LOGIN「充、今は……あなたの顔も見たくない。もし私や黎に少しでも悪いと思ってるなら、お願いだから帰って。お願いだから、少し時間をくれない?今はもう、あなたと喧嘩する力も、張り合う力もないの……」そこまで言ったところで、限界が来たのか、奈緒の身体が大きく揺れた。充と仁哉が同時に手を伸ばす。しかし、奈緒は本能的に仁哉の方へ身体を傾けた。仁哉がすぐに受け止めた瞬間、その身体の異常な熱さに気づいた。異変を感じた仁哉は、すぐさま助けを呼ぼうとする。だがその光景を見た充は、胸をえぐられたような痛みに襲われた。仁哉の前に立ちはだかり、その腕を荒々しく掴んで鋭い眼光を向ける。「俺の妻だ!離せ。俺が連れていく」仁哉は焦った声を上げた。「今は揉めてる場合じゃない!奈緒さんの体が異常に熱いんだ。高熱に違いない。頼むから、どいてくれ!」仁哉は充の手を振りほどき、奈緒を抱き上げると、そのままナースステーションへ駆け出した。「すみません!先生を呼んでください!すごい高熱なんです!」奈緒を抱きしめたまま走りながら、仁哉は服越しにも伝わる異常な熱に焦っていた。さらに、抱き上げたその重さに仁哉は愕然とした。腕の中の奈緒は、驚くほど軽い。骨ばった身体が腕に当たるほど痩せている。昔の記憶にある奈緒は、もっとふっくらしていて、頬も丸く、元気いっぱいの女の子だった。それが今は、見る影もない。愛情のない結婚生活。出産後、十分に身体を休められなかったこと。妊娠と出産で消耗したまま、回復する間もなかったこと。そして黎を産んでからも、次から次へと起きた青木家との揉め事……考えれば考えるほど、仁哉の胸は痛んだ。出産は命がけだと言うけれど、その後も母親の生活はずっと続いていくのだから、本当に苦しいのは、出産の日だけではない。今の奈緒は、燃え尽きかけた蝋燭のようだった。このまま誰にも支えてもらえず、身体も心も休めることができなければ、本当に倒れてしまうだろう。黎を産んでからのわずか数か月で、奈緒はすでに何度も体調を崩していた。苦しませたのは充なのに、なぜか仁哉の胸には、どうしようもない後悔が込み上げた。もう何もしないでいることはできない。奈緒が毎日少しずつ枯れていくのを、ただ見ているわけにはいかないのだ。
仁哉の表情も険しくなった。奈緒の前にしゃがみ込み、落ち着いた声で語りかける。「奈緒さん、よく聞いて。もし本当に白血病だと分かって、治療が必要になったとしても、僕も君のお兄さんも、世界中を探して黎ちゃんに合うドナーを見つけるから。使えるものは全部使えばいい。きっと見つかる。まだ何も決まってないんだから、今から最悪のことばかり考えないで。もしかしたら本当に、ただの取り越し苦労で終わるかもしれないだろ?」仁哉を見つめた奈緒の瞳はひどく疲れていて、今にも壊れてしまいそうだった。「でも……もし本当に先生の言ったとおりだったら?私、充と離婚できないどころか……もう一人、子供まで作らなきゃいけないの?」奈緒は、それ以上は考えたくなかった。運命に悪趣味な冗談を仕掛けられているような気分だった。充とはもう修復のしようがないほど関係が壊れていて、一日も早く離婚してすべてを終わらせたいのに、もし黎の病気が本当に重くて、ほかに方法がなかったら……自分は充のもとへ戻り、もう一度子供を作らなければならないのか?そんなの……あまりに馬鹿げている。受け入れられるはずがない。奈緒の痛々しい表情を見て、仁哉の胸も締めつけられた。そしてその瞬間、ずっと胸の奥にしまっていたことを、もう隠しておくべきではないと思った。こんな状況を奈緒一人に背負わせるのは、あまりにも酷だ。仁哉は深く息を吸った。「奈緒さん、まだそこまで考える必要はないよ。もし……本当にそこまで追い詰められたとしても、僕が一緒に考えるから、絶対に君を一人になんかしない。それに、僕は君のこと……」ずっと胸の中で温めていた言葉が、今にも溢れ出しそうだった。心臓が急に速く打ち始め、呼吸までわずかに乱れる。今こそ伝えて、少しでも奈緒の支えになりたい。たとえ最終的に、黎を救うために充との間にもう一人子供を持つ道しか残されなかったとしても、自分は奈緒を責めない。どんな時も、奈緒の一番の支えでいたい。もしそれをきっかけに奈緒と充の関係が修復されるのなら、自分は身を引いて、子供たちの叔父のような存在でいればいい。それでも奈緒が充とはやり直したくないと言うのなら、そのときは自分が父親の代わりとして、彼女と子供たちを支えていく。仁哉の中ではもう答えが出ていたから、迷
充はまた黙った。ここまでいろいろなことが起きた今、美紀に対してはもう本能的な嫌悪感すらあった。正直、これ以上関わりたくないし、放っておきたい。それでも、完全には切り捨てられなかった。何年も前、美紀が充の寝室に入り込み、あと一歩で取り返しのつかない関係になりかけた夜、充は翠からある重大な秘密を聞かされていた。あの日を境に、充の中で美紀への感情は変わり、淡い男女の情のようなものは消え、完全に妹として見るようになったのだった。美紀のことは、幼い頃から知っている。だから、美紀が今どれだけ堕ちても、どんな人間になってしまっても、完全に見捨てることだけはできなかった。眉間にしわを寄せた充は、少し黙ったあと、結局引き受けることにした。「いつ行くつもりだ?」「お父さんが家で待ってるから、できればすぐに。時間が経つほど悪い印象が固まりそうで怖いし……」充は腕時計を見た。午後の2時過ぎ。潮咲市から深津市までは、車で1時間ほどの距離だ。「じゃあ、お父さんを夕食に誘ってくれ。この件は俺から説明してやるから」結局、充は美紀を見捨てきれず、自分が身代わりになることを選んだ。美紀の声がぱっと明るくなる。「充さん……やっぱり、いつでも私のことを一番に思ってくれてるのね!」充は何も答えず、そのまま電話を切った。看護師に黎の病室を聞こうと歩き出したそのとき、廊下の先に奈緒の姿が見えた。奈緒はひどく疲れ切っていた。足取りはふらついていて、目の下には濃いクマがあり、今にも吹き飛んでしまいそうなほど弱々しく見える。泣いたばかりのようで目は赤く充血し、顔色も真っ青だ。充の心臓が、きゅっと激しく締め付けられた。反射的に駆け寄ろうとした瞬間、奈緒の後ろから仁哉が急いで追いついてきた。倒れそうになった奈緒を、仁哉がしっかりと支え、そのまま横抱きにして近くの長椅子へ座らせる。その光景を見た瞬間、充の全身が凍りつき、無意識に拳を握る。今にも二人のところへ行こうとしたそのとき、会話が聞こえてきた。「奈緒さん、ダニエル先生は白血病の疑いがあるって言っただけで、まだ確定じゃないからそんなに思い詰めないで。黎ちゃんはまだ熱が上がったり下がったりしてるけど、専門の看護師を一人つけてある。今は君自身が倒れないことのほうが大事
美紀は深く息を吸い、少し離れた場所へ移動して電話に出た。「お父さん……」すると、電話の向こうから冷たい声が飛んできた。「美紀、お前はいったい何をしてるんだ?やっと盛岡家に戻ってきたと思ったら、いきなりあんな大騒ぎを起こして……今、うちがどれだけ恥をかかされてるか分かってるのか?保雄は海外出張から帰ってきた直後、チャリティーパーティーでの騒動を知らされた。年を重ねてからようやく娘と再会できたことが嬉しくて、保雄は大々的にお披露目の場まで設け、周囲にも堂々と美紀を紹介していたというのに、美紀から聞かされていた話は嘘ばかりだった。離婚して、子供を一人で育てていることは聞いていたが、その子供の出生にあんな事情があるとは知らなかったのだ。今回の騒ぎですべてが表沙汰になり、今では街の有力者だけでなく、国内の財界にまで、保雄のところへ帰ってきた娘が、結婚中に別の男との子供を産んでいたということが、知れ渡っている。保雄も二人の息子も、昔から身持ちは固く、家の中で多少揉め事があっても、外へ恥をさらすようなことは避けてきたのに、ようやく迎え入れた娘のせいで、一族全体が笑いものになってしまった。携帯を握る美紀の手が震える。彼女は慌てて言い訳を始めた。「お父さん、聞いて、そんなんじゃないの!今から帰るから、直接説明させて。お願い。私、本当に一方的に悪いわけじゃないの……」美紀は今にも泣きそうな声で話し、あたかも彼女自身が被害者のようだった。その声に、保雄の声も少しだけ和らぐ。「分かった。じゃあ、とにかく帰ってこい。話は家で聞くから」電話が切れた途端、美紀の胸に焦りが押し寄せた。今の自分は、青木家も佐野家も頼れない。盛岡家が逆転のための唯一の切り札だ。保雄とは再会してまだ日が浅いが、それでも本心から自分を可愛がってくれていることは分かる。この父親の愛情だけは、何としてでも失いたくないし、奈緒のせいで、ここまで手に入れたものを全部失うわけにはいかない。言い訳はすでに考えてある。だが、自分一人で話すだけでは弱いため、誰かに証言してもらわなければ、保雄も簡単には信じてくれないだろう。美紀の頭に浮かんだのは、充だった。今、頼れるのは充しかいない。きっと助けてくれる。これまでも、どんなことがあっても、充は本当の意味
もし本当に白血病なら、これからの治療費は底なしだ。しかも治る保証さえない。この話を聞けば、胡桃だって親権を取ろうなどとは言わなくなるだろう。充も、いつまでも黎のことで奈緒に振り回されることはなくなるはずだ。麟太郎にいたっては……長年東都の別邸に籠もっているような人は、この家の存続なんて最初から気にかけていないだろうし、何も期待していない。何度も奈緒にやり込められた夢香は、さすがに学習していた。今度は自分がこの家の参謀役になり、使える戦力をすべて集めて奈緒を徹底的に叩く。今、必死になって佳乃に取り入り、関係を深め、無限の希望を見せているのも……すべては佳乃という手を使って、奈緒を追い詰めるためだった。佳乃は嘲笑うような笑みを浮かべ、傲慢に言い放った。「奈緒さんは今、潮咲市にいるんでしょ?だったら自分から私の縄張りに入ってきたようなものじゃない。安心して。あの女を困らせる方法なんて、いくらでもあるわ」夢香は目を輝かせた。「いいわね。それと、充の気持ちも少しずつあなたに向けさせて。早く奈緒と離婚させて、奈緒とあの子どもから手を引かせるの。それがみんなのためになるんだから」美紀は聞いているだけで胸がざわついた。だが、今の状況では佳乃を味方につけておく必要があることも分かっているため、何も言えず、込み上げる悔しさを必死に飲み込む。帰国して奈緒と再会してからというもの、美紀は負け続けだった。かつては何不自由なく育ち、周囲からちやほやされていた自分が、今では見る影もない。警察の世話にまで二度もなった。拘束されていた間に出会った、あの恐ろしい女の顔を思い出すだけで、もう何もかも嫌になる。「美紀、そんなに落ち込まないで。これからあんたにも大事な役目があるんだから」沈んでいる美紀に気づき、夢香が肩を叩いた。美紀はぱっと顔を上げる。「夢香さん、私に何ができるの?私と充さんは昔から仲がいいし、私だって……」夢香は慌てて遮り、また意味ありげに目配せした。「充のことについては佳乃に任せておけばいいの。美紀には、もっと大事な仕事があるんだから。今、奈緒は娘が病気で、それどころじゃないでしょ?確か、盛岡グループってヤジン・デザインと契約を交わしているわよね?」美紀はすぐに意図を察した。「もしかして、お父
美紀の充への想いは、今もまったく変わっていなかった。むしろ、立て続けにいろいろなことが起こり、自分の手札が減っていくほど、充への執着は強くなっていた。充と奈緒さえ離婚すれば、いずれ充の隣に立つのは自分だと確信していた。二人は幼い頃から互いをよく知り、長年かけて築いてきた絆もある。しかも、どちらも一度結婚に失敗した者同士だ。さらには、盛岡家という後ろ盾もある今、以前のように世間体を気にする必要もない。何より翠は昔から母親以上に自分を可愛がってくれ、何があっても味方をしてくれた。だから、あとはタイミングさえ見つけて充に自分を受け入れさせれば、妻の座を手に入れるのも難しくないと、美紀は思っていたのだった。だが、そこに現れた佳乃という想定外の存在。頬を染める佳乃を目の前にして、さっきの言葉まで聞かされた美紀は、怒りで頭がおかしくなりそうだった。今すぐ佳乃にすべてを打ち明けて、充を諦めろと言ってやりたい。だが、そのとき夢香が鋭い目で美紀を睨んだ。「どうしてあり得ないの?佳乃は奈緒なんかよりずっといいじゃない。家柄もいい、仕事もできる、顔もスタイルも申し分ない……」夢香はこれでもかと佳乃を持ち上げながら、美紀には何度も目配せする。「充が本当に奈緒と離婚するなら、佳乃とはお似合いだと思うわ。ただ、今はまだ奈緒とあの子どものことが頭から離れなくて、意地になってるだけ。佳乃。本当に充が奈緒とあの子どもをきっぱり諦められるようにしてくれるなら、お願いできる?それに、離婚で財産を必要以上に持っていかれないようにできるなら、うちはみんなあなたに感謝するわ」夢香の頭の中では、すでに計算が始まっていた。チャリティパーティーで、奈緒が離婚の慰謝料を倍にするよう充に要求したことは、夢香もしっかり聞いている。ただでさえ奈緒のせいで家中がめちゃくちゃなのだ。そのうえ離婚するときまで大金を持っていかれるなど、冗談ではない。離婚そのものには大賛成だ。むしろ一日でも早く別れてほしい。だが、お金の面では一銭も出したくないのが本音だ。青木家が損をさせられるなんて、絶対におかしい。夢香は性格も考え方も母親の翠によく似ている。だから翠も同じことを考えているはずだ。黎の親権も奈緒に渡して構わないから、奈緒には何も持たせず離婚させる
それから、蛍は奈緒が傷つくのを心配して、充から返信ひとつないことは、結局言い出せなかった。そして、奈緒が退院するまで、充は結局、姿を見せなかった。退院後、二人は黎と香織を連れて、碧瀾郷へと引っ越した。そこは、奈緒が半年前に入手した、リノベーション済みのマンションの一室だった。蛍の家はその真向かいの部屋で、隣同士に住むのは大学時代からの二人の夢だったのだ。だから半年前、蛍の向かいの部屋が売りに出されたと聞いて、奈緒は迷わず購入した。部屋には家具や家電が揃っていたが、まだどこか殺風景だった。蛍はすぐに自分の家から布団やポットなどの日用品を運んできた。奈緒は買い物リストを
「産後の回復がかなり遅れていますね。出産時に出血が多かったですし、低血糖で倒れやすい状態です。しっかり栄養をとって、気持ちをあまり高ぶらせないようにしてください」診察が終わっても、奈緒はまだ眠ったままだった。医師は病室で蛍に病状を説明した。隣で聞いていた香織が、ため息をついた。「奥様は産後の肥立ちが悪くて……最初の2週間はお乳が張って痛くて食事が喉を通らなかったんです。その後は赤ちゃんが夜泣き続きで……それでも奥様は自分で母乳をあげていたから、夜もまとまって眠れていませんでした。昼間は仕事もしていて、体が回復する暇もなかったんですよ」それを聞いて、蛍は怒り心頭になりそうだった。
一方、音を聞きつけた恵が慌てふためいて部屋から飛び出してきて、声を張り上げた。「地震です!地震が来たんですよね?」そして、香織もギャンギャン泣いている赤ちゃんを抱っこしていたけど、その音を聞いて、裸足のままバッグを掴んで外へ飛び出し、靴を履くのも忘れてしまうほどだった。……しかし、二人がリビングに駆け込むと、いつもは冷静な奈緒が、狂ったように大切にしていた置物を次々と床に叩きつけていた。その光景に、二人はあっけにとられた。それを見て恵が慌てて駆け寄り、止めに入った。「奥様、おやめください!ちゃんと話し合ってください、奥様!」香織も泣きやまない赤ちゃんをあやしながら、
一方、奈緒は会場を出るとアクセルを踏み込み、二人の新居である水鏡ヶ丘の家へと車を走らせた。そして、ドアを開けると、昔からいる使用人の井上恵(いのうえ めぐみ)と、奈緒が雇ったベビーシッターの黒崎香織(くろさき かおり)が、一緒になって赤ちゃんをあやしていた。二人は、奈緒の顔が真っ青なのを見て、ぎょっとした。「奥様、どうかなさいましたか?」そう言われ奈緒は、なんとか笑顔を作って答えた。「なんでもないの。お腹が空いちゃって。温かいうどんかなんかを作ってくれる?」そして、香織から赤ちゃんを受け取ると、奈緒の荒れ果てた心は、そのあどけない寝顔を見てようやく落ち着きを取り戻した。