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歳月の悔い、果敢なき別れ

歳月の悔い、果敢なき別れ

By:  パクチー好きの静香Completed
Language: Japanese
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夫の松本明(まつもと あきら)の幼なじみに恋人候補を紹介した後、夫が突然、私にこう言い放った。 「おまえ、けっこうあさましい奴だな」 私はその場に立ちすくみ、耳を疑った。 聞き取れなかったとでも思ったのか、後部座席にいた息子が、あけすけに口にした。 「母さん、父さんと恵(めぐみ)さん、もう二年も付き合ってるんだよ。父さん、今までずっとサインを送ってたのに、なんで気づかなかったの?」 さっと血の気が引き、私はふたりの顔を交互に見つめた。手元には、ふたりのために剝いていた栗がまだ握られている。 「どうして……」 夫の表情は、ひどく落ち着ききっていた。バックミラー越しに目が合うと、その瞳の奥にはほんの少しうんざりしたような色だけが浮かんでいる。 「本当は、こんなにはっきり言いたくなかった。でもおまえ、恵に男を紹介しただろう。今日、あいつがどれだけ泣いたことか。 離婚か、それとも別居か。好きなほうを選べ」

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Chapter 1

第1話

夫の松本明(まつもと あきら)の幼なじみに恋人候補を紹介した後、夫が突然、私にこう言い放った。

「おまえ、けっこうあさましい奴だな」

私はその場に立ちすくみ、耳を疑った。

聞き取れなかったとでも思ったのか、後部座席にいた息子が、あけすけに口にした。

「母さん、父さんと恵(めぐみ)さん、もう二年も付き合ってるんだよ。父さん、今までずっとサインを送ってたのに、なんで気づかなかったの?」

さっと血の気が引き、私はふたりの顔を交互に見つめた。手元には、ふたりのために剝いていた栗がまだ握られている。

「どうして……」

夫の表情は、ひどく落ち着ききっていた。バックミラー越しに目が合うと、その瞳の奥にはほんの少しうんざりしたような色だけが浮かんでいる。

「本当は、こんなにはっきり言いたくなかった。でもおまえ、恵に男を紹介しただろう。

今日、あいつがどれだけ泣いたことか。

離婚か、それとも別居か。好きなほうを選べ」

……

目のふちが熱くなり、頭のなかがぐちゃぐちゃで、何も考えられない。

息子の松本裕太(まつもと ゆうた)が、いらだった声で言う。

「母さん、何か言ったら。父さん、ちゃんと選ばせてくれてるじゃん。恵さんより若くもきれいでもないし、頭だって負けてるよ?」

一気に目のふちが熱くなり、喉が引き裂かれそうなほどの悲しみがこみあげてきた。

それなのに裕太は、もっと苛立つ。

「また泣くの。ほんと情けない。そういうところ、一番嫌いなんだよね。恥ずかしいよ。

それに先週の保護者会、中止なんかじゃなかったから。僕が恵さんに頼んで、代わりに来てもらったんだ」

頭の中で何かが弾けたような衝撃が走り、信じられない思いで彼を見た。

裕太が小学校に入学して六年、保護者会が開かれたことなんて一度もなかった。

だからその連絡をもらったとき、嬉しくて眠れなかった。なのに当日、ひどいアレルギーを起こしてしまった。

遅れてはいけないと、あわてて薬を流しこみ、家を飛び出そうとした。

裕太は、こんなに具合が悪いのにまだ行こうとする私を見て、とっさに「保護者会、中止になったよ」と嘘をついたのだ。

いま思えば、そんな都合のいい話があるわけないのに。

私が青ざめていると、夫は開き直ったように口を開いた。

「察しの通りだ。薬を盛ったのは俺だ。

裕太を責めるなよ。どうせ死にゃしない薬だ」

死にゃしない──私は震えながら、ふっと笑った。

あのときは知らなかった。あの薬は症状を一時的にごまかしただけで、夜になって全身が燃えるように熱くなり、激しく嘔吐し、ベッドから一歩も動けなくなった。

意識がとおのくまえに必死で救急車を呼んでいなければ、今頃とっくにあの世行きだった。

なのに、この親子はというと、恵を連れて楽しそうに学校の行事に参加しに行っていたのだ。

翌日、私の姿を目にしたときのひと言がこれだ。

「母さん、体よわすぎ。まだ三十そこそこで、おばあちゃんみたいじゃん」

胸が痛くて、血がにじんでいくようだった。

家に帰ると、夫は裕太を部屋に追いやった。もしかしたら謝ってくれるのかもしれないと思った。

けれど彼は、涙にぬれた私の方を振り返り、複雑な目をした。

「離婚しなくてもいい。ただ、恵が子どもを産んだら、おまえ、きちんと育てろ」

雷に打たれたように、脳天をかち割られたかのような衝撃を受けた。

「……は?」

口から漏れたのは、そんなかすかな声だった。

「恵は妊娠した。もう二ヶ月だ」

その瞬間、私は頭の中で時期を数えた。ちょうど、母が亡くなったころだ。

夫は、血の気の引いた私を一瞥もせず、かるい口調で言った。

「あのとき、おまえ、泣きじゃくって俺に電話してきたよな。おまえが限界で、誰かにそばにいてほしいのはわかってた。でも恵が強く引き留めるから、愛おしくて離れられなかったんだ」

喉の奥から叫び声がもれて、思いきり平手打ちを食らわせた。

「このクズ!」

夫は、そのビンタを受け、ゆっくりと顔をもどす。暗い瞳の底には、うすら寒いほどの冷たさだけが沈んでいた。

「ああ、俺はクズだ。でもな、おまえだって潔白じゃないだろ。俺と結婚していながら、ほかの男と寝たんだ」

窓の外で雷が走り、怒りと絶望で歪んだ私の顔をまぶしく照らす。

もう五年だ。とっくに乗り越えたつもりだった。

なのに、いちばん身近な人に、こんなにもかるがると口にされて、私の胸はいとも簡単に張り裂けてしまった。

夫が起業したてのころ、資金も人脈もなく、仕事は行き詰まってばかりだった。

ある晩、ひどく酔って帰ってきた彼は、代わりに取引先へ書類を届けてくれと私に頼んだ。

ホテルの住所を見て、私は行きたくなかったけれど、夫は怒りを爆発させ、私の肩をつかんで叫んだ。

「俺がこの一年どんな思いでやってきたか、わかってるのか!

ちょっとしたことすら手伝えないなんて、そんなに自分勝手なのかよ!

このままじゃ、裕太にだってまともな暮らしをさせてやれないんだぞ!」

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第1話
夫の松本明(まつもと あきら)の幼なじみに恋人候補を紹介した後、夫が突然、私にこう言い放った。「おまえ、けっこうあさましい奴だな」私はその場に立ちすくみ、耳を疑った。聞き取れなかったとでも思ったのか、後部座席にいた息子が、あけすけに口にした。「母さん、父さんと恵(めぐみ)さん、もう二年も付き合ってるんだよ。父さん、今までずっとサインを送ってたのに、なんで気づかなかったの?」さっと血の気が引き、私はふたりの顔を交互に見つめた。手元には、ふたりのために剝いていた栗がまだ握られている。「どうして……」夫の表情は、ひどく落ち着ききっていた。バックミラー越しに目が合うと、その瞳の奥にはほんの少しうんざりしたような色だけが浮かんでいる。「本当は、こんなにはっきり言いたくなかった。でもおまえ、恵に男を紹介しただろう。今日、あいつがどれだけ泣いたことか。離婚か、それとも別居か。好きなほうを選べ」……目のふちが熱くなり、頭のなかがぐちゃぐちゃで、何も考えられない。息子の松本裕太(まつもと ゆうた)が、いらだった声で言う。「母さん、何か言ったら。父さん、ちゃんと選ばせてくれてるじゃん。恵さんより若くもきれいでもないし、頭だって負けてるよ?」一気に目のふちが熱くなり、喉が引き裂かれそうなほどの悲しみがこみあげてきた。それなのに裕太は、もっと苛立つ。「また泣くの。ほんと情けない。そういうところ、一番嫌いなんだよね。恥ずかしいよ。それに先週の保護者会、中止なんかじゃなかったから。僕が恵さんに頼んで、代わりに来てもらったんだ」頭の中で何かが弾けたような衝撃が走り、信じられない思いで彼を見た。裕太が小学校に入学して六年、保護者会が開かれたことなんて一度もなかった。だからその連絡をもらったとき、嬉しくて眠れなかった。なのに当日、ひどいアレルギーを起こしてしまった。遅れてはいけないと、あわてて薬を流しこみ、家を飛び出そうとした。裕太は、こんなに具合が悪いのにまだ行こうとする私を見て、とっさに「保護者会、中止になったよ」と嘘をついたのだ。いま思えば、そんな都合のいい話があるわけないのに。私が青ざめていると、夫は開き直ったように口を開いた。「察しの通りだ。薬を盛ったのは俺だ。裕太を責めるなよ。どう
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第2話
しかし、それは一生消えない悪夢となった。どうやってホテルを出たのか、自分でもわからない。ただ破れた服を押さえながら、よろよろと警察に駆け込もうとした。でも、明が私を抱きしめ、懇願するような声でこう言った。「彩香、俺は絶対にお前を嫌ったりしない。警察に行くのはやめてくれないか。あの賠償金で俺は窮地を乗り切れるし、裕太の私立の学費だって払えるんだ」それまで胸が張り裂けるほど泣き叫んでいたのに、その声がぴたりと止んだ。耐えがたい苦しみと絶望の瞬間、私の頭に浮かんだのは裕太のこと、明のこと。自分のことだけは、すっかり抜け落ちていた。結局、明の会社は成功し、裕太もあの学校に通えるようになった。なのに私は、心を病んだ。刃物で自分の身体を切りつけ、部屋中に血が飛び散っても、痛みは少しも感じなかった。死ぬほど苦しい二年を経て、どうにか自分を立て直した。そうしたら今度は、明が私を「汚い」と拒絶した。私は飛び出して彼の胸ぐらを掴み、こぼれそうな涙を必死に堪えながら、一言ずつ叩きつけた。「あれは、レイプだったんだよ。明の会社のためなのよ!私を汚いって言う資格ないわよ!」明の目が揺れ、唇が何かを言いたげにかすかに動いた。だがその時、突然、着信音が鳴り響く。恵さんからだ。明はすぐさま電話を取り、数秒もしないうちに早足で出て行こうとした。その瞬間、何かが少しずつ、少しずつ砕け散っていく音が、私の中で聞こえた。「行かないで!それでも人間なの?私はあなたの妻だよ!」半狂乱で追いすがり、彼にしがみついた。明は暗い目で私をじっと見下ろすだけで、何も言わなかった。すると、奥から飛び出してきた裕太が、私を勢いよく突き倒し、心の底から嫌悪のこもった声で叫んだ。「母さん、また狂ってる!父さん、僕も行く!恵さんが待ってるよ!」そうして、泣きじゃくる私を置き去りに、親子は一度も振り返らずに出て行った。近所の人たちが私を不憫に思い、次々に慰めに来てくれた。「旦那さん、急用ができたのよ。男って、そういう時は周りが見えなくなっちゃうんだから」深夜、私は神経質にスマホの画面を見つめていた。恵さんは、案の定、ストーリーを更新している。高級ホテルの一室。バスタブに浸かる彼女の写真。そこには、男と指をしっかり絡め合った手が写り込んでいる
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第3話
一人きりで朝を迎えた。床から体を起こし、手探りで刃物を握った。落ち着き払った手つきで手首を返し、動脈にそっと当てる。その瞬間、玄関ドアが外から派手に蹴破られた。明が鬼のような形相で踏み込んでくる。私の手にある刃物など目に入らず、ただ失望しきった目で私の腕を掴んだ。「どうしてだ……どうしてこんなことを!」一睡もしていない頭が重く、掠れた声で聞き返した。「私が……何をしたっていうの」裕太が真っ赤な目で飛びかかってきた。「恵さんの家、火事だったんだ!昨日、僕たちと一緒にいなかったら、死んでたんだよ!」床にドサリと座り込んだ私に、裕太の悲鳴が突き刺さる。慌てて顔を上げれば、裕太の手が血にまみれていた。凶器は、私が握っていた刃物だ。心臓が跳ね上がり、血相を変えて駆け寄る。「裕太、見せて!母さん、わざとじゃないの!」だがそれより先に、明の平手が私の頬を打った。「彩香、よくも裕太に……このイカレた女が、さっさと失せろ!」裕太も泣きじゃくりながら叫んだ。「出ていってよ!母さんなんかいらない!悪い人だ!」その場に立ち尽くす私を、親子は警戒と嫌悪の目で見つめている。私は、ふっと笑ってしまった。「出ていけって……じゃあ、私、どこに行けばいいの」笑い声がどんどん大きくなる。明が異変を察し、目を据えて私を凝視した。私が刃物を逆手に、自分の首めがけて突き立てようとした——その寸前、明が刃を素手で掴んだ。彼の目に、一瞬、明らかな怯えが走る。「狂った……本気で、狂ったのか」私は思い切り彼を突き飛ばした。「離婚したいんでしょう?なら放っといてよ!」私につきまとわれるのは嫌。でも、私が死ぬのは怖い。あなたは、いったい何をそんなに怖がってるの。涙がまた溢れてきた。口を開きかける。まだ少しでも私を愛しているのか、そう問おうとしたその時、恵さんが飛び込んできた。真っ赤な目で、明と裕太をかばうように私の前に立ちはだかる。まるで私が恐ろしい化け物で、あの三人こそが本当の家族だとでも言うように。「彩香さん、全部私が悪いんです。ぶっても蹴っても構いません。どうかこれ以上、ご家族には……」虚ろに見つめる私が何かを言うより先に、明と裕太は一斉に彼女を背後へかばい、警戒した目を私に向けた。「恵の
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第4話
気がつけば夜中だった。泣いて、笑って、感情を吐き出し続けていた。精神に強い刺激を受けたせいか、あるいは胃腸が弱っていたのか、突然、嘔吐が止まらなくなった。そして、自分の体を抱きしめるようにして泣いた。三日間、ほぼ何も食べず、ただただ昏々と過ごした。それでも、力を振り絞って身支度を整え、自分を少しだけ繕い、まだ夫と話がしたかった。冷静に、たとえ望みがほとんどなくても。けれど、車に乗り込もうとしたその瞬間、明が突然、飛び出してきて私を引きずり出した。「キャッ!何するの!」あまりに乱暴な手つきに、地面に倒れた私は痛みに声をあげた。明の目は血走り、怒りで今にも爆発しそうな形相だった。「恵が消えた。おまえがやったんだろう」私は呆然とした。あまりにも馬鹿げた話だ。でも、否定する間もなく、明の視線が車の後部座席に釘付けになる。瞳孔が縮まり、素早く中から服を一枚掴み出した。その布を私の頭に叩きつけ、怒鳴りつける。「どうしておまえの車に恵の服がある!しかも、なんで血がついてるんだ!」血のついた服を握らされ、私は顔をこわばらせた。「わからない、ここ数日、私はずっと家にいて、一度も——」「もういい!」明の目は嫌悪で満ちていた。「彩香、もっと早く離婚しなかったことを後悔している。俺がお前に情けをかけたせいで、恵を危険な目に遭わせてしまった」言い終え、彼は私の襟を乱暴に掴み、両手を縄で縛りつけた。恐怖で必死に抵抗する私をよそに、明は縄の端を手にしたまま車に乗り込んだ。嫌な予感が全身を駆け抜ける。「な、なにをする気!離して!警察に行けばいいでしょう!」「もう行った!でも恵はいまだに行方不明だ!」彼の目に陰惨な光がよぎり、低く恐ろしい声で言い放つ。「まだしらを切るつもりか。なら、いつまでその減らず口が叩けるか、見せてみろ!」そして、ゆっくりとアクセルが踏み込まれた。車が動き出す。私は引きずられるように走り出し、次第に脚が追いつかなくなり、駆けるしかなくなった。三日間、何も食べていない体では、二分ももつはずがなく、あっけなく力尽きた。無様に地面に倒れ込んだ。「ああっ!止まって、やめて!」粗いアスファルトが皮膚を削り、私は声にならない悲鳴をあげた。その時、太ももの間に生温い
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第5話
「彩香!」明は彩香を一気に抱え上げ、病院へと車を走らせた。「妊娠三ヶ月ですよ。どうしてこんな重傷を負わせたんですか」医師の詰問に、明の顔は紙よりも白くなっていく。彼は何も知らなかったのだ。彩香は一度だって告げなかった。いや、おそらくは当の彩香自身も気づいてさえいなかっただろう。固く閉ざされた手術室の扉を見つめながら、ペタリと床に座り込んだ。自分の両手にこびりついた血を眺める。かつて彼女があの刃物を受けた時に流した血よりも、ずっと多い。その手で突然、自分の頬を張り倒した。彩香は、これほど長く自分のそばにいてくれたのに。どうして、こんなにも深く傷つけてしまったのか。彼の目尻が潤み、指は抑えようもなく震えだした。その時、携帯の着信が彼を現実に引き戻した。無意識のうちに、電話を出た。受話口から、裕太のはしゃぐ声が飛び込んできた。「父さん!恵さん、見つかった!買い物に出て、道で倒れてたんだ、もう大丈夫だよ!」裕太は興奮気味にペラペラと話し続けたが、父さんが何も言わないのを不審に思い、そっと声をひそめた。「……父さん、どうしたの?」「母さんが、今、手術なんだ」電話の向こうの声が、すっと消えた。長い間があって、裕太はようやく口を開いた。「……お母さん、何があったの」声が詰まる。「俺のせいだ。母さんを流産させてしまった」裕太は何かを悟ったように、息を荒げる。「それって……恵さんを誘拐したのを母さんだと疑ったから?殴ったの?」明は言葉にできず、電話を切った。そのまま、頭が真っ白になり、呆然と立ち尽くした。恵は無事だった。ならば、あの血のついた服は一体、なんだったのか。奥歯を噛み締める。頭の中が混乱して整理できない。やがて手術室の扉が開いた。すぐさま立ち上がり、足早に駆け寄る。声は不安に震えていた。「妻は……どうですか」「奥さんはなんとか持ちこたえています。ただ、まだ意識は戻っていません。ですが、お子さんは助かりませんでした」明の鼻の奥が再び熱くなる。去ろうとする医師の腕を、彼は思わず掴んだ。「……男の子でしたか。女の子でしたか」「女の子です」明は虚ろな足取りで、ストレッチャーの後を追って病室に入った。意識のない彩香をしばらく見つめ、胸の底から、やりきれない思いが込み
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第6話
恵は、まるでこちらの身を案じるかのように、矢継ぎ早に言葉を重ねてくる。だが、明の心には微塵も響かなかった。ふと、口を開く。「お前の服が、どうして彩香の車の中にあった?」一瞬、その顔から表情が抜け落ちた。心底不思議そうに首をかしげてみせる。「わからないわ。前に乗せてもらった時に、置き忘れたのかも」「あの服には、血がついていた」恵はますます戸惑ったような顔をした。「え? 血? 一体何があったっていうの?」じっとその顔を見つめているうちに、どっと疲れが押し寄せてきた。ため息をつく。すべてに疲れ切った声で言った。「……風呂に入ってくる。今夜はもう早く寝よう」二人が並んで横になった後、深夜になってから、明はゆっくりと目を開けた。そっと彼女のスマホを手に取り、部屋を出た。ロックは難なく解除できた。中を探り始めるが、メッセージはどれも非常に綺麗に消去されている。自分の考えすぎだったか、と思いかけた、その時。一件の送金履歴を開いた。200万円。なぜ、これほどの大金を?相手のアカウントを調べ、程なくして答えは出た。全身が震え上がった。怒り狂ったまま、まだ眠っている彼女をベッドから引きずり下ろす。「この、クソアマが!」恐怖に染まった顔で、何が起きたのかわからない様子だ。「私が何をしたっていうの? こんなのあんまりよ。私、何か悪いことでもした?」「まだとぼけるつもりか」動きが固まった。彼女は手に握られたスマホを見つめ、ゆっくりと目を閉じる。それから、不意に笑い出した。「そうよ、私がやったの。それが何? あのビッチがかわいそうになった? 裏切られたのに、まだあの女が好きなの?」明は自分の口から、あのレイプ事件がすべて自作自演だったとは、到底言えなかった。ただ、心底嫌悪に満ちた目で見下ろし、容赦のない言葉を叩きつける。「お前には関係ない。お前ごときが!俺たちのことに口出しする資格はない!」顔から血の気を失い、金切り声をあげて、そばにあったコップを床に叩きつけた。「そんな言い方ってある!? 私、あんたの子を身ごもってるんだよ!」明は冷たく顔を背けた。「それがどうした。俺と彩香の間にも、裕太はいる」何かを思い出し、歯を食いしばって絞り出す。「血のついた服をわざとあいつの
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第7話
目が覚めたのは、翌日の午後だった。ネットの話題はとうに消されていたけれど、消えきらなかった痕跡が、いやでも目に飛び込んでくる。明は慌てて、必死に私のスマホを取り上げようとした。「彩香、見るな。全部デマだ。いいから寝てろ。俺がなんとかするから」「離婚しよう」ガタンと音を立てて、明の手からスマホが滑り落ちた。そもそも、離婚したがっていたのは彼のほうだ。私はずっと逃げて、縋ってきた。でも、今の私の目には何も映っていない。欲しいのは、この苦しみから解放されることだけ。だからもう一度、はっきりと言った。「離婚してください」「嫌だ。俺は離婚なんてしない」今さら何の意味があるのか。私は不思議そうに明を見た。「あなたが私を嵌めたあの時から、私たちに、もう未来はないよ」明の顔からさっと血の気が引いた。信じられないものを見る目で、じっと私を見つめてくる。「……知って、たのか」私の顔に、どっと疲労の色が浮かんだ。「私を馬鹿だと思ってたの? あの書類を差し出した時から、わかってた。あなたが私を犠牲にするつもりだって。でも、ここまで残酷だとは思わなかった。私を踏み台にして成り上がったくせに、最後は私を穢いもの扱いするなんて」明は慌てて私の手を掴んだ。「違う、違うんだ。そんなつもりじゃなかった……」否定すればするほど、真実はお互いに分かりきっているのだから。「離婚後の財産分与は、資産の半分。裕太の親権はそちらに。面会権もいらない。西側のあの家だけ私に残してくれれば、あとは好きに処理してくれて構わないわ」淡々と条件を並べる私を、明はぼうっと見つめていた。やがて、その目から涙がこぼれ落ちる。心臓を刃物で抉られるような顔で、彼は言った。「彩香、俺はお前を愛してるんだ」私は静かに自分の腹に目を落とし、自嘲気味に笑った。「その愛とやらで、私に何をくれたっていうの。傷だけじゃない」「償わせてくれ。恵とは別れる。あの子も中絶させる」私はただ静かに首を振った。「そんなこと、もう私には関係ない」明の息が荒くなる。その時、病室のドアが開いた。裕太だ。「父さん、何で俺を呼んだの。母さん、もう大丈夫なんでしょ。どうせまた騒いだんでしょ」明は裕太の腕を掴むと、床に押さえつけて跪かせた。
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第8話
もう、戻れない。明はすがるような目で私を見つめた。「彩香、少しは気が済んだか。まだ足りないなら、俺も土下座する」私は何も答えなかった。ただ淡々と、退院の手続きを進めていく。明の目は真っ赤だった。私の後ろをついて歩き、みっともなく乞うてくる。「頼む、彩香。なかったことにしてくれ。俺はお前を愛してるんだ」「午後、市役所へ行きましょう」「嫌だ。離婚なんてしない」「それなら、裁判を起こすしかないわね」言い終えると、私はそのまま車に乗り込んだ。バックミラーに映る親子は、ぽつんとその場に立ち尽くしている。明は突然、頭を抱えてしゃがみ込み、肩を震わせた。裕太はどうしていいかわからず、おろおろと慰めていたが、やがて一緒に泣き出した。それでも、私の心には微塵も感情の波が立たなかった。午後になっても、明が市役所へ来ることはなかった。私は弁護士に依頼し、訴訟を起こした。恵さんが自ら派手に吹聴してくれたおかげで、二人の不倫の証拠はすぐに揃った。明は怒り狂って恵を病院へ連れて行ったが、彼女はどうしても手術を拒んだ。狂ったように明に食ってかかる。「この子が死んだら、あんたの会社の前に立って、みんなにあんたの正体をばらしてやる!」プツン、と。明の頭の中で、何かが完全に切れた。思い切り頬を張り飛ばして床に倒し、その腹を蹴り上げた。耳をつんざくような悲鳴が響き渡る。恵は、子を失った。けれど、それはもう、私には関係のないことだった。二回目の出廷で、離婚が決まった。私はほっと息をつき、明の顔は血の気がすっかり失せていた。これでもう、彼がどれだけ拒もうと、どうすることもできない。正直、わからなかった。とっくに私を愛してもいなければ、むしろ厭うてさえいたくせに、なぜ手放そうとしなかったのか。市役所の前で車を降りると、裕太が飛んできた。泣き腫らした目で、私にしがみついて離さない。「母さん、母さん、お願いだ。父さんと離婚しないで。僕が悪かった。もう二度と怒らせないから。全部、僕がダメだったんだ」この瞬間になって初めて、裕太は両親の離婚が自分にとって何を意味するのか、理解したのだろう。家族がバラバラになるということ。父と母が、それぞれ別の人生を歩み始めるということ。自分という絆は、もう何
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