LOGIN幼い頃から、家が近かったこともあって、悠臣は慎一に何かと嫌がらせを仕掛けるのを楽しんでいた。 もっとも、彼が国内にいた時間はそう長くはない。 小学校に上がって数年も経たないうちに、いわゆる“エリート教育”の名目で海外へ送られたため、当時の慎一にとって悠臣の印象はそれほど濃いものではなかった。 二人の本当の対立が始まったのは、大学で再び顔を合わせてからだ。 同じ大学、同じ学部。 そこで再会して以降、慎一と悠臣の水面下の争いは、ようやく本格的に幕を開けた。 悠臣にはどこか歪んだ執着があった。 おそらく、朝倉家と御堂家――両家のグループ規模がほぼ拮抗していたせいだろう。 悠臣は一方的に慎一を仮想敵に据え、社交の場でも成績でも、何かにつけて彼を上回ろうとした。 だが残念なことに、その目論見はことごとく果たされなかった。 いつもあと一歩のところで、慎一に先を越される。 その積み重ねが、悠臣の中で鬱屈した劣等感を膨らませ、やがて競争心はより陰湿な方向へと歪んでいった。 ――慎一の周囲にいる人間を奪うこと。 慎一の友人。 慎一に好意を寄せる相手。 慎一が目をかけている教授。 その中には当然、紗月の存在もあった。 ある時期、悠臣はあからさまに紗月へ接近した。 彼女の講義が終わる時間を見計らって教室の前で待ち伏せし、人目のある場所でわざと距離を詰め、親しげに振る舞う。 周囲に誤解を抱かせるには、それで十分だった。 二人は付き合っているのではないか――そんな噂が、いつの間にか学部中に広まっていた。 当時の慎一は、あえて口を挟もうとはしなかった。紗月の交友関係にまで干渉するつもりはなかったからだ。 だが、自分に対してまるで反応を示さない慎一が面白くなかったのか、悠臣もやがて紗月の周囲をうろつくのをやめた。 あの頃は、どうでもよかった。 けれど今、こうして悠臣がわざわざ紗月の名を持ち出してきたことで、慎一の胸に不快感が鋭く走る。 昼間の苛立ちなど比べものにならないほどに。 大学時代、悠臣が勝手に始めた幼稚な対抗心に、慎一もまた反発心を抱くようになっていた。 こいつにだけは、絶対に負けたくない。 そんな感情がいつの間にか根を張っていた。 よりにもよって一番嫌いな男の口から、一番聞きたくない名前が出たことが、余計に神経を逆撫でした。
夜―― 慎一が接待のために貸し切りにしていた会員制のプライベートサロンに、一人の招かれざる客が姿を現した。 そこは都心の一等地にありながら、表通りから巧みに隠された場所に構えられた、限られた者だけが足を踏み入れることを許される高級会員制クラブだった。 徹底した秘匿性を売りにしており、顧客層は政財界や大手企業の重役、資産家一族の後継者たちばかり。 慎一がこの場所を気に入っている理由も、まさにそこにあった。 入会審査は極めて厳格で、たとえ既存会員の紹介であっても、基準が緩められることはない。 顧客の質を何よりも重視し、会員同士の信頼関係を損なわないよう徹底されている。 この場では顔を合わせるうちに自然と巨額の案件がまとまり、利権と資本が水面下で静かに動いていく。 まさに、権力と金が交差する社交場だった。 その空気を、場違いな男があっさりとぶち壊した。「よう、慎一。久しぶりじゃねぇか」 男は気怠げな余裕を纏いながらホールへ足を踏み入れた。周囲の視線を一身に浴びても眉ひとつ動かさず、むしろ当然だと言わんばかりに、慎一へ向けてゆるく手を振る。 この場の空気を乱すこと自体が目的であるかのように。 その姿を見た瞬間、慎一の眉間に深い皺が刻まれる。 今日の彼はもともと機嫌が良くなかった。そこへ現れたこの男の存在は、まさに火に油だった。「……御堂悠臣」 低く、押し殺した声で名を呼ぶ。 すると悠臣は、その声音に滲む苛立ちを聞き取ったのか、いっそう楽しげに口角を吊り上げた。 今にも声を上げて笑い出しそうなほど、愉快そうに。 次の瞬間には、慎一は何事もなかったように表情を整えた。私情を一瞬で引っ込め、完璧な社交用の顔へ切り替える。 周囲から見れば、旧知の友人同士が再会を喜んでいるようにしか映らない。 その完璧さが、逆に悠臣には退屈だった。「どうしてお前がここにいる。今日は朝倉グループ主催のプライベートな席だ。まさか、お前まで招くつもりはなかったが」「はは。そりゃ俺が金もコネも持ってるからだろ?」 悠臣は得意げに肩をすくめた。 慎一の言葉に込められた「招かれざる客がなぜここにいる」という露骨な悪意を、悠臣はまるで気づいていないかのように笑ってみせた。 そのまま警告めいた視線すら無視し、当然のように慎一の隣へ腰を下ろす
あれほど容赦なく、きつい言葉を浴びせられても、由衣が狼狽えたのはほんの一瞬だけだった。 次の瞬間には、糸の切れた真珠のように、涙が次々と頬を伝い落ちていく。 彼女は泣きの演技を何度も練習してきた。どう泣けばいちばん美しく見えるのか、誰よりもよく分かっている。 さっきまで顔に浮かんでいた熱を帯びた欲の色は、もう跡形もない。 そこにあるのは、ただひたすらに哀れで、心から踏みにじられたような痛々しい悲しみだけだった。「うっ……ごめんなさい、社長……っ。わ、私……ただ、社長ともっと……もっと近づきたくて……。社長がこんなに優しくしてくださるから、私、本当に……ただ、お返ししたかっただけなんです……っ、うぅ……」 泣きじゃくる合間に紡がれる言葉さえ、息の詰まり方も、間の取り方も絶妙だった。 台詞は涙に濡れながらも不思議なほど明瞭で、潤んだ瞳には薄い涙の膜が張りつき、濡れた睫毛は一本一本が艶を帯びて、かすかな光を宿していた。「うぅ……っ、社長……社長、私のこと嫌いにならないで……お願い、許してください……私、間違ってました……」 泣きながら由衣は身体を折るように身を縮めた。 肩は小さく震えている。 それすらも必死に抑え込もうとしているようで、余計に痛々しく、今にも誰かが抱き寄せて慰めたくなるほど悲惨に見えた。 先ほどまで、彼女が慎一を誘惑しようとしていた一部始終を見ていた久我でさえ、その泣き声にわずかな不安を覚え、思わずバックミラー越しに由衣の様子を確かめてしまう。 だが、慎一は相変わらず微動だにしなかった。 やがて由衣の嗚咽が少しずつ小さくなり、車も事務所の前へ差しかかった頃になって、ようやく慎一が口を開く。「由衣。会社が用意するリソースも、お前につけるチームも、お前を望む所まで押し上げることはできる。――余計なことをしなければな」 由衣の頬にはまだ涙の跡が残っていた。 慎一の声に、彼女はそっと顔を上げる。 その瞳には、いじらしいほどの想いと、近づくことを恐れる怯えが同時に滲んでいた。 慎一との距離も、先ほどまでとは打って変わってきちんと空けられている。 まるで、もう二度と踏み越えないと行動で証明してみせるかのように。「……社長、私……ちゃんと言うことを聞きます。だから、嫌いにならないでくれますか……?」 慎一は一度だけ彼女
由衣の顔に、いつしか隠しきれない愛欲が露わに滲み出ているのを見て、慎一の胸に冷たい嫌悪が走った。 最初に彼女の元所属事務所へ、業務提携の打ち合わせで招かれた日のことを、慎一はふと思い出していた。 あのときの由衣は、まるで世間を何も知らない無垢な少女のようだった。 瞳には一片の濁りもなく、ビルの片隅に身を潜めながら、電話口の相手に涙混じりで訴えていたのだ。 マネージャーから理不尽な扱いを受けていること。 会社から不公平な仕打ちをされていること。 ひとしきり泣いたあと、立ち上がった拍子に、彼女は偶然を装うように慎一の胸へぶつかった。「す、すみません……」 そう小さく謝ったきり、怯えたように目も合わせず、慌ててその場を走り去っていった。 まるで慎一をひどく恐れていて、決して関わろうとしないかのように。 打ち合わせを終え、エレベーター前で待っていたとき、慎一は再び彼女を目にした。 階段の踊り場の角で、数人の人間に取り囲まれていたのだ。罵声はフロア中に響き渡るほど大きく、自然と視線がそちらへ向いた。 由衣はその中央で俯き、両手で服の裾をきつく握りしめていた。 もともと華奢な体つきだった。 肩など、薄い紙片のように頼りなく、誰かに軽く突き飛ばされただけで、そのまま後ろへよろめき、背中を壁へ打ちつけた。 顔を上げたとき、その目は赤く染まっていた。 それでも負けまいとするように、強い意志を宿した瞳で相手を睨み返し、唇をきゅっと引き結んでいる。 その姿には、か弱さと芯の強さが同居していて、妙に人の目を惹きつけた。 慎一は何も言わず、ただ冷ややかにその様子を見ていた。 ふと、由衣の視線が慎一とぶつかる。 彼女の瞳はさらに赤く潤み、たちまち涙が込み上げた。今にも零れ落ちそうなほどに。 助けを求めようとはしなかった。 弱さを見せたくないとでも言うように、そっと顔を背けた。 ――見事な芝居だ。 慎一がそのとき抱いた感想は、ただそれだけだった。 やがて慎一の存在に気づいた周囲の人間たちは、気まずそうに顔色を変え、そそくさとその場を離れていった。 残されたのは由衣一人。俯いた肩が小さく震え、その姿はひどく哀れに映った。 慎一はゆっくりと彼女に歩み寄り、低く問いかける。「事務所を変える気はあるか?」 由衣ははっと顔を上げた。 泣
車内がしばらく静まり返ったあと、由衣はもう我慢できないとでもいうように、そっと身体を動かした。 先ほど慎一に突き放されたにもかかわらず、懲りる様子もなく、柔らかな身体を再び彼のほうへ寄せる。 もっとも、今度は完全にもたれかかることはせず、ほんのわずかに距離を残したまま。「社長〜、このあとどこに行くんですか?」 甘えた声音でそう尋ねながら、由衣は慎一の顔色を窺うように見上げる。その視線の合間にも、少しずつ、少しずつ彼との距離を詰めていく。 そんな小さな仕草など、慎一が見逃すはずもなかった。 彼は咎めることなく、ただ鼻で笑う。「久我に先に事務所まで送らせる」 午後には由衣のオーディションが控えている。 そのあとには雑誌のインタビューも入っていることを、所属事務所の代表である慎一は当然把握していた。 自分と長く一緒にいるつもりがないと知った瞬間、由衣はあからさまに不満そうな顔を見せた。 そっと指先を伸ばし、慎一のスーツの袖口をつまむ。「社長〜……インタビューまで、まだ一時間以上ありますよ? 本当に送って終わりなんですか?」 上目遣いで見上げるその姿は、いかにも庇護欲を誘う愛らしさに満ちている。 慎一は視線だけを落とし、淡々と返した。「何だ。今日、あれだけ与えてやったのに、まだ足りないのか?」 今日だけで、オーディション用の新しい服もアクセサリーも買い与えた。 由衣が欲しいと口にした八十万円の懐中時計も、慎一は一瞬たりとも迷わず支払っている。 今日はもう、十分に面白い見世物を見せてもらった。 あれを褒美とするなら、由衣には十分すぎるほどだ。 それに、車内で紗月を降ろしたいという由衣の思惑も、彼はそのまま叶えてやった。 これ以上を求めるのは、さすがに図々しい。 もっとも、慎一がそれらを惜しみなく与えたのは、紗月の目の前で見せつけるためにすぎない。 彼にとっては、その程度の額など端金にすぎなかった。 由衣の将来的な商業価値を考えれば、いずれいくらでも回収できる投資だ。 だから痛くも痒くもない。 そんな思惑など知らない由衣は、目をくるりと動かした。細い小指が、慎一の手の甲をそっとなぞる。 探るような仕草。 慎一が何の反応も示さないのを見て、彼女は怯むどころか、さらに身体を前へ傾けた。 少しでも彼の視線を自分に留めたい。
「ふふ……社長、そんなふうにおっしゃるなんて。奥様、なんだか可哀想ですねぇ」 由衣はわざと驚いたふりをしながらそう言ったものの、その声音には隠しきれない笑みと、あからさまな愉悦が滲んでいた。 人の不幸を楽しんでいることを、隠そうともしない声音だった。 そうして彼女はためらいもなく身を寄せ、さらに紗月との距離を詰める。「奥様。男を誘惑したいなら、それ相応の魅力がないとだめですよ?」 言い終えると、由衣はくすくすと喉を鳴らして笑った。 見せつけるように、次の瞬間、彼女はそのまま慎一の胸元へ上半身を預けるように身を倒し、両腕をそっと彼の肩へ回した。 妖しく潤んだ瞳が、まっすぐ慎一を見上げる。 先ほどまでの棘を含んだ声とは打って変わって、その声音は甘く、とろけるように柔らかい。「社長〜……今夜は私のことも、ちゃんとたくさん構ってほしいなぁ。……ご褒美、いただけます?」 慎一は小さく笑った。 その視線が一度だけ、紗月をかすめるように向けられる。それから、余裕を含んだ口調でゆっくりと言った。「……お前次第だな」 その言葉に、由衣はまた甘ったるい笑い声を漏らす。そして振り返り、まるで教師が生徒に教え諭すような口ぶりで紗月を見た。 わざとらしく首を傾げて、可愛らしく微笑む。「奥様、見ました? 男を惹きつけるって、こういうことなんですよ。……まあ、私みたいな“武器”がないと難しいかもしれませんけど……。でも、教えてあげたんですから、社長を取ったりしないでくださいね? 今夜の社長は、私のものなんですから」 そう言いながら、由衣は完全に慎一の首へ腕を回した。 慎一は何も答えない。 拒みもしない。 拒絶されないという事実だけで、それはもう受け入れられているのと同じだった。 それ以上、その場に居続けることは紗月にはできなかった。 唇をきつく噛みしめ、震える手でバッグを掴むと、そのまま車を降りる。 車から離れようとした、その直前。わざと聞かせるような由衣の大きな声が、背後から追いかけてきた。「もう〜社長。奥様って本当に図々しいですよねぇ。降りてって言われたのに、あんなに長く居座るなんて。おかげで私、社長と早く二人きりになれなかったじゃないですかぁ」* 車のドアが静かに閉まる。 紗月の姿が車外へ消えた、その瞬間だった。 慎一はすっと手を伸ば