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第23話

Author: 豊伍涯
柚葉にとって、晴臣は決して何の感情もない相手ではなかった。

初めてネヴァールに来た頃、環境に馴染めず、体調を崩すこともしばしばあった。

そんなとき、晴臣は細やかに世話を焼き、見返りを求めることもなかった。

人を好きになれば、その想いは隠しきれないものだ。

それでも彼は、あくまで慎重に距離を保ち、自分の想いが彼女の負担にならぬよう、細心の注意を払っていた。

愛情は、どれほど小さくても炎のように灯る――どれほど抑え込もうとしても、柚葉が気づかないはずがない。

けれど、彼女はつい、ひとつの痛ましい恋を終えたばかりだった。

「一度火傷をすると、二度と同じことはしなくなる」というように、あの深く刻まれた痛みをもう一度味わう勇気はなかった。

だからこそ、柚葉は晴臣の想いを意識的に見ないふりをし、何も気づいていないように振る舞ってきた。

けれど、人の心は硬く閉ざされたままではいられない。時間を重ねれば、必ず揺らぎが生まれる。

夜空に瞬く星を仰ぎながら、ふと一節の言葉が心に浮かぶ。

――人生という旅路は長い。

一つの停留所での悲しみにとらわれ、歩みを止めてはいけない。

次の駅には、もっと美しい景色が待っているかもしれない。

挑む勇気を、決して手放してはいけない。

「晴臣……人は前を向くしかないわ」

柚葉は顔を上げ、微笑みを目に灯す。

「――私、あなたを見たわ」

晴臣は一瞬きょとんとし、次の瞬間、その瞳が、夜空の星々も霞むほどに輝いた。

わずかに震える手で、彼はそっと柚葉の顔を包み込む。

まるで世界で最も尊い宝物を抱くように。

「柚葉……この言葉を、どれだけ待ち続けたと思う?」

押し殺した感情がにじむ声。

「ずっと、君が本当に僕を見てくれる日を、心の中で何度も願ってきたんだ」

頬に伝わる掌の温もりが、心の奥まで静かに染み込み、やがて小さな波紋を広げた。

晴臣はゆっくりと身を傾け、視線を柚葉の瞳から一瞬も外さない。

鼻先が触れ合うほどに近づくと、彼の吐息が微かに頬をかすめ、淡い酒の香と彼だけの匂いが混じる。

胸の鼓動が一気に早まる。柚葉はそっと瞼を閉じ、長い睫毛がかすかに震えた。

静かで甘やかな瞬間――晴臣の唇が、優しく彼女を捕らえる。

二人は互いを強く抱きしめ、熱く口づけを交わした。

異国の地で、柚葉はようやく心の扉を開いた
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