LOGIN東国グループの主要メンバーが揃った会議室。会議が終わっても、東国政近が退場するまでは誰もこの部屋を出ない。「それでは先に失礼する」そう言って政近が退場したあと、秘書の一人である万葉は父親のいた場所を片づけはじめた。突然室内がざわつき、次の瞬間、万葉の手元に影ができた。顔を上げると、そこには光也がいた。姉弟の目が合うと、その場は水を打ったように静かになった。東国政近と愛人との間に生まれた子だが、東国の後継者候補である光也。東国政近と妻との間に生まれた長子だが、東国の後継者に名も挙がらない万葉。この二人が騒ぎを起こしたことはない。仲良くはない。だが、仲が悪いかどうかと聞かれると答えに困る。二人の関係を言葉にすれば万葉が光也に対して喧嘩を売るが、光也はそれを買うことがない。光也にとって万葉は、あえて自分から関わることのない存在だったのだが。「少し、時間をいただいてもよろしいですか?」光也の言葉に大きな騒めきが起きる。だが――トンッと。万葉が束ねた紙を机で整えると、その場はまた静かになった。一触即発の雰囲気に、緊張がピークに達したとき。「いいわ」「では……」「でも、これから用事があるの。急ぎでないのなら、火曜日の五時でどうかしら」「……六時でもいいですか?」「いいわ。それでは火曜日の六時、あなたの会社に行くわ」トントンッと書類を束ねると、万葉はそれ以上何も言わずに会議室を出ていった。その後ろ姿を光也は見送ったものの、何も言わずに反対側のドアから部屋を出ていった。◇◇◇「あー……落ち着くぅ」万葉のうっとりするような声を聞きながら、実花は自分をがっちり抱きしめる万葉の腕の中から救いを求めて光也を見た。「そろそろ実花を離してください」
途端に政近は上機嫌になった。そして、ソファの背もたれへ深く体を預けた。「それで、藤宮実花はどうだった?」「とても可愛らしい方でしたわ」「そうだろう」なぜあなたが得意げなのか。そう思ったが、もちろん口にはしない。「写真よりも実物のほうがいいだろう」(娘に猥談を振る非常識さ)「少女から大人の女性になる過渡期独特の美しさがありますわ」「……そうか」恍惚とした政近の表情に、いますぐ警察を呼びたくなった。「確かに、写真からも色気を感じる。まだ高校生だというのにな。あれなら光也が夢中になるのも分からなくはない」(気持ち悪っ!!)万葉は笑顔のまま、心の中で吐き捨てた。自分の娘よりも若い少女。しかも息子の婚約者。そんな実花に対して下心を隠そうともしない。けれど、この男は、自分が娘から心底軽蔑されているとは想像もしていないのだろう。娘とは黙って父親に従う者。自分の言葉を聞き、自分の決定を受け入れるもの。少なくとも政近にとって、娘とはそういう存在なのだ。(実篤様と正反対……ああ、実篤様に会いたい)「それでしたら、私ももっと藤宮実花さんと仲良くなりたいですわ」(いっそのこと、あの家の娘になりたい)「いずれ義理の姉妹になるのですもの」(あら? 光也が実篤様の義息子になれば、その姉である私も義娘になるかしら)ならない。だが、万葉の脳内につっこみ役はいない。万葉はにこりと笑う。「私からお茶や買い物に誘っても不自然ではないですし」(実花ちゃんをお出かけに誘ったら実篤様もついてこないかしら)そうしたらきっと光也もついてくる。(光也は荷物持ちとして、あの子のことだから面倒がって航さんを召還するわよね)実花。実篤。航。
万葉が父親の東国政近に呼ばれたのは、藤宮家を訪れた翌日のことだった。万葉は父の書斎へ入ると、いつものように上品な笑みを浮かべる。「お待たせして申し訳ありません」突然呼び出すな。いい迷惑だ。そんな内心をしっかり隠し、思ってもいない謝罪を口にする。「お前、藤宮家へ行ったそうだな」母親似のクールな表情は崩さないまま頷いた。だが内心は。(お父様が実花ちゃんを誘い出すために藤宮家を見張らせてることなんて、実篤様はお見通しなのよ!)大変賑やかに実篤を称賛していた。「なぜだ?」「藤宮家から光也を迎えに来てほしいと連絡がきたからですわ」「なぜ私に言わなかった」万葉は首を傾げる。「光也がいたということは、藤宮実花も一緒にいたのだろう?」「はい」万葉が肯定すると、政近は苛立っていることを隠さず舌打ちをした。(この親父……本気で気持ち悪い)「余計なことをして、申し訳ありませんでした」うっかり本音が出ないように万葉は気を付ける。「まあいい、過ぎたことだ」「ありがとうございます」(なぜ光也を迎えにいったかには興味がないのね……色々理由を用意したのに)「万葉」残念と内心肩を竦めかけたところで名前を呼ばれ、万葉は気を引き締める。今度は何かと思ったが。「お前の目から見て、藤宮実花はどんな娘だ?」「……そうですね」さすがに間が空いた。そのくらい政近の思考に対して呆れていた。常識的に考えれば、“どんな”とは人間性を問うものだと思う。東国家の娘、または光也の異母姉として、実花をどう思うか。東国当主夫人としての適性とか。実花を義妹として受け入れることについてとか。(でもこのだらしない顔)欲望に満ちただらしないこの顔を見れば『女性』とし
「くそっ」自宅の玄関をくぐった一ノ瀬恒彦は悪態をつき、被っていた帽子を取ると三和土に叩きつけた。そしてそのまま靴で帽子を何度も踏む。「あなた?」玄関の音に気づいた妻、一ノ瀬芳江が驚いた声をあげた。夫は朝からゴルフに行っていた。以前は毎月のように行っていたが、かつての仲間たちから「仕事が忙しくなった」と断られるようになり、しばらく行っていなかった。今回は、新たな取引先の相手から誘われたと聞いている。この様子では楽しくなかったようだ。「お早いですね」芳江としても、一人で満喫していた時間が台なしだと思った。リビングから聞こえる女性の黄色い悲鳴。バスドラムの低音が響く、ポップなダンスナンバー。「また韓流アイドルか。いい加減にしろ」夫とは趣味のことでときどき揉める。以前は『好きにしろ』と言わんばかりに芳江の推し活に興味を持たなかったが、いまは金の無駄遣いだと文句を言ってくる。(この人だって、一回のゴルフで何十万円も使ってくるじゃない)言い返したい気持ちもあるが、推しの曲が流れる中で醜い喧嘩などしたくない。先ほど見たばかりの推しの笑顔を穢す行為だ。「部屋に下がります」片付けは通いの家政婦に任せ、読んでいる途中だった雑誌を手に取った。そのタイミングでこちらを見た恒彦の顔が苛立ったものになる。「いつまでそんなものを読んでいるんだ!」したくないと思った喧嘩を始めるような夫の大きな声。「家を改築する話はなくなっただろうが!」それが推しの声と重なったことに、芳江の気も一気に昂る。「あなたの! あなたと恒一のせいじゃない!」芳江は持っていた雑誌を開き、勢いよくページを捲る。そして見開きのページを恒彦に見せる。「私のバスルームもこう変わる予定だったのよっ! それなのに突然無理だとか言ったりしてっ!」「仕方がないだろう! その話は、恒一が自分の新居をリフォームするついでに進めると……」恒彦は唇を噛む。恒彦の頭に、計画していた社長室の改装案が浮かぶ。北欧の有名家具デザイナーに依頼する予定だったデスク。若い秘書と使い勝手について盛り上がりながら決めたソファ。男の夢を具現化したような部屋で、訪れる客から羨ましそうな目を向けられる。(そうなるはずだったというのにっ!)◇◇◇その頃、光也たちは廃屋となっている離れの探
「実花様も取り壊しを望んでいますし、壊してしまいましょう」自分の発言を良案だと言わんばかりに高峰は手を打った。「同じ敷地内に幽霊屋敷があるなんて、実花様も嫌ですよね?」「それは、あまり気にしません」高峰の提案に実花が首を横に振ると、光也と真理が実花を見る。その顔は驚いていて、そんな二人に実花は首を傾げ、実篤は自慢げに笑う。「実花も私と一緒でホラーやスプラッタは好きなんだ。この前も二人で見たのだからな」「そうなのか?」「ええ。ときどき驚くことはありますが怖いとは感じません」フィクションだからという実花の言葉に、光也は笑う。「野球のことといい、実花は意外性の塊だな」「すみません……」「謝る必要などないさ」その言葉通り、光也は楽しそうだった。「一緒に映画を見ることができそうで嬉しいよ。そうなら航なんて誘わず、実花を誘えばよかったな」まるで最近見にいったかのような発言に、実花は作品名を尋ねる。そして光也が口にした作品名には覚えがあった。「お父様が見たいと言っていた作品です」「そうなのか。それでは、お義父上も一緒に、三人で観にいくか」光也の言葉を実篤は鼻で笑う。「君はもう観たのだから、初見同士、映画には私と実花で行く。折角だから、君は離れの幽霊探しでもすればいい」「離れは壊すのでしょう?」「壊すにしても、中の確認は必要だ」長く放置していた建物なのだと実篤は続ける。「私の曾祖父の弟が暮らしていた建物だが、彼は骨とう品を集めるのが好きだったらしいからな」「お義父上の曾祖父の弟の時代で骨とう品なら、超骨とう品ではありませんか?」「値打ちものがあるかもな。美術商も呼ぶから、高峰と一緒に探検するといい」「わくわくしますね」「健闘を祈る」「ちょっと待ってください」実篤と光也の間で話が決まりそうになり、高峰が割り
「取り急ぎ、旦那様を使い物にしましょう」「そうだね。実花パパが復活しないと、光也さんが止まらないから」「万葉様もです」「ご当主様も含めて、東国家は厄介者だらけだね」「クセが強い方が多いのです」ブーメランでそれらの言葉が返ってきていると思うが、真理も高峰も全く気にしない。これぞ東国家の血と実花は黙っていることにした。.「ところで実花様、なぜ離れを壊したくなったのですか?」実花にとって離れは自分を閉じ込める檻だった。だから壊したかったのだが、その理由を求められても説明に困る。だが。「実花様がそう仰る気持ちも分かりますけれどね」「え?」「あそこ、幽霊屋敷みたいですものね」高峰の言葉に実花は驚く。「高峰さん、離れをご存知なのですか?」「ええ。実花様の誕生日の少し前でしょうか、建物の状況を確認するよう旦那様に言われて見に行きました」「お父様に?」「実花様がご結婚なさったら新居としてプレゼントすることになっていると仰られて、古い建物だから業者を入れるにしても現状を知らなければいけないと言われて見にいきました」(……え?)「プレゼントすることになっている?」「ええ、そうお願いされたと……」高峰が首を傾げる。「ご存じありませんか?」「……ええ」高峰の目が鋭くなる。「あのポンコツを使い物にして問い質さなくてはいけませんね」「高峰さんって実花パパに惚れ込んで秘書になったんじゃなかったの?」「可愛い子には鞭を打て、ですよ」聞いたこともないサドッ気満載の高峰の言葉に実花と真理が驚いていると。「今度は飴の出番ですよ」光也が『話に混ざりたい』という感じで割り込んできた。光也に内緒にする話は終わっていたので、三人は光也もその場に混ぜる。「高峰さん、お義父上
「全く……美鈴、疲れているだろう。今日はうちに泊まっていくといい」その言葉は、まるで最初から用意されていた結論を読み上げるかのように自然だった。迷いも逡巡もなく、恒一の口から滑り落ちる中に実花の反応を気にかける様子はない。「でも、服が……」美鈴は困ったようにわずかに眉を寄せる―――困り方すら整えられていた。自分がどう振る舞えば最も『恒一に大事にされる存在』として成立するか、それを計算した振る舞いだった。「今夜はこの前置いていった服をとりあえず着ればいい。明日になったら一緒に買い物に行こう」恒一は即座にそう言い切った。その声音には、『こうするのが当然』というような親密さが滲んでい
その夜の記憶は、実花の頭の奥底に、まるで消えない染みのように残っている。思い出そうとしなくても勝手に浮かび上がり、忘れようとすればするほど輪郭を濃くしていく。そんな種類の記憶だった。.実花が夫の恒一と暮らしていた藤宮家の別邸は、その夜も例外なく重たく閉ざされていた。外の世界から切り離されたような敷地の中では季節の風すら遠慮がちに通り過ぎ、建物全体が呼吸を止めているように静かだった。ダイニングに入った瞬間、まず実花の目に飛び込んでくるのは過剰なほどの準備をされたテーブル。皺ひとつないクロス。寸分違わぬ位置に並べられた銀のカトラリー。食器の反射すら計算され
扉が開いた瞬間、空気が変わった。それまで室内に漂っていた柔らかな熱が、一瞬で冷え切る。重く、鋭く、抗うことを許さない圧が部屋の中へと流れ込んできた。「実花」低い声。その一言だけで、使用人たちの背筋が一斉に伸びる。まるで空気そのものが命令を受けたかのようだった。藤宮実篤。藤宮グループの頂点に立つ男は、いつだって“場の支配者”として現れる。誰かと会話をしていても、笑みを浮かべていても、その場の空気は最終的に彼のものになる。逆らうことを考える前に、人は自然と従う。そういう種類の男だった。実篤の視線がまっすぐ実花へ向く。そして次の瞬間、その目がわずかに見開かれた。「……そ
「お嬢様、今日は髪をまとめて、首元を見せてみたらいかがでしょう」その一言は、何気ない提案のようでいて、実花にとっては奇妙な重みを持って響いた。前世の記憶が一瞬でよみがえる。一ノ瀬恒一は、実花が髪を上げることを好まなかった。首筋が露わになることを「下品だ」と言い、社交の場で他の女性が髪をまとめているのを見ては、どこか見下すような言い方をしていた。その言葉を、実花は何度も正解として受け取ってきた。だから彼の前で一度たりとも髪を上げたことはなかった。それが「好かれるための正しさ」だと信じていたからだ。だが今、その記憶は違う形で胸に残っている。「……いいわね」返事はすぐに出なかった。