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第72話

Auteur: るるね
last update Date de publication: 2026-05-08 00:09:35

 結婚してからというもの、慎一は何度も紗月の涙を見てきた。

 そのほとんどは、ベッドの上だった。

 慎一に追い詰められ、どうしようもなくなったとき、紗月は声も立てずに涙を流す。

 その時の涙は、ただの“悲しみ”とはどこか違っていた。

 少なくとも慎一は、そう思っていた。

 そして、そんな姿を見るたび、彼の中ではむしろ支配欲のようなものが強く煽られるだけだった。

 それ以外の場面では、何を言われても、何をされても、紗月はただ耐えることしかできなかった。

 もともと彼女は、我慢強い人間だった。

 学生時代も、傷つけば傷つくほど笑って誤魔化していた。慎一に知られたくなくて。

たとえ気づかれたとしても、「大丈夫」と笑って終わらせてしまう。

 今みたいに、ひどく傷ついた子どものように、止めどなく涙を零し続けることなどなかった。

 ぽろぽろと涙が落ちるたび、新しい涙が次々と溢れてくる。

 頬も睫毛も濡れ、顔はすっかり涙で湿っていた。

 それでも紗月は、声を上げて泣こうとはしなかった。

 必死に堪えているのだろう。

 握り締めた拳も、細い肩も、小刻みに震えていた。

 その姿を見た瞬間、慎一の口から
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  • 愛し続けた彼を、私は手放すことにした   第197話

     慎一からの突然の電話などに心を乱されたくなかった。 紗月は胸に浮かんだものを振り払うようにごく小さく首を振り、伏せたスマートフォンから視線を離すと、何事もなかったかのように二人との会話へ意識を戻した。 幸い、凛子の明るい声を聞いているうちに、先ほど胸を掠めたわずかな動揺も次第に薄れていった。 和やかに昼食をとりながら、久しぶりに源間と顔を合わせた凛子は、新作ドラマの詳しい話はもちろん、最近の大学院生活や仕事の近況に至るまで、興味の赴くまま次々と質問を重ねていく。 源間は嫌な顔一つ見せず、尋ねられたことにはほとんどすべて正直に答えていた。 聞かれれば素直に答え、頼まれれば断ることも苦手なのだろう。 話しているうちに、何を頼まれても最後には引き受けてしまいそうな人柄まで透けて見えるようだった。 昼食もそろそろ終わろうかという頃になって、凛子はようやく肝心なことを思い出したらしい。「契約は今日の午後にするの?」 紗月本人よりもよほど気が急いているようで、せっかく巡ってきたこの機会を逃すまいと、今すぐにでも話を確定させたくて仕方がない様子だった。「友枝さんが午後も空いているようでしたら、一度、私のスタジオへ来ていただけますか。契約については、本来なら所属事務所を通してお話しすることになるんですが……友枝さんは今、フリーで活動されているんですか?」「空いてる、空いてる。さっちゃんは事務所にも所属してないし、今日このまま契約書を見せてもらえるんでしょう?」 紗月が口を開く隙さえ与えず、凛子がすぐさま代わりに答えてしまった。 その勢いは、まるで自分自身の仕事が決まろうとしているかのようだった。 あまりにも順調に話が進んでいくため、紗月は一瞬、呆気に取られてしまった。 これほど簡単に話が決まってしまっていいのだろうか。遅れて我に返ると、確認せずにはいられず、慌てて源間へ尋ねる。「オーディションは受けなくてもいいんですか?」「これは私自身が立ち上げた企画です。出演者を決める権限も、すべて私にあります」 源間がこれまで手がけてきた数本の映画は、どれも監督として経験を積むために、自ら企画して撮り上げた低予算作品だった。 決して恵まれた制作環境とは言えない中で完成させた映画が劇場公開まで漕ぎつけ、少しずつ評価を得られたことには、確かに幸運もあったのだ

  • 愛し続けた彼を、私は手放すことにした   第196話

     凛子がやってきたのは、ちょうどそのときだった。 紗月の手にある脚本を見つけるなり、大げさなほど「わあ!」と声を上げ、そのまま勢いよく隣の席へ腰を下ろす。半身が紗月に寄りかかりそうなほどぴったりと身を寄せ、興味津々といった様子で手元の脚本を覗き込んだ。「すごい! 源間、これが新しい映画の脚本?」「映画じゃないよ。途中で企画が変わって、先にドラマを一本撮ることになったんだ」「どうしてそんな急に? 源間はドラマを撮らないんじゃなかったの?」「新しい分野に挑戦してみたくなって。ちょうど研究課題の成果としても提出できるし」「教授も嬉しいでしょうね。こんなに優秀な学生がいて」「いや……それはさすがに褒めすぎだよ」 凛子が席に着いてからも、源間はまずきちんと挨拶を交わし、彼女が興味の赴くまま次々と投げかける質問にも、一つひとつ真面目に答えていた。 凛子の口調は気心の知れた相手に向けるような気安いものだったが、それにつられて態度を崩しすぎることもなく、かといって堅苦しくなることもない。 柔らかな笑みを絶やさず受け答えする姿からは、穏やかで人当たりのいい性格が自然と伝わってきた。 すでに何本もの商業作品を手がけ、監督として自分の作品を世に送り出している人間とは思えないほど、源間には気負ったところがなかった。若くして実績を積んでいることを誇示する様子も、自分を特別な人間だと思っているような傲慢さもない。 先ほど紗月から作品を褒められたときに目を輝かせていた姿も含め、映画そのものが心から好きなのだろうと思わせる、どこか純粋な雰囲気をまとっていた。 今回の新作ドラマについても、源間にはすでにはっきりとした考えがあるらしい。知名度の高い俳優を揃えるより、まだ世間に広く顔を知られていない、作品そのものの印象を損なわない新鮮な役者を起用したいと考えていた 凛子は、源間が新作を準備していることを偶然知り、駄目でもともとという気持ちで紗月のことを話してみたらしい。 何気なく写真まで見せてみたところ、源間は紗月の顔立ちをひどく気に入り、「まさに自分が探していたイメージだ」とその場で答えたという。 脚本を大切そうに抱え込み、惜しむように何度も表紙へ目を落としている紗月を見て、凛子はふと思い出したように、そのときの話をからかい半分に持ち出した。 源間は途端に頬をう

  • 愛し続けた彼を、私は手放すことにした   第195話

     その夜も、紗月はなかなか眠ることができなかった。 ようやく少しずつ落ち着きを取り戻し始めていた眠りは、慎一が何の前触れもなく口にした「おやすみ」という一言と、再び二人を縛りつけたあの契約によって、すっかり乱されてしまった。 翌朝、鏡に映るひどく気力のない自分の顔を見つめ、紗月はしばらくぼんやりとその場に立ち尽くしていた。 目の下には薄く隈が浮かび、どれほど疲れているのかは鏡を見るまでもなく自分が一番よく分かっている。 やがて我に返ると、疲れの色を少しでも隠すように慌ただしく化粧を施し、重く沈んだ身体と頭を無理にでも目覚めさせようと、いつもより濃いブラックコーヒーを淹れた。 以前の紗月は、コーヒーが好きではなかった。 もともと苦いものがひどく苦手で、わざわざ好んで口にしようと思ったことさえない。 けれど、いつからだっただろう。 日々そのものがコーヒーよりもずっと苦くなってしまえば、舌に残る程度の苦さなど、驚くほど簡単に受け入れられるようになっていた。 幸い、家を出る頃には、鏡に映る自分もいくらか元気を取り戻したように見えた。 朝より顔色もよくなり、念入りに化粧を整えたおかげもあって、少なくともひどく憔悴しているようには見えない。 紗月は約束の十分前に店へ到着した。 ところが、凛子から紹介されることになっていた監督は、紗月や凛子よりもさらに早く店へ着き、すでに席に着いて待っていた。 紗月の姿を見つけると、すぐに礼儀正しく立ち上がって握手を交わし、どこか改まった様子で自ら名乗る。「源間俊行と申します。友枝さんは、私の名前を聞いたことがありますか……? まだそれほど知られていませんし、撮った作品も決して多くありません。それでもよろしければ、ぜひ今回の作品をお願いしたいと思っています」「そんなことありません。源間監督の映画はどれも素晴らしいです。上映されたとき、私も映画館まで観に行きました」 紗月は慌てて首を横に振った。社交辞令で褒めているのではなく、本当に彼の映画を観ていたことを伝えたくて、特に印象に残っている場面や演出についてもいくつか具体的に話していく。 源間は途中で口を挟むこともなく、紗月の言葉へ真剣に耳を傾けていた。 話が進むにつれて、その瞳は目に見えて輝きを増し、興味を隠そうともせず、まっすぐ紗月だけを見つめている。 好き

  • 愛し続けた彼を、私は手放すことにした   第194話

     凛子は、一度何かをすると決めれば、昔から驚くほど行動が早かった。 紗月がその話を聞かされたのは、まだ朝のことだ。それなのに、その日の夜にはもう、凛子から弾んだ声で電話がかかってきた。 監督と会う時間も場所も、すでにすべて決まったらしい。 しかも約束は翌日の昼だという。話があまりにも早く進み、紗月のほうが驚いてしまうほどだった。「そんなに早く?」 思わず驚いて尋ねると、電話の向こうから凛子の得意げな笑い声が返ってきた。「それだけ向こうが本気でさっちゃんを気に入ってるってことでしょう? きっと、直接会うのが待ちきれないのよ。これから映画館の大きなスクリーンでさっちゃんを見られるようになるのかな。そうなったら私、本当に嬉しい! 絶対何回も観に行くからね」 仕事を紹介してもらったのは紗月のほうなのに、凛子の喜びようは、まるで自分自身が主演女優に選ばれたかのようだった。声を聞いているだけで、その浮き立つような気持ちがこちらにまで伝わってくる。 そんな凛子の明るさにつられ、紗月も思わず声を立てて笑った。 慎一と別れて家へ戻ってからも、胸の奥にはずっと重苦しいものが沈んでいた。昼間に見た夢のせいで、忘れたつもりだった過去まで掘り返され、気持ちはなかなか晴れなかった。それが凛子と話しているうちに、いつの間にか少しずつ薄れていく。 明日は、どんな監督に会うのだろう。 どんな映画で、どんな役なのだろう。 まだ何も決まってはいない。それでも、もう一度芝居へ近づけるかもしれないと思うだけで、胸の奥には久しく感じていなかった小さな期待が芽生えていた。* 昼間、慎一は夜になったら電話をすると言っていた。 その言葉どおり、凛子との通話を終えてから数分も経たないうちに、今度は慎一から電話がかかってきた。 画面に表示された名前を見た瞬間、先ほどまで浮き立っていた紗月の気持ちが、ほんの少しだけ現実へ引き戻される。 紗月はすぐには電話に出なかった。 鳴り続けるスマートフォンを手にしたまま、長いこと画面を見つめて迷う。できることなら、このまま出ずにやり過ごしてしまいたかった。 けれど、頭に浮かんだのは、あの契約書だった。結局、紗月は小さく息を吐き、気の進まないまま通話ボタンを押した。 電話に出たことが意外だったのか、それとも素直に出たことがおかしかったのか。慎一

  • 愛し続けた彼を、私は手放すことにした   第193話

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