Share

第2話

Author: 芽吹き
まずはじめに、奈津美は自分の個人情報を全て抹消する手続きをとった。

そして、名前も変えた。

役所の人からは、手続きは全て2週間で終わると言われた。

2週間すれば、勇太がいくら血眼になって探しても、もう二度と自分を見つけることはできなくなるのだ。

バッグの中では、携帯が狂ったように震えている。全部、勇太からの着信やメッセージだった。しかし、奈津美は携帯を見ることもなく、その場を後にした。

家に戻ってきた時には、もう空は真っ暗になっていた。

奈津美が家に入ると、勇太がリビングに立っていた。奈津美の顔を見るなり大股で歩み寄ってくる勇太の目には、はっきりと焦りの色が浮かんでいる。「奈津美、どこに行ってたんだよ?帰ってきたらいないから、もう何時間も待ってたんだ。街中探し回るところだったよ」

この勇太の心配は嘘ではなさそうだ。

奈津美は勇太を見つめる。なぜだか、心臓を見えない手でぎゅっと掴まれたようだった。

ふと、高校生の頃を思い出した。あれは、勇太が数学の大会に出場した時のこと。奈津美が1時間勇太に返信しなかっただけで、彼は大会を放り出して自分を探しに戻ってきた。奈津美になにかあったのではないかと、本気で心配してくれたのだ。

あんなにも、自分を愛してくれていた人……

しかし、その愛情は自分だけのものではなかった。

喉に何かがつまったみたいに、息をする度ちくちくと痛む。だが、奈津美は平静を装って言った。「買い物に行ってたの。言うの忘れちゃって、ごめんね」

それを聞いた勇太はほっと息をつき、奈津美を腕の中に抱きしめる。「謝ることなんてないよ。責めてるわけじゃないから。ただ心配だったんだ」

勇太は奈津美の髪にそっとキスをして、やさしく言った。「そうだ。一昨日、ハンバーグとポトフが食べたいって言ってたよね?俺が今から作るよ」

勇太は奈津美から体を離すと、キッチンへと向かった。

奈津美は入り口に立ち、静かに勇太の姿を見つめる。

シャツの袖をまくりあげた勇太は、すらりとした指で手際よく野菜を切っていた。暖かい光に照らされたその横顔は、とても優しい。

そういえば、とあることを思い出す。3年前、自分が帰国したばかりの頃のこと。不規則な食生活がたたって、奈津美は胃を壊して入院した。

あの頃、誰もが知る大企業の社長である勇太は、料理なんて一度もしたことがなかった。なのに、彼はわざわざ一流のシェフに弟子入りして、1ヶ月かけて料理を習得したのだった。

ある時、海外とのテレビ会議と奈津美のための料理の時間が重なってしまった。すると勇太は、キッチンにタブレットを持ち込んで、料理をしながら会議に参加したのだった。役員たちがみんな呆気に取られていたのを覚えている。

勇太はかつて、それほどまでに自分を愛してくれていた。

だが、その時……勇太の携帯が鳴った。

奈津美は、画面をちらりと見た勇太の表情が変わったのに気づいた。勇太がすぐに包丁を置き、慌てて手を拭く。

「ごめん、会社で急用ができちゃった。ちょっと行かなきゃいけないんだ」勇太はエプロンを外し、いつもと変わらない口調で言った。そして、奈津美の額にキスをすることも忘れない。「料理はもうできてるから、先に食べてて。俺を待たなくていいからさ」

奈津美は何も言わず、ただ頷いた。

勇太が出て行った後、奈津美はダイニングテーブルに歩み寄る。湯気の立つ料理を見ていると、急に心臓が痛くなって、息がなんだか苦しい。

なぜなら、さきほどはっきりと見えたのだ。電話の相手が明里だということが……

奈津美は食事を始める気にはなれなかったので、家を出てタクシーを拾い、勇太を追いかけた。

案の定、勇太が向かったのは会社ではなかった。そこは病院だった。

病院の特別病棟の廊下。

そのフロアは貸し切りになっていて、病室の前には、白衣を着た数人の医師や看護師が緊張した面持ちで立っているだけだった。

院長が頭を下げ、勇太に平謝りしている。「陣内社長、誠に申し訳ありませんでした。我々の不注意で、患者さんがバスルームで転倒してしまうなんて……必ずヘルパーを増員し、二度とこのような失態はいたしません!」

顔を曇らせた勇太が、氷のように冷たい声で言った。「次はない。もし次があったら、この病院を潰してやる」

院長は何度も頷いた。「は、はい!肝に銘じます!」

角に隠れて立っていた奈津美の指先が、手のひらに食い込んでいく。

勇太の友人が明里はただの「ただのかすり傷」だって言っていたのに。

それなのに、たかがかすり傷でフロアを丸ごと貸し切りにして……ちょっとしたことで、病院ごと潰してしまいそうな勢いで取り乱している。

病室のドアが開けられた。明里が、ベッドの上で力なく体を起こしている。顔は真っ青で、目の縁は赤くなっていた。

勇太は足早に駆け寄り、明里の手を握る。「どうだ?まだどこか痛むか?」

明里は目を赤くし、声を詰まらせた。「全部私のせいなの……車に轢かれたのはまだしも、お風呂で転ぶなんて。それに、あなたと高橋さんが一緒にいる時間まで奪ってしまって……もし彼女が誤解しちゃったらどうしよう。私って本当に最低ね……」

「馬鹿なこと言うな」勇太は咎めたが、その口調は優しかった。「今は自分の体のことだけ考えろ。ここ数日は、俺がずっと傍にいてやるから」

明里が濡れた瞳を上げて尋ねる。「でも、高橋さんは?」

「あいつのことはうまくやっておくから、お前は心配するな」勇太は淡々と言った。

そして、一息おいて付け加える。「俺たちは夫婦なんだ。傍にいるのは、当たり前だろ?」
Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 所詮、すべては泡沫の夢   第26話

    奈津美のウエディングドレスは、複雑なレース飾りもなく、シンプルなシルクだけのものだったが、月の光を浴びて、真珠のような輝きを放っていた。達也は白いシャツを着て、袖を肘までまくり上げ、ネクタイはとっくに緩めていた。彼は奈津美の手を取り、山頂の展望台で指輪を交換した。見守るのは、十数人の親しい友人だけ。シャンパングラスの乾杯の音が、山風に乗り、まるで星が砕けたような澄んだ音が響いた。「もっと盛大な結婚式をしたいかと思っていました」達也はそう言って、奈津美の指先にキスを落とす。奈津美は天の川を見上げながら言った。「たくさんの人から注目された経験があるからこそ、静けさがどれだけ大切か分かるんです」スタッフが山積みのプレゼントを持ってきたのだが、その中にひとつだけ木製の箱があり、ひときわ目立っていた。奈津美がその木箱の蓋を開けた瞬間、彼女の指が震えたのを、達也は見逃さなかった。それは、かつて勇太が明里に贈った数珠だったのだ。ベルベットの布の上に静かに置かれ、檀木の珠の一つ一つがしっとりとした光を放っている。長い間、大切にされてきたことが一目で分かった。添えられたカードには、一言だけ書かれていた。【今度は俺が君の無事を祈るよ】達也は箱をひったくると健二に投げつけ、「寺にでも奉納しておけ」と言った。でも、奈津美は笑って、数珠をブーケにさりげなく掛けた。「戒めとして持っておくのも悪くないですよ」厳重に管理された精神病院の病室で、二人の結婚式のニュースが流れていた。明里は痩せこけた指で画面を掻きむしる。爪が割れて血が滲んでも、彼女はそれに気づいていないようだった。「陣内夫人は、私なの!」明里は叫びながらグラスを叩き割った。「見てよ!だって、私のほうがあの女より綺麗でしょ?」看守はただ冷ややかにその様子を見ていた。疲れ果てて血だまりに倒れ込んだ彼女を、まるで使い古された人形を引きずるようにしてベッドに投げ戻す。「487番、また発作です」看護師は記録ノートに書き込みながら言った。「本日の自傷行為は7回目っと」そう言い終わるか終わらないかのうちに、明里はまた甲高い叫び声をあげ、目の前にあった鏡を叩きつけた。「なんなのよこれ!誰が送ってきたの?もう!誰よ!」かつては奈津美と瓜二つと言われた明里の顔。しかし今は、醜

  • 所詮、すべては泡沫の夢   第25話

    数日後、奈津美のもとに、見知らぬ番号から一本の動画が届いた。それは勇太が険しい山道を進み、お寺の門の前で和尚に頼み込んでいる動画だった。このお寺は、自分が昔、勇太のためにお守りを授かりに行った所だ。横から秘書の健二が付け加える。「陣内社長はもう3日間も連続で頼み込んでいるそうで……それに、和尚様が言うには、彼……」「もう消して」奈津美は動画を閉じた。「これから、彼のことはもう報告しなくていいから」奈津美は金庫まで歩いていくと、株式譲渡書を取り出した。サインを終えて一息つくと、一枚のメモ用紙を抜き取る。ペン先がしばらく宙をさまよったが、最終的にはたった一言だけを残した。【これで終わり】勇太がその書類を受け取ったのは、お寺の宿坊の部屋で寝込んでいる時だった。高熱で、意識は朦朧としていた。神主はため息をつきながら、温かいお茶を差し出した。「陣内さん、執着は人も己も傷つけますぞ」勇太は震える手で封筒を開けた。株式譲渡書と共に、一枚のメモ用紙が窓の隙間から吹き込む風にあおられて、ふわりと彼の胸の上に落ちた。ぼんやりとした意識の中、勇太は20歳の冬を思い出した。雪の中で奈津美は鼻の頭を真っ赤にしながらも自分を待っていてくれ、勇太が着くと笑って言った。「勇太、やっと会えたね」でも今、彼女はもう待っていてはくれない。窓の外では、この冬初めての雪が静かに舞い降りていた。達也は、郊外に立つ真っ白な建物の前で車を停めた。「本当は完成してから君を連れてきたかったんですけど」彼は奈津美のためにドアを開け、その手のひらを指先でそっと撫でた。「でも、誰かさんが最近、仕事の鬼になってて、俺の予約がなかなか取れなかったものですから」奈津美は眉を上げる。「達也さん、それって文句ですか?」「いいえ、訴えです」そう言って、達也は彼女の耳たぶにそっとキスを落とした。「君は俺を3日と7時間もほったらかしにしていましたから」建物の中は明かりがこうこうと灯され、廊下の突き当たりにあるプレートのようなものが赤い布で覆われていた。すると達也が突然、後ろから奈津美の目を覆った。「3秒数えてください」暗闇の中、布が滑り落ちる音が聞こえる。「もういいですよ」赤い布が床に落ちると、プレートに刻まれた【PTSD研究センター】の文字がスポットライ

  • 所詮、すべては泡沫の夢   第24話

    「すぐ会議を開いて、対策を立てましょう」奈津美は冷静に指示を出す。「それと同時に、彼らの資金源を……」「そんなことはしなくたっていいんです」達也が突然、彼女の言葉を遮った。「北条は最初から、君に買収されたふりをしていただけかもしれません」奈津美は勢いよく振り返る。「どういうことですか?」達也は頷き、複雑な表情で言った。「君は北条を陣内グループ側の人間だと思っていたようですが、彼はどちら側でもなく、自分の利益のためだけに動いていた可能性が一番高いです」奈津美は頭をフル回転させた。もしそうなら、話は思ったよりずっと単純だ。突然ジャケットを掴み取った奈津美は、健二に指示を出す。「車を回して、陣内グループに行くよ」達也は眉を顰める。「何しに行くんですか?」奈津美は振り返りもせずに言った。「勇太に会ってきます」奈津美がドアを開けると、勇太は大きな窓の前に立っていた。その背中は、影のように痩せ細っている。物音に気づいた勇太はゆっくりと振り返った。その目には一瞬驚きの色が浮かんだが、すぐに虚無へと変わった。「珍しい客だな」勇太の声はかすれていた。「自ら視察に来たのか?」奈津美はまっすぐ彼の前まで歩き、タブレットを突き出した。「どういうことなの?」勇太は画面をちらりと見ると、微かに眉を顰めた。「このことは知らない」「この男はあなたの部下でしょ!」「昔はな」勇太は顔を上げ、漆黒の瞳で奈津美をまっすぐに見つめた。「かつて俺が、君のものだったように」奈津美は息を呑んだ。しばらく二人は見つめ合ったが、やがて奈津美はふっと息を吸い込む。「あなたにも、この件の解決に協力してもらうから」勇太は呆気に取られた。窓の外では雨足が強まり、ガラスを伝う水滴が涙のようだった。「どうして?」勇太が静かに聞き返す。奈津美は少し黙ってから、自分でも予想外のことな答えを口にした。「陣内グループの古い体制を一番よく知っているのが、あなただから」それは真実の全てではなかった。なぜなら、陣内グループのかつての中堅以上の社員は、半分がまだ奈津美の元で働いているのだから。でも、認められなかったのだ。勇太のカルテを見た瞬間、心の中で何かが壊れてしまったことを。勇太は長い間奈津美を見つめていたが、ふっと笑った。なんだか吹っ切れたような笑

  • 所詮、すべては泡沫の夢   第23話

    奈津美の復讐は、それだけでは終わらなかった。グループの全社員が集まる会議で、彼女は上座に座り、指先で軽くデスクを叩いていた。「今日は特別なプログラムをご用意しました」奈津美はゆっくりと口を開き、微笑みながらみんなを見る。「陣内社長をお招きして、ビジネス文書のお手本を読み上げてもらいましょう」隅の方に立っていた勇太の顔は真っ白だった。彼が握りしめているのは黄ばんだ紙の束。それは、18歳の自分が奈津美に宛てて書いたラブレターで、一枚一枚に若かりし頃の純粋な誓いが染み込んでいた。「読んでください」奈津美は静かに促した。「みなさんにも、陣内社長の文章力を学んでいただきましょう」会場が水を打ったように静まり返る。勇太の指先はかすかに震えていたが、それでも最初のページをめくった。「奈津美、今日、君が白いワンピースを着ているのを見て、俺の心臓は張り裂けそうだった……」勇太の声は乾ききっていて、3ページ目を読む頃には、喉が大きく上下していた。「俺が22歳になったら、結婚しよう。約束する。一生君だけを愛し続ける……」彼の声はひどく掠れていたが、それでも一語一句、20枚全てを読み終えた。最後の言葉を読み終えたとき、会場は針が落ちる音も聞こえるほど静まり返っていたし、何人かの女性社員は、静かに目を赤くしていた。しかし奈津美は、終始微笑みを浮かべたままで、読み終わると拍手さえしてみせた。「見事な朗読でしたね」と奈津美はコメントをする。「まあ、残念なことに、全部嘘なんですけどね」勇太がはっと顔を上げた瞬間、彼の瞳の奥で、何かが音を立てて砕けた。この出来事は、社内で大きな話題となった。ドアを開けて入ってきた達也が、書類の束をデスクの上に叩きつけた。散らばった紙の中から、一枚のカルテが見えた。【陣内勇太、重度のうつ病。胃からの出血症状を伴う……】達也の声は氷のように冷たい。「これを見てください。このままでは、彼が死んでしまいます」無意識に指先がこわばったが、奈津美はちらっと視線を落とし、すぐに平静を取り戻すと、コーヒーを一口すすって淡々と言った。「だから、何ですか?」達也は奈津美をじっと見つめ、ふっと口元を歪めて笑った。「だから?奈津美さん、君はいつからそんな人間になってしまったんですか?」奈津美に一歩近づき、長

  • 所詮、すべては泡沫の夢   第22話

    プラネタリウムで、奈津美は頭上をゆっくりと流れる天の川を見上げていた。達也は彼女の後ろに立ち、奈津美が人にぶつからないようにと、そっと肩を抱くように腕を回していた。「あれが、わし座のアルタイルです」達也が奈津美の耳元で囁く。「物語の中では、ベガと年に一度しか会えません」奈津美はくすっと笑った。「それって、悲しいお話じゃないですか」「でも、少なくとも毎年ちゃんと会えています」達也の声は優しかった。「そう思いませんか?」奈津美が達也を見上げると、青い光に照らされた彼のまつげが、いつもより長く、星の光を浴びているようにきらめいて見えた。二人の距離は、いつの間にかどんどん縮まっていき……「奈津美!」突如として、しわがれた怒鳴り声が、後ろから聞こえた。奈津美が振り返ると、階段の下に勇太が立っている。彼の顔は真っ青で、目は充血していた。勇太は奈津美の肩に回された達也の手を睨みつけ、激しく肩で息をしながら叫んだ。「こいつは誰だ?」プラネタリウムの廊下は、青白い光に照らされている。奈津美は壁に寄りかかり、気のないそぶりで袖口を直しながら言った。「勇太。言っておくけど、今のあなたの行為はストーカーだよ」勇太はギリッ奥歯を噛み締め、拳を握りしめた。「こいつは誰だと聞いているんだ!」「達也さんだよ」奈津美は微笑んだ。「私のビジネスパートナーであり、彼氏であり、未来の旦那さんでもある。だから、あなたが好きなように呼べばいいよ」「……夫だと?」その言葉は、ナイフのように勇太の心を突き刺した。彼は奈津美の手首を強く掴んだ。「俺たちはまだ離婚してない!」奈津美は勇太の手を見下ろし、ふっと笑った。「離婚?勇太、忘れたの?私たちはそもそも結婚なんてしてないじゃない。思い出させてあげようか?」彼女は勇太の耳元に囁いた。その声は、毒蛇が舌を出すように甘く、冷たかった。「あなたの戸籍上の妻は、今頃刑務所の中よ」まるで全身の力が抜けてしまったかのように、勇太はよろめいて一歩後ずさった。奈津美の後ろから、片手をポケットに入れ、もう片方の手でごく自然に奈津美の腰を抱いた達也が口を挟む。「陣内さん」達也の声は落ち着いていた。「これ以上俺の彼女に付きまとうなら、接近禁止命令を申請することも考えますよ」勇太は奈津美の腰に置かれ

  • 所詮、すべては泡沫の夢   第21話

    勇太はぐっと目を閉じた。長い沈黙の後、勇太は顔を上げる。「奈津美、どうすれば許してくれる?」奈津美は引き出しから書類を一枚取り出すと、勇太の目の前に押しやった。『陣内グループ株式買収合意書』「サインして」奈津美は淡々と言った。「あなたが持っている株は全部、市場価格で私が買い取るから」勇太は呆然とした。「君は……陣内グループを乗っ取るつもりか?」「いいえ」奈津美は立ち上がり、ハイヒールが大理石の床でコツコツと音を立てる。身をかがめた奈津美が、指先で契約書を軽く叩いた。「欲しいのは、あなたの手で陣内グループを私に差し出させること……そしてそれが、どんなふうに私の手で、少しずつ壊されていくか、あなたに見届けてもらいたいの」震える勇太の指先が、その契約書に触れた。これが何を意味するのか、勇太には分かっていた。これを渡せば、陣内グループが長年築いてきたものが、完全に人の手に渡ってしまう。しかし、渡さなければ……自分は永遠に奈津美を取り戻すチャンスを失うことになる。奈津美は勇太が苦しむ様子を見て、急に興味が失せてしまった。「3日間、考える時間をあげる」窓際に歩いていく、彼女のその背中は冷たくて遠い。「でも、忘れないで。勇太……今のあなたに、私と交渉する資格なんてないんだから」陣内グループの最上階にある会議室。大きな窓の外には、街の明かりが一面に広がっていた。奈津美は主賓席に座り、指先で静かにテーブルを叩いている。目の前には、署名待ちの資産分割合意書が並んでいた。かつては勇太に頭が上がらなかった役員たちも、今はみんな俯き、奈津美の邪魔をしまいと、息を潜めているほどだった。「新エネルギー部門は売却して、医療部門は藤原グループに吸収させます」まるで今日の天気でも話すかのように、奈津美の声は冷静だった。「残った抜け殻は……まあ、残しておきましょうか」財務部長がおそるおそる尋ねた。「では、陣内グループのブランド名は……」奈津美は顔を上げ、冷たい笑みを浮かべる。「陣内グループ?」彼女はゆっくりと立ち上がった。ハイヒールが立てるコツコツという音は、まるでその場にいる全員の心に打ち鳴らされる警鐘のようだった。「今日から、陣内グループはもう存在しません」奈津美はそう言うと、最後の書類をテーブルの端に座

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status