Masuk神殿の裏手にある騎士団の修練場には、朝から木剣の打ち合う乾いた音が響いていた。
「……見事な太刀筋だ」 騎士団長の唸り声の先で、ユーロスが三人の先輩騎士を相手に剣を振るっている。 「……踏み込み、魔力の練り上げ、そしてあの冷静な判断力。非の打ち所がない」 樽のような筋肉と圧倒的な長身から繰り出される剣撃は重く鋭いが、決して力任せではない。相手の呼吸を読み、最小限の動きで的確に木剣を弾き飛ばしていく。 倒れた先輩に爽やかな笑顔で手を差し伸べるその姿には、誰もが憧れる若き英雄の風格が漂っていた。 「ええ。人望もあり、性格も誠実。間違いなく騎士団随一の逸材です」 「ああ、完璧な男だ。だがな――」 隣に立つ副団長の同意に、団長は眉間を深く揉みほぐし、重いため息を吐き出した。 「奴は完璧だ。……シルフィ様さえ絡まなければな」 「絡むと?」 「全部吹き飛ぶ」 「……おっしゃる通りです」 副団長もまた、遠い目をして深く頷いた。 彼らの視線の先で、ユーロスの動きが不自然にピタリと止まった。 修練場のずっと向こう、中庭をぐるりと囲む渡り廊下を、朝の祈りを終えたシルフィが一人で歩いていくのが見えたのだ。 距離にして五十メートル以上は離れている。普通なら気に留めることもない距離だ。 しかし、ユーロスの顔は、彼女の姿を視界に捉えた瞬間、まるで別人のように甘く蕩けたものへと変貌した。 「ああ……我が女神。今日の足取りも、春のそよ風のように愛らしく、麗しい……」 彼はうっとりと恍惚な吐息を漏らし、完全に周囲の状況を忘却した。 そして、シルフィの姿を網膜に焼き付けようとするあまり、彼自身の無意識下でとんでもない力が両腕に込められていく。 『ミシッ……メキメキッ……』 ユーロスの大きな手に握り込まれていた訓練用の分厚い木剣が、不穏な悲鳴を上げ始めた。 「……ねえ、ユーロス。あなた、また手に力が入って――」 「今すぐお側へ……いや、汗まみれで近づくなど不敬……! 滝だ。まず滝へ行かねば!」 『ミシッ……』 「あ」 『メキ……メキメキッ……』 「ユーロスっ!?」 「シルフィ様……!」 『バキィィィィンッ!!』 先輩騎士のサティが止める間もなく、彼が握りしめていた頑丈な樫の木剣が、重すぎる情念の握力に耐えきれず、木端微塵にへし折れた。 折れた剣の先端が、宙を舞って修練場の隅へと突き刺さる。 「ヒィッ!?」 「ま、また折りやがった……!」 周囲の騎士たちがドン引きしてざわつく中、ユーロスは折れた柄を握りしめたまま、全く意に介する様子もなく、キラキラと輝く純粋な瞳で渡り廊下を見つめ続けていた。 「団長……」 「今週で四本目だぞ!」 「先週は三本でした」 「……成長、しているな」 「してます、かね……?」 「……経費係に伝えておけ。来月から、ユーロス用の木剣は鉄芯入りの特注品にすると」 頭を抱える団長と副団長の哀愁に満ちた会話など、もちろん彼には届いていない。 一方、遠く離れた渡り廊下を歩いていたシルフィは、修練場から響いた大きな破壊音に、ふと足を止めてそちらへ視線を向けた。 (あら。また激しい音がしましたね) 目を凝らすと、騎士たちが集まり、何やら呆然と立ち尽くしているのが見える。 シルフィは冷静に状況を分析し、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて小さく頷いた。 (木剣が折れるほど、熱心に稽古に励んでいるのですね) カツカツと、しっかりとした靴音が回廊に響く。 (新任のユーロスも、あれくらい鍛錬に打ち込めば、もう少し落ち着くのでしょうけれど) 自分が原因で、期待の新人騎士が狂気的な握力を発揮して木剣をへし折っているなどとは微塵も思わず、シルフィは「騎士たちの鍛錬は素晴らしいですね」と一人で納得し、再び優雅な足取りで自室へと戻っていく。 「ああっ! 今、シルフィ様がこちらを見て微笑んでくださった! やはり今すぐ結婚を……ッ!」 「落ち着けユーロス! お前はまず、その折れた木剣を片付けろォ!!」 完璧すぎる騎士の、たった一つにして最大の欠陥は、今日も騎士団の平穏を容赦なく打ち砕き、当の女神だけがその惨状に全く気づいていないのであった。柔らかな朝の光が、カーテンの隙間から寝室へと滑り込んでいた。 かつては神聖な孤独が支配していたその空間も、今では一人の男の体温と、穏やかな安らぎに満たされている。 シルフィは微かな重みを感じて目を覚ました。 隣では、夫となったユーロスがまだ深い眠りの中にいた。以前の彼なら、彼女が目覚める一時間前には起きて護衛の準備を整えていただろう。 だが今、彼は「妻」の隣で、無防備で穏やかな寝顔を晒していた。(……本当に、幸せそうな顔ですね) この歳で初めて知った、誰かと共に目覚める体温。 シルフィはそっと手を伸ばし、彼の跳ねた薄茶色の髪を指先で整えた。「……ん……。おはようございます、シルフィさん」 微かな感触に気づいたのか、ユーロスがゆっくりと目を開けた。 寝起きの少し掠れた甘い声。彼はもう彼女を「女神様」とは呼ばない。対等な一人の男として、愛おしそうに彼女の名前を呼ぶ。「おはようございます、ユーロス。……さあ、起きてください。朝食にしましょう」 厨房からは、香ばしい……というには、少々「行き過ぎた」匂いが漂っていた。 今朝の当番だったユーロスが、気合を入れすぎて朝食のパンを焼きすぎてしまったらしい。 食卓に並んだ、見事なまでに黒ずんだパン。 シルフィはそれをジッと見つめ、至極真面目な顔で分析を始めた。「……表面の炭化率、およそ四割。これはもはや、主食というよりは燃料に近い状態ですね」「……すみません。シルフィさんの横顔に見惚れていた
風の神殿を包む春の夕暮れは、いつになく鮮やかで、そして穏やかだった。 『風の柱』としての激動の日々を越え、己の内の「名付けられぬ痛み」の正体が「恋」であると認めてから、幾月。 シルフィは、神殿の最上階にあるバルコニーの縁に手をかけ、オレンジ色に染まる世界を見渡していた。 背後から、慣れ親しんだ、けれど聞くたびに胸の奥を甘く焦がす足音が近づいてくる。「シルフィ様。……お茶が冷めてしまいますよ」 歩み寄ってきたユーロスは、かつて泥だらけの少年だった面影など微塵もない、立派で精悍な大人の男の顔をしていた。 彼はシルフィの隣に立つと、言葉を交わさずとも彼女の僅かな震えを察し、ふわりと温かい上着を彼女の肩にかけた。 その不器用で、けれど絶対的な慈愛に満ちた仕草に、シルフィは思わず目を細める。 かつての二人は、完璧な女神と、盲目的な騎士という役割の影に隠れて生きていた。 けれど今は、互いの弱さも、醜い執着も、全てを曝け出した一人の女と男としてここにいる。 不意に、ユーロスがシルフィの正面に回り込み、静かにその場に片膝をついた。 何度も見てきた、儀式のような所作。 けれど、夕陽を背負った彼の瞳は、かつての狂信的な熱ではなく、一人の女性の人生を背負おうとする、静かで重い覚悟を宿していた。「シルフィ様。……この春の良き日に、改めて、言わせてください」 彼の低く、よく響く声が、春の澄んだ空気に溶けていく。「十一年前、貴女に救われたあの日から、俺はずっと貴女を見つめてきました。最初は『慈愛の風の柱』として。けれど今は――ただの、不器用で愛おしいシルフィさんという女性を」「……ユーロス」「俺の過去も、現在も、そし
神殿の執務室。副団長は、珍しく静かな午後のひとときに深く椅子に背を預けていた。 あの「分かりやすすぎる二人」――ようやく想いが通じ合ったシルフィとユーロスが、揃って視察に出かけているおかげだった。(……平和だ。胃が、痛くない) 窓の外から流れてくる穏やかな風。これこそがかつての神殿だった、と感傷に浸りながら温かい茶を啜ろうとしたその時。『失礼します、副団長』 短いノックと共に、サティが入ってきた。 二十四歳の優秀な女性騎士。ユーロスへの失恋を凛とした態度で乗り越えた彼女の姿には、近頃、以前にも増して逞しさが加わっていた。「ああ、サティか。どうした、視察の留守を預かる分隊の報告か?」「いえ……。個人的な、相談が」「…………」 副団長は、口に運ぼうとしていたティーカップを静かにソーサーへと戻した。 嫌な予感がした。 この神殿で「個人的な相談」と言えば、ろくなことが起きた試しがない。「最近、その……ちょっと気になる人が、できまして」『……ッ!』 副団長は音も立てずに己の柔弱な腹部を強く押さえた。急激な胃の収縮。「……サティ。お前まで、ユーロスのような恋愛事故を起こすつもりか?」「違いますよ! あんなのと一緒にしないでください!」 サティは顔を赤くして反論したが、すぐに視線を彷徨わせ、不器用に髪を掻いた。「ただ、その相手が…&hel
冬の柔らかな陽光が、風の神殿の庭園を黄金色に染め上げていた。 恋人という、未だに背筋がむず痒くなるような関係になってから数ヶ月が過ぎた。シルフィとユーロスは、公務の合間のわずかな休息として、静かな散策を楽しんでいた。 ふいに、ユーロスが庭園の隅にある、何の変哲もない植え込みの前で足を止めた。「……ここです。俺のすべてが始まった場所は」 感慨深げに目を細める彼とは対照的に、シルフィは小首を傾げ、記憶の糸を懸命に手繰り寄せた。「……ここ、でしたか? 確かにあの頃、私はこの庭園で祈りを捧げるのが日課でしたが……」 正直に言えば、彼女の記憶はひどく曖昧だった。 二十歳という若さで『風の柱』を継承してからというもの、彼女は目の前の責務を果たすのに必死だった。 日々の公務の中で、泥だらけで迷い込んできた子供を救うなど、彼女にとっては「慈愛の女神」としての、呼吸をするのと同じくらい当たり前の、数多く救った子供たちとの一幕でしかなかったのだ。「すみません、ユーロス。……あの日、貴方を助けたことは覚えているのですが。……正直に言えば、貴方がどのような顔をして、どんな声を上げていたかまでは、あまり鮮明には……」 申し訳なさに眉を寄せるシルフィに、ユーロスはショックを受けるどころか、どこか誇らしげに、そして愛おしそうに微笑んだ。「それでいいのです、シルフィ様。貴女にとっては、救うべき大勢の中の一人に過ぎなかった。……けれど俺にとっては、泥の中に差し込んだ唯一の光だったのですから」 ユーロスは一歩踏み出し、シルフィの細い手を両手で包み込んだ。
恋人という関係に昇格してから、シルフィの胸には新たな、そして重大な悩みが居座っていた。(……いつも、彼にばかり尽くさせてしまっています) 絶妙な温度の紅茶、冷えないように掛けられるひざ掛け、そして過剰なまでの賛辞。 ユーロスから与えられるばかりの自分に、シルフィは「年上の恋人」としてのプライドを刺激されていた。「たまには私の方から、彼の心身を労う何かを……そう、手料理など作って差し上げるべきではないでしょうか」「柱」としての膨大な知識から、シルフィは一つの結論を導き出した。「『胃袋を掴む』。古今東西、愛を繋ぎ止めるにはこれが一番の近道と聞きます。幸い、私には風の精霊を操る緻密な魔力制御があります。料理など、容易いことでしょう」 そう自信満々に、神殿の厨房の片隅を借りたのが一時間前。 現在のシルフィは、目の前の「玉ねぎ」という名の強敵に、かつてない戦慄を覚えていた。「……おかしいですね。なぜ、切れば切るほど涙が止まらないのでしょう。魔族による精神干渉魔法の類でしょうか……っ」 碧い瞳を潤ませ、鼻先を赤くしたシルフィは、震える手で包丁を構える。「ええい、こうなれば風の魔力で……! 精霊たちよ、この野菜を極薄の輪切りにしなさい!」 風の柱としての、超精緻な魔力制御。 本来なら数千の風の刃で敵を微塵切りにする魔法が、狭い厨房で発動した。『シュババババッ!!』 凄まじい風切り音と共に、玉ねぎが空中へ舞い上がる。 しかし、料
その日、風の神殿の接見の間には、不穏な「華やかさ」が満ちていた。「おお、ダイタニアの至宝、美しき風の柱シルフィ閣下。貴女の瞳を拝見しただけで、我が故郷の青い海を思い出します」 大仰な仕草で跪き、シルフィの白手袋を嵌めた手に唇を寄せようとしているのは、隣国の特使として訪れた若き伯爵、ジュリアンだった。 金髪を揺らし、香水の匂いを漂わせる彼は、大陸でも名の知れた浮き名を流す色事師である。 シルフィは完璧な女神の微笑みを貼り付けたまま、内心で静かに悲鳴を上げていた。(……近いです。非常に、距離感がおかしいです、この方は) いつもなら、ここで「シルフィ様!」と危急の声が飛んでくるはずなのだが、今日は後ろに控えている「彼」が、驚くほど静かだった。 シルフィがおそるおそる背後を振り返ると、そこには「発光する大型犬」の面影を完全に消した、氷の彫像が立っていた。「……特使閣下。我が主君の御手は、外交の調印のためにあるものです。貴国の親愛を示すのであれば、その唇は、あちらに用意した羊皮紙にのみ捧げていただけますか」 ユーロスの声は、シルフィが聞いたこともないほど低く、冷ややかだった。 彼の周囲だけ、物理的に気温が数度下がったのではないかと思えるほどの、絶対零度の威圧感。「おや、厳しい護衛殿だ。シルフィ様、これほど野暮な男が隣にいては、貴女の慈愛が曇ってしまう。どうでしょう、この会談が終わった後、月の見えるテラスで口直しに……」 ジュリアンがさらに甘い声を重ねようとした、その瞬間。『メキッ』 静寂の中に、不穏な破砕音が響いた。 ユ







