若葉の胸は激しく波打ち、額には細かな汗がにじんでいた。彼女は間違いなく、悦子になりすましていたのだ。最初はほんの偶然だった。だが、凌から数々の恩恵を受けるうちに、若葉はそれを当然の報酬として受け入れるようになっていった。ある日、凌本人から「その出来事が、君に惹かれるきっかけになった」と告げられた瞬間、彼女はすべてを肯定し、自らの功績として胸を張るようになった。「……そうだったとしても、所詮は過去のことよ。いまさら語るほどの話でもないわ」悦子はそんな若葉の虚飾に満ちた態度を見下すように眉を上げた。「それなら、もう話すことはないわね」そう言い放つと、彼女はきっぱりと立ち上がり、凛とした足取りで店をあとにした。若葉に背を向けて座っていた凌は、ゆっくりと彼女の前に歩み寄り、冷たい視線で見下ろした。「……葉山若葉、一体どれだけのことを俺に隠していたんだ?」予期せぬ凌の登場に、若葉は言葉を失い、動揺のまま彼の手を掴もうとした。「凌、違うのよ!柳沢悦子の言っていることは全部、嘘なの!」必死の弁明も空しく、凌は一歩身を引き、冷ややかに言い放つ。「プロジェクトの穴埋めは早く済ませろ。裁判所でお前を見るのは御免だ」雷に打たれたかのように立ち尽くした若葉は、力が抜けたように椅子に崩れ落ち、去っていく凌の背中が遠ざかるのを呆然と見送ることしかできなかった。一方、悦子はカフェを出た足で、そのまま自宅へと戻った。玄関の扉を開けると、湊と美々が期待に満ちた瞳で彼女を出迎えた。その瞬間、今日一日の不快な出来事はすべて洗い流され、胸の奥にあたたかな幸福だけが広がっていった。離婚が正式に成立した翌日、悦子は手土産をいくつも用意し、湊と共に彼の実家を訪れた。悦子は腕によりをかけて料理を振る舞い、美々の愛らしい振る舞いも相まって、彼の両親の心をたちまち掴んだ。もともと、湊の心を射止めた女性の存在を知っていた両親は、心からの祝福をもって悦子を迎え入れた。すべては順調に進み、ふたりは無事に婚姻届を提出した。形式ばった結婚式は行わず、三人での旅行を兼ねたハネムーンを選んだ。三人は国内各地の美しい景色を堪能し、心から笑い合うひとときを過ごしたのち、名残を惜しみつつも再びR国へと戻った。そして、凌との再会は、それから四年
二週間後、湊と凌は無事に全快を迎えた。当初、悦子は湊をR国に残すつもりだったが、彼の強い意志に押され、共に帰国することとなった。母国に戻ると、悦子は美々と湊を伴い、自身が国内に所有する唯一の住まいへと向かった。夕食後、三人はソファに並んで映画を観ていた。やがて湊と美々はまぶたを重たげにし、そのまま穏やかな寝息を立てながら眠りに落ちた。悦子がふと気づくと、ふたりは静かに寄り添って眠っていた。彼女はそっと美々を湊の傍から抱き上げ、子ども部屋へと運ぶと、再びリビングに戻り、湊の肩にそっと毛布をかけた。その場を離れようとしたとき、まどろみの中の湊が彼女の手を掴んだ。悦子は一瞬立ち止まり、そっと彼の手を外して布団の中に優しく納めた。翌朝早く、悦子は凌に連絡を入れ、市役所で離婚手続きを進めた。今回は意外にも凌が協力的で、手続きは滞りなく完了した。だが、受理証明書を受け取った瞬間、凌の表情には後悔の色がにじみ、唇が何かを呟いた。それでも悦子は一度も振り返ることなく、静かに背を向けた。ちょうど出口に差しかかったそのとき、背後から「深見パパ!」という子どもの声が響いた。思わず振り返ると、勇太が凌の足元へ駆け寄り、しがみついていた。しかし、凌は無表情のまま勇太を引き剝がし、冷たく言い放つ。「言っただろ。もうパパと呼ぶな」その直後、若葉が小走りに現れ、ポケットから指輪のケースを取り出し、凌に差し出した。「凌、もう離婚したんでしょう?だったら私と結婚して!」だが、凌の表情はさらに冷え切り、若葉に一瞥すらくれぬまま、その場を立ち去った。悦子は他人の醜態には一切の関心を持たず、そのまま立ち去ろうとした。だが、背後から若葉の声が追ってきた。「柳沢さん!待って!」そして、ふたりは近くのカフェで向かい合うこととなった。悦子は無造作にコーヒーを注文し、冷静に問いかける。「ご用件は?」若葉は目を伏せ、微笑みを装いながら言った。「ただ、知りたいんです。どうやって凌の心を掴んだのか……彼を取り戻したいんです」悦子は窓の外の澄んだ青空を見つめたまま、問い返した。「取り戻したい?それとも、ただ手に入れたいだけ?」若葉はわずかに表情を曇らせ、不快そうに声を荒げた。「どういう意味ですか?」
「今でも悦子が、あんたを手に入れるためにわざと薬を盛ったと思っているのか?」湊の低い声が雪の上で静かに響いた。「あんたは誰かに狙われていたんだ。悦子はその時、あんたを救った。……軽々しく詮索しないほうがいい。あのバーは、俺の家族が経営している店だからな」湊は続ける。「二人が関係を持ったのも、あんたが悦子を引き止めたからだ。あの夜、悦子は一度廊下まで出て行ったが、あんたが追いかけて引き止めたんだよ」その瞬間、凌の視界がまばゆい白に染まり、目の前の光景がかすんでいく。湊の言葉は、悦子がこれまで幾度となく伝えようとしてきた真実だった。だが凌はそれを受け入れることなく、自分の過ちを認めたくないがために悦子の想いを否定し続け、美々の存在さえも正面から見ようとしなかった。言葉を失った凌は、ふいに湊との会話を終わらせるようにスキー板を踏み出し、前方へと滑り出した。だが、思うように力の入らない体はバランスを崩し、そのまま雪面に崩れ落ちた。湊はとっさに凌の腕を掴んだが、勢いに逆らえず、二人は一緒に斜面を転げ落ちていった。「湊君!」「湊おじさん!」天地がひっくり返るような感覚に湊は何度も翻弄され、どれほど転がったかも分からなかった。幸いにもそこは初級者コースの緩やかな斜面であり、間もなく平坦な場所で動きが止まった。湊は腕に鋭い痛みを感じ、苦悶の表情を浮かべる。悦子はすぐに美々をインストラクターに預け、雪を蹴って滑り降り、湊のもとへ駆け寄った。「湊君!大丈夫!?どこを怪我したの?」湊は痛みに顔を歪めながら、なんとか身体を起こし、悦子に寄りかかった。「腕がすごく痛い……」悦子は顔色を変え、スタッフに湊を担架で運ぶよう指示した。そして、同じく担架に乗せられた凌には一瞥もくれなかった。そのまま二人は救急車で病院へ搬送された。美々をいったん家へ送り届け、信頼できる友人に預けた後、悦子は湊の病室を訪れた。「湊君、具合はどう?」湊は苦しげに答えた。「……正直、まだすごく痛い」悦子は胸を痛めながら諭した。「見てたわ。あんな無茶しちゃダメよ。それに……彼の様子からして、二人でいったい何を話していたの?」湊は視線を落としながら、正直に口を開いた。「バーの件で誤解があったから、あいつを目覚
悦子はその言葉を聞き、思わず息を呑んだ。「……酔ってるわ、湊君」湊はわずかに赤らんだ頬で悦子を見つめたまま、しばし沈黙し、それからふっと笑みを浮かべて話題を変えた。「明日、スキーに行かない?せっかくR国に来たんだ、滑らないなんてもったいないよ。ちょうど、美々ちゃんも連れ出して気分転換になるしね」突然の提案に、悦子は戸惑いながらも断ろうとした言葉が喉でつかえた。湊は重ねて言った。「一緒に行こうよ。君はどうでもいいとしても、美々ちゃんはきっと行きたいと思ってるはずだ」なぜかその一言に抗えず、悦子はつい承諾してしまった。翌朝、スキーに行けると知った美々は、昨夜までの沈んだ気持ちが嘘のように跳ね上がり、期待に胸を膨らませた。初めて訪れるスキー場に、彼女の目は輝いていた。その頃、まだ気持ちの整理がつかず、悦子の家を訪ねようとしていた凌は、三人が車でどこかへ向かうのを目撃し、慌てて自分の車を出して後を追った。スキー場はすでに大勢の人々で賑わい、白銀の斜面を見つめる美々の横顔には、好奇心と興奮が溢れていた。悦子は美々のマフラーを直し、子ども用のスキーウェアとプロテクターをしっかりと着せたあと、湊の右肘のプロテクターの装着を手伝った。「きつくない?大丈夫?」そんな光景に気づいたスタッフが、にこやかに声をかけた。「仲の良いご夫婦ですね。お子さんも、とっても可愛らしい」悦子が言葉を返す前に、湊が笑顔でお礼を述べた。美々はその様子を訝しげに見つめながら、悦子に尋ねた。「ママ、さっきのおじさん、湊おじさんのことパパだって言ってたの?」そして、湊の方を向いて訊ねた。「おじさん、ママと結婚したいの?ママのこと幸せにしてくれるなら、私、二人が一緒でもいいよ」子どもの率直な言葉に、二人の間に妙な沈黙が流れた。悦子は苦笑いを浮かべながら、美々の頭に子ども用ヘルメットを被せ、さらに何か言いかけた美々の口を慌てて塞いだ。湊は微笑んだまま答えた。「本当?それは心強いな。美々ちゃん、ありがとう」その時だった。凌がようやく三人を見つけ、遠くから駆け寄ってきた。突然の出現に、悦子は眉をひそめた。「……ついて来たの?」凌はまたも拒まれることを恐れ、何気ない素振りを装って言った。「……偶然だよ。俺
三人は、作ったケーキとスイーツをテイクアウト用に丁寧に包むと、帰路につく準備を整えた。「湊君、今日は本当にありがとう。美々を外に連れ出してくれて、いい気分転換になったわ」悦子の感謝に対し、湊は冗談めかして言った。「柳沢シェフ、お礼にまたご馳走してよ。食材はこっちで用意するからさ」そうして三人は、レストランにも自宅にも戻らず、その足でスーパーへ向かった。スーパーでは、湊が美々の手を引きながら、楽しそうにスナックや食材を選び、悦子はカートを押しながらその後ろを穏やかな表情でついて行った。その光景を、少し離れた場所から見ていた凌は、まるで仲睦まじい家族のように映る三人の姿に胸を締めつけられ、思わず駆け寄って、美々の手を湊から引き離そうとした。「美々、パパが来たよ」悦子は顔をしかめ、すぐに前へ出て凌を制止した。「どうしてここにいるの?深見凌、もうはっきり伝えたはずよ」凌はその問いかけに目を逸らしながらも、美々と湊が手をつないでいる様子をじっと見つめ、心の奥に刺さるような痛みを感じていた。「美々、パパのこと嫌いになったのか?」突然現れた凌に、美々は目をこすりながらぼんやりとした声で答えた。「おじさんが、私を捨てたんでしょ……おじさんは、勇太君のパパになりたいから……」その言葉に、凌は美々の心にまだ自分への想いが残っていると感じ、過去を蒸し返されまいと慌てて遮った。「違うんだ。勇太君のママとはもう話をつけた。もう二度と、あんなことはしない。パパは、本当に後悔してる。ずっと美々に会いたかったんだ。お願いだ、もう一度パパにチャンスをくれないか?パパのそばに戻ってきてほしいんだ」だが、美々は凌の目を見ようともせず、叫ぶように拒絶した。「いや!おじさんは、私のパパじゃない!これからもパパにはなってほしくない!」凌は信じられないといった表情で、美々を叱りつけた。「深見美々!なんてことを言うんだ!俺はお前の実の父親だぞ!」そして、湊を指さしながら怒鳴った。「この男が吹き込んだのか?親でもないやつに騙されるな!」湊は呆れたように、大きく白目をむいた。自分が浮気をし、別の子の父親になろうとしたのに、いまさら逆切れとは――そのとき、彼はふと、手をつないでいた美々の手が冷たくなっていることに気づく。
数日間、悦子は通常通り仕事に励み、凌からの追及もなく、彼女の張り詰めた心は次第に緩んだ。やがて、週末がやってきた。湊が柳沢家の玄関をノックすると、悦子と美々はすでに出発の準備を整えており、湊は思わず頬を緩めた。「さあ、出発だ!」美々は興奮した様子で悦子の手を引きながら、湊のもとへ駆け寄った。三人は車に乗り込み、すぐに出発した。その直後、このマンションに新たな住人がやって来た。凌が階下に姿を現したのだ。ホテル暮らしの間に冷静さを取り戻した彼は、もう衝動的な行動はすまいと自らに言い聞かせ、本当に自分が望むものを見定めた。そして、ついには高額を支払い、悦子の真下の階の部屋を購入したのである。時間をかけて、悦子と美々の信頼と心を取り戻す——その覚悟を、ようやく定めたのだった。車中では、湊が興奮気味にスイーツフェアの見どころを語っていた。「今年もホールには、名人が作ったシュガークラフトケーキが展示されてるよ。記念撮影もできるんだ。それに、奥の展示室ではいろんなスイーツの試食ができて、オリジナルケーキを作るワークショップもあるよ」美々は、初めての本格的なケーキ作りに期待が膨らんだ。「湊おじさん、私とママにケーキの作り方教えてくれる?」湊は快諾した。「もちろんだよ!」三人は車内でも終始賑やかで、長い道のりもまったく苦にならず、やがて会場へと到着した。ホール中央には、湊が話していた三メートルのシュガークラフトケーキが堂々と展示されており、大勢の来場者がその前で記念撮影を楽しんでいた。悦子は少し後ろから湊と美々を見守り、ときおりスマホを取り出して、二人の素敵な瞬間をそっと写真に収めた。ホールの見学を終えるころには、ちょうど昼時になっていた。三人は急いで奥のスイーツバイキングへと向かい、満腹になるまで思い思いにスイーツを堪能した。食後、湊は二人をワークショップのテーブルへと案内した。彼は特別ゲストとして招かれていたため、スタッフがあらかじめ必要な材料を準備してくれていた。まずは簡単なスイーツ作りを体験し、そこから本格的なケーキ作りへと進む。三人で力を合わせるうちに、ケーキは徐々に形を整えていった。美々は嬉しさを隠しきれず、頼りと憧れを込めて湊に抱きついた。「ありがとう、湊おじさん。今日は