Share

第6話「女神の前の顔」

Author: 真上悠
last update publish date: 2026-08-21 12:19:05

心地よい風が吹き抜ける神殿の中庭。

シルフィは、職務の合間の休息として、花壇の手入れをしていた。

彼女は植物の世話が好きだった。

種を撒き、苗を育て、花を咲かせることは、人々を導き、見守る柱としての務めとよく似ていた――

手塩にかけて育てた花々は、美しく咲くたびに人の心を満たしてくれる。

神殿の結界は強固であり、ここはダイタニアでも最も安全な場所の一つであるはずだった。

しかし、その平穏は突如として破られた。

『ギャアアアアッ!』

耳を劈くような怪鳥の叫び声。結界の僅かな綻びから、一体の魔獣が侵入してきたのだ。

巨大な翼と鋼のように鋭い鉤爪を持つ、下級の竜種。

それは中庭で立ちすくむ若い神官たちへ向けて、一直線に急降下してきた。

「いけません……!」

シルフィはスコップを持ったまま瞬時に立ち上がり、風の精霊に呼びかけて魔力を練り上げようとした。

だが、彼女が魔法を放つよりも、その《純白の閃光》が走る方が圧倒的に早かった。

『ザンッ!!』

大気が裂けた。

それが剣閃だったと理解した時には、怪鳥の巨体はすでに上下へと滑るようにずれ落ちていた。

次の瞬間、血飛沫すら許されなかった竜種の亡骸が、轟音と共に石畳へと崩れ落ちる。

「……遅い」

吹き荒れる血しぶきと砂埃の中心に、一人の騎士が静かに着地した。

ユーロスだった。

引き抜かれた長剣は魔獣の血に濡れることなく、白銀の輝きを保っている。

彼が剣を振り抜いたままの姿勢で見せた横顔は、一切の感情を排した、冬空から垂れ下がる氷柱のような『最強の騎士』のそれだった。

(……なんて、見事な剣筋でしょう)

風に揺れる彼の白銀のマントと、研ぎ澄まされた精悍な横顔。

それを見た瞬間、シルフィは純粋な感嘆の息を漏らした。

いつも自分にまとわりついてくる厄介な部下。その認識が、今この瞬間だけは完全に吹き飛んでいた。

圧倒的な強さと、守り抜くための確かな力。

これほどまでに洗練された武を振るう若者が自分の護衛についていることに、深い安心感を覚えたのだ。

魔獣を仕留めたユーロスが、剣を鞘に納め、こちらを振り返る。

シルフィは身構えた。いつものようにふやけた顔で、おかしなことを叫びながら駆け寄ってくるのだろう、と。

しかし、予想に反して、ユーロスの表情は騎士としての真剣な険しさを保ったままだった。

彼はシルフィの目の前まで足早に歩み寄ると、純白のマントを翻して優雅に片膝をつき、深く頭を下げた。

「お怪我はありませんか、シルフィ様。……お側におりながら、対応が遅れて申し訳ありません」

低く響く、真摯な気遣いの声。

そこにはいつもの浮ついた空気は微塵もなく、主君の安否をただ純粋に案じる、本物の聖騎士としての忠誠心だけがあった。

(いつもの調子ばかりではなかったのですね)

シルフィは内心で小さく安堵し、慈愛に満ちた女神の微笑みを浮かべた。

「いいえ。素晴らしい剣筋でしたよ、ユーロス。皆を守ってくれてありがとう」

「もったいないお言葉です」

「いざという時はしっかりと役目を果たす。さすがは、神殿が期待する聖騎士ですね。……貴方のこと、少し見直しましたよ」

シルフィが心からの称賛を送ると、片膝をついていたユーロスは静かに顔を上げた。

その精悍な顔立ちには、騎士としての凛々しい使命感が燃え上がっている。

「ええ。あなたを生涯お護りし、支えることこそが、私のただ一つの使命ですから」

「……そうですか」

シルフィは小さく目を細めた。

「貴方のような騎士が護衛でいてくれることを、心強く思いますよ」

「……ありがとうございます」

一瞬だけ、ユーロスの表情が年相応の青年のように綻ぶ。

「ですので、どうか私と結婚してください」

「…………しません」

シルフィは極めて流麗に、氷のような女神の微笑みで即答した。

せっかくの真面目な主従の空気が、たった一言で木端微塵に粉砕される。

「なぜですか、シルフィ様! 今の私の剣戟、頼もしいと思われませんでしたか!?」

「頼もしいとは思いましたが、結婚はしません」

「必ずやあなたを世界一幸せにしてみせます! 明日の朝も、またお顔を見に参りますからね!」

大真面目な顔で宣言するユーロスを背に、シルフィは「ご苦労様でした」とだけ言い残し、衣服の皺を払って足早に中庭を後にした。

背後から聞こえてくる彼の熱烈な声を、完全に無視して歩き続ける。

いつも通りの、厄介な部下と完璧な女神の日常風景。

しかし、回廊の角を曲がり、彼の視線から完全に逃れた瞬間――シルフィはふと足を止め、魔獣が両断された中庭の方へと小さく視線を向けた。

「……本当に、油断のならない子ですね」

彼女の頬に朱は差していないし、鼓動が狂ったわけでもない。

ただ、あの冷徹で圧倒的な白刃の閃きと、直後に見せた真摯な騎士としての横顔は、シルフィの脳裏に確かな関心を残していた。

シルフィは小さく息を吐いた。

――あの剣筋は、見事でしたね。

誰に聞かせるでもなく呟くと、彼女は再び歩き出した。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 恋を諦めた風の女神、一途な年下騎士に求婚され続ける ~慈愛の風の柱は今日も受け流せません~   番外編⑩「風の女神の、普通の朝」

     柔らかな朝の光が、カーテンの隙間から寝室へと滑り込んでいた。 かつては神聖な孤独が支配していたその空間も、今では一人の男の体温と、穏やかな安らぎに満たされている。 シルフィは微かな重みを感じて目を覚ました。 隣では、夫となったユーロスがまだ深い眠りの中にいた。以前の彼なら、彼女が目覚める一時間前には起きて護衛の準備を整えていただろう。 だが今、彼は「妻」の隣で、無防備で穏やかな寝顔を晒していた。(……本当に、幸せそうな顔ですね) この歳で初めて知った、誰かと共に目覚める体温。 シルフィはそっと手を伸ばし、彼の跳ねた薄茶色の髪を指先で整えた。「……ん……。おはようございます、シルフィさん」 微かな感触に気づいたのか、ユーロスがゆっくりと目を開けた。 寝起きの少し掠れた甘い声。彼はもう彼女を「女神様」とは呼ばない。対等な一人の男として、愛おしそうに彼女の名前を呼ぶ。「おはようございます、ユーロス。……さあ、起きてください。朝食にしましょう」 厨房からは、香ばしい……というには、少々「行き過ぎた」匂いが漂っていた。 今朝の当番だったユーロスが、気合を入れすぎて朝食のパンを焼きすぎてしまったらしい。 食卓に並んだ、見事なまでに黒ずんだパン。 シルフィはそれをジッと見つめ、至極真面目な顔で分析を始めた。「……表面の炭化率、およそ四割。これはもはや、主食というよりは燃料に近い状態ですね」「……すみません。シルフィさんの横顔に見惚れていた

  • 恋を諦めた風の女神、一途な年下騎士に求婚され続ける ~慈愛の風の柱は今日も受け流せません~   番外編⑨「検討の終わり、最愛の始まり」

     風の神殿を包む春の夕暮れは、いつになく鮮やかで、そして穏やかだった。 『風の柱』としての激動の日々を越え、己の内の「名付けられぬ痛み」の正体が「恋」であると認めてから、幾月。 シルフィは、神殿の最上階にあるバルコニーの縁に手をかけ、オレンジ色に染まる世界を見渡していた。 背後から、慣れ親しんだ、けれど聞くたびに胸の奥を甘く焦がす足音が近づいてくる。「シルフィ様。……お茶が冷めてしまいますよ」 歩み寄ってきたユーロスは、かつて泥だらけの少年だった面影など微塵もない、立派で精悍な大人の男の顔をしていた。 彼はシルフィの隣に立つと、言葉を交わさずとも彼女の僅かな震えを察し、ふわりと温かい上着を彼女の肩にかけた。 その不器用で、けれど絶対的な慈愛に満ちた仕草に、シルフィは思わず目を細める。 かつての二人は、完璧な女神と、盲目的な騎士という役割の影に隠れて生きていた。 けれど今は、互いの弱さも、醜い執着も、全てを曝け出した一人の女と男としてここにいる。 不意に、ユーロスがシルフィの正面に回り込み、静かにその場に片膝をついた。 何度も見てきた、儀式のような所作。 けれど、夕陽を背負った彼の瞳は、かつての狂信的な熱ではなく、一人の女性の人生を背負おうとする、静かで重い覚悟を宿していた。「シルフィ様。……この春の良き日に、改めて、言わせてください」 彼の低く、よく響く声が、春の澄んだ空気に溶けていく。「十一年前、貴女に救われたあの日から、俺はずっと貴女を見つめてきました。最初は『慈愛の風の柱』として。けれど今は――ただの、不器用で愛おしいシルフィさんという女性を」「……ユーロス」「俺の過去も、現在も、そし

  • 恋を諦めた風の女神、一途な年下騎士に求婚され続ける ~慈愛の風の柱は今日も受け流せません~   番外編⑧「不器用な剣先、迷子の恋心」

     神殿の執務室。副団長は、珍しく静かな午後のひとときに深く椅子に背を預けていた。 あの「分かりやすすぎる二人」――ようやく想いが通じ合ったシルフィとユーロスが、揃って視察に出かけているおかげだった。(……平和だ。胃が、痛くない) 窓の外から流れてくる穏やかな風。これこそがかつての神殿だった、と感傷に浸りながら温かい茶を啜ろうとしたその時。『失礼します、副団長』 短いノックと共に、サティが入ってきた。 二十四歳の優秀な女性騎士。ユーロスへの失恋を凛とした態度で乗り越えた彼女の姿には、近頃、以前にも増して逞しさが加わっていた。「ああ、サティか。どうした、視察の留守を預かる分隊の報告か?」「いえ……。個人的な、相談が」「…………」 副団長は、口に運ぼうとしていたティーカップを静かにソーサーへと戻した。 嫌な予感がした。 この神殿で「個人的な相談」と言えば、ろくなことが起きた試しがない。「最近、その……ちょっと気になる人が、できまして」『……ッ!』 副団長は音も立てずに己の柔弱な腹部を強く押さえた。急激な胃の収縮。「……サティ。お前まで、ユーロスのような恋愛事故を起こすつもりか?」「違いますよ! あんなのと一緒にしないでください!」 サティは顔を赤くして反論したが、すぐに視線を彷徨わせ、不器用に髪を掻いた。「ただ、その相手が…&hel

  • 恋を諦めた風の女神、一途な年下騎士に求婚され続ける ~慈愛の風の柱は今日も受け流せません~   番外編⑦「記憶の欠片と、目の前の君」

     冬の柔らかな陽光が、風の神殿の庭園を黄金色に染め上げていた。 恋人という、未だに背筋がむず痒くなるような関係になってから数ヶ月が過ぎた。シルフィとユーロスは、公務の合間のわずかな休息として、静かな散策を楽しんでいた。 ふいに、ユーロスが庭園の隅にある、何の変哲もない植え込みの前で足を止めた。「……ここです。俺のすべてが始まった場所は」 感慨深げに目を細める彼とは対照的に、シルフィは小首を傾げ、記憶の糸を懸命に手繰り寄せた。「……ここ、でしたか? 確かにあの頃、私はこの庭園で祈りを捧げるのが日課でしたが……」 正直に言えば、彼女の記憶はひどく曖昧だった。 二十歳という若さで『風の柱』を継承してからというもの、彼女は目の前の責務を果たすのに必死だった。 日々の公務の中で、泥だらけで迷い込んできた子供を救うなど、彼女にとっては「慈愛の女神」としての、呼吸をするのと同じくらい当たり前の、数多く救った子供たちとの一幕でしかなかったのだ。「すみません、ユーロス。……あの日、貴方を助けたことは覚えているのですが。……正直に言えば、貴方がどのような顔をして、どんな声を上げていたかまでは、あまり鮮明には……」 申し訳なさに眉を寄せるシルフィに、ユーロスはショックを受けるどころか、どこか誇らしげに、そして愛おしそうに微笑んだ。「それでいいのです、シルフィ様。貴女にとっては、救うべき大勢の中の一人に過ぎなかった。……けれど俺にとっては、泥の中に差し込んだ唯一の光だったのですから」 ユーロスは一歩踏み出し、シルフィの細い手を両手で包み込んだ。

  • 恋を諦めた風の女神、一途な年下騎士に求婚され続ける ~慈愛の風の柱は今日も受け流せません~   番外編⑥「女神特製、労りの慰労膳」

     恋人という関係に昇格してから、シルフィの胸には新たな、そして重大な悩みが居座っていた。(……いつも、彼にばかり尽くさせてしまっています) 絶妙な温度の紅茶、冷えないように掛けられるひざ掛け、そして過剰なまでの賛辞。 ユーロスから与えられるばかりの自分に、シルフィは「年上の恋人」としてのプライドを刺激されていた。「たまには私の方から、彼の心身を労う何かを……そう、手料理など作って差し上げるべきではないでしょうか」「柱」としての膨大な知識から、シルフィは一つの結論を導き出した。「『胃袋を掴む』。古今東西、愛を繋ぎ止めるにはこれが一番の近道と聞きます。幸い、私には風の精霊を操る緻密な魔力制御があります。料理など、容易いことでしょう」 そう自信満々に、神殿の厨房の片隅を借りたのが一時間前。 現在のシルフィは、目の前の「玉ねぎ」という名の強敵に、かつてない戦慄を覚えていた。「……おかしいですね。なぜ、切れば切るほど涙が止まらないのでしょう。魔族による精神干渉魔法の類でしょうか……っ」 碧い瞳を潤ませ、鼻先を赤くしたシルフィは、震える手で包丁を構える。「ええい、こうなれば風の魔力で……! 精霊たちよ、この野菜を極薄の輪切りにしなさい!」 風の柱としての、超精緻な魔力制御。 本来なら数千の風の刃で敵を微塵切りにする魔法が、狭い厨房で発動した。『シュババババッ!!』 凄まじい風切り音と共に、玉ねぎが空中へ舞い上がる。 しかし、料

  • 恋を諦めた風の女神、一途な年下騎士に求婚され続ける ~慈愛の風の柱は今日も受け流せません~   番外編⑤「忠犬の牙、あるいは零度の嫉妬」

     その日、風の神殿の接見の間には、不穏な「華やかさ」が満ちていた。「おお、ダイタニアの至宝、美しき風の柱シルフィ閣下。貴女の瞳を拝見しただけで、我が故郷の青い海を思い出します」 大仰な仕草で跪き、シルフィの白手袋を嵌めた手に唇を寄せようとしているのは、隣国の特使として訪れた若き伯爵、ジュリアンだった。 金髪を揺らし、香水の匂いを漂わせる彼は、大陸でも名の知れた浮き名を流す色事師である。 シルフィは完璧な女神の微笑みを貼り付けたまま、内心で静かに悲鳴を上げていた。(……近いです。非常に、距離感がおかしいです、この方は) いつもなら、ここで「シルフィ様!」と危急の声が飛んでくるはずなのだが、今日は後ろに控えている「彼」が、驚くほど静かだった。 シルフィがおそるおそる背後を振り返ると、そこには「発光する大型犬」の面影を完全に消した、氷の彫像が立っていた。「……特使閣下。我が主君の御手は、外交の調印のためにあるものです。貴国の親愛を示すのであれば、その唇は、あちらに用意した羊皮紙にのみ捧げていただけますか」 ユーロスの声は、シルフィが聞いたこともないほど低く、冷ややかだった。 彼の周囲だけ、物理的に気温が数度下がったのではないかと思えるほどの、絶対零度の威圧感。「おや、厳しい護衛殿だ。シルフィ様、これほど野暮な男が隣にいては、貴女の慈愛が曇ってしまう。どうでしょう、この会談が終わった後、月の見えるテラスで口直しに……」 ジュリアンがさらに甘い声を重ねようとした、その瞬間。『メキッ』 静寂の中に、不穏な破砕音が響いた。 ユ

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status