「そ、それは。断片的に思い出したんだよ」
彼の言葉に、エリアーリアはそれ以上何も言わなかった。
ふと。 ぽつ、ぽつ、と天井から水滴が落ちてきて、アレクの銀の髪にかかった。雨漏りだった。彼が慌てて近くにあった桶を置こうとするが、エリアーリアは押し留める。「そんなことではきりがないわ」
小さくため息をつくと、雨漏りのする天井へ手をかざす。すると小屋の梁から細い蔓がするすると伸びてきて、雨漏りの穴をすっかり塞いでしまった。水の滴る音は、もうしない。
アレクは、あまりに自然な魔法の行使に目を見張っていた。 人間の使う魔術とは大きく違う。呪文の詠唱はなく、魔力の動きもほとんど感じられなかった。力ではなく、自然との調和そのもの。「……普通なら、今の魔法は怖がるべきなんだろうな。人間ではあり得ない、不思議な力だ」
彼は一度言葉を切って、エリアーリアの緑の瞳をまっすぐに見つめた。
「だが、不思議と怖くない。君がやると、まるで雨上がりの草が丈を伸ばすのと同じくらい、自然に見えるんだ」
(……怖くない?)
エリアーリアは絶句した。
百年、人間と自分を隔ててきた壁。その正体は異質なものへの恐怖だった。人間は魔女の力を恐れて遠ざけ、あるいは利用しようとした。 同じ魔女の仲間であれば、互いに理解はできる。同族であれば当然だ。 だが目の前の青年は違う。 彼は人間だ。それなのに魔女の力を目の当たりにして、ただ「自然だ」と言った。人と魔女との違いを乗り越えて、彼女の存在そのものを、ありのままに受け入れる言葉。百年間、誰からも向けられたことのなかった、純粋な受容の眼差しが目の前にある。
エリアーリアの孤独は、誰からも理解されない諦念と共にあった。アレクの言葉が、彼女の心の壁にヒビを入れる。「……そんなふうに言われたのは、初めて」
自分の声をどこか遠くに聞きながら、彼女は続けた。
「怖がらないでいてくれたのも、あなたが初め
降り続いた雨が上がると、それまでの嵐が嘘のように晴れ渡った夜空になった。雨で洗い流されて澄み切った、満天の星空が輝いている。 小屋の外に出て星を見上げていたエリアーリアは、ふと思った。(あの風景を、彼に見せてあげたい) 辺りに漂うのは、雨上がりの澄んだ空気。たっぷりと水を得て、喜びの歌を歌っている森。いつもよりも強く感じる月と星々の魔力。 明るく浮き立つような森の気配の中で、エリアーリアの心も弾んでいた。 雨宿りの会話で、心の深い部分を彼に明かしてしまったからだろうか。戸惑いと同時に、どこか心が安らぐのを感じる。 これ以上はいけない、魔女の掟に反すると、理性は叫んでいる。 けれどエリアーリアは、どうしても気持ちを抑えられなかった。「アレク。見せたいものがあるわ。ついてきなさい」 思いがけない誘いに、アレクは驚いたように目を瞬かせる。けれど彼が彼女の誘いを断るはずもない。何も問わずに微笑んで、頷いた。◇ 雨の水気を含んだ森の中を、二人は歩いていった。 木々の梢からは、月明かりが差し込んでいる。その明るさを頼りに、彼らは進んだ。 やがて開けた広場に出た。 そこには一面の銀の花々が咲いている。森の嵐の後、短い間だけ花を咲かせる「月光花」の群生地だった。 咲き誇る銀の花々は、月の光を浴びて淡い燐光を放ち、広場全体に星屑を撒いたような幻想的な光が満ちている。「綺麗だ……。まるで天の川が、地上に降りてきたようだ」 見上げる天には星々の川。立つ地上は銀の光。 この世のものではない幽玄の美、人の世を離れた魔女たちの世界がそこにある。 アレクはただ、人の身に余る美しさに言葉を失って、天と地に満ちる光を目に焼き付けていた。(連れてきて良かった) エリアーリアはそんな彼の横顔を見て、思う。この光景は、アレクの銀の髪によく似合う。 銀の光の中央に立ち、彼女は静かに語り始めた。「あなたは、死ぬのは怖い?」
「そ、それは。断片的に思い出したんだよ」 彼の言葉に、エリアーリアはそれ以上何も言わなかった。 ふと。 ぽつ、ぽつ、と天井から水滴が落ちてきて、アレクの銀の髪にかかった。雨漏りだった。彼が慌てて近くにあった桶を置こうとするが、エリアーリアは押し留める。「そんなことではきりがないわ」 小さくため息をつくと、雨漏りのする天井へ手をかざす。すると小屋の梁から細い蔓がするすると伸びてきて、雨漏りの穴をすっかり塞いでしまった。水の滴る音は、もうしない。 アレクは、あまりに自然な魔法の行使に目を見張っていた。 人間の使う魔術とは大きく違う。呪文の詠唱はなく、魔力の動きもほとんど感じられなかった。力ではなく、自然との調和そのもの。「……普通なら、今の魔法は怖がるべきなんだろうな。人間ではあり得ない、不思議な力だ」 彼は一度言葉を切って、エリアーリアの緑の瞳をまっすぐに見つめた。「だが、不思議と怖くない。君がやると、まるで雨上がりの草が丈を伸ばすのと同じくらい、自然に見えるんだ」(……怖くない?) エリアーリアは絶句した。 百年、人間と自分を隔ててきた壁。その正体は異質なものへの恐怖だった。人間は魔女の力を恐れて遠ざけ、あるいは利用しようとした。 同じ魔女の仲間であれば、互いに理解はできる。同族であれば当然だ。 だが目の前の青年は違う。 彼は人間だ。それなのに魔女の力を目の当たりにして、ただ「自然だ」と言った。人と魔女との違いを乗り越えて、彼女の存在そのものを、ありのままに受け入れる言葉。 百年間、誰からも向けられたことのなかった、純粋な受容の眼差しが目の前にある。 エリアーリアの孤独は、誰からも理解されない諦念と共にあった。アレクの言葉が、彼女の心の壁にヒビを入れる。「……そんなふうに言われたのは、初めて」 自分の声をどこか遠くに聞きながら、彼女は続けた。「怖がらないでいてくれたのも、あなたが初め
湿り気を帯びた熱い空気が森に満ちる夏の午後、空が急速に暗くなった。 エリアーリアが軒先に干していた薬草を取り込もうと手を伸ばした瞬間、大粒の雨が地面を叩き始める。空を見上げた彼女の髪が、みるみるうちに水に濡れていった。「大変だ! 薬草を取り込まないと、濡れてしまう!」 アレクが慌てて薬草を集めようとするが、エリアーリアは制した。「気にしないで。それよりも早く小屋に入りなさい。この雨は、荒れるわ」 遠くの空に稲光が走った。続く雷鳴は、アレクの予想を超えて近くに落ちる。轟音が辺りに鳴り響いて、大気と地面が揺れた。 先に小屋に戻ったエリアーリアに続き、アレクも小屋に駆け込んだ。◇ 激しい雨が屋根を打ち、窓に光る稲妻が小屋の中を一瞬だけ青白く照らし出しては、また暗くなる。 ランプの灯火が今は頼りない明かりとなって、二人の影を壁に映していた。 狭い小屋の中は、降りしきる雨の音と雷鳴だけが満ちている。 アレクと二人きりで閉じ込められる状況に、エリアーリアは落ち着かない気持ちを覚えていた。この小屋はつい春先までは、彼女のたった一人きりの聖域だったのに。今ではこうして当たり前のように彼がいる。 そして、異物であったはずの彼の存在に慣れてきているのを自覚して、内心でため息をついた。「すごい雨だな。この森は、時々こうして荒れるのか?」 沈黙を破ったのは、アレクだった。エリアーリアはどこかほっとして、頷いた。「ええ。森が溜め込んだ魔力を、こうして吐き出すの。……怖くはないの? 激しい雨に、落雷。人間は、こういうのを恐れるものだと思っていたわ」 深緑の森は魔女の森。魔力の流れは強く、普通の森とは違う環境になっている。 エリアーリアの問いに、アレクはわずかに微笑んだ。「君がいるから、怖くない。それに……なんだか、懐かしい気がする。昔、兄上と雨宿りをして、お互いに雷を怖くないと言い合ったものだ。本当は怖いのに、意地を張って」「あら。
また別の日の午後。エリアーリアは普段使わない、丁寧に編まれた特別な籠を手に小屋を出た。 いつもより深く、古い魔力の濃い森の奥へと向かう。そこは獣道すらない、彼女だけが知る聖域への道だった。呪いを抑える薬に必要な、花を摘みに行くのだ。花は満月の日にのみ咲く、とても貴重なものである。 アレクの視線から解放され、純粋に森と一体になれるこの時間を、彼女は心の拠り所としていた。(少し、一人になりましょう。ほっとするわ) 小屋に残されたアレクは、彼女の普段と違う様子に強い好奇心を覚えていた。(どこへ行くんだろう? そういえばあの人は、以前もあの籠を持って出かけていった) もっと彼女を知りたい。抗いがたい衝動に駆られる。 アレクは気配を殺して、慎重に彼女の後を追った。◇ アレクがたどり着いたのは、森の最奥にある広場だった。 広場を取り巻く古木たちが長い枝を伸ばして、まるで天蓋のように覆っている。陽光がその隙間から差し込んで、きらきらと輝いている。 中央には天を突くほどの大樹がそびえ、地面は淡く光る苔に覆われていた。 アレクが木陰から見守る中、エリアーリアは古樹の前に立ち、そっとその幹に手のひらを触れさせていた。 エリアーリアはそっとまぶたを閉じた。金の長い睫毛が震えて、陽光を弾く。 柔らかい光の中、不思議な歌が聞こえてきた。エリアーリアが歌っているのだ。 それは人の言葉ではなく、この世の音律ですらない。森羅万象の響きそのもののような「歌」だった。 それは風のそよぎであり、木の葉のざわめきであり、大地を流れる水の音。 彼女の歌に応えるように、古樹は輝きを増す。周囲の光る苔は一斉に明滅し、蕾だった花々がゆっくりと開花していく。風が彼女の金の髪を優しくなびかせ、光の粒子が舞い散った。(なんて、美しい……) アレクは目の前の光景に、その中心に立つ女性に完全に心を奪われた。 今まで抱いていた淡い恋心は、この瞬間、畏敬を伴う思慕の念へと昇華されたのだ。
この日から、エリアーリアはアレクを連れて森を歩くのが日課になった。 エリアーリアは森の様々な知識を彼に教えた。食べられる草や木の実、きのこ。毒のあるもの。薬草になるハーブの見分け方。 特殊な性能を持つ樹木の樹皮や、その他の素材になり得る植物たちなど。 森の獣たちの習性に、天候が変わる兆しの読み方。 木々を渡る風の魔力の感じ方。「アレク、あれを見なさい」 エリアーリアが指さした先には、一本の古いミズナラの木がある。古い木はあちこち傷ついて、もう枯れかけていた。「あの木はもう寿命を迎えるけれど、古い木は死んでしまった後もしばらく残るの。深い洞がリスや小鳥の住処になったり、きのこが菌糸を張り巡らせて原木になったりもする。森の命は何一つ無駄にならない。命は全て繋がっていて、一つの事柄に気を取られすぎると、別の思わぬ場所に影響が出ることもある。森を知るには細部だけではなく、全体を見なければ駄目」「繋がっている……」 アレクは古い木に歩み寄って、そっと手を触れた。 樹皮はからからに乾いていて、もう生命を感じられない。「獣の体は、死ねば大地に還る。他の獣や虫たちが食べて、最後には骨になってね。そうして次の生命を繋いでいく。植物も同じなのよ」 自然の化身である魔女の教えは、アレクにはなかなか理解が追いつかなかったが、それでも彼は熱心に学んだ。 日に日に回復していくアレクの様子に、エリアーリアは内心で安堵する。安堵した自分に気づいて、心の中で舌打ちをした。 アレクに心を許さないように、エリアーリアは自分に言い聞かせる。 森の教えは最低限。できるだけ事務的に。いっそ冷たいほどに。 けれどアレクは、彼女の冷たい言葉とは裏腹に、毎食用意される滋養のあるスープや的確な薬の処方に、隠された優しさを感じ取っていた。◇ そんなある日のこと。いつものように森に出た先で、アレクが口を開いた。「もう少し体力が戻ったら、俺が狩りをしよう。いつまでも世話になってばかりではいられ
(このままではいけない。ただでさえ魔女の禁忌に触れているのに) こみ上げる感情を押し殺すために、エリアーリアはわざと冷たく言った。「戯言はそこまでにして。勘違いしないで。私はあなたを助けるけれど、それだけ。傷が癒えれば、あなたはただの他人よ」 顔を背けたまま鋭く言い放つ。 その言葉に、アレクの瞳が一瞬だけ悲しげな色を浮かべたのを、エリアーリアは気づかないふりをした。◇ あれから数週間が過ぎて、森は初夏の色合いを濃くしていた。 アレクの体力はずいぶんと回復している。小屋の周りで薪を集めたり、水を汲んだりと、軽い手伝いができるようになった。 アレクは元の豪奢な服を脱ぎ捨て、エリアーリアが用意した素朴な布の服を着ている。ちくちくと肌触りはあまり良くないけれど、動きやすい。彼はけっこう気に入っていた。 エリアーリアとアレクの関係は、一言では言い表せない。 治癒者と怪我人としては、エリアーリアの態度は冷たかった。アレクと視線を合わせるのを避けて、薬草を調合する作業台にこもりがちになっている。(あくまで契約よ。傷が癒えるまでの、一時的なもの) そんなことを考えていると、散歩に出かけたアレクが戻ってきた。「深緑の魔女。森でこんな実を見つけた。きれいな色だ。食べられるだろうか?」 嬉しそうに手に持っているのは、真紅の木の実。 エリアーリアはため息をついた。「その赤い実は毒よ。食べたら死ぬわ」「えっ」 アレクは目を丸くして木の実を見ている。「……捨ててくる」 しょんぼりした様子で小屋を出て行きかけたので、エリアーリアは呼び止めた。「待ちなさい。毒だって使い道はある。よく干して他の薬草と混ぜ合わせれば、薬になるの。ここに置いておいて」「そうか! 良かった」 アレクの無邪気な笑顔に、エリアーリアの心がちくりと痛んだ。「あなた、そんな様子じゃこ