LOGIN胃がん末期の診断書を手に、私、伊藤佳奈(いとう かな)は震える手で、結婚7年になる夫、黒澤拓海(くろさわ たくみ)に電話をかけた。 だが、受話器の向こうから聞こえてきたのは、彼と別の女の笑い声、そして「何の用だ?早く言え、こっちは忙しいんだ」という苛立った声だった。 私が抗がん剤治療のため病院に行き、息子の黒澤蓮(くろさわ れん)を一人で留守番させていた時、あの子は私とかくれんぼをするつもりで洗濯機の中に入り込み、窒息して死んでしまった。 それでも拓海は、私が子供の生死をダシにして彼の気を引こうとしているのだと思い込んでいた。 私の子供は、冷たく小さな骨壺に収まる遺骨になってしまった。 後に真実を知った彼は、狂ったように私と蓮の墓前にひざまずいて泣き崩れた。 けれど、私自身とっくに一握りの灰になっていて、吹き抜ける風すら彼の遅すぎた懺悔を私の元へ届けてはくれない。
View More「違う……そんなんじゃない!知らなかった……俺は本当に、何も知らなかったんだよ!」拓海は支離滅裂な弁解を口にしながら、堰を切ったようにボロボロと涙を溢れさせた。「あいつはただ、俺に腹を立てて、拗ねているだけだとばかり思ってたんだ……」「拗ねている、ですか?」蒼真は冷ややかな笑みを浮かべた。「黒澤さん。心が完全に死んでしまった人間は、拗ねて感情をぶつけることすらしないんですよ。彼女はただ、残された最後の力を振り絞り、一人で何もかもを背負い込んでいただけです」「遺骨……佳奈の遺骨を俺に渡してくれ!」拓海は藁にもすがる思いでその場に崩れ落ち、膝を折って床に縋りつきながら、掠れた声で哀願した。その姿には、絶望に打ちひしがれた惨めさが漂っていた。「頼む……佳奈を俺に返してくれ……」だが、蒼真は静かに首を横に振った。その眼差しは冷徹で、微塵の揺らぎもなかった。「お断りします、黒澤さん。これは伊藤さんの最期の願いです。彼女は、あなたとはもう二度と、欠片ほどの関わりも持ちたくないとおっしゃっていました。彼女は今、蓮くんの隣で、とても安らかに眠っています」蒼真は言葉を切り、目の前で完全に崩れ折れている男を見下ろしながら、一言一句を突き刺すように告げた。「生前の彼女を少しも大切にしなかったあなたに……今さら彼女の眠りを妨げる権利が、どこにあると言うんですか?」その言葉に、拓海は全身から魂を抜き取られたように壁伝いにずるずると滑り落ち、冷え切った床の上へと力なくへたり込んだ。まるで全世界から見放された迷子のように、押し殺したような苦しげな嗚咽を漏らし――やがてそれは、身を引き裂かれるような凄惨な慟哭へと変わっていった。狂ったように泣き叫ぶ彼の胸中では、絶望と、後悔と、取り返しのつかない罪悪感がぐちゃぐちゃに入り混じり、今にもその身を八つ裂きにしてしまいそうだった。――なぜもっと早く気付いてやれなかったのか。もしあの時、あいつを心の底から愛し、大切にしてやれていれば……だが、この世界に「もし」などという仮定は存在しない。こぼれ落ちた時間を巻き戻す魔法など、どこにもないのだ。蒼真は床で泣き喚く男を冷ややかな一瞥で見下ろすと、それ以上は一切の関心を払うことなく、静かに背を向けた。その日を境に、拓海はまるで別人のようにな
佳奈は、この世を去った。彼女が最も愛したあの陽だまりの午後、リクライニングチェアに身を預け、ただ深い眠りに落ちるかのように、安らかに目を閉じた。その口元にはかすかな微笑みさえ浮かんでおり、まるで甘く幸せな夢でも見ているかのようだった。蒼真は彼女の遺志を尊重し、葬儀などの儀式は一切行わず、誰にも――とりわけ拓海には、決して知らせることはなかった。彼は自ら飾り気のない白磁の骨壷を選び、彼女の遺骨を蓮のすぐ隣に埋葬した。そしてその傍らに、佳奈が生前最も愛した白い雛菊の苗を、彼自らの手でそっと植え付けた。すべてを終えると、彼はそこに立ち尽くし、並んだ二つの墓標を見つめた。梢からこぼれる木漏れ日がまだらな光と影を落とし、そよ風が土と青草の匂いを運んでくる。彼はいつまでも、いつまでもそこに立ち尽くし……やがて夕陽が沈みゆく頃、いつの間にか頬を伝い落ちていた涙を、手の甲でそっと拭い去った。拓海が佳奈の死を人づてに知ったのは、それから1週間も経ってからのことだった。その訃報が届いた時、彼は悠里を伴って華やかなビジネスレセプションに出席し、グラスを傾けながら談笑の輪の中にいた。佳奈が死んだと耳にした瞬間、彼の手からワイングラスがガシャンと床に滑り落ち、血のように生々しい赤い液体が足元に飛び散った。周囲の喧騒が潮が引くように遠ざかり、頭の中で耳障りな耳鳴りだけが響き渡って、思考が完全に真っ白になる。「……お前、今なんて言った!?」彼は訃報をもたらした男の腕を猛然と掴み上げた。相手の骨を砕きかねないほどの凄まじい力だった。その両目は血走っている。「もう一度言ってみろ!誰が死んだだと!?」男は拓海の剣幕にすっかり肝を潰し、しどろもどろになって答えた。「い、伊藤さんです。胃がんで……1週間前に、亡くなったと伺っています」胃がん……一週間前……その二つの言葉は、巨大なハンマーとなって拓海の心臓を無残に打ち砕いた。彼は狂乱したように、隣でなだめようとすり寄る悠里を乱暴に突き飛ばすと、よろめく足取りで会場を飛び出し、車を飛ばして自宅へと急行した。だが、家の中はもぬけの殻で、死に絶えたような静寂だけが横たわっていた。そのまま踵を返して病院へ怒れ狂ったように乗り込み、蒼真の診察室のドアを蹴り開けるなり、その胸ぐらを掴み
私の病状は、それから急転直下の一途を辿った。癌細胞はもはや制御不能なまでに全身を蝕み、絶え間なく襲い来る激痛は昼夜を問わぬ拷問と化した。どんなに強力な鎮痛剤でさえ、次第にその効力を失っていった。私に残された時間はもう本当にわずかしか残っていないのだと、自分でもはっきりと悟っていた。蓮が眠るあの霊園だけが、私の心を繋ぎ止める最後の拠り所となっていた。白石先生は車椅子を押して、私をよくあの場所へと連れ出してくれた。木漏れ日が暖かく降り注ぐ中、私は蓮の墓標に向かって、とりとめのないことをぽつりぽつりと語りかけた。まるで蓮がまだ私のすぐそばにいて、首を傾げて聞いてくれているかのように。「蓮、ママもすぐに行くからね。そうしたら、もう二度と離れ離れにならないからね」白石先生はいつも数歩下がったところで静かに見守り、決して私の邪魔をすることはなかった。ただ涙が溢れた時にだけ、そっとハンカチを差し出してくれるのだ。その日はひどく穏やかに晴れ渡り、降り注ぐ陽光はどこまでも優しく、暖かかった。傍らに佇む無口で優しい白石先生を見上げ、私は口を開いた。「白石先生、ありがとうございます」彼は一瞬きょとんとした後、困ったように微笑んだ。「また、そんな水臭いことを」「私、本気で言っているんですよ」私は彼の目を真っ直ぐに見つめ、心の底から言葉を紡いだ。「私の人生の最後の道行きに、こんなにもたくさんの温もりと、人としての尊厳をくださって……本当に、感謝しています。白石先生がいらっしゃらなければ、私はとうに力尽きて、心が折れてしまっていたと思います。私、もう治療をやめようと思うんです」私は深呼吸をしてから、とうに固まっていた決意を告げた。白石先生の顔から笑みがさっと消え失せ、その眉根が苦しげに寄せられた。「伊藤さん、考え直してください!まだ望みはあるかもしれないじゃないですか!」「もう『かもしれない』なんてないんです、白石先生」私は静かに彼の言葉を遮った。その声に、もはや一切の迷いや揺らぎはなかった。「自分の体のことは、私が一番よく分かっています。無機質な病室で管だらけになって延命されるくらいなら……蓮の代わりに、この世界をもう少しだけ見ておきたいんです」私はすがるような思いで彼を見つめ返した。「もう疲れました。本当に、疲れ果
またしても、耐え難い痛みに苛まれて目を覚ました夜だった。胃をきりきりと絞り上げるような激痛が、波のように次々と押し寄せてくる。私はベッドで身を丸め、息を吸い込むことすら焼けるように痛かった。意識が混濁し、このまま痛みの底へ飲み込まれてしまいそうになったその時、寝室のドアがそっと押し開かれた。私は鉛のように重いまぶたを辛うじて持ち上げた。逆光の中に、背の高い男のシルエットが立ち現れる。拓海だった。彼からはまだ微かに酒の匂いが漂っていたが、その足音はひどく静かで、まるで何かの眠りを妨げるのを恐れているかのようだった。彼はベッドの傍らまで歩み寄ると、窓から差し込む月明かりの下で、私の紙のように青ざめた顔と苦痛に歪む眉間をまじまじと見つめた。その瞳に浮かんだ色が、一瞬にして複雑で重苦しいものへと変わる。「どうした?」彼はしゃがみ込み、声を押し殺して尋ねた。「顔色がひどく悪いぞ」彼はかつてそうしてくれたように、私の額に触れようと手を伸ばしてきた。しかし、私は咄嗟に顔を背けてそれを避けた。私のあからさまな拒絶に、彼の手は空中で行き場を失って宙に浮いた。その瞳の奥に微かな傷つきの色が走ったが、それはすぐに痛ましいほどの焦りと心配に塗りつぶされた。「また胃が痛むのか?薬はどこだ?」私の返事を待つこともなく、彼は立ち上がって手慣れた様子でベッドサイドの引き出しを漁り始め、すぐに私の常備している鎮痛剤と胃薬を見つけ出した。彼はコップに温かいお湯を注ぎ、薬と一緒に私の目の前へ差し出した。「早く飲めよ」私はそれを受け取ろうとはせず、ただ氷のように冷え切った目で彼を見つめ返した。「拓海……あなた、何をしにここへ来たの?」私のひどく冷淡な態度に刺されたように、彼はふっと目を伏せた。「……お前の様子を見に帰ってきたんだ」「私の様子を?」私は自嘲気味に唇の端を引き上げ、冷たい笑みを浮かべた。「悠里と喧嘩でもしたの?それとも、また私というタダ働きのお手伝いさんを思い出したとでも言うの?」「佳奈、お前が考えてるようなことじゃない」彼は慌てて弁解したが、その口調はどこかたどたどしかった。「最近、胸騒ぎがして夜もまともに眠れないんだ。いつも……何か、大事なものを失ってしまうような気がして……」彼はそう言いながら、ベッドの端にそ