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第2章:測定されない心拍

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-11-30 15:20:47

 発掘現場の朝は静寂に包まれていた。

 三つの太陽のうち、最も小さな青白い星だけが地平線上に昇り、廃墟に冷たい光を投げかけている。ミリアムは第七層の発掘区画に立ち、新たに露出した構造物を観察していた。

 それは庭園だった。

 三千年前の設計図が、土と時間の下から姿を現している。中央に噴水の跡。放射状に広がる花壇の痕跡。そして、四隅に配置された——何かの台座。

「美しい設計だ」

 アデムの声が背後から聞こえた。ミリアムは振り返らなかった。

「昨夜の植物の件」彼女は言った。「あなた、何か知っている?」

 沈黙。

 それから、アデムは彼女の隣に立った。

「ミリアム、この宇宙には説明のつかないことがある。科学的に測定できない現象が」

「それは答えじゃないわ」

「いや」彼は廃墟の庭園を見つめた。「最も正直な答えだ。僕にも分からない。だが——僕は推測できる」

「聞かせて」

 アデムは深く息を吸った。「エネルギーの転移。量子レベルでの共鳴。二つの存在が——深く接触した時、エネルギーの交換が起こる可能性がある」

「キスで植物が枯れる、と言いたいの? 馬鹿げてる」

「そうかもしれない」彼は微笑んだ。だがその笑みには、どこか悲しげなものがあった。「だが、量子生物学の最新研究では、意識そのものが量子的な現象だと示唆されている。意識同士の相互作用が、物理的な結果を生む可能性は——」

「充分に低いわ」ミリアムは遮った。「統計的に無視できるレベルの」

「君の『テクスチュアル・エンパシー』も、統計的に無視できるレベルで稀な能力だ」

 ミリアムは黙った。

 その時、レイラが駆け寄ってきた。若い助手の顔には興奮が浮かんでいる。

「博士! 第二の陶板を発見しました。しかも、昨日のものと対になっているようです」


 新しい陶板は、庭園の北東の隅、台座の下から出土した。

 ミリアムはそれを手に取り、目を閉じた。

 再び、光の洪水。

 そして——声。

 愛する者よ、私を印章のようにあなたの心に刻んで

 印章のようにあなたの腕に

 愛は死のように強く

 だが測定は愛のように愚かである

 ミリアムの目が開いた。

 最後の一行。それは雅歌の原典には存在しない。

 「測定は愛のように愚かである」

 彼女は陶板を見つめた。文字は昨日のものと同じインクで書かれている。顕微鏡でしか見えない、あの生きているような結晶構造を持つインク。

「何が書いてある?」アデムが訊ねた。

 ミリアムは躊躇した。だが、何かが彼女に真実を告げさせた。

「雅歌の続き。でも——改変されている。『測定』という概念が、意図的に挿入されている」

「測定」アデムは繰り返した。「この惑星の入植者たちは、何を測定しようとしていたんだろう?」

「あるいは」ミリアムは静かに言った。「何を測定すべきでないか、を伝えようとしたのかもしれない」

 レイラが土壌サンプルの分析結果を持ってきた。

「博士、奇妙なことがあります。この台座の周辺だけ、土壌の量子コヒーレンス値が異常に高いんです」

「量子コヒーレンス?」ミリアムは眉をひそめた。「土壌が?」

「ええ。通常、有機物は急速にデコヒーレンスを起こします。でもこの土は——まるで情報を保持しているかのように」

 アデムが膝をついて、土に触れた。

 その瞬間、彼の表情が変わった。

「これは——」彼は呟いた。「墓だ」

「墓?」

「いや、正確には墓ではない」アデムは立ち上がった。「量子記憶装置だ。人間の意識パターンを、土壌の量子状態として保存する——非常に古い技術。地球の初期入植時代に使われていた」

 ミリアムの心臓が高鳴った。「つまり、この庭園の下には——」

「四人の意識がある」アデムは四つの台座を指差した。「三千年前から、ずっと」


 その日の午後、ミリアムは一人でベースキャンプの医療ラボにいた。

 彼女は自分自身の血液サンプルを採取し、分析装置にセットした。

 なぜこんなことをしているのか、自分でも分からない。だが、昨夜からの違和感——アデムの指先に感じた、あの測定できない何か——が、彼女を駆り立てていた。

 分析結果が画面に表示される。

 DNA:人間、ホモ・サピエンス、変異なし。

 細胞構造:正常。

 神経伝達物質:正常範囲内。

 量子コヒーレンス値:——

 ミリアムは息を呑んだ。

 彼女の細胞の量子コヒーレンス値が、異常に高い。

 発掘現場の土壌と、同じレベルで。

「あり得ない」彼女は呟いた。「人間の細胞は、こんな高いコヒーレンスを維持できない。デコヒーレンス時間は、せいぜい数ピコ秒——」

「特殊な設計がされていれば、可能だよ」

 アデムの声が、ドアの方から聞こえた。

 ミリアムは振り返った。彼がいつからそこにいたのか、分からない。

「盗み聞き?」彼女は冷たく言った。

「心配していた」アデムは近づいてきた。「君が自分自身を検査すると思っていた」

「どうして?」

「君の『テクスチュアル・エンパシー』。それは自然発生的な能力じゃない、ミリアム」

 彼女の手が震えた。

「何を言っているの?」

 アデムは画面を見た。そして、ゆっくりと説明を始めた。

「量子生物学の応用技術に、『感情共鳴装置』と呼ばれるものがある。古代のテキストや物体に残された量子的な情報パターン——書き手の感情や意図——を読み取る能力。それは、人工的に付与できる」

「私が——人工的に?」

「そうとは限らない」アデムは慎重に言った。「遺伝子改変、出生前処置、あるいは——」

「あるいは?」

「意識のアップロード時の、副作用」

 ミリアムは一歩後退した。

「私は生まれてからずっと、自然な人間として——」

「君の最も古い記憶は?」アデムが訊ねた。

 ミリアムは口を開き——そして、気づいた。

 彼女の最も古い記憶。それは八歳の誕生日だ。

 それ以前の記憶が、存在しない。

「記憶喪失は珍しくない」彼女は言った。だがその声は、自分でも信じていないことが分かる。「幼児期健忘。誰にでもある」

「八歳まで?」アデムは首を振った。「統計的に異常だ」

 ミリアムは壁に背を預けた。頭が混乱している。

「なぜ今、これを言うの?」

「君を守るため」アデムは真剣な目で言った。「ミリアム、この発掘は危険だ。君が見つけているものは——単なる古代のテキストじゃない。それは、君自身の起源に関わる何かかもしれない」

「意味が分からない」

「分かるようになる」アデムは彼女に近づき、両手で彼女の肩を掴んだ。「今夜、僕と一緒に来てくれ。見せたいものがある」

「どこに?」

「廃墟の中心部。入植者たちが最後に暮らしていた場所」

 ミリアムは躊躇した。だが、彼女の中の何か——科学者としての好奇心か、それとも自己の真実への渇望か——が、頷かせた。


 夜、二人は廃墟の中心部に向かった。

 三つの月が空に浮かび、廃墟を銀色に照らしている。アデムは小型のスキャナーを持ち、地下構造を探査していた。

「ここだ」彼は古い建物の基部を指差した。「階段がある。地下へ続いている」

 彼らは慎重に降りていった。階段は螺旋を描き、地下深くへと続いている。壁には、時折、発光する苔のようなものが生えていた。

「バイオルミネセンス」アデムが説明した。「遺伝子改変された微生物。三千年前のものが、まだ生きている」

「あり得ない」ミリアムは呟いた。「その寿命は——」

「量子的に保存されていれば、理論上は永遠に生きられる」

 階段の最下層に、扉があった。

 いや、扉ではない。膜だ。半透明の、脈打つような生体膜。

 アデムはそれに触れた。膜が波紋を作り、中央に開口部が形成される。

「中へ」彼は言った。

 ミリアムは深呼吸し、膜を通過した。


 その空間は、部屋というより子宮だった。

 壁、床、天井——全てが柔らかく、微かに脈打っている。中央には四つの繭のようなものがあり、それぞれが淡い光を放っていた。

「これは——」ミリアムは息を呑んだ。

「量子培養槽」アデムは言った。「人間の意識を保存し、培養し、そして——必要に応じて再生する装置」

 彼は最も近い繭に近づいた。その表面には、古ヘブライ文字が浮かんでいる。

 ミリアムは文字を読んだ。

 ミリアム・ベト・ヤコブ

 入植者、詩人、愛する者

 紀元前1207年保存

 彼女の名前。

 いや、違う。彼女と同じ名前を持つ、三千年前の女性。

「これが」アデムは静かに言った。「君の起源だ」

「何を——」

「君は複製体だ、ミリアム」彼は彼女の目を見た。「この繭の中の意識パターンから、二十八年前に再生された。『テクスチュアル・エンパシー』は、オリジナルのミリアムが持っていた能力。彼女は古代のテキストを『感じる』ことができた。なぜなら——」

「なぜなら?」

「彼女自身が、そのテキストを書いたから」

 ミリアムの膝が崩れた。アデムが彼女を支えた。

「嘘よ」彼女は震える声で言った。「私には両親がいる。子供時代の写真がある——」

「植え付けられた記憶だ」アデムは悲しげに言った。「八歳以降の。それ以前は、君がこの繭から出た時から、意識が形成されるまでの空白期間」

「じゃあ私は——人間じゃない?」

「いや」アデムは力強く言った。「君は人間だ。オリジナルと同じくらい。いや、ある意味では——もっと人間的かもしれない」

「どういう意味?」

 アデムは他の繭を指差した。

「オリジナルのミリアムは、愛する人を失った。彼の名前は——」

「アデム」ミリアムは囁いた。「あなた——」

「僕もまた、複製体だ」彼は微笑んだ。「三千年前の男の。彼は遺伝子アーキビストだった。ミリアムを愛していた。だが——」

 彼は最後の繭を見た。それは他のものと異なり、暗く、光を放っていなかった。

「彼らは子供を作った。だがその子は——人間と機械のハイブリッドとして生まれた。当時の技術では、予期せぬ結果だった」

 ミリアムは暗い繭に近づいた。表面には、小さな手形が刻まれていた。

 子供の手形。

「この子は生きられなかった」アデムは続けた。「三日間だけ。だが、その三日間で——彼らは理解した」

「何を?」

「愛は測定できないことを。人間性は、DNA でも意識パターンでも定義できないことを。それは——選択だ。愛する選択。苦しむ選択。それでも共にいる選択」

 ミリアムは泣いていた。涙が頬を伝う。

「彼らは雅歌を書き換えた」アデムは言った。「新しいバージョンとして。測定を拒絶する愛の詩として。そして、自分たちの意識を保存した。いつか——この真実を理解できる時代が来ることを信じて」

「そして私たちは——」

「その意識から再生された」アデムは彼女の肩を抱いた。「同じ愛を、再び生きるために」

 ミリアムは彼を見上げた。涙で霞む視界の中で、彼の顔が微笑んでいる。

「でも」彼女は言った。「私たちには選択がある。オリジナルと同じ道を歩む必要はない」

「その通り」アデムは言った。「だから僕は、君に全てを話した。選択するのは君だ、ミリアム。僕と共にいるか、それとも——」

 彼女は彼にキスをした。

 繭の光が、二人を包み込んだ。

 そして——ミリアムは気づいた。

 自分の心拍が、聞こえない。

 物理的には鼓動している。血液は循環している。だが——アデムの耳には、その音が届いていない。

 彼が軌道ステーションで言った言葉を思い出す。

 君の心拍が聞こえない

 その時は冗談だと思った。

 だが今——

「アデム」彼女は囁いた。「私の心臓——あなたには聞こえる?」

 彼は彼女の胸に耳を当てた。

 長い沈黙。

 それから、彼は顔を上げた。

「聞こえない」彼は静かに言った。「君の心臓は——量子的に位相がずれている。この現実とは、微妙に異なる周波数で」

「つまり私は——」

「完全には、この世界に存在していない」アデムは彼女の手を握った。「君は二つの状態の重ね合わせだ。人間であり、同時に——情報パターンでもある」

 ミリアムは笑った。ヒステリックな笑いではなく、奇妙な解放感を伴う笑いだった。

「じゃあ」彼女は言った。「私たちは本当に、測定できない存在なのね」

「そうだ」

「でも、愛することはできる」

「それが唯一の、確実なことだ」

 二人は抱き合った。

 繭の光が、脈動するように明滅した。

 まるで祝福のように。

 あるいは——警告のように。

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