ログイン「彼女は柚香の友達だよ」遥真は正面から答えた。「資金的な援助は制限しているけど、柚香への感情的なサポートまで奪うわけにはいかないだろう」時也は一瞬言葉を止めた後、笑った。四十数分後、時也は自宅に着いた。車を降り、ドアを閉めた。遥真が水月亭に向かおうとしたとき、時也が声をかけた。「遥真」遥真はアクセルから足を離し、横目で時也を見る。まだ何も聞かないうちに、時也が先に口を開いた。「過去に生きるなよ。そんなに重い荷物を背負って進むな。もし彼がまだここにいたとしても、君がこんなふうになることを望んではいないはずだ」遥真はハンドルを握る手に力を込める。唇をきゅっと閉じ、一言も発しなかった。「気をつけて、ゆっくり運転してね」時也は笑いながら手を振り、軽やかな気持ちを伝えようとするようだった。遥真はアクセルを踏み、車を走らせる。帰り道、頭の中には過去の出来事が次々と浮かんだ。あの、笑顔が眩しくて、何事も前向きに捉える少年のことを思い出す。若くして名を馳せた。その輝きは誰の目にもまぶしかった。しかし、そんな人は永遠に十七歳のままで時を止めてしまったのだ。ピッ――クラクションの音が聞こえた。遥真はハッと我に返る。気づけば赤信号はいつの間にか青になっていた。気持ちを落ち着けて車を動かす。徹夜で疲れていたのか、あるいは過去のことを思い出して心ここにあらずだったのか、水月亭に戻った彼はどこか冷淡な雰囲気をまとっていた。隣の寝室のドアが開く音が聞こえ、玲奈がシルクのパジャマ姿で出てきた。彼だとわかると、一瞬時計に目をやる。まだ六時前だった。「遥真、こんなに朝早くどうしたの?」「起こしちゃった?」遥真は淡々と言った。玲奈は違和感に気づき、とりあえず言い流した。「いいえ」「じゃあ、もう少し寝てて。まだ時間あるし」遥真はまだ自分の部屋のドアの取っ手に手をかけたままだ。「起きたら呼んで。買い物に付き合うから」玲奈は「うん」と答えた。遥真は軽く返事をして、自室に入る。閉ざされたドアが二人の間に距離を作った。玲奈は思わずドアの方向を見つめ、なぜ遥真がおかしいのかを探ろうとした。玲奈は彼のことをあまりよく知らなかった。しかし、どれだけ親密になりたくなくても、普段は責任感や約束のために自分のことを気にかけてくれている。だ
「寝てたんじゃないの?」遥真は上体を起こし、表情からは特に感情を読み取らせない。「寝るより、こういうネタのほうが面白いでしょ」時也はそう言いながら外いる人に軽く声をかけ、グラスを二つと酒を一本持って来させた。そしてまた遥真へ向き直る。「まして、君のネタならなおさら」遥真は何も言わなかった。酒とグラスが運び込まれた。時也は人を下がらせると、自分でボトルを開け、二つのグラスにたっぷり注いだ。そして、その一つを差し出して言った。「話したいことがあるだろう。酒もある。さ、聞かせて」遥真は彼を見つめる。遥真のその視線には、いろんなものが隠れていた。「そんな目で見るなよ、なんか怖いんだけど」時也は冗談めかして言う。遥真はグラスを受け取ったが、そのままテーブルに置いた。「?」時也は本気で気になってきた。「で、何があった?」「昨夜、陽翔に二つ質問された。答えたら怒って……」遥真は淡々述べた。「それに、自分のことをもう死んだと思えって言われた」「二つって、どんな質問だよ」時也はすぐに、その内容が簡単じゃないと悟った。陽翔は分別のある子だ。ここ数年ほとんど帰ってきていなくても、理由なくそんな言葉を口にするような子じゃない。よっぽど傷ついたとき以外は。遥真は彼をちらと見ただけで、答えなかった。彼が重く感じているのは、その質問自体ではなく、その質問が別のことを思い起こさせたからだ。「言わないなら無理に聞かないけど……どうせ玲奈が絡んでるんだろ」時也には、なんとなく想像がついていた。「玲奈が単純な人じゃないって分かってるくせに、なんでまだズルズル関わるんだよ?」彼女が駆け引きばかりする人だと分かっていながら、突き放すどころか甘やかし続けている。本当に、遥真らしくない。「約束したからだ」遥真が、初めてそのことを口にした。「約束ったって……」そこまで言ったところで、時也はふと何かに気づいたように言葉を止めた。唇がわずかに開き、さっきまでの軽さが一瞬で消える。胸の奥が重たく沈んだ。個室に静けさが落ちる。誰も口を開かなかった。しばらくして。時也はテーブルの酒を一気に飲み干し、少し掠れた声で言った。「……あのときのことは、君のせいじゃない。背負う必要なんかない」遥真は俯き、膝の上に置いた手をただ下ろしたまま何も
遥真は布団の位置を少し直し、陽翔の頭がちゃんと外に出て息がしやすいようにしてやった。きゅっと目をつむって、あからさまに無視している息子の顔を見ても、無理に起こそうとはしなかった。ただ、いつものように穏やかな声で言った。「ゆっくり休めよ。他のことは考えなくていい。パパとママがどうなろうと、俺たちが君を愛してる気持ちは変わらないから」陽翔は返事をしなかった。目を閉じたまま寝たふりを続ける。遥真は腰をかがめて、小さなおでこにそっとおやすみのキスを落とした。「おやすみ」それでも話す気配がないのを見ると、遥真は部屋の灯りを消し、ドアを閉めて出ていった。その瞬間、陽翔は闇の中でそっと目を開ける。いつもは澄んだその瞳には、今は複雑な色が宿っていた。遥真は陽翔の部屋を出ると、柚香の様子も見に行った。彼女はさっきと同じ姿勢のまま、静かに眠っていて、一切騒ぐ気配もない。ベッドのそばに腰を下ろし、穏やかな寝顔を眺める。呼吸も整っていて、時間が止まったかのように静かだった。気づけば、温かく大きな手がそっと彼女の頬に触れていた。掌がふれている感触とともに、ふと思う。――どうして普段は、こんなふうに素直じゃないんだろう。すぐにその場を離れることはできなかった。柚香は酔っているときは静かで、目が覚めるまで大人しく眠っているとわかっていても、なぜか放っておけない。何かあったら、と考えてしまう。シャツ姿のまま、彼はずっとベッドのそばに座っていた。夜の九時を過ぎてから、気づけばもう朝の四時を回っている。柚香が眉をひそめ、目覚める気配を見せたところで、ようやく彼は音もなく寝室を出た。ソファに置いていた上着を手に取り、階下へ。――もしかすると、陽翔の言葉が響いていたのかもしれない。家を出てからというもの、胸の奥の重苦しさがずっと消えない。すぐに水月亭へは戻らず、時也に電話をして呼び出した。「遥真!」時也は大きなあくびをしながら言った。「今、何時だと思う?夜中の4時まで付き合うのはいいけど、朝の4時に起きれるかって話だよ?今じゃなきゃダメな用事?」「いや、いい。寝ろ」遥真はようやく今の時間に気づき、電話を切ろうとする。その瞬間、時也は一気に目が覚めた。いつもならこの言い方だけで根に持つのに、今は何もなし?これは逆におかしい。「ど
陽翔は断りたかった。自分でママの面倒を見たかった。けれどその気持ちを口にする前に、遥真に抱えられて寝室へ連れていかれ、ついでのように脅し文句まで口にした。「言うこと聞いて歯磨きして寝ないなら、明日ママに送っていったのは俺だって言うぞ」「え……」陽翔はほんの少し意外だった。「ほら、早く」遥真が急かす。陽翔はその場から動かないまま言った。「パパを待つ」遥真はそれ以上言わず、クレンジングを持って寝室へ戻り、慣れた手つきで彼女のメイクを落としていく。目元や口元は特にゆっくり、丁寧に。そのあと洗顔タオルで残りが消えるまでそっと拭き取った。陽翔はその様子を見つめながら、ふと昔を思い出す。ママがパパとパーティーに出かけて帰りが遅く、車の中で眠ってしまったときも、パパは今日と同じように、「起こすなよ」と自分に言って、優しくメイクを落としてあげていた。何も変わっていないのに。なのに、どうして二人の関係は変わってしまったんだろう。遥真は陽翔がぼんやり突っ立っているのに気づいたが、何も言わずに先に外へ出す。柚香にパジャマを着せ終えると陽翔の部屋へ向かい、椅子に腰掛けて話し始めた。「なんだその顔。おじいちゃんみたいに顔をしてるぞ」「パパ」陽翔はベッドの上で足を組んだ。遥真は軽く声を上げる。「ん?」陽翔は真剣な表情で聞いた。「パパ、まだママのこと好きなんでしょ?」遥真の動きが止まった。一瞬だけ身体が固くなる。「どうして他の女の人と一緒にいるのか、僕には本当にわからない。その人のどこがママより大事なのかもわからない」陽翔は初めてこの話をきちんと向き合って話した。小さな顔には見たことのない真剣さがあった。「パパがまだママを気にしてるなら、どうしてママを手放したの?」「俺は手放してない」遥真はかすかに口を動かす。最初も今も、別れたいと言ったのは柚香のほうだ。彼女が戻ってきてくれるなら、過去のすべてを気にせず、すぐにでも奥さんに戻ってほしいと思っている。陽翔は小さいながらも理屈はよくわかっていた。「でもパパがあのおばさんと一緒にいるってことは、ママを遠回しに捨ててるのと同じだよ……それか、ママに自分から諦めさせようとしてる」遥真は眉を寄せる。彼のこの考えには、どうしても賛成できなかった。「パパにひとつ、聞きたいことが
酔いすぎて自分が誰かも分からないのに、陽翔の布団だけはちゃんとかけてやる。そんな彼女を見て、遥真の胸に、言葉にならない想いがよぎった。陽翔はまんまるい目で言った。「ママがぐっすり寝てから、僕出てくるね」「ああ」遥真はそれ以上言わなかった。二人の布団の端を整えて、もう一度二人の寝顔を見てから、部屋の明かりを消して出ていった。狭いリビングのソファに腰を下ろし、家の浴室よりも小さいこの部屋を見回す。生活用品が隅から隅までぎゅうぎゅうに置かれていて、どうして柚香はわざわざ離婚して、こんなところで苦労しようとしたのか理解できなかった。狭くて窮屈。家事をしてくれる人もいない。そんなことを考えていると、ポケットのスマホが振動した。玲奈からの電話かと思ったら、時也だった。「何かあった?」「今夜、君、奥さんと一緒に飲んだって聞いたけど?」時也のゴシップ嗅ぎの能力は本当に侮れない。遥真は答えず、知っていることにも驚かなかった。時也が続ける。「で、今どこ?」遥真「用件だけ言え」「別に用はないよ。ただ聞いただけ」時也は退屈で、ただネタを欲しがっていただけだ。「ついでに忠告。人が酔っ払っているからって、下心を抱くなよ」遥真はスマホを耳から離し、切ろうとした。いくら自分がひどい男でも、ぐでんぐでんに酔った柚香に手を出すほど落ちぶれてはいない。「そうだ!」切ろうとした瞬間、時也が慌てて声を張った。「言え」「怜人の生まれてから今までの全部、調べ終わった」今日電話してきた本題はこれだったらしい。「けど結局、柚香さんがなんであいつの気持ちを疑ったことがないのかは分からなかった」遥真は、その裏に何かある確信があった。「さらに調べろ」時也「もしかしたら、僕たちの勘違いかもしれないよな?見た目は好きそうだけど、実は好きじゃないとか」本当に好きなら、幼馴染でも同級生でも、誰かひとりくらい知っててもいい。ここまで隠し通すなんておかしい。「怜人は柚香が好きだ」遥真は断言した。男同士、こういうのは目を見れば分かる。その確信だけは揺らがなかった。「調べるもんは全部調べたよ。十回やっても結果は同じ」時也は淡々と言う。「ならさ、真帆さんに聞いたら?彼女、怜人と仲いいし、何か知ってるかも」遥真「君が聞け」時也「僕は君の部下じ
時間をかけて考えている余裕なんてなかった。遥真がどんどん離れていくのを見て、怜人は慌てて後を追った。夜も遅いうえに、柚香は酔っ払っている。この状況で遥真が何もしないとは限らない。遥真はその動きを察したが、止めもしなかった。そのままエレベーターへ。怜人は彼の横に、堂々とした態度で立った。柚香に変なことをするな、と見張るような顔つきだ。だが遥真は、彼に視線すら向けなかった。すぐに18階に着いた。遥真が戻ってきたのを見て、入口のボディーガードが軽く会釈して挨拶し、そばにいた執事も「久瀬様」と声をかける。「陽翔は?」遥真が尋ねた。「お坊ちゃまは中で本を読んでおります。夕飯はもう済ませましたが……ずっと橘川さんの帰りを気にされていました」遥真は短く返事をし、そのまま中へ。怜人も続こうとする。「ここから先はもういい。車の鍵だけ置いて、それぞれ帰ってくれ」柚香を抱えたまま、遥真は横目で指示を出す。視線が怜人をかすめる。「帰るとき、無関係な人間も一緒に連れてって」ボディーガードが揃って「はい」と答えた。怜人「……は?」中へ入り込もうとした瞬間、四人のボディーガードに両脇を抱えられ、そのまま廊下へ運び出される。抵抗する暇さえなかった。遥真は、彼が運ばれていくのをちらりと見送り、全員が視界から消えたところで扉を閉めた。そして柚香を抱いたまま中へ進んでいくが、部屋に入った途端、小さな影が立っているのに気づく。陽翔だった。小さな顔を上げ、ぐったりした柚香を見つめる。その幼い顔がわずかにこわばった。「ママ、どうしたの?」「酔ってるだけだ」遥真はありのままに答えた。陽翔は眉を寄せる。「ママ、外でお酒なんて飲まないのに」つまり――ママがお酒を飲んだのは、絶対にパパのせい。遥真は否定しなかった。むしろ素直に認める。「彼女が飲んだのは俺のせいだ。でも、ちゃんと彼女にわかってほしいことがあって、そうしたんだ」陽翔は、内心で不満を抱えていた。「先に寝かせてくる。続きはあとで」そう言って遥真は寝室へ向かった。陽翔は何も言わず見送る。彼の記憶の中で、ママが酔うことなんてほとんどない。唯一覚えているのは、家でパパと結婚記念日を祝ったとき。あの時はワインを一杯も飲みきらないうちに酔ってしまった。あれ以来、ママ







