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5.段ボールに囲まれた二人と一匹①

Auteur: 鷹槻れん
last update Date de publication: 2025-08-21 14:03:29
雨は止む気配を見せなかった。

愛犬うなぎを連れて公園のベンチでうずくまっていた私に、梅本先生は何も言わず、ただ傘を差し掛けてくれた。

それだけでもありがたいのに「もし家に帰れねぇってんなら、とりあえず俺ん家《ち》来いよ」とか。

お顔だけ見たらすっごく怖そうなのに、なんて優しい人なんだろう。

呆然自失の私の手を引いて立ち上がらせると、梅本先生はそっと背中を抱くようにしてリードしてくれる。

 私はうつろな意識をなんとか鼓舞するように、うなぎのリードを強く握りしめてそんな彼のなすがまま、ふらりふらりと歩き始めた。

雨粒が眼鏡にびっしりと貼りついて、視界がにじんでまともに前が見えない。鼻眼鏡になりかけたフレームを押し上げるたび、現実に引き戻されるようで苦しかった。

それだけでもしんどいのに、びしょ濡れの服が肌にまとわりついてきて動きづらい。濡れた衣服は、容赦なく私の体温を奪っていく。まるで、さっきまでいた自宅の玄関先の冷たさを思い出させられるみたいで、私はもう二度とあの家の扉を叩くことはできないんだと胸の奥で呆然と考えていた。

私がいなくなっても、きっと孝夫さんは
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    「昔の話だ。ホント、穂乃が気にすることじゃねぇんだよ」 「でも……」 「俺の! ……問題だから」 そこで一度、言葉を切る。「穂乃まで背負う必要はない」 ――背負う必要はない。 その言葉に、胸が締め付けられた。 竹中さんには話せたことなのに、私には話せないと線引きされたようで。  それが、堪らなく辛かった。(……やっぱり私は、一臣さんにとって〝話すに値する相手〟じゃないのかな) そう思ったら、胸の奥がズキンと痛んだ。「でも、私……」 「穂乃?」 「一臣さんが苦しかったことなら、私だって……」 少しくらい、一緒に背負いたい。  そんなふうに思うのは、いけないことなのだろうか。「私だって、一臣さんのこと――」 「だから!」 思いのほか強い声に、身体がびくりと震えた。  一臣さんもハッとしたように目を見開く。 それでも、もう口から出てしまった言葉は止まらなかった。「これは俺の問題なんだよ。穂乃が背負うようなことじゃない。だから――」 一臣さんが、苦しそうに眉根を寄せる。「穂乃には関係ないんだよ」 「……」 ――関係、ない。 その言葉だけが、やけにはっきりと耳に残った。「……そっか」 「穂乃?」 「そう、ですよね」 何とか笑おうとした。  ちゃんと笑えたかどうかは、自分でも分からない。「ごめんなさい。変なこと聞いて」 「いや、そういう意味じゃ――」 「ジョギング、行くんですよね?」 「あ……」 「引き止めてごめんなさい。行ってきてください」 「穂乃」 「私、大丈夫ですから」 大丈夫。 また同じ言葉を使ってしまった。  今日、何度そう自分に言い聞かせただろう。 一臣さんは何か言いたそうに私を見ていた。 だけど

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    「……マジか」 「一臣さんのせいじゃありません」 「実は途中で受け持ちクラスの保護者から電話が入ってさ。そこであの人と別れなきゃなんなかったんだ。さすがに校長か教頭にあいさつして帰ってくれたとばかり思ってたんだけど……図書室へ行ってたって知ってたら俺も後を追いかけたのに。気付かなくてすまん」  一臣さんは、やたら申し訳なさそうな顔をして頭を下げてくる。  それは、彼女が私に敵意を持っていることを知っているの前提みたいな態度に思えて――。  私はギュッと拳を握りしめた。「で?」  こちらを見つめる一臣さんの眉間に、わずかに皺が寄る。 「なんか変なこと言われたんだよな、きっと」 そんな一臣さんに、私は意を決して口を開く。「あの……、竹中さんって、一臣さんの……元恋人、なんですか?」 一瞬。  ほんの一瞬、一臣さんが黙った。 でも、否定はしなかった。 やがて、ふうっと短く息を吐く。「……ああ」 分かっていた答えだったけれど、肯定された途端、胸の奥がちくりと痛んだ。「確かに昔、ほんの一時期付き合ってたことがある」 「そう、……なんです、ね」 「……あの人が言ったのか?」 「はい」 「余計なことを……」 一臣さんが面倒くさそうに髪を掻く。「黙ってて悪かった」 「いえ!」 思わず強く否定した。「謝らないでください。そんなの、私に謝ることじゃないです」 「でも」 「本当に大丈夫です」 そこは、ちゃんと伝えておきたかった。「私にだって孝夫さんとのことがありますし。一臣さんに昔付き合っていた人がいたからって、それをどうこう言うつもりはありません」 ――言える立場でもありませんし。  その一言は寸前のところでグッと喉の奥に押し込めた。「穂乃」 「本当です」 竹中さんが元恋人だったことは、苦しい。  嫉妬していないと言った

  • 恋人未満の彼と同棲生活(仮)始めます   11.私は全部知っている⑨

    「ただいまー。……って、うなぎ! お前、今日ちょっとテンション高くね!?」 そんな声が聞こえてきて、思わず笑ってしまう。(……一臣さんだ) たったそれだけのことで、ずっと胸の中に居座っていた重たいものが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。「お疲れ様、一臣さん」 キッチンから顔を出す。「おう。ただいま、穂乃」 ――穂乃。 いつものように名前を呼ばれる。 学校では決して呼ばれない、私の名前。「あー、すっげぇいい匂いする」「今日は生姜焼きです」「マジ? メニュー聞いた途端、俄然腹減ってきた」「もう少しでできますよ」「なんか手伝う?」「大丈夫です。一臣さん、着替えてきてください」「ん。ありがとう。じゃあそうさせてもらう」 一臣さんが自分の部屋へ向かっていく。 その後ろ姿を見送りながら、私は小さく息を吐いた。(……いつも通り) 何も変わらない。 家へ帰れば、一臣さんはいつもの一臣さんで……私を穂乃と呼んでくれる。 そして私は、ここで一臣さんの帰りを待っている。 関係は曖昧だけど、恋人に近い距離感なんじゃないかと思いたい。 竹中さんが一臣さんの昔をどれだけ知っていたとしても、今、一臣さんが〝ただいま〟と言って帰ってくる場所には、私がいるのだから。 そう思ったら、ほんの少しだけ、胸が温かくなった。***「ごちそうさま。今日の飯も最高に美味かった」「お粗末さまでした」「いや、マジで穂乃が作ってくれる料理、どれも美味いし……今日の生姜焼きもすげぇ好きな味だった!」「本当ですか?」「おう。なんか穂乃と住むようになってから飯進んで体重やべぇかも」「ふふっ、それは困りましたね」「大丈夫。その分、しっかり運動するようにするから」「はい」「あー、ところで今日、うなぎの散歩は?」「残念ながらもう済ませました」「マジかぁぁぁ」 一臣さんがガクッとうなだれて、「じゃあ、ちょっとしたら一人で走ってくるわ」とつぶやいた。「あの……ご飯は今まで通り作っても大丈夫ですか?」 一応問うたら、「当然」と即答される。「じゃあ、また作りますね」「有難う。俺も早く帰れた日は手伝うから」「はい。よろしくお願いします」 言いながらも、一臣さんはどんなに遅く帰って来た日も、洗い物はしてくださる。 孝夫さんと暮らしていたころは体調不良

  • 恋人未満の彼と同棲生活(仮)始めます   11.私は全部知っている⑧

     担任を持っている一臣さんは、子どもたちが下校したからといってすぐに帰れるわけではない。むしろ児童らが帰ったあとだからこそできる仕事も多いし、今日は保護者からの電話も入っていたと聞いた。(きっといつもより遅いんだろうな) そう思うと、なんだか不安に押しつぶされそうになる。「くぅーん……」 うなちゃんにペロリと頬を舐められて、私はハッとした。「ごめんね、ぼーっとしてた」 気持ちを切り替えるように、わざと明るめに声を出して立ち上がると、私はバッグを所定の位置へ置きに行く。 代わりにうなちゃんのお散歩セットを手に振り返って、 「よし。うなちゃん、お散歩行こっか」  と微笑み掛けた。「わんっ!」 〝お散歩〟という言葉はしっかり分かっているらしい。  途端うなぎが嬉しそうに尻尾を振りながら玄関へ駆けて行って、〝早く早く!〟と急かすみたいに玄関扉へ前足を掛けてから、私を振り返った。「ふふっ。すぐ行くから待って」 急かすうなぎに笑いながら、リードとハーネスを手に取る。 ブンブン振られる尻尾を横目に、私はうなちゃんによく似合う明るい色のハーネスを彼女に装着して外へ出た。「暑いね」 九月に入ったとはいえ、夕方の空気にはまだ夏の名残があった。  それでも真夏の頃に比べれば、日が傾くのも随分早くなった気がする。  暑い時分は陽が落ちてからお散歩へ行くようにしていたから、夕飯づくりの時間とお散歩の時間が今とは逆転していた。「うなちゃん、また寄り道?」 いつもの散歩道。  うなぎはあちこち匂いを嗅いでは立ち止まり、時々思い出したように私の顔を見上げる。「ふふっ。楽しいね」 無邪気なうなぎを見ていると、学校を出てからずっと胸の奥に引っ掛かっていたものが、ほんの少しだけ薄らいでいく気がした。(……今は考えるの、やめよう) 一臣さんが帰ってきたら、ちゃんと顔を見て話せばいい。  そう思いな

  • 恋人未満の彼と同棲生活(仮)始めます   11.私は全部知っている⑦

     それからの私は、どこか上の空。仕事をしていても、何度も同じところで作業の手を止めてしまっていた。『桃瀬先生が話すに値する相手だと思えば、彼も話してくれると思いますし』 忘れようとしても、竹中さんの言葉が頭から離れてくれない。(話すに値する相手……) そんな値踏みするような目を、一臣さんから向けられたことなんて一度もない。 あくまでも竹中さんが勝手に言っただけだ。 そんなの、分かってる。分かっているのに。 私は一臣さんの弟さんのことを、――もっと言えばご家族のことを何も知らなかった。 弟さんがいることも、今日竹中さんから聞かされて初めて知ったくらいだ。(私には話しても無駄だと思われてる?) 親しくなって、それほど経っていないのだ。時期尚早なだけかもしれない。 でも……。 さっきから同じことをぐるぐると考えては、自分を慰めるように教えてもらえていない理由を探している。 現に私だって、一臣さんに自分のことを全て話しているわけじゃない。 家族構成や、孝夫さんとの馴れ初め。 考えてみれば、うなちゃんとの出会いだって、話したりしていないもの。 お見合いで出会ったわけでもない限り、そういうのは少しずつ分かり合っていくものだと思う。(それに……)  誰にだって、人に話したくないことのひとつやふたつ、きっとあるはずだもの。 考えてみれば竹中さんの言い方では、弟さんのことは一臣さんにとって、言いづらい部類のことみたいに聞こえた。 だとしたら尚更。そんなことを、まだ恋人ですらない私が〝教えてほしい〟なんて思うこと自体おこがましい話なのかも?(でも……あんなふうに言うってことは……竹中さんは一臣さんからそういう話をしてもらっていたってこと……だよね?) そもそも、竹中さんと一臣さんはどのくらいの期間、お付き合いなさっていたんだろう? 付き合い始めてどのくらいで、彼から〝話すに値する相手〟だと思われたのかな……。(私は……) 一臣さんと私は、まだちゃんとお付き合いしているわけではない。 下の名前で呼び合って、触れるか触れないかの軽いキスを交わして。一線を越えそうにもなったけれど、私が孝夫さんにされたことを思い出して怖がったのに気付いた一臣さんが、待ってくれた。 もしあのまま身体の関係があったとして……『付き合おう』って言われていない間

  • 恋人未満の彼と同棲生活(仮)始めます   11.私は全部知っている⑥

    (私にだって、孝夫さんがいたんだもの)  結婚して、夫婦として一緒に暮らした人がいた。  一臣さんにだけ過去があってはいけないなんて、そんな勝手なことを思うつもりはない。 分かっている。  そんなこと、ちゃんと分かっているのに……。  それでも、胸が痛かった。(……嫌だ) 目の前にいるこの人が、一臣さんの恋人だった。  私の知らない一臣さんを知っている。  〝昔みたいに〟と名前を呼べるくらい近いところにいた。  その事実が、どうしようもなく苦しかった。「……桃瀬先生? いかがなさいました?」 「あ、その……なんでもありません。すみません」 「いえ、大丈夫ですよ」  竹中さんは、私の顔を覗き込むようにして笑う。 「……でも、今ので確信しました。桃瀬先生はやっぱり好きなんですね。一臣のこと」 「……っ!」 否定しなくちゃ。  ここは学校だ。  私は一臣さんとはただの同僚で――。  そう言わなきゃって思うのに、言葉が出てこなかった。 その沈黙をどう受け取ったのか、竹中さんの目がほんの少しだけ細くなる。「ところで一臣は、あなたに話したんですか?」 「……え?」 「ほら。弟さんのこと」  弟さんの、こと……?  思いも寄らない言葉に、私は瞬きをした。 「それって、どういう意味……ですか?」 私がそう尋ねた瞬間、竹中さんの表情が変わった。 そうして次に口を開いた時にはどこか勝ち誇ったように、 「……そう、まだ話してないんですね」  意味深長に微笑んでみせる。 「だから……何のこと……ですか?」  その表情が気になって思わず聞き返すと、竹中さんはすぐには答えず、ただ私をじっと見つめてきた。 同情するような、それでいて、どこか見下ろすような、そんな目で見られて、私はとても居心地が悪くなってしまう。「教えてあげたいのは山々だけど……知らないのは、一臣が話していないからってことでしょう? だったら私から言うことじゃないと思うの」 「それはそう、です、けど……」 「そんなに気になるなら一臣に直接聞いてみたらどうですか?」  にっこりと笑う。 「桃瀬先生が話すに値する相手だと思えば、彼も話してくれると思いますし」  綺麗な笑顔だった。  なのに、背筋がぞくりとした。「ちなみに私は……一臣のことは全部知って

  • 恋人未満の彼と同棲生活(仮)始めます   4.さよならの雨と、拾われた夜①

    五月に入ったばかりという今日、まだ梅雨ではないけれど、外はあいにくの雨模様だった。 「ごめんなさい、孝夫さん。今日は月に一度の委員会活動の日で残業なの」 私の勤め先の青葉小学校では、毎月大体第四月曜日の五時間目が、各委員会の定例集会になっている。 校内にいくつもある様々な委員会所属の五・六年生たちが、各々定められた場所へ集まってイベントの取り決めをしたり、日々の反省会をしたり……。月によってやることはまちまちだ。 私が担当する図書委員会の児童らは、図書室に集まって定例会をする。 基本的には教員免許を所持している司書教諭の白石先生が主体になって議事進行をなされるのだけれど、図書

  • 恋人未満の彼と同棲生活(仮)始めます   3.ヤクザさん(?)の正体⑤

    「あの、そういえば私、梅本先生からお預かりした手袋をお返ししたくて。あれからも毎日同じ時間にうなちゃんと散歩してたんですけど、あれっきりお会い出来なくなっちゃいましたよね? あれって……もしかして」 ――私と出会いたくなくて避けていらっしゃいましたか? なんでかな? その言葉は肯定されるのが怖くて続けられなかった。 だって、それまではずっと変わらずその時間帯に梅本先生(と思しきランナー)と毎日のように出会っていたの。なのに、あの一件以降、ぱったりと会えなくなってしまったんだもん。

  • 恋人未満の彼と同棲生活(仮)始めます   3.ヤクザさん(?)の正体④

    一瞬の沈黙のあと、彼がぽつりと続けた。 「……双子の姉妹とか、いる?」 思いもよらない質問に、私はぽかんと口を開けて目を瞬いた。 「……へ?」 「いや、こないだ公園で……。あー、いや、いい。なんでもない」 言いよどむ彼に、私は彼が例の片手袋紛失事件のことを言おうとしているんだと悟って、ブワリと頬が熱を持つのを感じた。それを誤魔化すみたいに、私は慌てて口を開いたの。 「そ、その節は、本当にごめんなさいっ! あのときはあんな形で怖いお顔の男性が落っことした手袋を拾ってしまったりしたから……その……〝既存の知識〟と合わせて、私……てっきり……」 慌てる余り、眼前の教師こ

  • 恋人未満の彼と同棲生活(仮)始めます   3.ヤクザさん(?)の正体③

     ふと時計を見遣ると、タイムリミットまであと20分。 (とりあえず1年1組だけ。できるかな?)  中途半端な状態になるのは避けたい。1年1組は全員で23人だから、頑張ればギリギリいけるかな?  そんな算段を付けながら、クラス担任の名前を見るとはなしに見遣って、私は小さく吐息を落とした。 (梅本先生……)  ああーん、彼から預かりっぱなしになっている手袋、どうしよう?  朝の職員会議の後、彼とバッチリ目が合ってしまったのを思い出した私は、小さく吐息を落とした。  一度は目を逸らした問題だったけど、いつまでも放置ってわけにはいかないよね? *** 始業式や着任式へ

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