LOGIN俺は瀬戸晃平(せと こうへい)。俺たちが暮らす水郷では、女性が愛する人のもとへ嫁ぐとき、自ら一艘の手漕ぎ舟を造り、その舟の上で婚礼を挙げる風習がある。 付き合って7年目の記念日、恋人の桐生未桜(きりゅう みお)は完成したばかりの舟の進水式を行った。 大勢の人が見守り、歓声を上げる中、俺の胸も激しく高鳴っていた。 いざ舟に乗ろうとしたそのとき、彼女の親友たちが声を潜めて話しているのが耳に入った。 「本当にこの舟、直樹にあげるつもり?晃平さんに怒られない?」 「そうだよ。晃平さんって結構気が強いし、あんまりやりすぎないほうがいいんじゃない?」 次の瞬間、未桜の何でもないような声が聞こえてきた。その口調には、妙な自信がにじんでいた。 「大丈夫。晃平なんてちょろいから。私のこと、死ぬほど好きだし。 それに、この水郷じゃ28歳になっても嫁をもらえなかったら、いつまでも結婚できない男だって笑われるの。だからあいつだって、騒ぐ勇気なんかないよ。 それに、婚姻届は晃平と出して、婚礼の舟は直樹にあげる。それなら公平でしょ。これで私も……心残りを一つ、なくせるし」 俺と結婚するのに、彼女の心にはまだ直樹への未練が残っていたのか。 ちょろい。 いつまでも結婚できない男。 その言葉の一つ一つが、耳の奥に鋭く突き刺さった。 喉の奥が締めつけられるように苦しかった。それでも、涙は出なかった。 ただスマホを取り出し、一通のメッセージを送った。 【母さん。言うとおりにするよ。俺ももう28歳だ。これ以上待つのはやめる】
View More未桜は全身から力が抜けたように、その場に立ち尽くしていた。ただ、晃平がランチボックスを手に、あのビルの中へ入っていく後ろ姿を見送ることしかできなかった。ふと、昔のことを思い出した。未桜はいつも朝食を抜いていたせいで、よく胃を悪くしていた。そんな彼女のために、晃平はあれこれ工夫して胃に優しい雑炊を作ってくれた。仕事を終えて家に帰ると、食卓にはいつも、彼女のために雑炊が一杯残されていた。しかも、同じものが出てきたことは一度もなかった。「未桜、早く飲んでみて!今日は新しい味だぞ。絶対、胃もぽかぽかになるから!」けれど今も、晃平は変わらず誰かのために雑炊を作っている。ただ、もう自分のためではない。未桜は両手で顔を覆った。そしてとうとう堪えきれなくなり、声を上げて泣いた。……晃平と再び会ったのは、それから5年後のことだった。未桜の母親に頼まれた従妹は、半ば無理やり未桜を外へ連れ出した。あるショッピングモールで、未桜は双子の女の子を見かけた。二人はこっそり、一つのアイスを分け合っていた。「早く食べて!パパに見つかっちゃうよ!」「次は私!私が一口食べる番!」未桜は思わず、二人に見入ってしまった。二人があまりにも晃平に似ていたからだ。すると、そばにいた女性から声をかけられた。「桐生社長、お久しぶりです。こんなところで会うなんて偶然ですね」顔を上げると、そこにいたのは香澄だった。その瞬間、未桜は目の前の世界がぐらりと揺れたような気がした。少し離れたところから、晃平が足早にこちらへやって来る。「香澄、またこの子たちにアイス買っただろ!」だが、そばに知らない人がいることに気づくと、すぐに表情を改めた。「香澄、こちらの方は?」未桜の体がびくりと震えた。未桜は思わず背中を丸め、小さく縮こまった。香澄は口元に笑みを浮かべた。「前に仕事でお付き合いのあった方よ」やがて、晃平たち一家はその場を離れていった。未桜の耳には、香澄と二人の娘を晃平がぶつぶつと叱る声と、三人の楽しそうな笑い声が遠ざかっていった。その声を聞きながら、未桜の頬を涙が伝った。しばらくして、従妹がお菓子を山ほど抱えて戻ってきた。「お姉ちゃん、今日はこれ、全部ちゃんと食べてよ。ここ数年でどれだけ痩せたと思っ
人影は次第にまばらになり、新郎新婦も次の会場へ移っていった。直樹は、力なく地面に座り込んだ未桜を見つめ、静かに口を開いた。「未桜、僕……晃平さんが今日結婚するって、ずっと前から知ってたんだ」未桜は勢いよく顔を上げた。その目には信じられないという色が浮かんでいた。「だから……ずっと私を引き止めてたの?」直樹は頷いた。「僕はただ、分かってほしかったんだ。あの人は本当は未桜のことなんて愛してない!僕はずっと前から未桜が好きだった!どう考えたって、晃平さんより僕のほうが未桜に合ってる!未桜だって僕を愛してるんだろ?」未桜はきつく目を閉じた。心臓を見えない手で握り潰されるようだった。晃平は永遠に自分を待ってくれると思っていた。少し機嫌を取れば、すぐに許してくれると思っていた。ただ入籍さえすれば、自分が他の男ばかりを特別扱いしてきたことも、裏切ったことも、すべて帳消しにできると本気で思っていた。なんて愚かだったのだろう。再び目を開いたとき、その瞳には迷いのない決意が宿っていた。「直樹、あなたとの約束は果たした!でも、あなたと付き合うつもりはない。私はずっと、あなたのことを家族みたいに思ってた。あの夜のことは……私が間違ってた」それを聞いた直樹は、思わず笑い声を漏らした。「未桜、自分の家族と寝る女がどこにいるんだよ?」未桜は目を伏せた。声は掠れていた。「それは私が悪かった。償いなら何でもする。でも、私が欲しいのは晃平だけ」そう言い残すと、背後から直樹が大声で呼び止めたが、未桜は振り返らず、その場を去った。その後、未桜は半月をかけて、もう一艘の手漕ぎ舟を造り上げた。そして、晃平の居場所を探し始めた。慎吾に連絡すれば、「二度と近づくな」と突き放された。晃平の両親の家を訪ねても、玄関にすら入れてもらえなかった。どうすることもできず、未桜は水原家の会社の近くで、目立たないように彼が現れるのを待ち続けた。そして3か月後。ようやく、晃平に会うことができた。そのとき晃平は、手にランチボックスを持ち、ちょうど車から降りたところだった。ダークグレーのコートをまとい、髪は以前より少し短くなっている。その瞳は明るく輝き、以前よりもずっと格好よくなったように見えた。未桜は急いで前へ出て、彼の行
直樹が後ろから未桜をつかんだ。「未桜、落ち着け!」だが未桜はその手を振り払い、直樹を脇へ押しのけた。なおも叫ぼうとしたそのとき、厳しい声が彼女を呼び止めた。「未桜」振り返ると、そこに立っていたのは晃平の母親・瀬戸綾子(せと あやこ)だった。「あなた、ここを台無しにしに来たの?」未桜は助けを求めるように、大股で綾子のもとへ歩み寄った。「おばさん、これはどういうことですか?どうして晃平がここにいるんですか?しかも、どうして新郎になってるんですか!私たち、もうすぐ入籍するんですよ!」その言葉を聞いた綾子は、呆れたように笑った。そして嘲るように直樹を一瞥した。「何を言ってるの?そっちが桐生社長の彼氏なんでしょう?うちの晃平と、入籍するなんて、ご冗談を」未桜の顔から、一瞬にして血の気が引いた。声も少し小さくなり、そこには本人も気づかないほどの後ろめたさが滲んでいた。「違います、おばさん。直樹のことは……兄のように思ってるだけで……私と晃平は7年も付き合ってきたんです!晃平とはもう約束してます。明日、入籍するって……」綾子は声を上げて笑った。「自分でも分かってるのね。あなたがうちの息子の7年を無駄にしたってこと!じゃあ聞くけど、あなたがうちの息子と結婚するというなら、婚礼の舟はどこにあるの?私が知ってる限り、あなたが初めて造った舟は、とっくにその大切な『お兄さん』にあげたんでしょう!」未桜の額には、すでに薄っすらと汗が滲んでいた。彼女は慌てて弁解しようとした。「違うんです。ただ、直樹の誕生日のお願いを一つ聞いてあげただけで……晃平のための舟はもう造り始めています。私は本当に晃平と結婚するつもりで……」綾子の顔から笑みが消えた。その言葉が、かえって彼女の怒りに火をつけたようだった。「もういい、未桜!この水郷のしきたりを知ってる女なら二艘目の婚礼の舟なんて造らない!聞くけど、この7年間、晃平がこれまで何度、あなたに結婚したいって伝えてきたと思ってるの!はっきり言ったことも、遠回しに伝えたことも、一度や二度じゃないでしょう!それなのに、あなたはあの子に何をしてあげたの?」未桜はよろめくように一歩後ろへ下がった。「私は……」だが綾子は冷笑を浮かべ、その言葉を遮った
船首がこちらへ向きかけたその瞬間、隣にいた介添え役の男が櫂を大きく動かし、舟の向きをまっすぐに戻した。だが、その拍子に、男がこちらを振り向いた。それは、なんと慎吾だった。慎吾は晃平の一番の親友だ。未桜は心臓が喉元までせり上がるような感覚に襲われた。彼女は新郎から目を離せなくなった。どう見ても見覚えがある。胸の奥に強い違和感が広がり、同時に馬鹿げた考えが頭をよぎった。どうして一瞬でも、あの新郎が晃平だと思ったのだろう?そんなはずがない。あまりにも馬鹿げている!それなのに、胸にまとわりついた奇妙な予感は、どうしても消えてくれなかった。直樹は楽しそうな声を上げ、彼女の腕を引いた。「未桜、見て!先頭の舟、アイリスの花でいっぱいだよ。すごくきれい!」その言葉は雷鳴のように、未桜の頭の中で轟いた。晃平が以前言っていた言葉が蘇る。「未桜、結婚するときは、俺たちの舟をアイリスでいっぱいにしたい!絶対、どこにもない特別な舟になるから!」胸が大きく沈んだ。ありえない。絶対にありえない!あの新郎が晃平のはずがない。未桜は胸の奥から込み上げる動揺を無理やり押さえ込み、必死に自分に言い聞かせた。だが頭の中では、これまで見過ごしてきた数々の出来事が、次々と脳裏に蘇った。一つ、また一つ。進水式の日、騒ぎもせず、ただ静かに自分を見つめていた晃平の目。「元彼がここにいたら、邪魔だろ」と言ったこと。「別の人と結婚しようと思ってる」と告げたこと。そして、あの宝石のついた指輪を返したときの、どこまでも真剣な表情。あのとき未桜は、すべて自分に結婚を迫るための駆け引きだと思い込み、鼻で笑っていた。でも、もしあれが駆け引きではなかったとしたら?未桜は、それ以上考えることができなかった。慌ててスマホを取り出す。手が震え、何度もロックの解除に失敗し、ようやく画面を開くことができた。震える指で晃平に電話をかける。だが、聞こえてきたのは、電源が入っていないことを告げるアナウンスだけだった。未桜の呼吸が、一気に重くなった。春だというのに、手足の先が冷たくなっていく。思うように動かない指で、晃平とのトーク画面を開いた。最後に残っていたのは、自分が送ったメッセージだった。【晃平、いつ