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第22話

Author: 豊伍涯
「……具合はどう?すごく痛くない?」

柚葉の問いかけに、晴臣は柔らかな眼差しを向けた。

「心配いらない。痛くなんてないよ」

「じゃあ、宿舎まで送るわ」

柚葉は彼を支え、そのまま啓司を完全に無視して医務室を出た。

啓司はその場に立ち尽くす。

胸の奥に、得体の知れない不安が押し寄せた。

――柚葉と晴臣の関係は、思っているよりずっと近いのかもしれない。

彼女が晴臣を見るその目は、かつて自分に向けられていたものと同じだった。

まさか……もう気持ちは別の男に向いているのか?

いや、そんなはずはない。

自分と柚葉は幼なじみで、二十年以上の年月を共にしてきた。

そんな絆が、そう簡単に消えるはずがない。

きっとこれは自分を罰するための芝居だ――そうに違いない。

そう自分に言い聞かせ、啓司はゆっくりと椅子に腰を下ろした。

それでも、心のざわめきは収まらなかった。

――その頃。

柚葉は晴臣を宿舎まで送り届けると、申し訳なさそうに言った。

「ごめんなさい……私のせいで怪我をさせてしまって」

「君のせいじゃない。謝ることなんてない」

晴臣は気にした様子もなく笑みを見せ、逆に彼女を慰める。

「大した怪我じゃないから、あまり気にするな」

柚葉はなおも気がとがめているようだった。

「じゃあ……今夜は私が料理するわ。簡単な食事だけど、付き合ってくれる?」

晴臣の瞳がふっと明るくなった。

「ああ、ぜひ。お言葉に甘えさせてもらうよ」

――夕暮れ。

学校の厨房で、柚葉は忙しそうに立ち働いていた。

そこへしばらくして晴臣が姿を現す。

何も言わず、手際よく野菜を下ごしらえし始めた。

「ちょっと、そんなことしなくていいわ。一人でできるから」

柚葉は慌てて止めるが、晴臣は淡く笑って言った。

「これくらい、大したことじゃない」

柚葉は手を止め、彼の手から野菜を取った。

「だめよ。あなたは怪我人なんだから。それに今日は私がご馳走するって言ったの、客人に働かせるなんてありえないでしょ」

「構わないさ。一緒にやれば、早く食べられるだろ?」

晴臣は譲らない。

結局、柚葉は根負けして、彼のするままに任せた。

やがて外はすっかり暗くなり、料理が仕上がる。

厨房の裏庭には枝ぶりの見事な大木があり、その下にテーブルを出して料理を並べた。

食事を終える
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