LOGIN電話の主は、琴葉の義姉である栗原家の長男夫人、芳恵だった。いつもより少し切迫した声が聞こえてくる。「琴葉さん、翠さんと静香さんが戻ってきたわ。名誉の回復のために、今夜クラウドラインでチャリティーパーティーを開くらしくて、深津市の上流階級の夫人たちは、ほとんど招待されている。あなたと蘭さんのところにも届くはずだけど……絶対に行っちゃ駄目。これは、あなたたちを嵌めるための罠だから。前回の件で翠さんたちが拘留されたでしょ?だから、みんな恨みを募らせているのよ。特に奈緒さんと仁哉くんのことは、相当恨んでるみたい。チャリティーを口実に、あなたと蘭さんに大勢の前で徹底的に恥をかかせるつもりみたい。翠さんたちが立ち上げたグループチャットに、無理やり追加されて誘われたけど、断ったら追い出されちゃったから、具体的に何をするつもりかまでは分からない。でも心配だから、先に知らせておこうと思って」芳恵は一気に事情を説明した。「チャリティーパーティー?」琴葉は鼻で笑った。その声には深い侮蔑がこもっている。「いかにもあの姉妹らしいやり方ですね。昔からチャリティー活動を隠れ蓑にして、奥様連中で派閥を作っては好き勝手やって……深津市の社交界をあれだけギスギスさせてきたの、私ずっと気に入らなかったんです。芳恵さん、先に教えてくれてありがとうございました。どうするかはもう決めましたから」電話の向こうで、芳恵が慌てる。「琴葉さん、あなたは昔から静かな暮らしが好きで、あの人たちの集まりには近づかなかったでしょう?今回も行かないほうがいいわ。あの人たちは家の力を笠に着て、何をするか分からない。昔、蘭さんがあんな目に遭ったことを思い出すだけでも、今でもぞっとするの……栗原家に力がないわけじゃない。でもあなた一人で乗り込むのは危険よ。私も主人の立場があるから、表立ってどちらかにつくわけにはいかないし……あなたが痛い目を見るんじゃないかって心配なの」琴葉の目が、すっと冷えた。「向こうが招待するなら、私は行きます。今回はもう、黙ってやられるつもりはありませんので。蘭がひどい目に遭ったとき、私がたまたま海外にいなければ、あんなことさせなかったのに……芳恵さん、大丈夫です。考えがあってのことですから」芳恵はなおも驚いた様子だった。「そんなの、琴葉さんら
琴葉はしゃくり上げながら奈緒の手を強く握った。「なんでなの?どうして青木家と佐野家に、私たちはこんなに踏み躙られているわけ?なんで翠さんはうちにはあれだけ要求しておいて、自分の家に嫁いできた奈緒ちゃんには一円も出さなかったの!?奈緒ちゃん、あなたの言うとおりだわ。もう我慢しちゃ駄目!世間体?品格?家の名誉?そんなもの、あの人たちを相手にしてるときまで守る必要なんてないわ!ろくでもない相手にまで品よく振る舞おうとするなんて、自分を苦しめるだけ!」琴葉は立ち上がった。酒が回っているせいで少し足元はふらついているが、その目だけは鋭く冴えている。「これからは二人で力を合わせて、必ず代償を払わせてやりましょう。佐野家と青木家が、どれほど私たちを追い詰めてきたか、深津市中の人間に晒してやる。相手が生まれたことを後悔するまで、徹底的にどん底に突き落としてやるわ!」その言葉に感化された奈緒も立ち上がり、杯を高く掲げて琴葉のグラスと派手な音を立ててぶつけた。「琴葉さんの言う通り、今日からはもう、泣き寝入りなんてしません!やられたら、きっちりやり返してやるんですから!」「復讐のために、乾杯!」琴葉は豪快にグラスを空けた。「復讐のために、乾杯!」奈緒も負けじと、一息で飲み干す。その時だった。「乾杯!そんな面白そうな話、私を抜きにするつもり?」勢いよく個室の扉が開いた。入ってきたのは、奈緒の母の蘭。琴葉からメッセージを受け取るなり、すぐにここへ向かったのだ。実は少し前から店には着いていたのだが、扉の外で二人の話を聞きながら、しばらく涙が止まらず、気持ちを落ち着けてからようやく入れたのだった。この大馬鹿娘。青木家であそこまで苦しめられていたくせに、母親である自分には何も言わず、それどころか充をかばって自分とまで喧嘩していたなんて。本当にどうしようもなく馬鹿な娘だ。それでも、やっと目を覚まして真実に気づいてくれた。蘭は奈緒の手から杯を奪うと、溢れんばかりに酒を注ぎ、迷わず一気に喉へ流し込んだ。奈緒は慌てて止める。「体、まだ治ったばかりでしょう?お酒は駄目だよ!」「薬はとっくに飲み終わってるから、少し飲むくらい平気。琴葉とずっと飲みたかったんだから、邪魔しないでよ。2、3杯飲むくらい大丈夫」蘭はそう言って
奈緒は思わず身を震わせた。「10億円?」いや、違う。仁哉が離婚したときに、美紀へは10億円もの金を渡しているから、それだけで総額が10億円を超える。奈緒は目を見開いた。「まさか……100億円?」琴葉はゆっくりとうなずいた。「そう。5年間の結婚で、結局何も残らなかったどころか、栗原家が実際に出したお金は、全部合わせて100億円」「……っ」奈緒の頭の中で、何かが弾けた。胸の奥から、猛烈な怒りが一気に噴き上がる。全身の血液が沸騰し、体が内側から焼かれるような感覚に襲われた。「栗原家の人って……人が良すぎますよ」奈緒はグラスのワインを一気に飲み干し、苦笑しながら琴葉を見た。「じゃあ、私が充と結婚していた5年間で、何を得たと思いますか?」琴葉は訝しげに眉をひそめた。「いくら?青木家だってこの街じゃ有数の資産家でしょう?まさか、うちが美紀さんに使った額と大して変わらないんじゃ……」奈緒はふっと自嘲の笑みを漏らす。すると、琴葉が聞いた。「10億円?」奈緒は悲しげに首を横に振った。「いいえ、マイナス1億円です」琴葉は信じられないとでもいうように、椅子から飛び上がった。「ちょっと待って!どういうこと!?」「私と充は、親の了承もないまま籍だけ入れたんです。いわゆる、結婚式も結納も何もない結婚でした。籍を入れてから充に連れられて青木家に行ったんですけど、彼の母親にいきなり『出ていけ。青木家にあんたの居場所なんてない』って怒鳴られて。だから、青木家からは本当に何ももらってないんです。住んでいた家だって、結婚前からの充の財産でした。結婚後も私は青木グループで普通にデザイナーとして働いて、給料はほかの社員と同じ。特別扱いなんてありません。家の生活費も日用品も、ほとんど私持ちです。充が一度カードを渡してくれたことはありましたけど、すぐ彼の母親に取り上げられました。あの頃の私は意地っ張りで、全部自分で何とかしたいと思ってたから、何も言わなかったんです。給料で足りなければ副業して、そのお金で生活費を出して、自分のことも、子供のことも賄ってました……黎を妊娠してから出産するまで、健診代も生活費も全部自分で払いました。充がしてくれたのは、産後ケア施設を秘書に予約させて、最初の予約金を払ったくらい。残り
長いため息のあと、電話は切れた。仁哉は携帯を握ったまま、しばらく動けなかった。真実が分かったあと、すぐ美紀と縁を切って、すべてを終わらせれば家族の生活も少しずつ元に戻る、そう思っていた。しかし、自分がしたあの結婚は、何十年も穏やかに暮らしてきた両親にとっても、人生を根底から揺るがすほど大きな出来事だったのだと、今になってようやく気づく。自分の結婚を心から喜んでいた両親だ。離婚した時、どれほど傷ついたのかは考えたくもない。孫ができたと喜んでいた分だけ、その子が自分たちと血のつながらない子供だと知った衝撃も大きかっただろう。それでも二人が平静を装い、寛大に振る舞っていたのは、自分たちまで悲しめば、仁哉がもっと苦しむと分かっていたから。だから、自分たちの痛みは自分たちで飲み込み、仁哉の前では何でもない顔をしていた。そして、それは仁哉も同じだった。この期間、何もなかったかのように仕事を続け、普通に生活しているように見せていた。だが実際には、毎晩酒の力を借りなければ眠れない。家の中から美紀と裕弥に関するものをすべて片づけても、胸の傷だけは消えなかった。表面は塞がったように見えても、奥ではずっと血を流し続けている。ただ、この家族はみんな、感情を表に出すことに慣れていなかった。長年染みついた品位と自制心が、人前で取り乱したり、悲しんだり、弱さを見せたりすることを許さなかったのだ。……奈緒と琴葉は近くの落ち着いた店に入り、奥の個室を取った。つまみをいくつか頼み、赤ワインを2本注文する。互いに3杯ほど飲んだ頃、琴葉はとうとう奈緒の前で涙をこぼした。騒動が起きてから今まで、誰かの前で泣いたのは初めてだった。奈緒がそっとティッシュを差し出すと、琴葉は鼻をすすり、声を詰まらせながら話し始めた。「奈緒ちゃん……私ね、あの子が本当に可愛かったの。もう、目に入れても痛くないって、こういうことなんだって思ったくらい。あの子が生まれてすぐ、私と宗時で、将来のことまで考えて保険も資産もたくさん用意したの。生命保険も、医療も、積立も……何かあっても一生困らないようにって、本当に全部考えた」琴葉の声は震え、涙が次々と頬を伝う。「だって、私の孫だと思ってたから。栗原家の血を引く、大事な子だって。母親の美紀さんがどれだけわ
琴葉はそう言い切ると、まるでこれから戦にでも出るかのように、威勢よく腕を振り上げた。「ぶっ!」仁哉は目を見開き、飲んでいた水を思いきり吹き出した。「母さん……今までずっと上品に生きてきたのに、今さら全部ぶち壊す気?」「そうよ!」琴葉は力強く頷き、声を張り上げる。「最近の奈緒さんのやり方、私ちゃんと見てたの!上品でおしとやかな女でいれば、周りからは褒められる。でもね、全然スッキリしないのよ!私ももう引退したんだし、これからは奈緒ちゃんみたいに、邪魔する相手は片っ端から蹴散らしてやるわ!肩書きも世間体も全部忘れて、怒りたいときは怒る、暴れたいときは暴れる、言いたいことは全部言うの!どうして栗原家が、青木家と佐野家の食い物にされなきゃいけないの?うちからむしり取ったもの、全部きっちり返してもらうんだから!」琴葉の勢いに、奈緒まで一気に火がついた。すぐに立ち上がり、力強く同意する。「その通りです!ああいう人たちは痛い目に遭わないと分からないんですから。一緒に徹底的にやり返しましょう!」ところが琴葉は、そこで急に夢見るような笑みを浮かべた。「じゃあ、今日から私たちは同じ敵に向かって立ち向かう仲間よ!そうね……『ぶち壊し同盟』ってところかしら?だから、もう私たちは友達みたいなものね!」「はい、琴葉さん!」「うん!私たちもう友達だから、これからあなたのこと、奈緒ちゃんって呼ぶわ!」奈緒もすっかり乗せられ、その場で琴葉と固く握手を交わした。見つめ合う二人の目には、生まれたばかりの厚い絆が宿っていた。目の前で結成された『ぶち壊し同盟』に、仁哉は唖然として立ち尽くした。彼は複雑な心境で呟く。「母さん、僕と同じくらいの年齢の奈緒さんと友達っていうのは……」琴葉は気にも留めず、ひらひらと手を振った。「そんなのどうでもいいのよ。大事なのは気持ち!私が友達だって思ったら、もうそれは友達なんだから!」そう言うなり、琴葉は奈緒の腕を取って立ち上がった。二人とも完全に意気投合している。「奈緒ちゃん、行くわよ。こんなところにいる場合じゃないわ。昼から一杯やりましょ!今日は私のおごりだから!「いいですね!私も青木家と佐野家について、吐き出したいことが山ほどあるんです」「いいわね!食事しながら全部ぶちま
仁哉と美紀が結婚した当時、奈緒はまだ充の部下にすぎず、栗原家がとても盛大に結婚式を挙げたとは聞いていたが、細かい内情までは知らなかった。しかし、今こうして琴葉から聞かされて、あの結婚が最初からどれほど理不尽で、栗原家にとってどれほど割に合わないものだったのかを、奈緒は初めて知った。仁哉はだんだん居たたまれなくなってきたらしい。「母さん、もういいだろ。その話は……」「散々損させられて、挙げ句の果てに孫だと思ってた子まで他人の子だったのよ!離婚のときには、あなた10億円も渡したじゃない!どうして私が黙ってなきゃいけないの?むしろ言いふらしてやるわよ。あの家と縁談を考えてる人がいたら、全力で止めるんだから!翠さんの3人の娘の中には、まだ結婚してない子がいるでしょう?だから、このことを知らずに嫁にもらった家が可哀想じゃない!」仁哉は黙ってしまった。自分の母には、やっぱり黙って座っているだけにしてほしい。口を開けば品などなくなり、ただの井戸端会議の中心になってしまう。奈緒は笑いをこらえながら、琴葉の生き生きした顔を眺めた。なぜだか分からないが、とても親近感を覚えるのだ。名家出身で大学教授。そんな肩書きだけを見れば、私生活でも常に隙がなく、言葉一つひとつを慎重に選ぶタイプだと思っていた。ところが実際は、思ったことをまっすぐ口にする、とても人間味のある人だった。その激しいギャップに、奈緒は妙子を思い出す。初対面では威厳があり近寄りがたく見えるのに、親しくなれば驚くほど気さくで面白い。建前と駆け引きばかりの世界で、琴葉のように感情を隠さず話す人はむしろ珍しく、清く流れる一筋の小川のようだった。そして、そのまっすぐさは仁哉にもどこか通じている気がした。奈緒がそんなことを考えていると、琴葉が突然話題を変えた。「そういえば奈緒さん、青木家に嫁いだとき、結納金はどれくらい貰ったの?」奈緒は少しきょとんとしてしまったが、正直に答える。「何ももらってません」琴葉が固まった。次の瞬間、勢いよく立ち上がる。「何ですって!?ちょっと待って。翠さんって、うちからはあれだけ取っておいて、自分の家に嫁いできた奈緒さんには何も渡してないの!?青木家だって、この街じゃ名の知れた家でしょう!それなのに、嫁いできたお嫁さん
それから、蛍は奈緒が傷つくのを心配して、充から返信ひとつないことは、結局言い出せなかった。そして、奈緒が退院するまで、充は結局、姿を見せなかった。退院後、二人は黎と香織を連れて、碧瀾郷へと引っ越した。そこは、奈緒が半年前に入手した、リノベーション済みのマンションの一室だった。蛍の家はその真向かいの部屋で、隣同士に住むのは大学時代からの二人の夢だったのだ。だから半年前、蛍の向かいの部屋が売りに出されたと聞いて、奈緒は迷わず購入した。部屋には家具や家電が揃っていたが、まだどこか殺風景だった。蛍はすぐに自分の家から布団やポットなどの日用品を運んできた。奈緒は買い物リストを
「産後の回復がかなり遅れていますね。出産時に出血が多かったですし、低血糖で倒れやすい状態です。しっかり栄養をとって、気持ちをあまり高ぶらせないようにしてください」診察が終わっても、奈緒はまだ眠ったままだった。医師は病室で蛍に病状を説明した。隣で聞いていた香織が、ため息をついた。「奥様は産後の肥立ちが悪くて……最初の2週間はお乳が張って痛くて食事が喉を通らなかったんです。その後は赤ちゃんが夜泣き続きで……それでも奥様は自分で母乳をあげていたから、夜もまとまって眠れていませんでした。昼間は仕事もしていて、体が回復する暇もなかったんですよ」それを聞いて、蛍は怒り心頭になりそうだった。
一方、音を聞きつけた恵が慌てふためいて部屋から飛び出してきて、声を張り上げた。「地震です!地震が来たんですよね?」そして、香織もギャンギャン泣いている赤ちゃんを抱っこしていたけど、その音を聞いて、裸足のままバッグを掴んで外へ飛び出し、靴を履くのも忘れてしまうほどだった。……しかし、二人がリビングに駆け込むと、いつもは冷静な奈緒が、狂ったように大切にしていた置物を次々と床に叩きつけていた。その光景に、二人はあっけにとられた。それを見て恵が慌てて駆け寄り、止めに入った。「奥様、おやめください!ちゃんと話し合ってください、奥様!」香織も泣きやまない赤ちゃんをあやしながら、
一方、奈緒は会場を出るとアクセルを踏み込み、二人の新居である水鏡ヶ丘の家へと車を走らせた。そして、ドアを開けると、昔からいる使用人の井上恵(いのうえ めぐみ)と、奈緒が雇ったベビーシッターの黒崎香織(くろさき かおり)が、一緒になって赤ちゃんをあやしていた。二人は、奈緒の顔が真っ青なのを見て、ぎょっとした。「奥様、どうかなさいましたか?」そう言われ奈緒は、なんとか笑顔を作って答えた。「なんでもないの。お腹が空いちゃって。温かいうどんかなんかを作ってくれる?」そして、香織から赤ちゃんを受け取ると、奈緒の荒れ果てた心は、そのあどけない寝顔を見てようやく落ち着きを取り戻した。