LOGINならば、魔力さえ抑えておけば追われる率はぐっと低くなる。
魔力は抑え込むだけで、失うわけではない。とっさに大きな魔法は使いにくくなるだろうが、身の危険を考えれば選ぶまでもなかった。
(魔法に未練は……ない。今だってシルフィの病を癒したのは、薬草学の知識だった。人間の世界でこの子たちを育てるなら、かえって好都合だわ)
魔女だった頃は、呼吸と同じ自然さで魔法を操っていた。森の全ては彼女のものであり、また、彼女も森そのものだった。
けれど今日の出来事で思い知ったのだ。たとえ魔力がどれほどあろうとも、もはや魔女には戻れない、と。「シルフィ、アルト。安心してね。あなたたちが大人になるまで、お母さまがちゃんと見守ってあげるわ。――魔女ではなく、人の母として」
なけなしの魔力で、子どもたちにもう一度守護の魔法をかけ直す。
完全に魔力を使い切った彼女は、気絶するように倒れた。 一日眠って回復したら、計画通りに動こうと心に決めながら。◇ アストレア王国、王宮の地下にて。 闇魔術師ダリウスは、自らの呪いが霧散したのを感じ取った。「ふん。未知の魔女め、あの程度の呪いは通用しないということか。せっかく脆弱な赤ん坊を狙ったというのに、やりがいのないことだ」
彼は机の上の水晶に歩み寄り、手をかざす。
(まあいい。次はもっと強い呪いを使って、魔女とガキどもの正体を暴いてやろう。殺すためではなく、絡め取るための呪いは、どれがいいか……)
ダリウスの思考は、だがすぐに中断された。
「なんだ、これは! 魔力の痕跡が消えている。子どもも、母親も……。馬鹿な! 巧妙すぎる! 魔女の魔力の扱いとは、これほど巧緻なものなのか!?」
人間ではあり得ない見事さで、エリアーリアは魔力の痕跡を消し去っていた。
ダリウスは歯噛みして、次いで笑い始めた。「ククッ……いくら隠れようと、決して逃しはしない。その
アレクの心からの言葉に、エリアーリアの気持ちは激しく揺さぶられた。 涙があふれそうになる。だが、彼女は唇を強く噛みしめてこらえた。(アレクは王になった。人ではない私は、彼に寄り添えない。魔女ですらない穢れた私は、共に歩いていけない。そんな資格はない……) アレクが彼女を忘れていなかった、その事実だけで十分だ。 エリアーリアは一歩下がると、距離を取った。 それから跪いて、一人の民として配下の礼を取る。 国王と一介の民。二人の間の大きな身分差と、エリアーリアの拒絶の意志を示す行動だった。「エリアーリア……? やめてくれ」 アレクがうろたえている。 彼は彼女に逃げられるのを恐れていたが、このような形で拒まれるとは思っていなかったのだ。 エリアーリアは顔を伏せたまま、細い声で言った。「私のことは、お忘れください。そしてお帰りください。……国王陛下」 エリアーリアは決して、アレクを名で呼ぼうとはしない。 あくまでアストレアの国王として接した。 深緑の森で笑い合っていた時間は、もう戻らない。二人の関係は変わってしまった。 エリアーリアはその事実をアレクに突きつけた。 アレクの七年の思いと、二人の過去を否定する言葉だった。 アレクは、絶句して立ち尽くすしかなかった。◇ エリアーリアの口から発せられた、「陛下」という他人行儀で冷たい響き。 アレクが呆然と立ち尽くしているうちに、エリアーリアは考えを巡らせた。(店の外は騎士や町の人たちが大勢いる。アルトとシルフィは騎士に囲まれて、とても連れ出せない。どうしたらいいの……!) 答えは出なかった。 それでもアレクの姿を見ているのは辛くて、ここにいたくなくて、彼女は逃げ出した。 店の奥の寝室に駆け込む。重い木製の扉の内側から、閂(かんぬき
王の一行は郊外の「緑の小屋」へ向かう。 町の人々は何が起きたのか分からないまま、遠巻きに後をついていった。 辺境の町の素朴な道には不釣り合いな、王都の近衛騎士団の整然とした隊列。彼らの鎧が秋の日差しを反射して、馬の蹄の音が大地に響いていた。 エリアーリアは小屋の中で、軍馬の蹄の音を聞いていた。 今さら逃げ出すには遅すぎる。何よりも双子が手元にいない。(あの子たちを、行かせるべきではなかった) 栓のない後悔に心を焼かれながら、一人、その時を待っている。 心臓の音がうるさい。気を紛らわせようと薬草を並べ直すが、指がうまく動かず乾いた葉がはらりと床に落ちた。 やがて馬の蹄の音が止まった。 息の詰まるような沈黙が落ちる。 その静寂は、店の扉がノックもなしに勢いよく開け放たれたことで破られた。「エリア! 大変だよ、王様があんたの店に来るって!」 息せき切らして駆け込んできたのは、パン屋のマルタだった。 見知った顔に、エリアーリアは少し肩の力を抜くが。「いきなり行ったら驚かせるからって、あたしが先触れに。でも、もう……」「え?」 マルタは背後を振り返る。 彼女の背後、店の戸口に背の高い人が立っている。 逆光を浴びた銀髪が、秋の午後の日差しに輝きを放っていた。◇ 扉の前に立っていたのは、七年前と変わらない、けれど王としての威厳を身につけたアレクだった。 エリアーリアは息を呑んで、その場に凍り付く。 役目を終えたマルタが、静かに退出していった。 薬草の香りが満ちた、穏やかで質素な小屋の中。王の豪奢な装いが、あまりにも不釣り合いに映っていた。 アレクは子どもたちと騎士たちを外に残して、一人だけで店の中へと入ってきた。彼の視線はただ一点、エリアーリアだけに注がれている。店の中の珍しい薬草も、並べられた瓶も、彼の目には入っていなかった。 目の前に立つ、七年前と変わらぬ美しい女性の姿に
祈るようなアレクの問いに、双子は困ったように目を見交わせた。母との約束を思い出したのだ。 そんな彼らの様子に、アレクは確信を深めた。 彼は王としての仮面を脱ぎ捨てて、一人の男として、そして目の前の子どもたちの父として――愛情を込めた眼差しで見つめた。「お願いだ。大切なことなんだ。どうしても知りたい」 アルトは困ってしまった。 初めて出会ったはずの王様はとても優しくて、どこか懐かしい。 母との「約束」と「この人を助けたい」という気持ちが天秤にかかる。 とうとうアルトは口を開いた。「かあさまの名前は、エリアだよ。町一番の薬草師なんだ!」「アルト! 約束!」 シルフィが兄の服をぐいっと引っ張る。「エリア……。エリアーリア」 その名前を聞いて、アレクの青い瞳から涙がこぼれ落ちた。 七年もの間凍てついていた彼の心が、ついに溶け出した瞬間だった。 双子は涙を流す王を、目を丸くして見守っている。 そんな彼らの頭を順に撫でてから、アレクは立ち上がった。 ヨハンに向き直り、静かだが広場全体に響き渡る、王の威厳に満ちた声で命じた。「この町の薬草店へ案内せよ。……王の、勅命である」 その声を聞いた全ての者が、何か大きなことが始まろうとしているのを肌で感じていた。◇ 王の勅命は絶対の効力を持つ。 アレクは本当は、エリアーリアに一人の男として会いに行きたかった。(だが、俺が下手に近づけば、彼女はまた行方をくらませてしまうかもしれない) そう考えて、王として臣下を連れて赴くことにしたのだ。 姑息な手だと自嘲しながらも、絶対にこの機会を逃したくなかった。「さあ、君たちの家へ案内してくれ」 アレクはアルトとシルフィを抱き上げて、白馬に乗せた。「わあ、すごい! お馬の上、高いー!」
アルトはもちろん、シルフィも子供らしい好奇心に勝てなかった。 なぜ母の話が秘密なのか、理解していなかったせいもある。「よし、シルフィ、行こうぜ!」 アルトは持ち前の度胸を発揮して、シルフィの手を引きながら大人たちの間をすり抜けた。最前列に出る。「あれが、夏空の王様……」「かっこいい!」 白馬に乗るアレクの姿は堂々としていて、国王の威風が感じられた。 双子は目を輝かせて、王の姿を見上げた。◇ アレクの視線が、小さな双子を捉える。 彼の中で時が止まった。 腹に響くような歓声も、鳴り響く音楽隊の演奏も、全てが遠のいていく。他の全てのものが色を失って、アレクを見上げている二人の子どもたちだけが鮮明に映った。 子どもたちは見知った色をしていた。 男の子の髪は想い人の金。瞳は夏空の青。 女の子の髪はアレクによく似た銀。瞳は愛する人の深緑。(あの子たちは……? エリアーリアと俺の色。俺たち二人の色を分け合っている。まさか!) 七年前、彼の命を救った儀式の記憶が蘇る。彼女に『私の全てを使った』と言わしめた、禁忌の夜の記憶が。 幸福な愛の一夜と絶望の朝の思い出が、七年の時を経てなお鮮明によぎった。(あの子たちの年頃は、恐らく六、七歳頃……)「皆の者、止まれ!」 アレクは手綱を強く引いて、行列の停止を命じた。「陛下、いかがなされました」 宰相ヨハンの声に応えず、アレクは馬から飛び降りた。 驚いた民衆が、波が引くように道を開ける。 アレクはまっすぐに双子の元へと歩み寄った。◇ 広場は水を打ったように静まり返った。周囲の者全てが固唾をのんで王の姿を見守っている。 アレクは双子の前まで来ると、膝をついて目線を合わせた。王が道端の子供に跪くという、あり得ない光景だった
国王アレクの視察団が、南の辺境の町に到着した。 秋の澄んだ空の下、町は歓迎ムードに沸いている。人々はありったけの花びらを撒いて、町と空とを彩った。「国王陛下、万歳!」「賢王陛下、夏空の王。万歳!」 民たちの歓声が響く。 白馬にまたがるアレクは、民衆に穏やかな笑みで手を振りながらも、彼らの中に想い人の面影を探していた。(ここにもいないのだろうか……) 王として始めた民情視察の旅も、もう終盤に差し掛かっている。今までアストレア王国の大半を巡ったが、彼女の足跡すら見つけられないでいた。 この南の辺境が最後の望み。ここで見つけられなければ、彼女はこの国にいないか――そもそも人の領域を去ってしまったのかもしれない。 そうなれば、もう二度と会えない。 諦めきれない一縷の望みと、もう彼女はいないのかもしれないという深い悲しみの間で、アレクの心は揺れ動いていた。 町の人々が総出で出迎えてくれたのだろう、アレクの周囲にはたくさんの民たちがいる。 アレクは探して、探して……やはり見つけられない。 王としての威厳を崩すわけにはいかず、内心の悲しみを無理に覆い隠した笑顔を浮かべた、その時。 ふと、追い求めていた色が目の端に映った。 陽光を束ねたような金の色。愛しい想い人の長い髪の色と同じ色彩。 居並ぶ群衆の最前列に、小さな子どもたちが顔を出している。その片割れ、男の子の髪が彼女とそっくりだったのだ。◇「わあ。人がいっぱいいるね!」 町にたどり着いた双子は、お祭りムードの周囲に目を丸くした。 あちこちで花が撒かれ、軒先には青地の旗が掲げられている。行き交う人々はみんな笑顔で、実に楽しそうだ。 アルトとシルフィも心がウキウキとするのを感じた。「アルト。約束、忘れちゃ駄目だからね」 シルフィが言うが、アルトは落ち着きなくあちこち見回している。「分かってるよ。騒がない、かあ
思い悩んだ末、エリアーリアは妥協案を示した。「分かったわ。でも、母さんはお店を空けられないから、二人だけで行くのよ。町までは少し遠いけど、歩いていける?」「行ける! 今までだって、おつかいで行ったことあるじゃん。平気だよ」「アルトが迷子にならないよう、わたしがちゃんと見てるから」 しっかり者のシルフィが言うと、アルトは口を尖らせた。「えー! なにそれ。おれ、迷子になんかならないもん!」 双子のやり取りに、エリアーリアは微笑する。「町に行くのなら、約束してほしいことがあるの。一つは、騒いだり迷惑をかけたりしないこと。もう一つは、王様やお付きの人に、かあさまの話をしないこと」「騒がないよ。でもなんで、かあさまの話をしちゃ駄目なの?」 シルフィが首を傾げた。「理由は後で話すわ。約束が守れるなら、町へ行っても良いわよ」「分かった! 騒がない。かあさまの話もヒミツ!」 アルトが元気よく頷く。シルフィはまだ不思議そうにしていたが、王様を見に行く好奇心には勝てなかったようだ。「わたしも、約束する」「よろしい。困ったことがあったら、マルタおばさんを頼りなさい。いいわね?」 双子は揃って手を上げた。「はーい!」 ◇ 朝のうちに小屋を出て行った双子の背中を、エリアーリアは長いこと見送った。(アレクは子どもたちの存在を知らない。だから、人混みからそっと見るくらいなら気づかないはず。そもそも彼は、私のことなどもう忘れているかもしれないわ。ううん、きっとそうに決まっている) 一人になると、彼女は店の奥の薄暗い調合室にこもった。窓の外から遠く聞こえてくる、次第に大きくなる歓迎の喧騒と、彼女自身の息遣いだけが、静かな室内に響いている。 気を紛らわせようと薬草を乳鉢で砕き始めるが、不安で手が思うように動かない。 やがてひときわ大きな歓声と角笛の音が、小屋まで届いた。国王の一行が町の広場に到着したのだ。 エリアーリア