LOGIN御影玲司(みかげ れいじ)との子どもを出産したあと、私、篠宮澪(しのみや みお)は重い産後うつを患った。 何度も刃物を手首に当てる私を、玲司は必死に抱きしめた。 「やめてくれ。俺と律のことを考えてくれ。俺たちがそばにいるから……」 姉と親友の朝比奈莉央(あさひな りお)も刃物を手に取り、自分の手首を傷つけた。 「澪が死ぬなら、私たちも一緒に死ぬ。3人の命でも足りない?」 その日から、私は誰も傷つけたくない一心で、治療に向き合うようになった。 症状がようやく落ち着き始めたと思っていたある日、姉に連れられて披露宴へ向かった。 ところが、壇上に立っていた新郎新婦は、玲司と莉央だった。 私は何も考えられなくなった。 姉は羨ましそうに2人を見つめた。 「本当なら、2人は5年前にこの披露宴を開くはずだったの」 「澪のうつ病のせいで、2人はずっと罪悪感を抱えてきた」 そして、私を見た。 「分かる?」 「本当は、澪がみんなを苦しめているの」 「もう、2人を自由にしてあげて」
View More森ヶ丘こころの医療センターへ移ってから、私の心は少しずつ落ち着きを取り戻していった。ほかの入院患者と手芸をしたり、レクリエーションの時間に歌ったり、音楽に合わせてゆっくり体を動かしたりした。死ぬことしか考えられなかった私にも、少しずつ別の道が見えるようになった。環境を変えるだけで、呼吸が楽になることもある。玲司が再び私の前に現れた時、大小さまざまな紙袋をいくつも提げていた。「澪がここで療養することには反対しない。でも、面会まで拒まないでくれ。もう少しそばにいさせてほしい。それに、家にいると毎日、プールのほうから律の泣き声が聞こえる気がするんだ。本当に苦しい……」そこで初めて、玲司の目の下に濃い隈ができていることに気づいた。上着のポケットからは、精神科で処方された薬の袋がのぞいていた。けれど、もう玲司をかわいそうだとは思えなかった。「自業自得よ」玲司はしばらく黙り込んだあと、テーブルの上に置かれていた折り鶴を手に取った。「昔、俺も澪と一緒に折ったよな。あの時だけは、澪も笑ってくれた」私は玲司の手から折り鶴を奪い、元の場所へ戻した。玲司は伸ばしていた手を引っ込めた。重い沈黙が流れた。その時、私の好物を入れた紙袋を手に、千夏が近づいてきた。「澪、会いに来たの」千夏はケーキを切り分けながら、淡々と話し始めた。「莉央は殺人罪で起訴されたわ。当然の報いよ。私は莉央を一番の親友だと思っていた。莉央のために、澪を傷つけた……」千夏は切り分けたケーキを私に差し出した。私は受け取らなかった。「お姉ちゃんも分かってるでしょう。もう元には戻れないの。玲司も、莉央も、お姉ちゃんも。もう誰もいらない」千夏の手から、ケーキが床に落ちた。「澪、私は実の姉なのよ。どうしてそんなことが言えるの?」思えば、私たち姉妹の間には、とっくに距離ができていた。千夏と莉央は、よく2人で楽しそうに過ごしていた。私が近づくと、急に会話が途切れ、気まずそうな空気が流れた。私は最初から、2人の輪の中には入れてもらえていなかったのかもしれない。玲司が千夏を乱暴に押しのけた。「澪をこれ以上追い詰めるな。陰であれだけ澪を傷つけておいて、よく姉面ができるな。お前は本当に最低だ。今すぐ出ていけ。二
私は病室のベッドに横たわったまま、少しずつ周囲の気配を感じ取れるようになっていた。玲司はベッドのそばに座り、私の手を強く握っていた。「澪、お願いだ。目を覚ましてくれ。律はもういない。俺には、もう澪まで失うことなんてできない……」泣き続けた玲司の声は枯れ、私の手を握る両手も震えていた。律のことを聞いた瞬間、目尻から涙がこぼれた。目の前で息をしなくなり、もがく力さえ失っていく律を、私はただ見ていることしかできなかった。そして父親である玲司も、律を死なせた1人だった。玲司は涙を拭いながら、途切れ途切れに話し続けた。「莉央があんな人間だとは思わなかった。5年前、確かに莉央に惹かれたことはあった。でも、それはもう過去のことだ。今になって、ようやく分かった。俺が本当に愛しているのは澪だ。澪を重荷だと思ったことなんて、一度もない……」今さら、そんな言葉を聞く気にはなれなかった。私は再び、深い眠りへ沈んでいった。次に意識が浮かび上がった時、ベッドのそばには千夏がいた。千夏は私の手を握り、泣きながら訴えた。「澪、私を恨まないで。私は取り返しのつかないことをした。まさか、澪をこんな目に遭わせるなんて……」けれど、私は千夏を恨んではいなかった。むしろ、真実を暴いてくれたことに感謝していた。玲司と莉央の関係も、自分が信じていた愛がどれほど独りよがりなものだったかも、千夏のおかげで知ることができた。少なくとも、千夏が告げたことに嘘はなかった。その時、病院の手続きを済ませて戻ってきた玲司が、千夏を見るなり声を荒らげた。「まだ何をしに来た?出ていけ!澪にお前みたいな姉はいない!」千夏は涙で顔を濡らし、力なく首を振った。「玲司にも澪にも、本当に取り返しのつかないことをした。でも、澪が目を覚ますまで、ここにいさせて」玲司は千夏を乱暴に突き飛ばした。「お前が澪に真実を突きつけなければ、澪は死のうとなんてしなかった!こんなことにもならなかった!お前も莉央と同じだ。澪をこんな目に遭わせた張本人だ!」私は心の中で苦く笑った。玲司だって、同じなのに。けれど今さら、誰が悪いのかを争ったところで、何の意味もなかった。3か月後、私はようやくはっきりと目を覚ました。真っ先に駆け寄
「何だって!?」玲司の目が大きく見開かれた。転がるように家へ戻ると、裏庭のプールサイドでは、救急隊員が律の蘇生を続けていた。律はぴくりとも動かなかった。三浦さんは息も絶え絶えに泣きながら話した。「莉央さんが律くんを連れていってから、姿を見ていないんです。さっき外へ遊びに連れていこうと思って、家中を捜して……最後に、ここで見つけて……」その言葉を聞いた玲司は、充血した目で莉央を見た。「お前がやったのか?本当に、お前なのか?」澪が取り乱したように裏庭へ向かおうとし、何度も律を捜していた姿が脳裏によみがえった。澪は、おかしくなってなどいなかった。「違うわ」莉央は即座に否定した。「律が勝手にプールへ入ったのかもしれない。私は本当に何も知らないの」三浦さんが律に付き添って救急車に乗り込むと、玲司は室内へ駆け込み、防犯カメラの録画を確認した。莉央があとを追おうとすると、千夏がその腕をつかんだ。「莉央……もう私も、あなたのことを信じられない」録画を再生した瞬間、玲司は息をのんだ。画面の中で、莉央が律の頭を力ずくで水中へ押さえつけていた。律が必死に助けを求めても、その手を緩めようとはしない。憎しみに満ちたその顔は、玲司の知っている莉央とはまるで別人だった。千夏も言葉を失った。「どうして、こんなことができるの?私はあなたの味方をして、澪に2人の前から身を引かせようとまでしたのに!」その言葉に、玲司は耳を疑った。「どういう意味だ?」自分が口を滑らせたと気づいた千夏は、それ以上隠そうとはしなかった。「玲司と莉央があまりにも苦しそうだったから、澪を2人の披露宴に連れていったの。2人のことを諦めさせたかっただけよ。全部、あなたたちのためを思ってしたことなの」乾いた音が響いた。玲司は千夏の頬を平手打ちした。「澪をあそこまで追い詰めたのは、お前だったのか!澪は産後うつで苦しんでいたんだぞ。あんなものを見せられて、耐えられるわけがないだろ!」玲司は目の前の2人を押しのけた。千夏は震える手で警察に通報した。病院へ搬送された律は、懸命な処置もむなしく、死亡が確認された。玲司はそのまま、澪が治療を受けている救命救急センターへ向かった。処置室の前で膝を
澪は、顔から血の気を失ったままベッドに横たわっていた。口元に残った血は、すでに乾いている。「澪!」玲司はベッドへ駆け寄った。澪に触れようと伸ばした手が、ひどく震えていた。「どうして……こんなことに……」状況をのみ込む間もなく、玲司はスマートフォンを取り出し、119番に電話しようとした。そこへ千夏が入ってきた。「いつまで、あの子の芝居に騙されるつもり?あんな正気じゃない女に振り回されて、莉央のことを考えたことはあるの?本当にぼろぼろにされたのは、莉央のほうなのよ」電話をかけようとしていた玲司の手が止まった。ベッドに横たわる澪へ目を向ける。「澪は……芝居をしてるのか?」「ほかに何があるの?」千夏は掛け布団を勢いよくはぎ取り、澪の体を強く揺さぶった。「起きなさい。いい加減、芝居はやめて。玲司と莉央をあれだけ苦しめて、まだ足りないの?少しは周りのことを考えられないの?」次の瞬間、玲司が千夏を乱暴に突き飛ばした。「澪にそんなことを言うな!」そして千夏に顔を近づけ、低い声で警告した。「俺と莉央のことを澪に話したら、ただじゃおかないからな」そう言うと、玲司は澪に掛け布団をかけ直した。「ほら、こうして戻ってきただろ。もうこんな真似はやめろ。莉央は大事には至らなかった。俺ももう、お前に怒鳴ったりしない。それでいいだろ?」しかし、澪は静かに横たわったまま、何の反応も見せなかった。「澪?」玲司はもう一度、澪の肩を強く揺さぶった。それでも、澪はぴくりとも動かない。玲司の息が止まった。恐る恐る鼻先に手をかざす。「そんな……どうして……」千夏もその場で動けなくなった。その時、掛け布団の端に引っかかっていた睡眠薬の空シートが床に落ち、2人の足元へ滑っていった。玲司の顔色が変わった。震える手で、すぐに119番へ電話をかけた。澪は救急車で搬送されると、そのまま救命救急センターの処置室へ運び込まれた。玲司は医師にすがりついた。「先生、お願いします。澪を助けてください。どうか……お願いします」処置室の扉が閉まると、玲司はその場に崩れ落ちた。「どうしてこんなことを……本当に、俺を置いていくつもりなのか……」千夏はうつむき、かすれた声を漏らした。