Masuk由衣を連れて地下駐車場まで下りると、慎一はようやく、自分にぴたりと寄り添っていた彼女を少し強めに引き離した。
今度ははっきりと力を込めており、由衣がこれ以上まとわりつくことは許さない。
「次からは、断りもなく来るな」
「えー、社長ってひどい。利用したらそれで終わりなんて。奥様、顔色すごく悪かったですよ? 今ごろ上でこっそり泣いてるかも」
由衣はにこにこと笑いながら、両手で慎一の腕を掴み、甘えるように揺らした。
だがその言葉には、どこか底の見えない悪意が滲んでいる。慎一はそんな彼女を見つめ、ふっと笑った。口調は相変わらず穏やかで、眼差しも柔らかいままだ。
だがその奥に、先ほど部屋で誰かに見せていたような優しさはもうない。そこにあるのは、ただ冷たい計算だけ。目の前の女に、まだ利用価値があるかどうか。
「由衣、お前は賢い子だろう」
慎一は自ら彼女の手を振り払うことはしなかった。だがその一言で、由衣はすぐに意味を察した。
ぱっと腕を離し、小さく唇を尖らせて、いかにもいじらしげに言う。「そんな言い方しないでくださいよ。私、本当に社長に感謝してるんです。だから初日から会いに来たかっただけなのに」
見上げるようなその視線に、慎一の冷えかけていた感情がわずかに緩む。彼は手を伸ばし、軽く彼女の額を指で弾いた。まるでご褒美を与えるかのように。
由衣はすぐにぱっと笑顔を咲かせ、さらに大胆に慎一へと身を寄せる。今度はすぐに突き放されることはなかった。
慎一は先にスマートフォンを取り出し、どこかへ電話をかける。
「運転手を呼んでやる。会社まで送らせる」
「えー、社長は一緒じゃないんですか?」
「言うことを聞け。俺はしつこいのは好きじゃない」
「はーい……じゃあ、お昼は一緒にご飯行けます?」
「……お前の出来次第だな」
由衣は、今もっとも主演女優賞に近い新人の一人だと、メディアでも評されている。
演技の専門教育を受けたわけではないにもかかわらず、鋭い感性を持ち、その演技力は高く評価されていた。彼女と仕事をした監督たちは、こぞって彼女を絶賛し、ネット上でも評価はほぼ一色。
その演技に対して否定的な声は、ほとんど見られない。所属タレントとして、慎一は彼女の将来の商業的価値に大きな期待を寄せていた。
だが、契約を決断し、さらには前事務所への違約金まで肩代わりした最大の理由は――彼女の顔だった。決して華やかで目を奪うような美貌ではない。だがその分、どこまでも穏やかで、触れれば壊れてしまいそうなほど繊細な清楚さを纏っている。
艶やかに流れる黒髪は、その透明感のある佇まいと見事に調和し、柔らかな光を受けるたびに、静かに揺れて淡い輝きを放っていた。小さく整った顔立ちの中で、ひときわ印象的なのはその瞳だった。
大きく丸みを帯びた瞳は、まるで何も知らない子猫のように無垢で、澄みきっている。その視線でじっと見つめられると、まるで抗うことなど許されないかのように、自然と意識が引き寄せられてしまう。
甘く、やわらかく、それでいてどこか危うさを含んだその眼差しは、相手の心の奥へと静かに入り込み、気づいたときにはもう逃げ場を失わせていた。彼女自身も、その美しさをよく理解している。そして、それを武器として使う術にも長けていた。
慎一ですら、時折その小さな仕草を見逃すことがある。
それは単に可愛らしいと思ってしまうからだ。由衣が美しいのは事実であり、それこそが新人時代から一躍脚光を浴びた理由でもある。
しかしそれ以上に彼女の顔も、雰囲気も、性格さえも、慎一がかつて狂おしいほどに愛していた「ある女」に、よく似ていた。
そしてその女は、紗月が卑劣な手段で追い詰め、彼の前から消し去った存在だった。
だからこそ、スクリーンの中で初めて由衣を見たとき、慎一はすでに決めていた。
彼女を自分の手元に置く、と。
それは単なる欲望のためだけではない、紗月への歪んだ報復でもあった。
慎一がここに現れること自体は、別段不思議なことではなかった。もともとこの会社は朝倉グループ傘下の子会社の一つにすぎない。 ただ、紗月がいるという理由だけで、彼は少なくとも一年は一度もここに足を運んでいなかった。 重要な決裁や会議があるときでさえ、最高決定権者である慎一はオンライン会議で参加するのみで、決して自ら姿を見せることはなかった。 その理由が自分にあることを、紗月はよく理解していた。 結婚してからの一年間、紗月は帰ってこない夫を、ただ家で待ち続けるだけの日々を送っていた。 良き妻であろうとどれだけ努力しても、ひとりきりの家では、その努力が報われることはなかった。 少しでも慎一に会いたいその一心で、彼女は履歴書を整え、勇気を振り絞って慎一の本社の事務職に応募した。 運が良かったのか、それとも面接での評価が高かったのか、二度の面接を経て、無事に内定を得る。 だが、出社してまだ一週間も経たないうちに、人事からの通達が届いた。 配属先の変更。 異動先はすでに衰退しかけているこの子会社――朝倉サポートソリューションズ株式会社だった。 誰の指示なのかを考える間もなく、慎一本人から電話がかかってくる。 「俺の視界に入るな」 そのときの声も、今と同じだった。 床に倒れた少女と、半ば差し伸べたままの自分の手。事情を知らない者が見れば、誤解されても無理はない状況だった。 そして―― なぜか、その少女がさらに紗月の罪を確定させるように口を開く。「普通に歩いてただけなのに、いきなり足を引っかけられて……痛い……」「え……ち、違っ……私は……」 動揺と混乱に、言葉がうまく出てこない。 もともと弁解が得意ではない紗月にとって、周囲に人が集まれば集まるほど、心臓は激しく脈打ち、恐怖で頭が真っ白になっていく。 ただ一人、慎一を見上げる。 本来抱くべきではない期待を、その男に託してしまう。だが、慎一が彼女に与えるのは、いつも絶望だけだった。「謝れ」 紗月のその表情を見て、慎一はわずかに目を細める。何が起きたのかなど、最初から分かっていた。 紗月が無実であることも。「……」 紗月は唇を強く噛みしめた。 悔しさと理不尽さに、言葉が出ない。「聞こえなかったか。謝れ」 声はさらに低く、冷たさを増す。 その圧に、周囲の人間たちも近づくこと
家。 二度目のアラームが鳴り響いて、玄関でぼんやり立ち尽くしていた紗月は、ようやく我に返った。 目の奥がじんと痛み出し、手の甲で押さえて和らげようとする。だが触れた肌は熱く、熱はまったく引いていなかった。 この体調では休んだほうがいいのではないかと、そう思いかける。 けれど、部下の体調など一切気にも留めず、ただ頭ごなしに怒鳴りつける部長の性格を思い出し、結局は考えるのをやめた。 そのまま部屋へ戻り、出勤の支度を始める。 結婚してから、紗月はようやく契約を結んだばかりだった芸能事務所を辞め、ほぼ話がまとまっていたドラマ出演の契約も断った。 すべては慎一の「妻が外で目立つのは好きじゃない」という一言のため。 自分の夢も仕事も、すべてを手放して、彼の妻として生きる道を選んだ。 ただひたすらに、慎一を支えることだけを願って。 けれど、結婚初日、慎一は帰ってこなかった。 結婚披露宴にも姿を見せず、教会で形式的に式を終えたあと、そのまま姿を消した。 紗月は笑顔を貼りつけたまま、一人でドレス姿のまま来客に頭を下げ、謝罪しながら応対し続けた。 祖父がそばにいてくれたおかげで、どうにか耐えられた。 だがその騒動のせいで、祖父は怒りのあまり心臓発作を起こし、数週間も入院することになってしまう。 結婚の翌日。 酔い潰れた様子の慎一が家に押し入るように帰ってきた。目は血走り、何かを決意したような、追い詰められた表情をしていた。 そして、前の晩こっそり涙を流していた紗月を押し倒し、何の優しさもないまま、初めての夫婦としての行為を強引に終わらせた。 そのあと、足元もおぼつかない紗月の手を乱暴に引き、病院へ向かう。 祖父に謝罪し、「必ず紗月を大切にする」と何度も約束した。 そうして慎一は、人前では理想的な夫を演じる術を身につけた。 だが、二人きりの家の中で、紗月に向けられるのは、屈辱と、怒りの捌け口でしかない行為だけだった。「これは、お前が恥知らずにも手に入れた結婚だ。受けるべき報いだろう」 そう、彼は言った。 紗月はそれをただの意地だと思っていた。自分の意思で結婚を選べなかった慎一が、拗ねているだけだと。 時間が経てば、きっと自分の気持ちは伝わる。この結婚も、きっと違う形に変わっていく。 そう信じていた。 自分が努力し続ければ、いつか
やがて由衣を迎えに来た車が到着した。 まるでこの世の終わりでも訪れたかのように名残惜しげに別れを告げる彼女を見ても、慎一はその場に立ったまま、形だけの笑みを浮かべるだけだった。 そしてそのまま踵を返し、自分専用の駐車スペースへと向かう。 すでに運転手は彼からの連絡を受けて車内で待機しており、まるで時間を計算していたかのように、慎一が後部座席のドアに手をかける寸前、すぐに車を降りて恭しくドアを開けた。「ありがとう」 運転手の名は久我誠。 二十年以上前、朝倉家に仕える補佐役として働いていた人物で、ここ数年で恒一の専属運転手兼個人秘書となった。 長年この家に仕えてきた彼にとって、恒一は幼い頃から見守ってきた存在でもある。だからこそ、つい世話を焼きたくなってしまうのだった。「社長、昨夜はご自宅でよくお休みになれましたか」 後部座席に腰を下ろした恒一に、久我は穏やかな声で問いかける。 恒一は重度の不眠症を抱えており、多くの場合は薬に頼らなければ眠ることができない。過度のストレスのせいなのか、久我はこれまで一度も、彼が「よく眠れた」と口にするのを聞いたことがなかった。 案の定、恒一は眉間を押さえ、わずかに顔をしかめる。「いつも通りだ……どこで寝ても変わらない。だが、あの女が家にいると、なおさら気分が悪くなる」 長年仕えてきた者への信頼もあり、また胸の内を打ち明けられる相手がほとんどいないこともあって、恒一はこの結婚の本質について、久我の前では隠そうとしなかった。 久我は小さく息をつき、紗月のことに触れるときは、いっそう言葉を選ぶようにして尋ねる。「……奥様のことは、やはりお許しになれませんか。私の知る限りでは、奥様は決して――」「許す?」 恒一は冷笑した。その響きには、嘲りすら滲んでいる。「そんな滑稽な言葉、二度と口にするな。それと――新しく入った秘書の件だが、俺の居場所を軽々しく他人に売っていたらしいな。久我、知っているか?」 久我はすぐに意図を察した。「すぐに退職の手続きを取らせます」「そうしろ」* 車が会社へと向かって走り出す中、慎一は頬杖をつき、窓の外を流れていく、彼にとっては何の変化もない景色をぼんやりと眺めていた。 そもそも、彼にとって紗月は、最初からここまで疎ましい存在だったわけではない。 かつては、穏やかな時
由衣を連れて地下駐車場まで下りると、慎一はようやく、自分にぴたりと寄り添っていた彼女を少し強めに引き離した。 今度ははっきりと力を込めており、由衣がこれ以上まとわりつくことは許さない。「次からは、断りもなく来るな」「えー、社長ってひどい。利用したらそれで終わりなんて。奥様、顔色すごく悪かったですよ? 今ごろ上でこっそり泣いてるかも」 由衣はにこにこと笑いながら、両手で慎一の腕を掴み、甘えるように揺らした。 だがその言葉には、どこか底の見えない悪意が滲んでいる。 慎一はそんな彼女を見つめ、ふっと笑った。口調は相変わらず穏やかで、眼差しも柔らかいままだ。 だがその奥に、先ほど部屋で誰かに見せていたような優しさはもうない。そこにあるのは、ただ冷たい計算だけ。 目の前の女に、まだ利用価値があるかどうか。「由衣、お前は賢い子だろう」 慎一は自ら彼女の手を振り払うことはしなかった。だがその一言で、由衣はすぐに意味を察した。 ぱっと腕を離し、小さく唇を尖らせて、いかにもいじらしげに言う。「そんな言い方しないでくださいよ。私、本当に社長に感謝してるんです。だから初日から会いに来たかっただけなのに」 見上げるようなその視線に、慎一の冷えかけていた感情がわずかに緩む。彼は手を伸ばし、軽く彼女の額を指で弾いた。まるでご褒美を与えるかのように。 由衣はすぐにぱっと笑顔を咲かせ、さらに大胆に慎一へと身を寄せる。今度はすぐに突き放されることはなかった。 慎一は先にスマートフォンを取り出し、どこかへ電話をかける。「運転手を呼んでやる。会社まで送らせる」「えー、社長は一緒じゃないんですか?」「言うことを聞け。俺はしつこいのは好きじゃない」「はーい……じゃあ、お昼は一緒にご飯行けます?」「……お前の出来次第だな」 由衣は、今もっとも主演女優賞に近い新人の一人だと、メディアでも評されている。 演技の専門教育を
翌朝、紗月が目を覚ますと、昨日よりもさらに体調が悪かった。 全身に力が入らず、めまいがして、手足は冷えきっている。歩くだけでも、身体が小刻みに震えているような感覚さえあった。 キッチンで薬を飲んでいると、ちょうど慎一も部屋から出てきた。アイランドキッチンに置かれた薬をちらりと目にしたが、彼はほんの一瞬視線を流しただけで、気にかける様子はまるでない。 紗月は彼がすでに出勤用の服に着替えていることに気づく。 まだ時間は早いのに、彼は今すぐにでも出ていきたいというように、どこか落ち着かない様子だった。この家に一秒でも長くいたくないとでもいうように。 そのとき、インターホンが鳴った。 慎一がドアを開ける。すぐに、外から若い女性の明るく弾む声が聞こえてきて、そのまま紗月の耳に届いた。「社長〜、今日が正式に入社して初日なんですよ。お迎えに来ちゃいました。感動してくれます?」「由衣か。どうしてここがわかったんだ」「社長の秘書さんに聞いたんです。昨日はホテルに戻らず、そのままご自宅に帰られたって……秘書さん、私のことかなり気に入ってるみたいで、社長のことを聞いたら何でも教えてくれるんですよ。社長、私に付きまとわれちゃいますよ?」 スクリーンで見た印象そのままに、彼女は明るくて屈託がなく、まるで小さな太陽のようだった。 紗月も思わずそちらへ足を向ける。ちょうどそのとき、彼女が親しげに慎一へと身を寄せるのが目に入った。 慎一はどこか含みのある笑みを浮かべ、視線を柔らかくする。そして優しく手を伸ばし、彼女の身体をそっと外へ押しやるが、その動きはあまりにも軽く、ほとんど意味をなしていなかった。 綾瀬由衣。 昨日、ニュースで彼女の新しい声明と写真を見たばかりだった。その本人が今、自分の家に立ち、しかも自分の夫とこんなにも親密にしている。 どう見ても、最近知り合ったばかりの関係には思えなかった。「気をつけろ。外ではそんなに近づくな。パパラッチに撮られたら面倒だ」「いいじゃないですか〜。社長は私の
距離が近づくにつれ、紗月の纏う香水の匂いと、肌から伝わってくる異様な熱が、慎一の眉を思わずひそめさせた。「……気持ち悪い匂いだな」 彼女が体調を崩しているのか、それとも本当に病気なのか。そんなことは一切気にも留めない。 男の手つきには、微塵の情けもなかった。その触れ方は、欲望によるものですらない。ただ鬱積した感情をぶつけるための、乱暴な接触にすぎない。 紗月は彼の触れた感覚を受け止めながら、ゆっくりと目を開けた。 視線が合った瞬間、胸が締めつけられるように高鳴り、思わず口づけを求めるように身を起こそうとする。 その気配はすぐに見抜かれた。 慎一は露骨に嫌悪を滲ませ、顔を背ける。「言ったはずだろ。お前とキスするなんて、吐き気がするだけだ」 その言葉に、紗月の鼻の奥がつんと痛む。 彼を押しのけようと手を胸に当てるが、それでも、最後まで突き放すことができない。 もう……何週間も、彼に会えていなかった。 ニュースでは、何度も彼の姿を見ていた。 会社がまた大規模な買収を成功させたとか。 所属タレントが賞を取ったとか。 あるいは、どこかの女優と親しげに並ぶ姿とか。 そんな記事を目にするたび、胸が重く沈み、何度も問いただしたくなった。 それでも、こうして本人が目の前にいると、紗月の視線は自然と彼の顔をなぞってしまう。 冷えきった眼差し、薄く結ばれた辛辣な唇。 胸の奥がどうしようもなく疼いてしまう。 悲しいほどに、心が動く。 この人を、二十年も愛してきたのだから。 あまりにも卑屈で、惨めで、彼にとってはただのはけ口に過ぎないこの触れ合いでさえ、どこかで与えられたもののように感じてしまうほどに。「……慎一、会いたかった」 口を開けば、また情けないほどの想いがこぼれ落ちる。 その上で彼は、嘲るように鼻で笑った。一言たりとも信じていないとでも言うように。「会いたい? 相変わらず、嘘も下手だな。今のお前のその様子、まるで安い犬みたいだ」 吐き捨てるようなその言葉は、刃のように鋭く、何のためらいもなく紗月の胸の奥へと突き刺さった。 あまりにも容赦のない声音に、紗月は思わず目を閉じる。視界が遮られた瞬間、こらえていた感情が一気に溢れ出しそうになった。 喉の奥がきゅっと締めつけられ、呼吸がうまくできない。胸の内側を、見えない手で掻きむ