LOGIN「お巡りさん!これは私に対する誹謗中傷です!でたらめを言ってるんですよ!早く捕まえてください!」翠には微塵も動揺した様子はなく、何の恐れもない様子で声を張り上げた。それを聞いた警察は、あろうことか翠に合わせて嘲笑し、冷ややかに蘭を一瞥した。「証拠を持ってきてください。話をするのはそれからです。15年に事件として立件されなかったということは、当時あなたが提出した証拠が不十分だったということでしょう。これ以上、作り話をするのはやめたほうがいい。翠さんは青木社長のお母様なんですよ。根拠もなく中傷すれば、あなたのほうが罪に問われる可能性だってあるんです」蘭は鋭い眼光を相手へ向けた。「調べてもいないのに、私が嘘をついていると決めつけるんですか?」蘭が言葉を言い終わるか終わらないかのうちに、ドアの向こうから充の冷たく響く声が聞こえてきた。「適当なことを言うのはやめろ!今すぐ母さんに謝れ!」充は強い口調で言い放つと、足早に翠のもとへ駆け寄り、反射的に母親を庇うように前へ立った。美紀も続いて中に入ってきて、すぐに翠の腕を取って、心配そうな表情を見せる。左右から翠を守る二人の姿は、まるで本当の親子三人のようだった。その光景を見た瞬間、奈緒の胸に鋭い痛みが走る。彼女はすぐに蘭の腕を取り、冷たく言い放った。「謝るわけがないでしょ!充、これが誹謗中傷かどうか、誰よりもあなたが分かってるはずじゃないの?」充は数日前に、まさに写真と録画を理由に自分を脅してきたばかりだった。充こそが当時何があったのか一番知っているのに、いまは身内を守るために平気で嘘を並べている。やはり充にとって、家族は何よりも優先される存在なのだ。奈緒の心は、ますます冷えていった。充は、真っ直ぐに奈緒の瞳を見つめ返した。「奈緒、お前もお前の母親と同じように理性を失っているのか?俺たちはまだ離婚していない。俺の母さんはお前にとっても義理の親なんだ!なのにお前は自分の母親をたきつけて、俺の家族を窮地に追い込むのか……本当に失望したよ!」奈緒のなかの怒りが、一瞬にして爆発した。そして、充のポケットに携帯があるのを確認した奈緒は、何も言わずに彼の懐へと飛び込んだ。まさかの抱擁に充は不意を突かれ、冷徹な表情の裏にわずかな狼狽が浮かんだ。「奈緒
警察署の前に到着した蘭は、翠の髪を掴んで車から引きずり出すと、殺気立った様子で署の中へと向かった。奈緒はその背中を追いかけながら、携帯で素早くメッセージを打ち込む。【お兄ちゃん、お母さんは本気で決着をつけるつもりみたい】すぐに返信があった。【何があったんだ?】【お母さんが充の母親を捕まえて警察署まで連れてきたの。当時の件を全部清算するつもりみたい】ギルの返事は簡潔だった。【安心しろ。好きにやらせればいい。俺が全部面倒を見るから】話の早い相手ほどありがたい。これだけのメッセージで意思疎通は終わった。奈緒は携帯をしまい、軽い足取りで中へ入っていく。「何してるんですか?まずは、髪を離してあげてください。話なら落ち着いて話しましょう!」入口では、すでに一人の警察官が待ち構えていた。蘭が翠を引きずって入ってくるなり、大声で制止する。すぐに2人の警察が割って入ってきて、蘭を引き剥がすと、その両腕を左右から押さえ込んだ。警察は翠に向かって丁寧に尋ねた。「大丈夫ですか?青木社長のお母様の翠さんでしょうか?」この様子を冷ややかに見つめていた奈緒は、すでに誰かが手を回しているのだと確信した。翠は味方が来たと言わんばかりに大声を張り上げる。「そうです、私です!早くこの最低な人たちを捕まえてください!本当に恐ろしい人たちなんです!頭皮が剥がれそうなほど、髪を引っ張られたんですから!」翠は苦悶の表情を浮かべ、自分の頭皮をさすった。署に着くまで手を緩めなかった蘭の握力は凄まじく、翠の頭皮は痛みで痺れるほどになっており、悲鳴すら上げられなかったのだ。今や警察官は救世主そのものだった。まるで家族に対するように、必死に警察官の腕へしがみつき、奈緒たちから少しでも離れようとする。「青木社長のお母様はあちらで休んでください。後はこちらに任せてくだされば結構ですから」警察官は穏やかに翠をなだめた。しかし蘭へ向き直った途端、その表情は一変する。「どういうつもりですか?白昼堂々こんな暴力を振るって、法律を何だと思っているんですかね?」翠は意気揚々と椅子に腰を下ろし、足を組んで、勝ち誇ったように蘭を眺めた。「その通り!厳しく処分してください!」蘭は淡々と、まっすぐ警察の目を見つめた。「被害届を出しに来
美紀は電話越しに怒りをあらわにして罵声を浴びせた。充の薄い唇は固く結ばれ、その瞳には凍りつくような怒りが宿る。息子でありながら母親一人守れないようでは、人として失格だ。胸の奥で怒りが一気に燃え上がった充は、そのまま電話を切ると、すぐ奈緒へ電話をかけた。その頃、奈緒は警察署へ向かって車を飛ばしていた。着信画面を一瞥したものの、出る気などさらさらない。3度続けて電話をかけたが繋がらなかった充は、今度は蘭へ電話をかけた。蘭が出るや否や、充の低くおぞましい声が受話器から響いた。「お義母さん!俺の母さんを連れて行ったって?どうしてそんなことを?話し合えば済むことだろ?」蘭は翠の髪を掴んだままだったので、翠の顔は痛みで真っ青になっていた。こんな扱いなどされたことのない翠は、今にも泣きそうになりながら必死に口を押さえている。だが、充の声を聞いた途端、救いが来たと思ったのか、大声で叫び出した。「充!早く助けて!この人たち、私を警察へ突き出そうとしてるの!助けて!私、刑務所入りたくない!充!痛い、痛いの!この女に髪を全部抜かれそう!」パシッ!喚き立てる翠に我慢の限界がきた蘭が、迷わず平手打ちを食らわせた。蘭の鋭い眼差しに気圧された翠は、反射的に口をギュッと結び、それ以上声を上げる勇気を失った。「母さん!無事か?母さん!一体何があったんだよ?」受話器越しに翠の悲鳴を聞いた充は、電話の向こうへ向かって必死に叫ぶ。だが次の瞬間、乾いた平手打ちの音が耳に飛び込んできた。その音を、嫌というほど知っていた充。いつも奈緒が自分に叩きつける時の、あの刺すような衝撃と全く同じ。そして翠の悲鳴が止むと、代わりに落ち着いた、少しかすれた中年女性の声が聞こえてきた。「これは、私と翠との問題。どうしても首を突っ込みたいなら来なさい。警察署で待ってるから」蘭はそう言い捨てると、迷いなく電話を切った。充の全身から血の気が引いた。数秒後には、逆に怒りで血が沸騰する。つまり、さっきの音は、蘭が翠に平手打ちを叩き込んだもの。しかも警察で会おうだと?完全な侮辱だ。自分など眼中にないと言わんばかりの態度だった。充の怒りが胸の中で爆発する。彼は点滴の針を引き抜くとベッドから飛び降り、制止する看護
さっきまで充の病室で気絶していた翠は、まだ本調子ではない。あっという間に押さえ込まれ、泣きそうな顔で命乞いを始めた。「私が悪かったわ。放して……帰ったらすぐ消すから。本当に、すぐに消すから」蘭は目を細めた。「あんたの言葉なんて、信用できるわけないでしょ?もう何年も経ったんだもの。そろそろ……あんたたちときっちり決着をつける時が来たみたいね。一緒に来なさい」蘭は翠の髪をぐいっと掴み、冷たい目で、外へと引きずっていく。翠は恐怖で全身が震えた。逃げようとしたが、髪を引っ張られていて、頭皮が焼けるように痛い。「ど……どこに連れて行くつもりなの?」蘭は目を細めた。その瞳に温度は一切ない。「警察署」翠の顔から一瞬で血の気が引いた。「そんな……」「さっき自分で言ったじゃない。昔、私を貶めた写真や動画があるって……私はね、その証拠が残っていないことだけが悔しかったの。これでようやく、あんたたち全員に罪を償わせられる」翠は震えながら叫ぶ。その体は恐怖で震えていた。「警察へ行ったら、あなたのことも全部世間に知られるのよ?」蘭は冷たく笑った。「世間に知られることなんて怖くない。怖いのは、あんたたちみたいな卑劣で下劣な連中が、何の罰も受けずに生きていくことだから。行くわよ!」この時、蘭の瞳には冷たい光しかなかった。その姿はまるで戦場から敵将の首を引きずって帰る女武将のようだった。奈緒は呆然と立ち尽くす。母にとって、あの写真や動画は一生消えない悪夢だと思っていた。だが違った。母は自分よりずっと強く、勇敢だった。翠を警察署へ連れて行く?母は本当にやるつもりだ。どうやら、母は弱くなかったらしい。過去と向き合い、自ら終止符を打つ覚悟を、もうとっくに決めていたのだから。奈緒は小さく笑みを浮かべると、すぐ蘭の後を追った。「ねえ!放してよ!痛いっ!もっとゆっくり歩いて!待って!警察署だけはやめて?私……私たちどこかで話をしよう、ね?きゃあああっ!」翠は道中ずっと許しを乞い続けたが、蘭は聞く耳を持たなかった。翠が叫べば叫ぶほど、蘭の髪を掴む手に力がこもる。頭皮ごとむしり取られそうな痛みに、翠は悲鳴をあげた。頭皮が剥がれるような激痛に、翠は涙を流しながら付いていくしかなかった。やがて二
夢香は怪訝そうに言った。「そんなわけないでしょ。病室のエアコンは22度設定なんだから……」その時だった。ベッドの上で、充がゆっくりと目を開けた。意識はまだぼんやりとしていて朦朧としていたが、さっきの会話はすべて耳に入っていた。美紀の本当の生い立ちを知った瞬間、充は思わず口元を緩める。どんな形であれ、この世に美紀を心から大切にしてくれる家族が増えた。もう彼女は独りぼっちじゃない。それが……ただ嬉しかった。……奈緒は蘭の再検査のため、一緒に病院を訪れていた。診察の結果、体調はすべて正常で、手術は成功し、現時点で後遺症なども見られない。奈緒と蘭は心から安堵した。「お母さん、クラブ・ノクターンは改装したばかりでシックハウスが心配だから、あんまり行かないほうがいいよ。もう店はプロの人に任せちゃえばいいの。今はお金に困ってるわけじゃないんだし。私も今、大規模なプロジェクトをいくつも抱えていて忙しくなるから、黎のこと、お母さんと黒崎さんにお願いすることになっちゃうかも。でも、お金が必要なら遠慮なく言って。私も自分でしっかり稼げるし、お兄ちゃんから貰ったお小遣いもあるから、暮らしていくには十分だよ」奈緒にそう言われた蘭は嬉しそうに笑った。「そうね。私もそうしようと思っていたの。今まで散々働いてきたんだから、これからは少しゆっくりして、黎を育てて、花や草を眺めながら穏やかに暮らしたい……奈緒、私たちにもようやく希望のある人生が来たわね」奈緒が答えようとしたその時、背後から突然、冷ややかな声が響いた。「そっちは幸せになれていいわね。でも私の生活は、めちゃくちゃよ。奈緒、ちょうどよかった。こっちへ来なさい。二人で少し話したいことがあるの」奈緒と蘭が振り返ると、そこには翠が立っていて、凍てつくような冷たい目線を二人に向けていた。奈緒は思わず額を押さえた。青木家の人間を見るだけで頭痛がする。「あなたと話すことなんて、私には何もないですから」翠は目を細めた。「あなたにとって悪くない話よ。それでも聞かない?」奈緒はわけがわからなかった。「青木家の人が私の前から消えてくれたら、それだけで私の人生は十分悪くないので、そんな話は結構です」蘭もまた、冷ややかな視線を翠に投げた。「そうよ。私の娘に二度と近づかな
ところが、提出していたデータから、思いがけず本当の父親が判明したのだった。相手はずっと美紀を探していたそうで、二人は昨日、無事に再会を果たしたばかりだ。驚いたことに、その父というのは、深津市の不動産業界で青木グループに次ぐ大手――盛岡地所の社長。なんと、美紀の本当の父親は盛岡保雄(もりおか やすお)だったのだ。保雄には二人の息子はいても娘はいなかったため、美紀との対面時もかなり感情を高ぶらせていた。ただ一つ心残りなのは、実母とはまだ会えていないこと。実母はずっと病気で寝たきりで、自宅療養を続けているという突然現れた大富豪の父親。しかも自分は一人娘……美紀は、自分には運があるのだと心の底から思った。保雄は認知したその日に、近く一族へ正式発表し、美紀の帰還を祝う盛大なお披露目パーティーまで開くと約束してくれた。そうすれば、美紀が盛岡グループの令嬢だということを、皆が知ることになる。その未来を思うだけで胸が躍る。そんなわけで、美紀は我慢しきれず、すぐに夢香へこの嬉しい知らせを伝えた。夢香は元々、充が奈緒と離婚したら、次は誰と付き合うのが良いかばかり計算していた。今回美紀が盛岡家に正式に戻ることになれば、充との間にあった親戚同士という壁も存在しなくなる。そうすれば、二人はお似合いというわけだ。美紀に子どもがいるとはいえ、あんな出所の知れない子供など、施設にでも送れば良い。充と美紀の二人の幸せを邪魔する理由にはならない。そもそも充と美紀は幼なじみで、互いに想い合っている。ただ「従兄妹」という関係だけが、最後の一線を越えさせなかったのだ。この親戚という関係さえなければ、とっくに結ばれて、これほど周囲を巻き込むような騒動にもなっていなかったはず。夢香は目を細めて、意味ありげに笑った。「お母さん、美紀はまだ報告してない嬉しい知らせがあるんだよ」すると、翠は青ざめたまま美紀の手を握る。その額には冷や汗が浮かんでいた。「美紀ちゃん、本当のことを言ってちょうだい。充と……まさか、そういう関係になったんじゃないでしょうね?」美紀の顔が瞬時に真っ赤に染まった。「そんな……そんなこと、私の口からは……」その様子を見て、夢香が慌てて割って入った。「お母さん、問い詰めるなんて野暮だよ!見れば分かるでしょ
「充、今日で赤ちゃんが産まれてから1ヶ月経つの。私たちを迎えに来てくれない?」青木奈緒(あおき なお)は、おくるみに包まれた娘を抱きながら、期待を押し殺した落ち着いた声で言った。しかし電話の向こう、夫の青木充(あおき みつる)は感情の起伏がなく、平坦な声で言った。「すまない、急に予定が入った。運転手にお前たちを迎えに行かせるよ」出産も、産後の大事な時期も、充はずっと仕事で忙しいと言ってそばにいなかった。今日は赤ちゃんと一緒に産後ケアの施設から帰る、記念すべき日なのに、やっぱり彼は来てくれない。奈緒は切なくなったが、それでもこぼれ落ちそうになる涙を必死にこらえた。「…
一方、荒れ果てたリビングを眺めながら、充は力なくソファに腰掛け、タバコに火をつけ、胸が締め付けられるように苦しかった。「井上、俺は奈緒に優しくしてこなかったかな?あそこまで怒ることないだろう?」恵は、床を掃きながら、そっと声をかけた。「旦那様は奥様にとてもよくしてらっしゃいますよ。ご結婚されてから5年、お二人が言い争うのを見たことがありません。ですが、子供を産んだ後の女性は気持ちが不安定になりやすいんです。産後うつにもなりやすいですし、旦那様の支えがもっと必要なんですよ」充は眉をひそめた。「産後うつだって言うのか?でも、他の女は子供を産んだって、こんなに変わったりしない。今
それから、蛍は奈緒が傷つくのを心配して、充から返信ひとつないことは、結局言い出せなかった。そして、奈緒が退院するまで、充は結局、姿を見せなかった。退院後、二人は黎と香織を連れて、碧瀾郷へと引っ越した。そこは、奈緒が半年前に入手した、リノベーション済みのマンションの一室だった。蛍の家はその真向かいの部屋で、隣同士に住むのは大学時代からの二人の夢だったのだ。だから半年前、蛍の向かいの部屋が売りに出されたと聞いて、奈緒は迷わず購入した。部屋には家具や家電が揃っていたが、まだどこか殺風景だった。蛍はすぐに自分の家から布団やポットなどの日用品を運んできた。奈緒は買い物リストを
「産後の回復がかなり遅れていますね。出産時に出血が多かったですし、低血糖で倒れやすい状態です。しっかり栄養をとって、気持ちをあまり高ぶらせないようにしてください」診察が終わっても、奈緒はまだ眠ったままだった。医師は病室で蛍に病状を説明した。隣で聞いていた香織が、ため息をついた。「奥様は産後の肥立ちが悪くて……最初の2週間はお乳が張って痛くて食事が喉を通らなかったんです。その後は赤ちゃんが夜泣き続きで……それでも奥様は自分で母乳をあげていたから、夜もまとまって眠れていませんでした。昼間は仕事もしていて、体が回復する暇もなかったんですよ」それを聞いて、蛍は怒り心頭になりそうだった。







