LOGIN結婚してからというもの、慎一は何度も紗月の涙を見てきた。 そのほとんどは、ベッドの上だった。 慎一に追い詰められ、どうしようもなくなったとき、紗月は声も立てずに涙を流す。 その時の涙は、ただの“悲しみ”とはどこか違っていた。 少なくとも慎一は、そう思っていた。 そして、そんな姿を見るたび、彼の中ではむしろ支配欲のようなものが強く煽られるだけだった。 それ以外の場面では、何を言われても、何をされても、紗月はただ耐えることしかできなかった。 もともと彼女は、我慢強い人間だった。 学生時代も、傷つけば傷つくほど笑って誤魔化していた。慎一に知られたくなくて。たとえ気づかれたとしても、「大丈夫」と笑って終わらせてしまう。 今みたいに、ひどく傷ついた子どものように、止めどなく涙を零し続けることなどなかった。 ぽろぽろと涙が落ちるたび、新しい涙が次々と溢れてくる。 頬も睫毛も濡れ、顔はすっかり涙で湿っていた。 それでも紗月は、声を上げて泣こうとはしなかった。 必死に堪えているのだろう。 握り締めた拳も、細い肩も、小刻みに震えていた。 その姿を見た瞬間、慎一の口から出かけていた皮肉は、喉の奥で無理やり押し戻される。 珍しく、彼は、自分でも説明のつかない戸惑いを覚えていた。 ふと、遠い昔の夜を思い出す。 まだ互いに、世界のことなど何も知らなかった頃。母親に会いたいと泣いて眠れなくなる紗月の隣に、慎一は何度も座っていた。 あの頃の紗月は知らなかっただろう。 幼い慎一もまた、両親を恋しがっていたことを。 泣き疲れた紗月を宥め、眠らせたあと。 慎一もまた、一人きりの布団の中で、海外にいる両親を思いながら静かに涙を流していたことを。 大人になった今、そんな記憶を思い返すことは、当時の自分の弱さを突きつけられるようでしかない。 慎一は眉を寄せ、浮かびかけた記憶を振り払うように、深く息を吐いた。 そして手を伸ばし、紗月をソファから引き上げる。 紗月の喉から、短い嗚咽が漏れた。 慎一はそのまま、自分のスーツの袖で乱暴に彼女の涙を拭った。 その手つきは、乱暴なくせに、ほんの少しだけ優しかった。 涙は彼の袖口に濃い跡を残した。 紗月は目を見開き、その濡れた痕を見つめたまま、呆然と立ち尽くす。* 本社の最上階には、慎一専用の休憩室があ
美沙子も、慎一がすぐに話に乗ってくるとは思っていなかった。だが、まさかこんなふうに、全員の前で隠しもせず話を持ち出されるとは想像もしていなかった。 しかも慎一は、紗月に隠そうとすらしない。 ――おかしい。 金を払って手に入れた情報では、慎一の周囲には常に別の女がいて、若い女優やアイドルを何人も囲い、紗月とはとっくに冷え切った仮面夫婦のはずだった。 少なくとも、今目の前で見せつけられているような空気ではなかった。 紗月がいる手前、美沙子は引きつった笑みを浮かべることしかできない。だが、咄嗟にうまい言い逃れも思いつかなかった。 焦りで頭が真っ白になりかけた、そのときだった。 美月が突然、俯いたまま嗚咽を漏らした。「ご、ごめんなさい、お姉さま……。きっと、お母さんが勘違いしてしまったんです……。前に私、お姉さまがお義兄さまみたいな素敵な方と結婚できて羨ましいって、お話ししたことがあって……それで、お母さん、変に受け取ってしまったのかもしれません……。私、本当に、そんなつもりじゃないのに……っ」 涙を零しながら震えるその姿は、まるで悲劇のヒロインだった。 すると美沙子も、はっと何か思いついたように大げさに膝を叩き、取り繕うように笑った。「そ、そうなのよ、どうやら私の勘違いだったみたいで……。もし美月にそういう気持ちがあるなら、きちんと話しておかなきゃと思っただけよ。だって紗月と慎一は、こんなにもお似合いで、仲睦まじいご夫婦なんですもの……あはは……」 あまりにも無理のある言い訳だったが、今の彼女たちには、もうそれ以外に切り抜ける術がなかった。 もっとも、どんな言い訳を並べようと、慎一にとってはどうでもいいことだった。 今夜だけで十分だ。 美沙子と美月の狙いは、はっきり理解した。 まずは愛人の座。 そしていずれは紗月に取って代わり、自分が朝倉家の女主人になるつもりなのだろう。 その先には、当然のようにグループそのものまで見据えている。 おそらく、美沙子の再婚も同じようなやり方だったに違いない。 藤崎家の現当主については、慎一も以前から多少耳にしていた。 十数年前までは、それなりに名の通った人物だった。藤崎家の事業拠点を海外へ広げ、一流海外企業との提携を次々と成立させ、一時は株価も異様な高騰を見せていた。 なぜか数年続けて商品トラ
今日は、美沙子が朝倉本社に慎一の行方を探りに来た初めての日ではなかった。 祖父の誕生日会のあと、わずか一週間のあいだに、彼女はすでに三度も本社を訪れていた。 そのたびに受付で慎一の予定を尋ね、臆面もなく自分は慎一の義母だと言い、慎一に会えないかと取り次ぎを求めた。 受付責任者は二度にわたり、美沙子が面会を望んでいる旨を慎一へ電話で取り次いだが、そのいずれも、慎一は秘書を通して断らせた。 美沙子は慎一に会えなかった。代わりに慎一のほうは、会社の下にあるカフェで、そこに居座っていた美月と一度だけ“偶然”出くわした。 彼女がたった一杯のコーヒーだけで、いったいどれほどの時間そこに居座っていたのか、慎一には知る由もなかった。 慎一の姿を見つけると、美月は驚いたふりをした。近づいてくる動きには、少しのためらいもなかった。「お義兄さま、偶然ですね」 そう言い終えると、期待を込めた目でぱちぱちと瞬き、慎一の反応を待った。 芝居がかったその様子は、由衣にも引けを取らない。 慎一はただ、うんざりした。 紗月がいない場でこうして自分から擦り寄ってくる女など、慎一にとっては嫌悪の対象でしかない。 まして彼女は、紗月のいわゆる妹だ。なおさら不快だった。 慎一は美月を一瞥しただけで、余計な言葉を一つも与えず、そのまま振り返ることなく立ち去った。 美沙子母娘がここまで手間をかけて自分に近づこうとする目的を、慎一はまだ完全には掴めていない。 美沙子ひとりなら、朝倉の財力と影響力に目が眩み、そこから甘い汁を吸おうとしているだけかもしれない。 だが、そこに美月まで加わるとなれば、彼女たちが欲しがっているものは少しばかりの金では済まないのだろう。 もっと大きく、そして汚い野心がある。 慎一は、自分が誰かの計算の的にされることも、駒にされることも何より嫌っていた。 だから今日、美沙子が再び訪ねてきたとき、慎一はあえて無視しなかった。秘書に命じて、二人を上へ通させた。 ついでに紗月も呼びつけることにした。 自分の母親と妹が、どれほど浅ましい顔をしているのか、彼女自身にも見せてやるために。* 案の定、紗月が来る前、美沙子は熱心に美月の長所を語り始めた。 美月は性格がいい。忍耐強い。しかも、ある方面の能力も優れているのだと。 美沙子が得意げに話す一方で、美
その場にいたのは、紗月だけが呆然としたわけではなかった。 応接室に入ってきた紗月を見て、美沙子と美月もまた、明らかに反応が遅れていた。 どうして紗月がここにいるのか――そう言いたげに、戸惑いを隠しきれない表情を浮かべていた。 美沙子は落ち着きなく視線を泳がせ、紗月を見てから、すぐに慎一の様子を窺う。 どうやら慎一が紗月を呼んだのだと察したのか、次の瞬間には大げさな笑みを顔に貼り付け、親しげに立ち上がった。「紗月、あなたも来ていたのね。ちょうど今、慎一とあなたの話をしていたところなのよ」 そう言いながら、紗月の手を取って自分の隣へ引き寄せようとする。 本来の狙いは、慎一から遠ざけることだった。だが、その動きは実行される前に止められた。「紗月、こっちだ」 慎一は立ち上がろうともしない。 ただ冷えた目で美沙子を見据えているだけで、その思惑はすべて見透かされていた。 その視線に射抜かれ、美沙子の笑みがわずかに引きつる。 慎一から見えない角度で、紗月へと鋭い視線を向けながらも、声だけは相変わらず甘く整えていた。「そうそう、紗月。母さんね、あなたを見たら嬉しくて、ついそばに引き寄せたくなっちゃって……慎一も、きっとあなたと一緒に座りたいって思ってるわよね」 その言葉に、紗月と美月の視線が同時に慎一へ向く。 慎一は相変わらず無表情のままだったが、口元だけがわずかに歪んだ。 それはほんのかすかな嘲笑のようだったが、その言葉を否定することはなかった。 紗月が席に着くと、空気は一気に静まり返る。 妙に落ち着かない沈黙。 美沙子はそわそわと腰を浮かせたような状態で、膝を小刻みに揺らしている。 隣の美月も同じように、紗月が入ってきてからずっと眉をわずかに寄せたまま、何かに怯えるようにしていた。 誰も口を開かない中、紗月はそっと慎一の方を見やり、それから美沙子へ視線を戻す。「……お母さん、今日はどうして……?」「あ、あはは……大したことじゃないのよ。ただね、私と美月で会社の近くを通りかかったから、もしかしたら慎一がいらっしゃるかと思って、少し顔を出しただけで……。まさか本当にいらっしゃるなんて。それに、日曜日なのにこうして会ってくださるなんて、本当にお優しい方で……」 どこか不自然な笑い。 その言葉に、慎一は思わず低く笑った。「そうか。
凛子がただの思いつきでそう言ったわけではない。 というのも、ここ最近、弟の優介が彼女の前でやたらと紗月のことを気にかける素振りを見せていたからだ。「紗月お姉さん、最近ちょっと疲れてるみたいで」「仕事が忙しすぎるんじゃないか」と、やけに心配そうに口にする。 さらには、紗月の結婚生活にまで勝手に踏み込んで、あれこれと気を回してくる始末で、凛子もさすがに頭の片隅に引っかかるようになっていた。 もっとも、優介が暇を持て余して余計なことを言っているだけだと、凛子は思っていたのだが。 それでも今回、久しぶりに顔を合わせてみれば、紗月の様子はやはりどこかおかしい。 化粧で隠してはいるものの、目の下の隈は薄く透けて見え、疲労の色を完全には消しきれていなかった。 それを見ていると、理由もなく胸が痛んだ。 まさかそんなことを突然聞かれるとは思っていなかったのか、紗月は一瞬言葉を失い、それからすぐに微笑みを浮かべる。「もちろんだよ。私に何かあるわけないじゃない。むしろ……凛子、今の私、たぶん一番幸せな時期かもしれない」 その笑顔には、確かに嘘のない幸福と、未来への期待が滲んでいた。凛子は何度か瞬きをしてから、ようやく胸を撫で下ろす。「よかった……。じゃあ最近、何かいいことあったんだ? 仕事忙しいって言ってたよね、誘ってもずっと仕事だって断られてたし。そんなに大変な仕事なの?」「最近、新しいプロジェクトに関わってて……すごく大事な案件なの。慎一も……私の成果を楽しみにしてるって言ってくれて。それに、もしかしたら本社に戻れるかもしれないんだ」 話しているうちに、紗月の表情は次第に明るくなっていく。その様子から、本当に嬉しいのだということが伝わってきた。 学生時代から勉強に打ち込むタイプだった彼女だ。 社会人になれば、きっと仕事にも全力で向き合うのだろうと凛子は思っていた。 そして今、紗月が満たされたように笑っているのを見て、凛子も素直に嬉しくなる。「よかったじゃん! じゃあさ、そのプロジェクトの成功を前祝いってことで、あとでご飯奢るよ」「奢る」という言葉を聞いた瞬間、優介がぱっと顔を上げた。「本当? じゃあ、ちゃんといいお店連れてってよ。……姉ちゃん、センスあんまり良くないし。紗月お姉さんが好きそうなお店、いくつか知ってるから紹介するよ」 弟の顔を
祖父の誕生日会が終わった翌週の日曜日は、めったに仕事に追われることのない日だった。 調査の進捗がすでに技術開発の条件を満たしたことで、本社チームは次の工程へ進むことを決定していた。 その連絡が蒼空から紗月に届いたのは、金曜の夜だった。 ちょうどそのとき、紗月はいくつかのデータを比較しながら検証を続けていた。 蒼空は社内メッセージで、本社の決定を簡潔に一言伝えただけで、それ以上の詳しい説明はなかった。 紗月はもう少し詳しい情報を知りたいと思い、追加で問いかけたが、返事は来ないままだった。 ――自分こそが、このプロジェクトの責任者のはずなのに。 プロジェクトが始まって一か月以上が経っているにもかかわらず、紗月はまだ本社のプロジェクトチームと直接接触したことがなく、顔を合わせたことすらなかった。 これまでやり取りがあったのは、蒼空ただ一人だけ。 違和感は当然、感じている。 けれど紗月にとっては、これが初めてのプロジェクト参加であり、初めての案件担当、そして初めての支社と本社の共同業務だった。 他の企業ではどのようにプロジェクトが進められているのかも分からない。 もしかしたら、どこもこんなものなのかもしれない。 そう自分に言い聞かせて、それ以上は深く考えないようにした。* 日曜日。 珍しく凛子から誘いを受け、紗月は一緒にクライミングジムへ行くことになった。 待ち合わせは午前十時。 そこは、凛子が留学に行く前、よく二人で通っていた場所でもある。 到着してみると、優介の姿もあった。 凛子の後ろにぴったりとくっつき、行儀よく立っている。 紗月の姿を見つけると、先ほどまで少し不機嫌そうだった表情がぱっと明るくなり、柔らかな声で話しかけてきた。「紗月お姉さん、やっと来てくれました。僕も一緒に遊びたいって言ったのに、姉ちゃんが止めようとするんです」 わざと甘えるような口調に、凛子はうんざりしたように白い目を向ける。「来るなって言ったのに、勝手についてきたのはそっちでしょ。……ごめんねさっちゃん、この子。邪魔になるから連れてこないって言ったのに、どうしても来るって聞かなくて」 相変わらずの姉弟のやり取りに、紗月は思わず笑ってしまう。「優介くんが来てくれて、私も嬉しいよ。凛子、優介くんのことはちゃんと見るから、心配しないで」「休みの







