アゼルは、少し離れた場所にいた第三王女にゆっくりと近づいていった。彼女は控えめな印象だがその瞳の奥には強い意志が宿っているように見える。
「ゼフィリアの王女殿下。バギーニャへようこそ。慣れないこともあるだろうが、何かあれば遠慮なく言ってくださいませ。このアゼルがこの国の護衛をし、王女様をお守りします。」
普段の豪放な様子からは想像できないほど丁寧に、そして真摯に話しかけていた。しかし、アゼルの視線は、王女の向こうにいる私を捉えている。じっと見つめられた視線は「俺の心は揺るがない」と訴えかけるかのようだった。その熱い視線を感じ、私は目を逸らせなかった。
キリアンは第三王女と数歩離れた位置に立っていたが、王女が手に持つ書物に気づくと静かに歩み寄った。
「その書物は、かの伝説の賢者が記したものでしょうか。もし差し支えなければ私も拝見してもよろしいですか?」
彼の声は控えめでありながらも好奇心に満ちていた。王女が驚いたように顔を上げると、キリアン様は穏やかに微笑む。彼は、恋愛の駆け引きには全く関心がないといった風情だが、王女にとって大切な書物だったのだろう。キリアンが気づいてくれたことにとても喜び、頬を紅潮させてその後も書物のことで話に花を咲かせていた。
王子たちのエスコートは、まさに「寵愛の国」の王子として完璧だった。
そして、私は彼女たちの出現に心がざわつくのを止められなかった。
メルはアンナ王女が再訪してからサラリオとルシアンが葵に対して態度が変わり、距離を置くような素振りをしていることを誰よりも早く気づいていた。そして、そのことで葵が日に日に元気をなくし、まるで光を失ったかのように見えることも気がかりで胸を痛めていた。「最近、葵様が元気なくて……。サラリオ様とルシアン様が葵様に対して、以前とは全然違ってよそよそしくなった気がするの。そのことを葵様も感じ取って、ひどく心を痛めているようなんです。私は、葵様のために何ができるんだろうって、ずっと考えているの」メルは、幼馴染で恋人のリアムにその悩みを打ち明けた。夜の庭園でリアムの腕の中に抱かれながらリアムの肩に顔を預けていた。「俺は、メルがいるだけで元気になるよ。落ち込んでいてもメルが明るく笑顔でいてくれれば、俺も気分が上がるしまた頑張ろうと思えるんだ」そう言ってリアムはメルを優しく抱きしめた。彼の温かい腕がメルの不安を包み込む。メルはリアムの腰に手を回し、その胸に顔をうずめ、彼の温もりを噛みしめていた。この深く抱き合っている時間がメルの心を温かく満たし、また明日から頑張ろうと気持ちを切り替えることができた。リアムの言葉は最高の癒しだった。そして、こうして悩んだときにリアムが側にいて支えてくれることがとても嬉しかった。(葵様が元気になるように、私は側で明るく葵様を支えよう!)翌朝、葵とメルが廊下を歩いていると前方からルシアンが見えた。以前なら、遠くで姿を見つけただけでも、大きく手を振って最高の笑顔を見せた後に弾むような
変化は突然訪れた。ゼフィリア王国のアンナ王女が滞在している間、王子たちの様子が以前とは異なっている気がした。最も顕著だったのは、サラリオとルシアンの態度だ。以前なら、庭園で会えば温かい微笑みとともに呼びかけてくれたサラリオが、最近はちらりと私を見てすぐに視線を逸らすようになった。執務室で彼に会っても、忙しそうに書類に目を落とし事務的な口調でしか話さなくなった。何か用事があっても、メルを介して伝言が届くことが多くなった。ゼフィリアのアンナ王女が来てからは、ルシアンも明らかに私との距離を取っている。王宮の廊下で彼とすれ違っても、以前のように立ち止まって話しかけてくることはなく、遠巻きに会釈をするだけになった。目が合ってもどこか複雑な表情で視線を逸らしてしまう。私と目が合うとすぐさま視線を外す素振りに心を痛めていた。(どうして……?何か私は悪いことをしたのだろうか?)私の胸には、小さな棘が刺さったように、ちくちくと痛みが走った。彼らの態度の変化は、私には理由が分からなかったから、余計に不安を掻き立てる。「きっとアンナ王女がいらっしゃるから気を遣っているだけだ」そう自分に言い聞かせていたが、アンナ王女が帰ってからも態度が変わることはなかった。そして、日が経つにつれて私の心は重く沈んでいった。二人きりの時でさえ、以前の温かい雰囲気は失われ冷た
「ところで……アンナ王女からいつ聞いたんだ?お前は真面目で頭がいい。昨日のうちに知っていれば、葵の身を案じてすぐに私に報告しただろう。それが今日の朝一になったのが不思議でな。」ルシアンは、サラリオの言葉の真意を理解した。サラリオは、ルシアンが話を聞いてすぐに報告してきたと分かっている。つまり、昨日中に報告しなかったということは、サラリオが寝る時点ではルシアンはこの状況を知らなかった。つまり夜から朝にかけて知ったのではないかと、サラリオはからかっているのだ。先ほどまで真剣な面持ちで王子の責務について話し合っていたが、先日、葵がサラリオの部屋を訪れた時に、『夜に女性が来たのに、兄さんほどの人がもてなさないなんてこと、ありえないよね?』とからかった時のことを仕返ししているのだ。「…………ッ。兄さん、この前は葵のいる前でからかって悪かったよ。でも兄さんが何もしなかったように、僕もアンナ王女とは何もないから。」ルシアンは顔を赤らめながら小声で反論した。反論しながらも、昨夜のアンナ王女のことを思い出すと胸を張って何もないとは言えなかった。一瞬だけ触れた指の感触を思い出し、また少し顔が赤くなっていた。「ん?なんのことだ?私はなにも言ってないぞ?」サラリオは満足げな顔をしながらとぼけていた。サラリオとルシアンは、この時、葵を守るため、そして彼女に変な心配をかけないために最善の
「兄さん、ちょっといいかな。大事な話が。」翌朝、ルシアンはサラリオを執務室に呼び出した。二人がきりになったことを確認すると、ルシアンは声を潜めて昨晩のことを報告した。「ゼフィリア王国の訪問の件ですが、『バギーニャ王国で謎の異国の女が王子たちを誘惑して操っている』という噂が、王宮の兵士たちの間で流れているようです。国王も知っているようで、前回と今回の訪問は『葵』のことを調べるのが真の目的だったのかもしれません。」「そうか……。」サラリオの顔がわずかに曇る。単なる噂が、国の外交問題にまで発展していた。「時期から考えても、その可能性は高そうだな。そうなると葵は国外の者がいる時は、公の場に姿を見せない方がいいかもしれない。国内でも他国の者が交じっている可能性がある。葵は王宮外の者との接触はできるだけ避けて、しばらくは会わない方がいいだろう。国内に出る時は護衛を強化させるようにした方がいいな。」「そうだね。アンナ王女には僕から誤解だと説明したけれど、僕たちが葵と親密そうな素振りを見せれば、新たな誤解を招く可能性もあるから注意した方がいいかもしれない。」「そうだな。王女たちの前でも葵が姿を見せることがないようにしよう。噂もどこから広まるか分からないから、少し言動も注意した方が葵のためにもいいかもしれない。あと、葵が知ったら余計な心配をしたり、負い目を感じるかもしれないから、このことは我々だけの秘密にしておこう。」
ルシアンの言葉に、アンナ王女の表情がみるみるうちに安堵の色に変わっていく。「はあああ、良かった。私、ルシアン様の身に何かあったらと心配で心配で!」そう言って、アンナ王女は安堵の息を吐きながら両手を胸に当てて撫で下ろした。しかし、彼女は忘れていた。王女がまだ私の手を握りしめたままでいたことを。「あ、あ、あ、きゃーーーっ!」王女が手に胸を当てた際、私のゴツゴツとした指がアンナ王女の柔らかい胸元に当たった。その感触にアンナ王女の顔は真っ赤に染まり、パニックに陥ったように慌てて手を離した。「あ、あの、これは誤解で……!私ったらなんてことを!決して、誘惑とか触れて欲しいとか誘っているわけでなくて……」「あ、ああ」異国の女が誘惑と聞いて気になったアンナ王女の方が、よっぽど誘惑しているような仕草をしているもしこれが第三者で誰かの様子を見ている立場ならそう思っただろう。しかし、アンナ王女の動揺ほどではないが、私もまた、突然の出来事と予期せぬ手の感触に、いつもの冷静な態度でいられず瞳をわずかに見開いて動揺を隠せないでいた。誤解が解けた部屋には、二人の高鳴る鼓動と静寂だけが残さ
「あ、あの……ルシアン様は異国の女に利用されたり、困ったことはされていませんか?」ルシアンの手をぎゅっと握りしめたまま、アンナ王女が意を決したように聞いてきた。思いがけない言葉に、一瞬、石のように固まってしまった。「異国の女に利用?それは……一体どういうこと?」ルシアンはなんとか冷静さを取り戻し、アンナは少し迷いながらも続けた。「あの、それは……バギーニャ王国の王子たちが、謎の異国の女に誘惑されていると聞きまして……それで、もしルシアン様も何かひどいことをされたりしていたら、と思ったら……もう、じっとしていられなくて!」彼女の真剣な眼差しに、ルシアンは状況を理解した。「それは誰に聞いたの?」「王宮の兵士たちです。父も知っており、『異国の女』のことが気になっていると。わ、私はルシアン様のことだけを考えておりましたわ!」(兵士たちの噂……。そして、国王も知っていた、か。ならば、国王の前回の突然の訪問の真の目的は、『葵』だったのかもしれないな)頭の中で全ての点と点が線で繋がる。アンナ王女の言葉は、異国の女性、