは淡々と続ける。「それに、今の私たちは同じ船に乗っている。君は、自分が何に関わっているのか知るべきだ」「私の結婚は空っぽだった。君の結婚は嘘の上に築かれていた」「……私たちは、二人とも失敗したんだ」私は否定したかった。私の結婚は、少なくとも私にとっては嘘ではなかった。でも、その言葉は喉の奥につかえて出てこなかった。そのとき。ピッ。壁のインターホンが鳴った。ヴァンスがボタンを押す。「何だ?」







