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舟はもう、君を待たない

舟はもう、君を待たない

By:  ニタマゴCompleted
Language: Japanese
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俺は瀬戸晃平(せと こうへい)。俺たちが暮らす水郷では、女性が愛する人のもとへ嫁ぐとき、自ら一艘の手漕ぎ舟を造り、その舟の上で婚礼を挙げる風習がある。 付き合って7年目の記念日、恋人の桐生未桜(きりゅう みお)は完成したばかりの舟の進水式を行った。 大勢の人が見守り、歓声を上げる中、俺の胸も激しく高鳴っていた。 いざ舟に乗ろうとしたそのとき、彼女の親友たちが声を潜めて話しているのが耳に入った。 「本当にこの舟、直樹にあげるつもり?晃平さんに怒られない?」 「そうだよ。晃平さんって結構気が強いし、あんまりやりすぎないほうがいいんじゃない?」 次の瞬間、未桜の何でもないような声が聞こえてきた。その口調には、妙な自信がにじんでいた。 「大丈夫。晃平なんてちょろいから。私のこと、死ぬほど好きだし。 それに、この水郷じゃ28歳になっても嫁をもらえなかったら、いつまでも結婚できない男だって笑われるの。だからあいつだって、騒ぐ勇気なんかないよ。 それに、婚姻届は晃平と出して、婚礼の舟は直樹にあげる。それなら公平でしょ。これで私も……心残りを一つ、なくせるし」 俺と結婚するのに、彼女の心にはまだ直樹への未練が残っていたのか。 ちょろい。 いつまでも結婚できない男。 その言葉の一つ一つが、耳の奥に鋭く突き刺さった。 喉の奥が締めつけられるように苦しかった。それでも、涙は出なかった。 ただスマホを取り出し、一通のメッセージを送った。 【母さん。言うとおりにするよ。俺ももう28歳だ。これ以上待つのはやめる】

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Chapter 1

第1話

薔薇の花でいっぱいに飾られた新しい舟が水面に浮かぶと、周囲から囃し立てる声が上がる中、俺は背中を押された。

「晃平さん、早く乗って!」

「晃平、7年だぞ!やっとお前らも結ばれるんだな!」

親友の倉田慎吾(くらた しんご)は興奮した声を上げていた。心から俺のことを喜んでくれているのが分かる。

皆が見守る中、未桜が舟を降り、こちらへ歩いてきた。

だが、俺のそばで足を止めたのはほんの一瞬だった。そのまま俺の横を通り過ぎ、最後に立ち止まったのは相沢直樹(あいざわ なおき)の前だった。

「誕生日プレゼント。気に入った?」

その声は軽やかで、どこか彼を甘やかすような響きを帯びていた。

辺りは不自然なほど静まり返った。

直樹の目には、隠しきれない喜びが浮かんでいた。

二人は手をつなぎ、そのまま舟へ向かって歩いていく。

再び俺の前を通り過ぎようとしたとき、未桜は足を止め、何でもないことのように言った。

「晃平、この舟はひとまず直樹にあげることにしたの。次の舟はもう造り始めてるから、焦らないで」

面白がるように二人を見る者もいれば、俺の顔を窺う者もいた。

水郷でも有名な短気者の俺が、今にも大暴れするのを待っているようだった。

けれど、俺はただ静かに彼女を見つめた。「もういらないよ、未桜」

彼女はわずかに目を見開いた。俺がそんな反応をするとは思ってもいなかったらしい。

妙な空気になったのを察し、未桜の親友たちが慌てて彼女をかばい始めた。

「晃平さん、変に考えないで。未桜はただ、直樹の誕生日のお願いを聞いてあげただけだから!」

「そうそう。未桜のお婿さんになるのは絶対に晃平さんなんだから」

あまりにも苦しい言い訳を聞いていると、かえって笑いたくなった。

隣にいた慎吾は悔しそうに歯を食いしばった。

「未桜のやつ、よくこんなことができるな!

この水郷じゃ、女が一生に一艘しか婚礼の舟を造れないことくらい、あいつだって分かってるだろ!」

胸の奥に、じわりと苦いものが込み上げた。

そうだ。この水郷では、3歳の子供でさえ知っている。

女性が自ら造った最初の舟で愛する人のもとへ嫁いで初めて、夫婦が仲睦まじく添い遂げられると言われているのだ。

隣で、慎吾が怒りを滲ませた声で吐き捨てた。

「晃平、俺まで悔しくなってくる……

人の恋人にちょっかい出してる、ただのアシスタントだろ。未桜は何考えてんだよ!」

けれど本当は、直樹はただのアシスタントではない。

桐生家と古くから付き合いのあった家の息子で、ある事情から昔より桐生家の世話になっている。

だからこそ、未桜はいつだって直樹だけを特別扱いしてきた。

どんな場にも彼を連れていき、俺たちの記念日でさえ、俺に贈るものと同じように彼の分まで用意していた。

そしてついには、俺が7年間待ち続けた婚礼の舟まで、たった一つの「誕生日のお願い」のために彼へ贈ってしまった。

「もうどうでもいいよ、慎吾」

俺はそう言って、彼の肩を軽く叩いた。

ほどなくして、舟の上で一通りの儀式を終えた二人が岸へ戻ってきた。

直樹の口元にはまだ笑みが残っていた。こちらへ歩いてくると、いつもの無邪気な口調で言った。「晃平さん、未桜はただ僕の誕生日のお願いを聞いてくれただけですから、変に考えないでくださいね」

「未桜」、か。

ずいぶん親しげに呼ぶものだ。

俺が口を開こうとした瞬間、未桜が前へ出て、俺の肩を押さえた。「晃平、たかが舟一艘でしょ。こんなに人がいるんだから、騒がないで」

声は相変わらず優しかったが、その目にははっきりと警告の色が浮かんでいた。

「騒がないよ」俺は一歩後ろへ下がり、笑みを浮かべて直樹に頷いた。「誕生日、おめでとう」

その一言を口にした途端、辺りは奇妙な静寂に包まれた。

未桜は宙に取り残された自分の手を見て、一瞬呆然とした。

無理もない。

以前の俺なら、とっくに怒鳴り散らして大騒ぎしていたはずだから。

見ていられなくなった慎吾が、大声で未桜を問い詰めた。

「未桜、その舟をこいつにやったなら、何に乗って晃平のところへ嫁ぐつもりなんだよ!

晃平はもう7年もお前を待ってるんだぞ。いい加減、はっきり答えてやれよ!」

皆の視線が、一斉に未桜へ集まった。

俺も黙って彼女を見つめた。

心のどこかには、まだほんのわずかな期待が残っていた。

未桜。これが、俺がお前に残す最後のチャンスだ。

1秒。

2秒。

爪が掌に食い込むほど、拳をきつく握りしめた。

俺が耐えきれず、自分からその場を取り繕おうとした、そのときだった。

未桜はふっと笑い、さして気にも留めていないような口調で言った。「次こそは、絶対にね」

あまりにも軽い一言だった。

その場しのぎで、どこまでもぞんざいな答え。

胸の奥にかろうじて残っていた最後の愛情は、針を刺された風船のように一瞬でしぼんだ。

あとに残ったのは、不思議なほどの静けさだけだった。

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第1話
薔薇の花でいっぱいに飾られた新しい舟が水面に浮かぶと、周囲から囃し立てる声が上がる中、俺は背中を押された。「晃平さん、早く乗って!」「晃平、7年だぞ!やっとお前らも結ばれるんだな!」親友の倉田慎吾(くらた しんご)は興奮した声を上げていた。心から俺のことを喜んでくれているのが分かる。皆が見守る中、未桜が舟を降り、こちらへ歩いてきた。だが、俺のそばで足を止めたのはほんの一瞬だった。そのまま俺の横を通り過ぎ、最後に立ち止まったのは相沢直樹(あいざわ なおき)の前だった。「誕生日プレゼント。気に入った?」その声は軽やかで、どこか彼を甘やかすような響きを帯びていた。辺りは不自然なほど静まり返った。直樹の目には、隠しきれない喜びが浮かんでいた。二人は手をつなぎ、そのまま舟へ向かって歩いていく。再び俺の前を通り過ぎようとしたとき、未桜は足を止め、何でもないことのように言った。「晃平、この舟はひとまず直樹にあげることにしたの。次の舟はもう造り始めてるから、焦らないで」面白がるように二人を見る者もいれば、俺の顔を窺う者もいた。水郷でも有名な短気者の俺が、今にも大暴れするのを待っているようだった。けれど、俺はただ静かに彼女を見つめた。「もういらないよ、未桜」彼女はわずかに目を見開いた。俺がそんな反応をするとは思ってもいなかったらしい。妙な空気になったのを察し、未桜の親友たちが慌てて彼女をかばい始めた。「晃平さん、変に考えないで。未桜はただ、直樹の誕生日のお願いを聞いてあげただけだから!」「そうそう。未桜のお婿さんになるのは絶対に晃平さんなんだから」あまりにも苦しい言い訳を聞いていると、かえって笑いたくなった。隣にいた慎吾は悔しそうに歯を食いしばった。「未桜のやつ、よくこんなことができるな!この水郷じゃ、女が一生に一艘しか婚礼の舟を造れないことくらい、あいつだって分かってるだろ!」胸の奥に、じわりと苦いものが込み上げた。そうだ。この水郷では、3歳の子供でさえ知っている。女性が自ら造った最初の舟で愛する人のもとへ嫁いで初めて、夫婦が仲睦まじく添い遂げられると言われているのだ。隣で、慎吾が怒りを滲ませた声で吐き捨てた。「晃平、俺まで悔しくなってくる……人の恋人にちょっかい出し
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第2話
隣にいた慎吾は怒りで目を真っ赤にしていたが、俺はそんな彼を引き止めた。新しい舟の進水式が終わると、そのまま舟の上で祝いの宴が始まり、皆で酒を酌み交わすことになった。近くでは、通りすがりの人たちまで足を止めて見物していた。「また一組、夫婦になるんだね。立派な婚礼舟だなあ」「おめでとう!」誰かが大声で祝福する。直樹は船首に立ち、未桜の手を握った。「未桜、僕、もう一つ誕生日のお願いがあるんだ」わざと周囲に聞かせるかのような大きな声に、その場にいた全員が一斉に彼へ目を向けた。「僕……7日間だけ、未桜に僕の彼女になってほしい!」その瞬間、場が一気に沸いた。「付き合っちゃえ!」「いいじゃん、受けちゃえよ!」未桜は思わず笑い出し、その手を握り返した。迷う素振りなど、ほんの少しもなかった。「約束だからね。7日間だけよ」最初から最後まで、彼女の視線が俺に向けられることは一度もなかった。直樹はさりげなく俺を一瞥すると、口元の笑みをさらに深くした。事情を知っている友人たちの視線が、時折こちらへ向けられる。同情する者、面白がる者、憐れむ者。これじゃ、俺はもう元彼も同然だ。そんな俺がこれ以上ここにいるのもおかしいだろう。そう思って歩き出そうとしたとき、未桜に呼び止められた。「晃平、もう帰るの?」「ああ。元彼がここにいたら、邪魔だろ」彼女は眉をひそめた。「変なこと言わないで。ただ直樹のちょっとしたお願いを聞いてあげてるだけでしょ。先にタクシーで帰ってて。このあと直樹を家まで送らなきゃいけないから。夜、蟹おこわを買って帰るから。家で待ってて」そう言うと、彼女は俺のバッグから車のキーを取り出し、再びあの賑やかな宴の中へ戻っていった。その後ろ姿を見つめていると、結局、目の奥が少しだけ熱くなった。家に帰ってしばらくすると、直樹から動画が送られてきた。動画の中で、直樹は酒に酔ったのか顔を真っ赤にしていた。周囲から囃し立てられ、その勢いのまま未桜をぎゅっと抱きしめた。誰かがからかうように言った。「未桜、もういっそのこと結婚式も直樹と挙げればいいじゃん!晃平なんかより、うちの直樹のほうがずっといいだろ!」直樹は笑いながら、形ばかりにたしなめた。「お前、飲みすぎだろ」未桜はただ笑みを浮か
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第3話
未桜が手にしていたコップがわずかに揺れた。だが次の瞬間、彼女は鼻で笑った。「今度はやり方を変えたの?こっちが黙っててあげれば、いつまで続けるつもり?」俺は一瞬呆気に取られ、彼女が何を言っているのか分からなかった。未桜は冷笑を浮かべた。「今日、慎吾を使って、私に結婚を迫らせようとしたでしょ?それで駄目だったから、今度は別れるって言って私を焦らせるつもり?」そこでようやく理解した。彼女は今日、慎吾が言ったあの言葉を、俺が慎吾に言わせたのだと思っていた。俺が彼女に結婚を迫るために仕組んだのだと。あまりに馬鹿馬鹿しく思えたが、説明する気にもならなかった。俺は頷いた。「ああ。結婚を迫っても駄目だったから、今度は別の人と結婚しようと思ってる」そう言うと、彼女の顔に浮かんだ嘲りはいっそう濃くなった。「晃平、私と本当に別れられるの?もうそのくらいにしなよ。いちいち大げさに騒がないで。あなたももう28歳でしょ。私以外に、誰があなたと結婚してくれるの?もう寝よう。明日は実家に帰って、おばあちゃんの誕生日を祝わなきゃいけないんだから」そう言い残し、彼女は寝室へ戻っていった。その後ろ姿を見つめながら、俺の中に残っていたのは深い疲労感だけだった。翌日、俺は予定どおり未桜のおばあさんの誕生日祝いに顔を出した。以前、おばあさんから宝石のついた指輪をもらっていたからだ。それだけは、きちんと返しておきたかった。桐生家に着くと、玄関先には未桜の母親が立っていた。その隣には直樹がにこやかな顔で立っており、まるでこれから桐生家の婿になる男のようだった。先に俺に気づいたのは直樹だった。すぐに満面の笑みを浮かべ、こちらへ歩み寄ってきた。「晃平さん、未桜が怒ってるって言ってたから、今日は来ないのかと思ってました!」そう言いながら、彼はわざとらしく腕時計を見せつけた。あれは、桐生家では、婿になる男に贈ることになっているものだった。おばあさんが用意したのは一対の指輪で、未桜の母親が用意したのは腕時計。ただ、その腕時計はずいぶん前に未桜が母親から譲り受け、「いつか私が自分の手で晃平につけてあげる」と言っていたものだった。もう俺が身につけることはないだろう。未桜も腕時計に気づき、俯きながら説明した。「直樹にはちょっと貸してる
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第4話
写真に写っていた舟は、未桜のあの舟よりも大きく、ずっと美しかった。何より、船体全体が俺の一番好きなアイリスの花で飾られていて、薔薇は一輪もなかった。家に帰ると、俺は荷物をまとめ始めた。必要最低限の服や身分証明書などを、ひとつひとつ整理していった。荷物を整理しているうちに、これまで二人で撮ってきた写真が目に入った。どの写真の裏にも、未桜が書いた言葉が残っていた。俺は一枚ずつめくっていった。水鏡湖で撮った写真の裏には、【一生、晃平にくっついて離れない】と書かれていた。一緒に日の出を見たときの写真には、【日の出より晃平のほうがずっときれい】とあった。俺はそれらをまとめて手に取り、一瞬だけ迷った末、すべてゴミ箱へ捨てた。しばらくすると、階下からかすかに車の音が聞こえてきた。突然雨が降り出したせいか、未桜はいつもよりずっと早く帰ってきた。ドアが開くと同時に、直樹がつけている香水の匂いが部屋へ流れ込んできた。俺は手を止めず、最後の一着をきれいに畳んだ。未桜は靴を履き替えると寝室の入り口まで歩いてきて、ドア枠にもたれかかった。トレンチコートを無造作に腕に掛け、その顔には苛立ちが滲んでいた。「いい加減、気は済んだ?」声を荒らげているわけではない。だが、その口調はどこか人を見下したようにぞんざいだった。俺はちらりと彼女を見上げただけで、スーツケースを閉じ、ファスナーを引こうとした。俺の冷淡な態度に、彼女はとうとう我慢の限界に達したらしい。大股でこちらへ歩み寄ると、俺のスーツケースを乱暴に引ったくった。その拍子に、ケースから乾いた音が響いた。「いつまでこんなこと続けるつもり?」未桜は眉間に深い皺を寄せた。「最近、会社の仕事が山ほど溜まってて、ただでさえ忙しいの。舟の進水式でも、おばあちゃんの誕生日祝いでも、ずっと不機嫌な顔してたでしょ。そんなにみんなの前で私に恥をかかせたいわけ?」忙しくなんかない。直樹の機嫌を取る時間なら、いくらでもあるじゃないか。それに何より、大勢の前で恥をかいたのは最初からお前じゃない。俺のほうだ。「別に、不機嫌な顔なんてしてない」未桜は俺の手首をつかんだ。その仕草には、これでも自分は譲歩してやっているのだという傲慢さが滲んでいた。「あなたが不満なのは分かっ
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第5話
その結婚式の招待状は、まるで未桜一人のために用意されたもののようだった。そこにはただ、【水原香澄(みずはら かすみ)より、桐生未桜さんのご出席を心よりお待ちしております】とだけ書かれていた。それ以外には、何の記載もなかった。未桜は香澄のことを知っていた。大学時代の先輩で、かつて晃平に想いを寄せていた女性だ。ただ、その頃にはすでに晃平と自分が付き合っていた。しかし、自分は彼女とそんなに仲がよかったわけじゃなかったのに、どうしてこれを?未桜はさほど興味もなく、なぜ自分にこんな招待状が届いたのか、不思議に思っただけだった。母親には【時間がない】と返信し、そのまま直樹の部屋へ向かった。ドアを開けて中に入った途端、直樹が勢いよく彼女を抱きしめた。「未桜、やっと来てくれた!僕、怖くてたまらなかった……」直樹にきつく抱きしめられ、未桜の体がわずかに強張った。それでもすぐに我に返り、彼女は男の腕の中から身を離した。「直樹、ちゃんと立って」顔を上げて見ると、直樹は薄手の白いシャツ一枚しか着ていなかった。濡れた髪が耳元に張りつき、目尻は赤く染まっている。その姿はいかにも心細げで、放っておけない気持ちにさせた。未桜のよそよそしい態度など意にも介さないように、直樹は再び彼女を腕の中へ引き寄せた。温かな吐息が首筋を撫で、くすぐったさが走る。「未桜、僕、本当に雷が嫌いなんだ。子供の頃からずっとそうで……」未桜の指先がわずかに動いた。そのとき、なぜか頭に浮かんだのは晃平だった。晃平は決して弱音を吐かない。度胸があって、気性も激しく、どんなときも黙って理不尽を受け入れるような男ではなかった。以前、未桜はよく晃平をからかっていた。見た目も性格も、水郷の男らしい穏やかさや上品さとは無縁だ、と。だが、直樹は違う。彼は頼れる身寄りもなくで、何かにつけて彼女が面倒を見てやらなければならない。自分にしがみつく直樹を見つめ、未桜は小さくため息をついた。結局、それ以上彼を押し退けることはしなかった。直樹が続けて尋ねた。「未桜、晃平さん、まだ怒ってる?僕から謝りに行ったほうがいいかな」「必要ないわ。あの人が短気で、些細なことを大げさにしてるだけだから。出張から帰ったら、入籍するって約束したし」その言葉を聞いた瞬間
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第6話
それからの1週間、未桜はずっと直樹に付き添い、彼のさまざまな望みを叶えてあげた。その間、未桜は時折晃平にメッセージを送っていたが、彼から返事が来ることは一度もなかった。6日目の夜、直樹は彼女を自分の友人たちの集まりに連れていった。その夜、未桜はずっと上の空だった。晃平がもうずいぶん長いこと、彼女のメッセージに返信していなかったからだ。返事をしないだけではない。以前のように、いつ帰ってくるのかと尋ねてくることさえなかった。あまりにもおかしい。まだ怒っているのだろうか?でも、帰ったら入籍するとちゃんと約束したのに、いったい何がそんなに気に入らないというのだろう。未桜は晴れない気分のまま、また一杯酒をあおった。すると、直樹の友人たちが二人をからかい始めた。「7日間限定の彼女とか、甘すぎるだろ!限定どころか、これもう本命宣言じゃん!」「一時的に付き合ってるだけには見えないって。お前ら、どうせ最後には本当に結ばれるんだろ?誰よりお似合いだよ!」直樹は頬を赤く染め、未桜をちらりと見ると、恥ずかしそうに返した。「変なこと言うなよ」その仕草を見て、周囲からはいっそう大きな冷やかしの声が上がった。だが、未桜はわずかに指先へ力を込めると、自分の腕に絡められていた直樹の腕をそっと外した。「直樹の誕生日のお願いを聞いてあげてるだけよ。私には結婚する相手がいるから」その一言で、盛り上がっていた空気が一瞬にして冷え込んだ。直樹の顔から血の気が引き、笑みもどこかぎこちなくなった。「そうだよ。未桜は僕のわがままに付き合ってくれてるだけだから」そのとき、誰かが呆れたように目を逸らし、小声で呟くのが未桜の耳に入った。「何それ。俺があの女の彼氏なら、とっくに別れてるけどな」気まずい空気が漂い始めたそのとき、すぐそばから未桜を呼ぶ声がした。以前取引のあった相手だった。相手は笑顔でこちらへ歩いてくると、開口一番こう言った。「桐生社長、おめでとうございます!瀬戸さんのSNSを見ましたよ。明日がお二人の晴れの日なんですね!」その言葉に、未桜は一瞬きょとんとした。だがすぐに、この数日ずっと張り詰めていた神経が、ようやく緩んだ。そういうことだったのか。ここ数日、晃平が不自然なほど静かだったのは、やはり自分に拗ねていた
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第7話
船首がこちらへ向きかけたその瞬間、隣にいた介添え役の男が櫂を大きく動かし、舟の向きをまっすぐに戻した。だが、その拍子に、男がこちらを振り向いた。それは、なんと慎吾だった。慎吾は晃平の一番の親友だ。未桜は心臓が喉元までせり上がるような感覚に襲われた。彼女は新郎から目を離せなくなった。どう見ても見覚えがある。胸の奥に強い違和感が広がり、同時に馬鹿げた考えが頭をよぎった。どうして一瞬でも、あの新郎が晃平だと思ったのだろう?そんなはずがない。あまりにも馬鹿げている!それなのに、胸にまとわりついた奇妙な予感は、どうしても消えてくれなかった。直樹は楽しそうな声を上げ、彼女の腕を引いた。「未桜、見て!先頭の舟、アイリスの花でいっぱいだよ。すごくきれい!」その言葉は雷鳴のように、未桜の頭の中で轟いた。晃平が以前言っていた言葉が蘇る。「未桜、結婚するときは、俺たちの舟をアイリスでいっぱいにしたい!絶対、どこにもない特別な舟になるから!」胸が大きく沈んだ。ありえない。絶対にありえない!あの新郎が晃平のはずがない。未桜は胸の奥から込み上げる動揺を無理やり押さえ込み、必死に自分に言い聞かせた。だが頭の中では、これまで見過ごしてきた数々の出来事が、次々と脳裏に蘇った。一つ、また一つ。進水式の日、騒ぎもせず、ただ静かに自分を見つめていた晃平の目。「元彼がここにいたら、邪魔だろ」と言ったこと。「別の人と結婚しようと思ってる」と告げたこと。そして、あの宝石のついた指輪を返したときの、どこまでも真剣な表情。あのとき未桜は、すべて自分に結婚を迫るための駆け引きだと思い込み、鼻で笑っていた。でも、もしあれが駆け引きではなかったとしたら?未桜は、それ以上考えることができなかった。慌ててスマホを取り出す。手が震え、何度もロックの解除に失敗し、ようやく画面を開くことができた。震える指で晃平に電話をかける。だが、聞こえてきたのは、電源が入っていないことを告げるアナウンスだけだった。未桜の呼吸が、一気に重くなった。春だというのに、手足の先が冷たくなっていく。思うように動かない指で、晃平とのトーク画面を開いた。最後に残っていたのは、自分が送ったメッセージだった。【晃平、いつ
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第8話
直樹が後ろから未桜をつかんだ。「未桜、落ち着け!」だが未桜はその手を振り払い、直樹を脇へ押しのけた。なおも叫ぼうとしたそのとき、厳しい声が彼女を呼び止めた。「未桜」振り返ると、そこに立っていたのは晃平の母親・瀬戸綾子(せと あやこ)だった。「あなた、ここを台無しにしに来たの?」未桜は助けを求めるように、大股で綾子のもとへ歩み寄った。「おばさん、これはどういうことですか?どうして晃平がここにいるんですか?しかも、どうして新郎になってるんですか!私たち、もうすぐ入籍するんですよ!」その言葉を聞いた綾子は、呆れたように笑った。そして嘲るように直樹を一瞥した。「何を言ってるの?そっちが桐生社長の彼氏なんでしょう?うちの晃平と、入籍するなんて、ご冗談を」未桜の顔から、一瞬にして血の気が引いた。声も少し小さくなり、そこには本人も気づかないほどの後ろめたさが滲んでいた。「違います、おばさん。直樹のことは……兄のように思ってるだけで……私と晃平は7年も付き合ってきたんです!晃平とはもう約束してます。明日、入籍するって……」綾子は声を上げて笑った。「自分でも分かってるのね。あなたがうちの息子の7年を無駄にしたってこと!じゃあ聞くけど、あなたがうちの息子と結婚するというなら、婚礼の舟はどこにあるの?私が知ってる限り、あなたが初めて造った舟は、とっくにその大切な『お兄さん』にあげたんでしょう!」未桜の額には、すでに薄っすらと汗が滲んでいた。彼女は慌てて弁解しようとした。「違うんです。ただ、直樹の誕生日のお願いを一つ聞いてあげただけで……晃平のための舟はもう造り始めています。私は本当に晃平と結婚するつもりで……」綾子の顔から笑みが消えた。その言葉が、かえって彼女の怒りに火をつけたようだった。「もういい、未桜!この水郷のしきたりを知ってる女なら二艘目の婚礼の舟なんて造らない!聞くけど、この7年間、晃平がこれまで何度、あなたに結婚したいって伝えてきたと思ってるの!はっきり言ったことも、遠回しに伝えたことも、一度や二度じゃないでしょう!それなのに、あなたはあの子に何をしてあげたの?」未桜はよろめくように一歩後ろへ下がった。「私は……」だが綾子は冷笑を浮かべ、その言葉を遮った
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第9話
人影は次第にまばらになり、新郎新婦も次の会場へ移っていった。直樹は、力なく地面に座り込んだ未桜を見つめ、静かに口を開いた。「未桜、僕……晃平さんが今日結婚するって、ずっと前から知ってたんだ」未桜は勢いよく顔を上げた。その目には信じられないという色が浮かんでいた。「だから……ずっと私を引き止めてたの?」直樹は頷いた。「僕はただ、分かってほしかったんだ。あの人は本当は未桜のことなんて愛してない!僕はずっと前から未桜が好きだった!どう考えたって、晃平さんより僕のほうが未桜に合ってる!未桜だって僕を愛してるんだろ?」未桜はきつく目を閉じた。心臓を見えない手で握り潰されるようだった。晃平は永遠に自分を待ってくれると思っていた。少し機嫌を取れば、すぐに許してくれると思っていた。ただ入籍さえすれば、自分が他の男ばかりを特別扱いしてきたことも、裏切ったことも、すべて帳消しにできると本気で思っていた。なんて愚かだったのだろう。再び目を開いたとき、その瞳には迷いのない決意が宿っていた。「直樹、あなたとの約束は果たした!でも、あなたと付き合うつもりはない。私はずっと、あなたのことを家族みたいに思ってた。あの夜のことは……私が間違ってた」それを聞いた直樹は、思わず笑い声を漏らした。「未桜、自分の家族と寝る女がどこにいるんだよ?」未桜は目を伏せた。声は掠れていた。「それは私が悪かった。償いなら何でもする。でも、私が欲しいのは晃平だけ」そう言い残すと、背後から直樹が大声で呼び止めたが、未桜は振り返らず、その場を去った。その後、未桜は半月をかけて、もう一艘の手漕ぎ舟を造り上げた。そして、晃平の居場所を探し始めた。慎吾に連絡すれば、「二度と近づくな」と突き放された。晃平の両親の家を訪ねても、玄関にすら入れてもらえなかった。どうすることもできず、未桜は水原家の会社の近くで、目立たないように彼が現れるのを待ち続けた。そして3か月後。ようやく、晃平に会うことができた。そのとき晃平は、手にランチボックスを持ち、ちょうど車から降りたところだった。ダークグレーのコートをまとい、髪は以前より少し短くなっている。その瞳は明るく輝き、以前よりもずっと格好よくなったように見えた。未桜は急いで前へ出て、彼の行
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第10話
未桜は全身から力が抜けたように、その場に立ち尽くしていた。ただ、晃平がランチボックスを手に、あのビルの中へ入っていく後ろ姿を見送ることしかできなかった。ふと、昔のことを思い出した。未桜はいつも朝食を抜いていたせいで、よく胃を悪くしていた。そんな彼女のために、晃平はあれこれ工夫して胃に優しい雑炊を作ってくれた。仕事を終えて家に帰ると、食卓にはいつも、彼女のために雑炊が一杯残されていた。しかも、同じものが出てきたことは一度もなかった。「未桜、早く飲んでみて!今日は新しい味だぞ。絶対、胃もぽかぽかになるから!」けれど今も、晃平は変わらず誰かのために雑炊を作っている。ただ、もう自分のためではない。未桜は両手で顔を覆った。そしてとうとう堪えきれなくなり、声を上げて泣いた。……晃平と再び会ったのは、それから5年後のことだった。未桜の母親に頼まれた従妹は、半ば無理やり未桜を外へ連れ出した。あるショッピングモールで、未桜は双子の女の子を見かけた。二人はこっそり、一つのアイスを分け合っていた。「早く食べて!パパに見つかっちゃうよ!」「次は私!私が一口食べる番!」未桜は思わず、二人に見入ってしまった。二人があまりにも晃平に似ていたからだ。すると、そばにいた女性から声をかけられた。「桐生社長、お久しぶりです。こんなところで会うなんて偶然ですね」顔を上げると、そこにいたのは香澄だった。その瞬間、未桜は目の前の世界がぐらりと揺れたような気がした。少し離れたところから、晃平が足早にこちらへやって来る。「香澄、またこの子たちにアイス買っただろ!」だが、そばに知らない人がいることに気づくと、すぐに表情を改めた。「香澄、こちらの方は?」未桜の体がびくりと震えた。未桜は思わず背中を丸め、小さく縮こまった。香澄は口元に笑みを浮かべた。「前に仕事でお付き合いのあった方よ」やがて、晃平たち一家はその場を離れていった。未桜の耳には、香澄と二人の娘を晃平がぶつぶつと叱る声と、三人の楽しそうな笑い声が遠ざかっていった。その声を聞きながら、未桜の頬を涙が伝った。しばらくして、従妹がお菓子を山ほど抱えて戻ってきた。「お姉ちゃん、今日はこれ、全部ちゃんと食べてよ。ここ数年でどれだけ痩せたと思っ
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