LOGIN私が死んで2年後、夫の神崎怜司(かんざき れいじ)は幼なじみの榊原紗季(さかきばら さき)のために角膜を提供しろと私に迫った。 角膜を自発的に提供する旨の同意書まで持って家に来たのに、そこには誰もいなかった。 仕方なく、夫はマンションの管理人に私の行方を尋ねた。すると、返ってきたのは思いもよらない言葉だった。 「神崎結衣(かんざき ゆい)さんですか?もう亡くなっていますよ。臓器提供の手術を受けたあと、薬を買うお金がなくて、全身に感染が広がり、助からなかったそうです」 夫は信じなかった。私が彼の幼なじみを見殺しにするためについた嘘に違いないと思ったのだ。管理人を指さし、怒鳴りつけた。 「結衣にいくらもらって、あいつと一緒に俺をだましてる!前は肝臓を少し提供させただけだろう。あんな簡単な手術で、死んだふりまでするのか! 3日以内に顔を出さなければ、足の不自由な父親の治療は打ち切る。そう伝えろ!」 そう言い捨て、ドアを乱暴に閉めて出ていった。 怒りに肩をいからせた後ろ姿を見送り、管理人はため息をついた。 「でも、お父様も娘さんの死を受け入れられず、とっくに川に身を投げて亡くなっているんですが……」
View More結局、紗季は殺人罪と詐欺罪に問われ、両方の罪を併せて無期刑を言い渡された。収監の日、パトカーに乗せられようとした紗季が、突然取り乱して暴れた。怜司のいるほうに向かって叫ぶ。「怜司!私にこんなこと、しないで!私は目が見えないのよ!何も見えないの!私に言ってくれたこと、忘れたの!」怜司は立入規制線の外に立っていた。全身黒ずくめで、顔には何の表情もなかった。パトカーがサイレンを響かせて走り去ってから、ようやくゆっくり目を閉じた。一滴の涙が黒いカフスボタンに落ち、小さく弾けた。私は彼のそばに浮かび、彼が背を向けて斎場へ向かうのを見ていた。3年間預けられていた骨壺を渡しながら、職員が気の毒そうに言った。「結衣さんのご遺骨は、ずっと引き取りにいらっしゃる方がなくて。私どもは、てっきり……」怜司は骨壺を受け取った。手に伝わるのは、冷たさだった。きつく胸に抱き、表面に記された私の名を指先でなぞる。その手つきは、壊れやすい宝物に触れるように優しかった。「結衣、迎えに来たよ。家に帰ろう」埋葬先に選んだのは、郊外の霊園だった。背後には緑の山があり、目の前には湖が広がっていた。私が生きていたころ、静かな湖を見たいといつも話していたのだと、怜司は言った。彼は自分で墓石を選んだ。その墓石には、私の名前と生没年月が刻まれていた。それから、小さな一行。【二人の心を、一つに結んで】付き合い始めたころ、私が彼に読んで聞かせた言葉だった。とっくに忘れてしまったと思っていた。埋葬の日、親戚も友人もいなかった。彼ひとりだけだった。墓の前にしゃがみ、骨壺をそっと納める。土をかけながら低い声で話しかける様子は、昔、何度も一緒に過ごした、何でもない夜のようだった。「結衣、ごめんな。こんなに長く待たせて。お前が作るミネストローネ、いつも味が薄いって文句を言ってたよな。今は飲みたくてたまらないのに、もう飲めないんだな。お義父さんのお墓も移したよ。すぐ隣だ。これで二人とも、寂しくないだろう。俺が間違ってた。本当に、わかったんだ……お前がまだ生きていたら……もう一度だけ、やり直す機会をくれたかな」とりとめもなく話し続けたが、やがて声が詰まり、墓石にすがって泣き崩れた。私は背後から抱きしめようとした。けれど、そのたびに手は彼の体をすり抜けた。死んだ私には、慰めてあ
怜司は長い間、床に座り込んで泣いていた。声も出なくなり、涙も枯れてから、ようやくゆっくり顔を上げた。目はひどく赤く腫れ、頬には涙の跡が残っていた。けれど、そのまなざしは少しずつ変わっていた。氷のように冷たく、鋭い憎しみを帯びた目に。そばに浮かんで見ていた私は、なぜか胸がきゅっと縮んだ。怜司はベッドに手をついて立ち上がった。少しよろめいたが、その動きに迷いはなかった。紗季はまだ言い訳を続けていた。「怜司、聞いて。あなたが思ってるような話じゃないの……」怜司は答えず、決して許せない仇でも見るように、ただ彼女をにらみつけた。スマホを取り出し、すぐに電話をかけた。「もしもし、俺だ。一番腕のいい弁護士を探してくれ。そうだ、今すぐだ。それから」ひと呼吸置き、感情の読めない声で続けた。「紗季の後ろ暗いことを、全部洗い出せ。できる限り詳しくな。警察にも連絡しろ。3年前に結衣の父親が溺死した件で……重要な手掛かりがある、と」紗季の顔が真っ青になった。必死に手を伸ばし、スマホを奪おうとする。「怜司!正気なの?私たち、こんなに長く愛し合ってきたじゃない……」怜司は乱暴に突き放した。紗季は危うく床に倒れそうになった。「紗季、お前が愛情を語れるのか?俺をだました年月も、利用したことも、結衣とその父親を死なせたことも。今日からひとつ残らず、けじめをつけてもらう」紗季は完全に取り乱した。その声は恐怖に染まっていた。「怜司、そんなことしないで!まだ目が見えないのよ!刑務所になんて行けない!一生守るって言ってくれたじゃない。忘れたの?」「守る?」怜司は笑った。目には、少しも笑みがなかった。「俺の目が節穴だった。こんなひどい女を宝物のように大事にしてたんだからな。だが、もう目は覚めた。お前とは、ここできっぱり縁を切る」背を向け、外へ歩き出した。一歩ごとに痛みをこらえるようでいて、その足取りは揺るがなかった。ドアの前で立ち止まり、振り返らずにひと言だけ残した。「覚えておけ。結衣と父親の無念は、法の場で晴らす。俺の手で、お前にも必ず償わせる」ドアが大きな音を立てて閉まり、紗季の泣き声も罵声も向こう側へ遮られた。廊下に出た怜司は、壁にもたれ、深く息を吸った。茶封筒から、私の写真を取り出した。写真の中の私の頬を、指先でそっとな
紗季の嘘をまだ受け止めきれずにいる怜司に、さらに残酷な事実が突きつけられた。「あのとき、奥様のお父様は自殺したのではありません。調査の結果、当時の目撃者と、鮮明ではありませんが犯行の様子を捉えた防犯映像が見つかりました。……榊原さんです。あの方が、奥様のお父様と激しく言い争い、手を下したんです」私は怜司のそばを漂い、みるみる血の気が引いていく顔を見ていた。何かに心臓を握り潰されるようだった。隠されていたあの日の出来事が、ようやく明かされる。秘書は、痛ましそうな声で話を続けた。「目撃者の話では、お父様は奥様が肝臓を提供して亡くなったことを知り、榊原さんのもとへ抗議に行ったそうです。自分の娘を死なせた、と。ですが榊原さんは悪びれもせず、奥様を役立たずだとあざ笑ったそうです。『私のドナーになれただけでも、ありがたく思うべきだ』とまで……お父様は激怒し、つかみかかりました。そのもみ合いの中で榊原さんに突き飛ばされ、足元がふらついて、川に落ちてしまったんです……榊原さんは、そのまま逃げています。あとからご遺体が発見されたのですが、周囲には、お父様が娘さんを亡くした衝撃に耐えられず、川に身を投げたと話していたそうです……」そのひと言ひと言が、怜司の胸を重く打った。彼は真っ青になり、秘書が呼びかける声さえ耳に入らなくなった。私は彼を見ながら、父のことを思い出していた。一生を実直に生きた父。足が悪いのに、いつも私に温かいご飯を作ってやると言っていた。私が「家のご飯が食べたい」と言っただけで、杖をつき、停留所3つ分の道のりを歩いて会社まで届けてくれた。私が死んだあと、写真を抱え、気を失いそうになるほど泣いていた父……父はただ、私のために責任を問おうとしただけなのに。あんな最期を迎えるなんて。その父を死なせた女を、怜司は宝物のように大切に守っていた。怜司は勢いよく顔を上げ、取りつかれたように病室へ走った。私もあとを追った。彼は病室のドアを一気に押し開けた。紗季はまだベッドの背もたれに体を預けていた。物音に、不思議そうに顔を向ける。「怜司?どうしたの?」怜司はベッドに駆け寄り、彼女を指さして叫んだ。「お前だ!結衣を死なせたのは、お前だ!結衣の父親を殺したのもお前だろう!この嘘つき!人殺し!」紗季の顔色
電話の向こうの声がまだ耳に残るうちに、怜司の目から不意に涙がこぼれた。一滴、また一滴と死亡診断書に落ち、紙の端の文字をにじませていく。怜司も、悠真の言葉を思い出しているのだろう。「あのとき君を捨てたのは、紗季のほうだ。学外の金持ちの男に乗り換えたんだよ。結衣は何も言わず、ただ一途に君に尽くした」怜司は深く息を吸い、袖で涙を拭った。床に落としたスマホを拾い上げ、言葉を続けた。「瀬川、もうひとつ調べてくれ……紗季の大学時代のことだ。ほかの男と付き合っていなかったか、特にそこを詳しく。わかることは全部だ」電話を切ってからも、長い間その場に立ち尽くしていた。やがて、病室から紗季の声が聞こえてきた。「怜司?そこにいるの?」彼ははっと我に返り、深呼吸してからドアを開けた。紗季は目を覚ましていた。腕で体を支えて起き上がり、両目にガーゼを巻いたまま、入口のほうへ顔を向けた。「さっき、あなたの声が聞こえた気がして。何かあったの?」怜司は歩み寄り、紗季の青白い顔を見つめた。その表情は、ひどく複雑だった。彼がわざと目をそらしてきた疑問が、今になって次々と浮かんでいるのだろう。少し間を置き、彼は静かに言った。「紗季、聞きたいことがある」「なあに?」「あのとき……どうして急に別れようと言った?結衣が俺たちの間で話をねじ曲げて、わざと仲を裂こうとしたんだって、お前は言ったよな。本当なのか?」紗季の手が、見逃しそうなほどかすかに震えた。すぐに眉を寄せ、傷ついたような声を出す。「怜司、急にどうしたの?あのときのことは、もう話したでしょう。結衣さんのせいよ!あの人はずっとあなたが好きで、私たちが仲よくしているのが嫌だったの。だから、嘘をついたのよ。あなたが私とは釣り合わないと思っていて、もう付き合いたくないって……私は頭に血が上って、それで別れようって言ったの」切実な語り口だった。まるで、あのころ受けた傷を今も抱えているかのように。「あとになって後悔して、あなたに説明したかった。でも、そのときにはもう、あなたはあの人と付き合っていて……二人を見ていることしかできなくて、胸が張り裂けそうだった」怜司は何も言わず、ただ彼女を見つめていた。長い沈黙に居心地が悪くなったのか、紗季はさらに言葉を足した。「大学2年の、あの夏
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