LOGINそして、その日はあっという間にやってきた。「あらぁ、由利ちゃん!久しぶりね、会えて嬉しいわ!」薄井家を訪れた由利を快く出迎えたのは、涼介と碧斗の産みの親である薄井社長夫人だった。ついこの間のパーティーで会ったばかりだというのに、少々大げさな反応である。「夫人……お久しぶりです」「あらあら、どうしたの?お義母さんとは呼んでくれないのかしら?」「お義母さん……お久しぶりです」お義母さん――というと、薄井夫人は嬉しそうに由利に抱き着いた。この方は昔から少々他人に対する距離感がバグっているところがある。由利は息子の妻、義理の娘なので他人ではないかもしれないが、義母が息子の嫁にいきなり抱き着くのはかなり稀だろう。まぁ、由利は彼女のそんなところが好きではあったが。夫人は由利を家に通しながら口を開いた。「涼介が由利ちゃんと会うって聞いてね……ぜひウチに来るよう誘って!ってお願いしたのよ」「あら、お義母さんだったんですね」薄井グループは由利の生家に引けを取らないほどの大企業だ。そのため、当然社長夫妻が住んでいる邸も大きい。由利は今日、この場所に一泊することになっている。碧斗の実家に泊まるのは初めてではないが、一人で……というのは初である。いつも碧斗か紫苑と一緒に泊まりに来ていたから、一人というのは何だか慣れない。邸宅内を歩きながら、夫人が由利に声をかけた。「ところで、紫苑ちゃんは相変わらずかしら?」「え?えぇ……家で療養しています」由利の答えに、夫人はわかりやすく眉をひそめた。そして周囲に聞こえないような小さな声で、ボソッと呟く。「そう……あのご両親にも困ったものね――結婚する経緯がかなり複雑だったのは有名だけれど、娘を偏愛するだなんて……」「………夫人?何か言いました?」理解できなかった由利が聞き返すと、夫人はニコッと笑った。「いいえ、何でもないわ。それより、部屋に案内するわね。由利ちゃんのために特別な部屋を用意したのよ」「まぁ、本当ですか?」夫人のあとをついて行き、由利は邸の二階にある部屋に通された。広い一室に、アンティーク調の家具や天蓋付きの大きなベッドが設置されている。夏目家の由利の質素な部屋とは天と地の差だ。「とっても大きな部屋……!こんな部屋を、いいんですか?」「もちろんよ、実はこの部屋……元々由利ちゃんのために用
由利と涼介は二人並んで近くにあるレストランへ入った。駅の近くにある高級レストランは、涼介が由利のためにと選んだ場所だった。由利は普段、外食なんてほとんどしない。身体が弱くてあまり外出できない紫苑に合わせるため、大体は家で食事を済ませている。もういい年なのだから一人で行ってもいいだろうと思われるかもしれないが、それを許さないのが我が夏目家なのだ。紫苑を置いて一人だけ高価な食事を楽しむなど、母親に知られたら何て言われるか。想像もしたくない。二人は店員に案内された席に、向かい合って座った。「ハワイ旅行は楽しかったか?」「ええ、もちろん。予期せぬ事態は発生したけれど……とても楽しいゴールデンウィークになったわ」由利は笑顔で答えた。久しぶりだったからか、涼介との時間がとても楽しく感じられる。「楽しめたのならよかった。紫苑がついて来ると聞いて心配していたんだが……」「ええ、そうね。紫苑のことは私も心配だったけれど、何とかなったわ」涼介も昔から、由利の妹である紫苑のことはよく知っている。彼女がお転婆で、すぐどこかへ行ってしまう性格だということも。そのせいで、余計な心配をかけてしまっていたようだ。「空港で迷子になっちゃったけど……すぐに見つけられたからよかったわ」「空港で迷子に?紫苑は相変わらずだな……昔と何も変わっていない」涼介は呆れたようにため息を吐いた。彼は由利に対しては必要以上に気にかけてはくれるものの、紫苑のことはあまり良く思っていないようだった。「まぁ……そういう天真爛漫なところがみんなに好かれるんじゃないかしら」「しかし、限度というものがあるだろう」涼介の言っていることはもっともだ。(旅行で色んなことがありすぎたせいか……未だに理解に追い付いていないところがあるわ)紫苑が前世の記憶を持っていたこと、碧斗の気持ちの変化。新婚旅行を通じて、由利の世界は大きく変化した。今世はただ穏やかに過ごすつもりだったのに、こうも予想だにしない事態ばかり起きるとそうもいかなかった。前世の記憶を持つ紫苑がいつ何を仕掛けてくるかわからない。警戒を怠ってはならなかった。(父さんと母さんの抱える秘密も……過ごしているうちに明らかになるんだろうか)由利は死後のループを何よりも恐れていた。しかし、今世では明らかに周辺の状況が変わっている。そのおかげで二度
翌日、由利はある人物に会うため最寄駅に訪れていた。今日はちょうど仕事が休みで、碧斗や両親も家にはいなかった。その隙を狙って、彼女は旅行後最も会いたかったある人と約束をしていた。(似合わないなぁ……でもたまにくらい、こういう服を着てみてもいいよね)由利は近くにあるお店のショーケースに反射している自分を見つめた。いつものカジュアルな服装とは違って、今日は紫苑のような花柄のワンピースを着用している。靴は高めのヒールを履き、少しだけ伸びて肩についた髪の毛をハーフアップにしていた。由利は華やかな紫苑と違って、地味な見た目をしている。そのため、このような格好があまり似合わないのは自分でもよくわかっている。知っていながらも、チャレンジしたのだ。(どうせなら、いつもと違う私を見せたかったし……前世ではできなかった格好もしてみたかったのよね……)それからしばらくすると、駅の前で待っていた由利の元に”彼”がやって来た。「――由利!」「……涼介兄さん!」その姿を見た途端、由利はヒールを鳴らしながら彼に駆け寄った。高いヒールに慣れていないせいか、途中の段差でつまずきそうになってしまった。「キャアッ!」「――おっと」前に倒れそうになった由利を、涼介が受け止めた。「……兄さん」「大丈夫か?由利、そういうところは昔から変わっていないんだな」顔を上げると、微笑んだ涼介が由利を見下ろしていた。その穏やかな表情が、昔よく一緒に遊んだ涼介のものと重なった。「に、兄さん……」涼介は由利を抱きしめたまま、しばらくその華奢な身体を離さなかった。由利は顔を赤くしながらも、何とか彼の身体を押し返した。本当はもう少しそうしていてもよかったけど、人の目がある以上いつまでも抱き合っているわけにはいかなかった。由利は一応既婚者であるため、こんなところが見られてはいけない。今回の外出でも、義理の兄妹という関係を超えるようなことがあってはならない。由利は高鳴る胸を何とか抑えながら、カバンからとあるものを取り出した。「今日は、兄さんにプレゼントがあるのよ」「プレゼント?」由利はハワイ旅行で購入したお土産のTシャツを、涼介に手渡した。「これ……俺に?」「ええ、兄さんのことを思って買ったの」その言葉に、涼介は嬉しそうに笑みを浮かべた。それほど高くない一枚のTシャツに、薄井家
紫苑の何気ない質問に、両親は固まった。由利は何て余計なことを――と思ったが、両親や碧斗の前で彼女を責めることはできなかった。いつものように由利が悪者扱いされて終わるだけだからだ。母親は相変わらず興味のなさそうな瞳で紫苑を見つめ、父親はどこか焦りを感じさせる様子で口を開いた。「……あぁ、由利の写真はきっと他のアルバムにあるんだ。探せば出てくるはずさ」「なぁんだ、そうだったのね」その言葉に、紫苑は安心したように微笑んだ。本当のことか、それともその場しのぎの嘘かはわからない。しかし、それが本当だったところで由利の心が明るくことはないし、両親への期待が再び湧き上がることもないだろう。「姉さんの子供の頃の写真がなかったらどうしようって思ってたの……あるんならよかったわ」「……?」なぜ紫苑がそこまで嬉しそうなのかはわからない。彼女のことだからどうせただの気まぐれだろうと思い、由利は特に気に留めることもなかった。「……」「……父さん?」ふと視線を移すと、父親がこちらを見つめていることに気が付いた。幼い頃からいつも後ろ姿ばかり見続けてきた父。そんな彼がなぜか、今は罪悪感に苛まれたような目を由利に向けている。何だか居心地が悪くなった彼女は、父から視線を逸らした。今さら、そんなどうしようもない感情を抱かれたところで困るだけだ。由利は背中に刺すような父の視線を感じながらも、振り返ることなくリビングを出た。***自室へ戻ろうとしていた途中、碧斗が声をかけてきた。「……由利、待ってくれ」「……碧斗?どうかしたの?」無視してさっさと部屋に戻りたかったが、話しかけてきた以上そのまま立ち去ることはできない。由利は仕方なく立ち止まり、彼が話すのを待った。「……新婚旅行の件、悪かったよ」わざわざ呼び止めてまで言うことがそれだなんて、一体どういうつもりなのか。由利には理解できなかった。「どういう意味よ、それ」「……君の気持ちを尊重するべきだった」碧斗は由利との新婚旅行で彼女の意思を無視し、紫苑の同行を許可したのだ。その結果、碧斗と由利はいらぬ苦労をすることになってしまったが、大事には至らなかったし楽しめたので結果オーライだ。「もう終わったことでしょう、今になってそんなふうに言う必要はないのよ」「……それでも、君に一言言っておきたかったんだ」碧斗は
父は部屋から持ってきた一冊の分厚いアルバムを机の上に置くと、中を開いた。アルバムの中に並べられたいくつもの写真を見た紫苑が、嬉しそうに声を上げた。「わぁ、若い頃の父さんと母さんだわ!」「……もう、あなたったら。恥ずかしいわ」身を乗り出して写真を見る紫苑に、母は照れくさそうに笑った。アルバム内の写真には、仲のよさそうな若い夫婦が写っている。間違いない、昔の父と母だった。若い頃の母は、写真で見てもとても美しい女性だった。今の紫苑にそっくりで、可憐で華やかな見た目の美人だ。父と少し年の差はあるものの、並んでみるととてもお似合いな二人だった。「懐かしいな。これは新婚旅行の写真か。結婚式の写真もあるぞ」「まぁ、本当にとっても懐かしいわね」父はしみじみとした様子で写真を見つめながら、ページをめくっていく。結婚する前の二人の写真から、結婚式、新婚旅行と時が流れて行く。そして、新婚旅行が終わった次は――「……あら、まぁ」由利は思わず、声を漏らした。ヨーロッパ新婚旅行の次のページは、由利の赤ちゃんの頃の写真だった。生まれたばかりの彼女の写真が並べられたページに、由利は何だか切ない気持ちになってしまった。(……興味なんてないと思っていたのに、ちゃんと写真に残していたのね)真っ白な布に包まれた赤子は、間違いなく由利だった。母親の腕に抱かれて眠っている写真まである。愛されたことなんて一度もないと思っていたが、生まれたばかりの頃はそうでもなかったのだろうか。「あら、姉さんだわ!姉さんったら、とっても可愛かったのね!」「そうだな」由利の写真を見た紫苑が愛しそうに笑い、碧斗も同意するように頷いた。由利は気になって、両親の反応をチラリと見た。「……」そのとき、彼女の視界に映ったのは、興味のなさそうな母親の顔だった。横にいる父もまた、表情を変えずに由利の写真を見下ろしている。(……あぁ、やっぱり両親は私に興味なんてないんだわ)彼らの反応で、由利はそのことを再認識した。最初からわかっていたことだったはずなのに、僅かな希望を抱いてしまったから余計に辛くなった。父親が開いた次のページには、紫苑の写真が敷き詰められていた。由利は赤子のときだけだったが、紫苑は生まれてから数年経った後の姿まで。小学校、中学校、高校と彼女の写真は続く。やけに分厚いアルバムだと思っ
その日の夜、仕事から帰った由利は家族揃って夕食を摂っていた。横に碧斗が座り、正面には両親、その間に紫苑がいる。テーブルの上には母と由利が協力して作った豪華な食事が並べられている。母は専業主婦であるため、家事の全般を担当している。そんな母に、由利は仕事から帰ったあと何かとこき使われるため、休む暇がない。紫苑は仕事はしていないが、身体が弱いため例外なのだ。夏目家では、いつものように穏やかな家族の時間が流れていた。たった一人、由利を除いて。「父さん、母さん。私が買ってきたお土産どうだった?」「とっても美味しかったわ、紫苑。私たちのためにわざわざありがとう」向かいに座る母親が、笑顔で返事をした。由利はそんな母を、何も言わずにじっと見つめていた。今日会社で聞いたあの噂は本当なのだろうか。気になって仕方がないが、本人に真偽を聞くことなんて当然できない。さりげなく遠回しに聞いてみるのが一番いいのだろうが、あいにくピッタリな言葉が出てこなかった。食事中の父が、一度フォークを持った手を止めてしみじみと呟いた。「ああ、新婚旅行なんて懐かしいな……」「そうねぇ、あなた。私たちも若い頃海外に行ったわよね」微笑んだ母が、父の腕に軽く手を触れた。その姿は誰から見ても仲睦まじい夫婦そのもので、とても不倫をしていたような人には見えなかった。そんな二人の様子を見ていると、やっぱり気のせいなんだろうかと思ってしまう。しかし、火のないところに煙は立たない。由利は二人の夫婦仲を探ろうと、口を開いた。「父さんと母さんは……新婚旅行はどこへ行ったの?」二人の新婚旅行なんて別に興味はなかったが、話の流れ的にこの問いかけが最も自然だった。いきなり核心を突くような発言をすると、絶対に勘付かれる。父も母も馬鹿ではない。あまりにも不自然な言動をしすぎると、怪しまれるだろう。「……珍しいな、お前が私たちのことを聞くなんて」「ちょ、ちょっと気になっちゃって……私も新婚旅行に行ったばかりだから」母は無反応、父は意外そうに目を見開いた。今まで両親のことに関心がなかった由利が突然そのようなことを聞いたのだから、驚くのも当然かもしれない。「新婚旅行は……二人でヨーロッパに行ったな。有意義な時間だったよ」「ええ、そうですね、あなた」父から視線を受けた母が頷いた。「そうだ、部屋に写真が残
結婚してから三年が過ぎたあたりのことだった。前世で由利が妊娠したのとちょうど同じ時期。今世では由利の代わりに紫苑が彼の子を身籠った。前世と違って驚きはしなかったし、怒りすら湧いてこなかった。彼女自身も、そうなることを望んでいたからだ。このときには既に、碧斗と紫苑は不倫関係にあった。そのことに由利も薄々勘付いていた。思えば、最初から気付かなかった自分がおかしかったのだ。前世から、碧斗は看病を理由によく紫苑の部屋を訪れていた。その頻度は週に五回以上、妻である由利よりも紫苑と過ごす時間のほうが多いほどだった。由利と夜を共にするのは週に一度であるのに対し、義妹である紫苑とは異常ともいえるほど夜
実に二度目の回帰、三度目の生だった。前世と同じ、結婚一年目のあの日に戻ってきたようだった。彼女はそのことに困惑したが、二度目だったせいか、今回は落ち着いて行動することができた。紫苑が亡くなり、碧斗が死んだことにより彼女は回帰した。それは前世と同じだった。ここから推測できることは一つだけ。それは、碧斗の死が彼女の回帰に繋がっているということだ。――碧斗が亡くなったことをきっかけに、私は巻き戻ってきた。なら、碧斗が死ななければ、二度と回帰することはないのではないか。由利がそのような結論に至るまで、そう時間はかからなかった。そのためには紫苑が死なないようにする必要があった。彼女がいなくな
由利は時間が止まったかのように固まり、そのまま動かなくなった。信じられないというような目で妹の紫苑を見つめた。碧斗の子を妊娠?あなたは一体何を言っているの?私の妊娠を祝福していた裏で、ずっとそのことを隠していたの?由利の体が小刻みに震え始める。私はずっと二人に裏切られていたというのか。紫苑はそんな由利を見て、申し訳なさそうに眉を下げた。「ごめんなさい、姉さん……」由利は黙ったまま何も言えなかった。その一言で済むような事態ではないからだ。子供ができたということは、当然体の関係があったわけで。姉の旦那と平然と関係を持つだけではなく、子供まで作ったのか。紫苑が碧斗と不倫していたことを、由
目が覚めると、由利は病院の一室にいた。「無事だったんですね、よかったです」「あなた……」ベッドに横たわる由利の顔を、夏目家のメイドが心配そうに覗き込んだ。また巻き戻ってきたのではないかと思ったが、どうやらそうではないようだ。由利は自身の安否など気にも留めず、メイドに尋ねた。「お腹の子は……」「……」その問いに、メイドは痛々しそうに視線を逸らした。由利は彼女の反応で全てを悟った。――あぁ、流産してしまったんだ。奇跡のように私の元へやって来てくれた子は、産まれることもなく亡くなってしまったのね。悲しくて、悔しくて、やりきれない気持ちになった。由利は病室内を見渡した。流産したと







