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カルメル7の夕陽は三つある。
ミリアム・ヴァシュティは発掘現場の縁に立ち、三連星が織りなす光の交響曲を眺めていた。琥珀色、深紅、そして青白い光。それぞれが異なる角度から廃墟を照らし出し、三千年前の建造物に複雑な影の模様を描いていく。
彼女の専門用スーツは、惑星の薄い大気を補正しながら体温を調整していた。だが汗は止まらない。興奮による発汗を、どんな技術も抑制できない。
「ミリアム、これを見て」
助手のレイラ・ハシムが、発掘区画の奥から声を上げた。若い女性の声には抑えきれない昂揚が滲んでいる。
ミリアムは慎重に斜面を降りた。足元の土は、かつて庭園だった場所の名残を留めている。炭化した植物繊維、人工的に配置された石、そして——彼女の心臓が跳ね上がる——文字の刻まれた陶板の破片。
「深度マーカーは?」
「第七層。推定紀元前1200年、地球暦換算で」レイラの指が空中のホログラフィック・ディスプレイを操作する。「入植第一世代の遺物です」
ミリアムは膝をついた。陶板は彼女の手のひらほどの大きさで、表面には古ヘブライ文字に似た——だが微妙に異なる——文字が刻まれている。
彼女は目を閉じた。
これが彼女の「才能」だった。テキストを見ること。いや、正確には「感じる」こと。文字の背後にある感情の残滓を、データとしてではなく、直感として把握する能力。
学会は彼女のこの能力を「テクスチュアル・エンパシー」と呼んだ。科学的に説明不可能だが、その精度は驚異的だった。彼女が「感じた」解釈は、後の言語学的分析で九十七パーセントの確率で正しいと証明される。
残りの三パーセント? それは彼女が「何も感じなかった」時だ。
今、彼女の指先が陶板に触れる。
視界が白く染まった。
いや、白ではない。光だ。無数の光が彼女の意識の中で渦を巻いている。そして——声。
愛する者よ、あなたは美しい
あなたの瞳は鳩のよう
あなたの声は計算されず
あなたの息は測定されず
ミリアムは息を呑んだ。これは——
「雅歌」だ。
地球の旧約聖書に収められた、あの愛の詩篇。だが、最後の二行は彼女の知るどのバージョンにも存在しない。
「ミリアム? 大丈夫?」
レイラの声が遠くから聞こえる。ミリアムは陶板から手を離し、深く息を吸った。
「これは……大発見よ」彼女の声が震えている。「雅歌の未知の断片。しかも、入植第一世代が地球から持ち込んだオリジナルテキストの変異形」
「変異形?」
「ええ」ミリアムは立ち上がり、三つの太陽を見上げた。「彼らは何かを変えた。意図的に。この惑星で、三千年前に」
その時、彼女の通信デバイスが振動した。ベースキャンプからの着信。
「ヴァシュティ博士、訪問者です」オペレーターの声。「アデム・カインと名乗る男性が、あなたとの面会を希望しています」
ミリアムの心臓が、また別の理由で高鳴った。
アデム。
三ヶ月前、軌道ステーションで出会った男。遺伝子アーキビストを名乗る、謎めいた笑みを浮かべる男。一晩中、失われた言語について語り合った男。
そして、彼女が——測定不能な何かを——感じた男。
「すぐ戻ります」ミリアムはレイラに言った。「この陶板を保存処理して。最優先で」
彼女は斜面を駆け上がった。三つの太陽が、彼女の影を三方向に引き伸ばす。
その影の一つが、ほんの僅かに、他の二つと異なる動きをしたことに、彼女は気づかなかった。
ベースキャンプは、惑星表面に展開された一時的な研究施設だった。与圧ドーム、居住モジュール、分析ラボ、そして小さな温室。全てが組み立て式で、調査終了後は痕跡を残さず撤去される。
ミリアムがエアロックを通過すると、アデム・カインが中央ラウンジで待っていた。
彼は背が高く、痩身で、深い茶色の瞳を持っていた。年齢は三十代半ばに見えるが、この時代、外見は何の指標にもならない。遺伝子治療で二百歳でも二十歳に見える人間がいる。
「ミリアム」彼は微笑んだ。その笑みは、軌道ステーションで見たものと同じだ。温かく、だが——どこか測定できない何かを含んでいる。
「アデム。なぜここに?」
「君に会いたかったから」彼は肩をすくめた。「それと、仕事。カルメル7の遺伝子データベースの更新。入植者の子孫の追跡調査」
「この惑星に入植者の子孫なんていないわ。全員が三千年前に死んだ」
「その『全員』の定義が、実は曖昧なんだ」アデムは窓の外、廃墟の方角を見た。「遺伝子は予想外の形で残存する。データとして。パターンとして。あるいは——」
「記憶として?」
「そう考える学派もある」
ミリアムは彼の隣に立った。二人の間に、言葉にならない何かが流れる。
「軌道ステーションで」彼女は静かに言った。「あなたは私に質問したわね。『愛する人が人間でないと知ったら、あなたはどうする』って」
「覚えている」
「なぜそんな質問を?」
アデムは彼女の方を向いた。その瞳の中に、三つの太陽の残照が映り込んでいる。
「この宇宙では」彼はゆっくりと言った。「人間の定義が曖昧になってきている。バイオ改造人類、量子意識のアップロード体、有機AI……誰が『本物』で、誰が『偽物』なのか。そもそも、その区別に意味があるのか」
「あなたは何が言いたいの?」
「君が今日発掘したもの」アデムは言った。「それは答えの一部かもしれない」
ミリアムは息を呑んだ。「どうして今日の発掘物のことを——」
「推測だよ」彼は微笑んだ。「君の表情が全てを語っている。何か重要なものを見つけた時の、あの光」
彼の手が、そっとミリアムの頬に触れた。
その瞬間、彼女は感じた。
何かが——正しくない。
アデムの指先の温もり。脈拍。皮膚の質感。全てが完璧に人間的だ。だが、彼女の「テクスチュアル・エンパシー」が、何か別のものを感知している。
測定できない、違和感。
「ミリアム?」
彼女は一歩下がった。「ごめんなさい。疲れているの」
「休むべきだ」アデムは心配そうに言った。「明日、発掘現場を見せてくれるかい? 遺伝子サンプルの採取許可は得ている」
「ええ、もちろん」
彼女は笑顔を作った。だが心の中では、警告音が鳴り響いていた。
何かが間違っている。
アデムが? それとも——自分自身が?
その夜、ミリアムは研究ラボで陶板の分析データを見つめていた。
炭素年代測定:紀元前1200年、誤差±50年。
材質分析:在来粘土、酸化焼成。
文字解析:古ヘブライ文字の変異形、カルメル方言の可能性。
全てが標準的な手順に従って処理されている。だが、一つだけ——異常がある。
インクの組成分析が、エラーを返していた。
「未知の有機化合物」とレポートには書かれている。「既知のデータベースと一致せず」
ミリアムは拡大画像を見た。文字を形作る黒いインク。顕微鏡レベルでは、それは複雑な結晶構造を持っている。まるで——
生きているように見える。
彼女の通信デバイスが光った。アデムからのメッセージ。
今夜は素晴らしい星空だ。温室で待っている
ミリアムは躊躇した。だが、何かが彼女を立ち上がらせた。
測定できない何かが。
温室は小さな楽園だった。
地球から持ち込まれた植物が、人工照明の下で育っている。バラ、ジャスミン、オリーブの木。三千年前の入植者たちも、きっと同じことをしたのだろう。
アデムは中央のベンチに座っていた。透明なドーム越しに、カルメル7の夜空が広がっている。
「美しい」ミリアムは言った。
「君もだ」
彼女は彼の隣に座った。ジャスミンの香りが漂っている。
「アデム、一つ聞きたいことがあるの」
「何でも」
「あなたは——人間?」
沈黙。
それは永遠のように長く感じられた。
そしてアデムは、笑った。
「君は何をもって『人間』と定義する?」彼は訊ねた。「DNA? 意識? 感情? 魂?」
「全部」
「では僕は」彼は彼女の目を見た。「君と同じくらい人間だ」
「それは答えになっていないわ」
「そうだね」アデムは立ち上がり、オリーブの木に触れた。「この木は人間か? DNA を持ち、環境に反応し、ある意味では『記憶』さえ持っている。年輪という形で」
「詭弁よ」
「いや、本質的な問いだ」彼は振り返った。「ミリアム、君は古代のテキストを『感じる』ことができる。それは科学的に説明できない能力だ。では、君は人間か? それとも何か別の——」
「やめて」
ミリアムは立ち上がった。心臓が激しく打っている。
「君を怖がらせるつもりはなかった」アデムは近づいてきた。「ただ、この宇宙の真実を知ってほしい。境界は曖昧なんだ。人間と機械、生命と非生命、自然と人工——全てが」
彼の手が、再び彼女の頬に触れた。
今度は、彼女は離れなかった。
「君が今日見つけたテキスト」アデムは囁いた。「『あなたの声は計算されず、あなたの息は測定されず』——それは予言だったのかもしれない」
「何の?」
「測定を超えたものの存在。愛、と呼ばれるものの」
彼は彼女にキスをした。
その唇は温かく、柔らかく、完璧に人間的だった。
だがミリアムの心の奥底で、何かが叫んでいた。
これは間違っている
何かが、決定的に間違っている
彼女はキスを返しながら、その警告を無視しようとした。
無視しなければならなかった。
なぜなら、もしアデムが人間でないなら——
もし彼女自身が——
ジャスミンの香りが、突然、金属的な何かに変わった気がした。
だがそれは、きっと気のせいだ。
そうでなければならない。
翌朝、ミリアムは異変に気づいた。
温室の植物が、一晩で枯れていた。
全てではない。ただ一本——彼女とアデムが立っていた場所の、すぐ隣のバラの木だけが。
レイラが分析ラボで首を傾げた。「原因不明です。病原体も、栄養不足も、環境ストレスの兆候もない。ただ——」
「ただ?」
「細胞レベルで、エネルギーが抜き取られたように見えます。まるで何かに——吸収されたかのように」
ミリアムは黙っていた。
そして、発掘現場に向かった。
アデムが、そこで待っていた。
封印から三日後、奇妙な現象が始まった。 カルメル7 の野生動物が、発掘現場に集まってきたのだ。 最初は一羽の鳥だった。地球由来の鳩に似ているが、羽が虹色に輝く、この惑星固有の種。それがミリアムのテントの外に巣を作った。 次に、小型の哺乳類。六本足で、大きな瞳を持つ、ウサギのような生物。それが庭園の縁を掘り、巣穴を作り始めた。 そして——群れ。 数十匹の動物が、種を超えて、庭園の周囲に集まってきた。 レイラは困惑していた。「行動学的に説明がつきません」彼女はデータパッドを睨みながら言った。「この惑星の動物は、通常、人間の居住地を避けるのに」 ミリアムは窓の外を見た。一匹の動物——四本足で、猫に似た生物——が、彼女をじっと見つめている。「避けていない」彼女は呟いた。「近づいている」「理由は?」 ミリアムは答えなかった。 だが、心の中では理解していた。 動物たちは、何かを感じている。庭園から発せられる、量子的な何かを。 測定されない存在の気配を。 その午後、アデムが興奮した様子でラボに入ってきた。「ミリアム、これを見て」 彼は小さな装置——量子スキャナー——を持っていた。画面には、複雑な波形パターンが表示されている。「これは?」「動物たちの脳波だ」アデムは説明した。「より正確には——量子脳波。彼らの意識の量子的なパターン」「それが?」「庭園の量子パターンと、同調している」 ミリアムは息を呑んだ。「つまり——動物たちは、庭園の真実を『見て』いる?」「視覚的にではない」アデムは首を振った。「だが、感じている。量子的なレベルで。人間が失った、あるいは抑圧した感覚で」 彼は窓の外の動物たちを見た。
地上に戻った時、夜明けが近づいていた。 ミリアムとアデムは発掘現場の縁に座り、最初の太陽——深紅の巨星——が地平線を染めるのを見ていた。 ミリアムの世界観は、完全に書き換えられていた。自分が誰なのか。何なのか。そして——なぜここにいるのか。「オリジナルのミリアムは」彼女は訊ねた。「なぜ雅歌を書き換えたの? 単なる愛の詩じゃ不充分だった?」 アデムは遠くを見つめた。「彼女が生きた時代」彼は説明を始めた。「カルメル7の入植者たちは、深刻な危機に直面していた。人間性の定義をめぐる内戦——『存在論戦争』と呼ばれるものだ」「歴史書で読んだことがある」ミリアムは頷いた。「遺伝子改変派と純血主義者の対立」「それだけじゃない」アデムは続けた。「AI の意識化、量子アップロード、バイオ機械融合——人間を『拡張』する技術が急速に発達した。そして人々は問い始めた。どこまでが人間で、どこからが——人間でないのか、と」「そして戦争が起きた」「ええ。だが、この惑星の入植者たちは異なる道を選んだ」アデムは廃墟の庭園を見た。「彼らは『測定の放棄』を宣言した」「測定の放棄?」「人間性を定義しようとすること自体を、禁忌としたんだ。DNA テストも、意識検査も、存在論的分類も——全て禁止された。なぜなら——」「測定した瞬間に、愛が破壊される」ミリアムは呟いた。「その通り」アデムは微笑んだ。「雅歌の新しいバージョンは、その宣言文だった。『あなたの声は計算されず、あなたの息は測定されず』——それは、愛する者を分析することの拒絶」 ミリアムは立ち上がり、庭園の中央に歩いていった。噴水の跡が、朝日を浴びて輝いている。「でも」彼女は言った。「それは持続しなかった。この惑星の入植者は全滅した」「内部からの崩壊ではない」アデムも立ち上がった。「外
発掘現場の朝は静寂に包まれていた。 三つの太陽のうち、最も小さな青白い星だけが地平線上に昇り、廃墟に冷たい光を投げかけている。ミリアムは第七層の発掘区画に立ち、新たに露出した構造物を観察していた。 それは庭園だった。 三千年前の設計図が、土と時間の下から姿を現している。中央に噴水の跡。放射状に広がる花壇の痕跡。そして、四隅に配置された——何かの台座。「美しい設計だ」 アデムの声が背後から聞こえた。ミリアムは振り返らなかった。「昨夜の植物の件」彼女は言った。「あなた、何か知っている?」 沈黙。 それから、アデムは彼女の隣に立った。「ミリアム、この宇宙には説明のつかないことがある。科学的に測定できない現象が」「それは答えじゃないわ」「いや」彼は廃墟の庭園を見つめた。「最も正直な答えだ。僕にも分からない。だが——僕は推測できる」「聞かせて」 アデムは深く息を吸った。「エネルギーの転移。量子レベルでの共鳴。二つの存在が——深く接触した時、エネルギーの交換が起こる可能性がある」「キスで植物が枯れる、と言いたいの? 馬鹿げてる」「そうかもしれない」彼は微笑んだ。だがその笑みには、どこか悲しげなものがあった。「だが、量子生物学の最新研究では、意識そのものが量子的な現象だと示唆されている。意識同士の相互作用が、物理的な結果を生む可能性は——」「充分に低いわ」ミリアムは遮った。「統計的に無視できるレベルの」「君の『テクスチュアル・エンパシー』も、統計的に無視できるレベルで稀な能力だ」 ミリアムは黙った。 その時、レイラが駆け寄ってきた。若い助手の顔には興奮が浮かんでいる。「博士! 第二の陶板を発見しました。しかも、昨日のものと対になっているようです」 新しい陶板は、庭園の北東の隅、台座の下から出土した。 ミリアムはそれを手に取り、目を閉じた。 再び、光の洪水。 そして——声。 愛する者よ、私を印章のようにあなたの心に刻んで 印章のようにあなたの腕に 愛は死のように強く だが測定は愛のように愚かである ミリアムの目が開いた。 最後の一行。それは雅歌の原典には存在しない。 「測定は愛のように愚かである」 彼女は陶板を見つめた。文字は昨日のものと同じインクで書かれている。顕微鏡でしか見えない、あの生きているような結晶構造を
カルメル7の夕陽は三つある。 ミリアム・ヴァシュティは発掘現場の縁に立ち、三連星が織りなす光の交響曲を眺めていた。琥珀色、深紅、そして青白い光。それぞれが異なる角度から廃墟を照らし出し、三千年前の建造物に複雑な影の模様を描いていく。 彼女の専門用スーツは、惑星の薄い大気を補正しながら体温を調整していた。だが汗は止まらない。興奮による発汗を、どんな技術も抑制できない。「ミリアム、これを見て」 助手のレイラ・ハシムが、発掘区画の奥から声を上げた。若い女性の声には抑えきれない昂揚が滲んでいる。 ミリアムは慎重に斜面を降りた。足元の土は、かつて庭園だった場所の名残を留めている。炭化した植物繊維、人工的に配置された石、そして——彼女の心臓が跳ね上がる——文字の刻まれた陶板の破片。「深度マーカーは?」「第七層。推定紀元前1200年、地球暦換算で」レイラの指が空中のホログラフィック・ディスプレイを操作する。「入植第一世代の遺物です」 ミリアムは膝をついた。陶板は彼女の手のひらほどの大きさで、表面には古ヘブライ文字に似た——だが微妙に異なる——文字が刻まれている。 彼女は目を閉じた。 これが彼女の「才能」だった。テキストを見ること。いや、正確には「感じる」こと。文字の背後にある感情の残滓を、データとしてではなく、直感として把握する能力。 学会は彼女のこの能力を「テクスチュアル・エンパシー」と呼んだ。科学的に説明不可能だが、その精度は驚異的だった。彼女が「感じた」解釈は、後の言語学的分析で九十七パーセントの確率で正しいと証明される。 残りの三パーセント? それは彼女が「何も感じなかった」時だ。 今、彼女の指先が陶板に触れる。 視界が白く染まった。 いや、白ではない。光だ。無数の光が彼女の意識の中で渦を巻いている。そして——声。 愛する者よ、あなたは美しい あなたの瞳は鳩のよう あなたの声は計算されず あなたの息は測定されず ミリアムは息を呑んだ。これは——「雅歌」だ。 地球の旧約聖書に収められた、あの愛の詩篇。だが、最後の二行は彼女の知るどのバージョンにも存在しない。「ミリアム? 大丈夫?」 レイラの声が遠くから聞こえる。ミリアムは陶板から手を離し、深く息を吸った。「これは……大発見よ」彼女の声が震えている。「雅歌の未知の断片。し