LOGIN高橋友梨。その名前を聞いた瞬間、実里は息を止めた。高橋誠が、自分の娘の名前をそう言っていた。――高橋友梨、私の娘です。――台湾での生活のサポートも娘がします。「あなた……」思わず問い質そうとする。しかし。「まず、仕事内容の確認をさせていただきますね」友梨は実里の言葉を遮るように、明るい声で言った。「お掃除のトラブルをなくすため、家の中を一緒に確認していただいてもよろしいですか?」「……え?」「清掃してはいけないお部屋や、触れてはいけないものがあれば、先に教えていただきたいんです」にこやかな笑顔だが、黙っているようにと言われた気がした。(あ……)友梨が玄関の外へ視線を向けた。それで分かった。玄関には、あの護衛がいる。ここで余計なことを話すべきではないという意味なのだろう。「分かったわ」「ありがとうございます」友梨は大きな荷物からタブレットを取り出した。「それと、お部屋の写真を撮らせていただきます」「写真?」「はい。家具や壁に傷があった場合、それが弊社スタッフ、今回は私一人ですが、私によるものではないと証明するためです」淡々とした説明だった。「それから、お客様の機密情報などが万が一外部へ漏れた場合にも、弊社スタッフが触れていないことを証明する必要がありますので」「……ずいぶん徹底しているのね」「VIPのお客様も多いですから」友梨はにこりと笑う。その説明に不自然なところはなかった。「では、こちらからお願いします」二人で屋敷を回り始める。リビング。ダイニング。キッチン。客間。書斎。一部屋ずつ友梨が確認していく。「こちらの棚は触れても?」「ええ」「引き出しの中は?」「鍵が掛かっているから」「承知しました、触れないようにいたします」写真を撮る。家具を確認する。壁を見る。時折タブレットへ何かを書き込む。それを繰り返していく。「こちらは?」「洗面所よ」「確認させていただきます」洗面所まで写真を撮る。さらに。「お手洗いも確認します」「そこまで?」実里は思わず聞いてしまった。「はい。清掃範囲に含まれますので」当然のように答えられる。(徹底しているのね……)実里は感心しながら、その様子を見守った。友梨は室内を見回し、ときどきスマートフォンのような小さな機器を取り出し
高橋誠から、一つの家政婦派遣会社を指定された。ネットで調べると、一般家庭向けの家事代行サービスから、政財界のVIP向けにコンシェルジュを派遣するなど、幅広くやっている会社のようだ。実里はそこへ電話をかける。電話はすぐに取られ、誰からの紹介かと尋ねられた。「Юлия, моё всё(ユリヤ、マヨー・フョー)」日本語にすると、『ユリヤ、僕の全て』これが符丁だと教えられた。だから、実里は震える声を出してしまったが。『いつもお世話になっております』相手のスタッフは、何も変わらなかった。『希望する期間と、お客様のご希望を教えてください』「住み込みで一週間。料理と身の回りの世話をお願いしたいのですが」『承知いたしました』普通だった。あまりにも普通の対応に、実里は拍子抜けする。相手は高橋誠の協力者。そう意識していたから、何か秘密めいた合図でもあるのかと思っていた。だが、聞かれるのは食事の好みやアレルギー。仕事内容。勤務期間。一般的なことばかり。(普通の会社……なの?)手続きが終わる。『それでは明日、スタッフを派遣いたします』「よろしくお願いします」電話を切った瞬間、実里は大きく息を吐いた。◇◇◇翌朝。屋敷にいた使用人たちが次々と出ていった。「一週間、ゆっくり休んで」実里がそう言うと、使用人たちは戸惑いながらも頭を下げた。最後の一人が玄関を出る。玄関扉が閉じた。「……静かだわ」実里は呟く。屋敷の外には、相変わらず護衛がいる。守っているのか。監視しているのか。実里には後者としか思えない男たち。それでも、家の中から人がいなくなっただけで、身体から力が抜けた。.チャイムが鳴った。実里は玄関を見る。しばらくすると、扉が開いた。護衛が身元を確認して通したのだろう。一人の女性が入ってくる。年齢は、実里と同じくらいだろうか。大きな荷物を持った女性は、実里を見ると丁寧に頭を下げた。「初めまして」明るく、落ち着いた声だった。「本日から住み込みでお世話をさせていただきます」そして、女性は微笑む。「高橋友梨と申します」実里は、その名前を聞いて目を見開いた。
作戦決行日は、一週間後に決まった。高橋誠から示された作戦内容を確認し、指定された病院へ連絡し、中絶手術の予約を取る。全て、高橋誠から指示された通りだ。予約が取れた。次は広海への連絡。実里はメッセージアプリを開く。【手術は一週間後に決まったわ】病院名は書かない。それで問題ない。そう約束した。広海は聞いてこないはずだ。(それに、万が一知られて問題ないと書かれている)送信すると、すぐに既読がついた。(返事は……)既読がついた吹き出しの下をジッと見ていた自分に苦笑する。返事は来ないだろう。来たとしても、【了解】の一言くらいに違いない。実里はそう思っていた。だが、数分後。広海から届いた文章は長く、内容も予想外のもの。手術日までの一週間、住み込みの世話係を雇ってはどうだという提案だった。「……世話係?」実里は眉を寄せる。続けてメッセージが届いた。【今いる使用人は、外の護衛を除いて全員休暇を取らせる】【世話係は君が自分で選んでいい】実里は画面を睨んだ。広海が何を考えているのか、すぐに分かった。(食事ね)実里はこの数日、まともに食べていない。出されたものを疑い、看護師を拒絶し、誰にも近づくなと言っている。今では、口にしているのは自分で安全を確認した栄養補助食品くらい。出されるサプリメントも疑って飲んでいない。だから、実里自身に人を選ばせようとしている。自分が選んだ人間なら、少なくとも今よりは警戒せずに食事をするだろうと。「大した……譲歩だこと」この家の使用人を雇うとき、広海は異常なほど精査した。神経質だと笑ったら
「……条件?」広海の顔が変わった。わずかに眉を寄せ、実里の意図を探るように見つめてくる。「大したことではないわ。ただ、その前に教えて」「何だ?」「私はどこで手術を受ける予定なの?」一瞬の間があった。「朝比奈総合病院だ」「へえ」実里は素直に驚いた。朝比奈総合病院。国内でも有名な大病院だ。もっと小さなクリニックで、人目を避けて中絶させるのだと思っていた。東條家の嫁が中絶したと知られないように。だが、違ったらしい。「キャンセルして」「……何?」「病院は私が決める」広海が黙る。明らかに納得していない顔だった。「言ったでしょう」実里は冷たく笑う。「死にたくないって」「……手術は安全だ」「分かっているくせに、分からない振りをしないで」声が低くなる。「私は死にたくない。そして――あなたを信じていない」広海の表情が強張った。中絶手術。どれほど安全だと言われても、絶対ではない。手術中の予期せぬ事故。容体の急変。もしそこで実里が死んでも、不幸な事故として処理できる。広海が疑われることもない。「そんなつもりはない」「そうかもね」実里は肩を竦めた。「でも、あなたの愛する女はどうかしら」「……何?」初めて、広海の声に明確な戸惑いが混じった。「浮気女に言われる筋合いはないけれど」実里は淡々と続ける。「彼女にとって、私は邪魔者じゃない?」広海は何も言わない。「私がいなくなれば、東條夫人の座は自分のもの。東條家の資産も、その影響力も……私にはよく分からないけれど、殺す価値くらいあるんじゃない?」
実里から話があると広海に伝えたのは、昼を少し過ぎた頃だった。広海が屋敷へ戻ってきたのは、それから一時間ほどあと。二人はダイニングの大きなテーブルを挟んで向かい合った。部屋の広さに合わせたから、二人には広すぎるテーブルだった。だから、以前は隣同士に座ることが多かった。食事中は、広海が実里の皿を気にしていた。野菜を食べろだの、塩辛いものを食べすぎだのとうるさかった。以前は、向かい合おうとは思わなかった。距離を感じたくなかった。でも今は、その距離がちょうどいい。「体調は?」広海が口を開く。「最悪よ」実里は笑って答えた。広海の視線が、実里の手元へ落ちる。使用人が用意した紅茶。まだ一口も飲んでいない。「飲まないのか?」「ええ」「食事もしていないと聞いた」「そう」広海の眉がわずかに寄る。理由を探るような目。実里は思わず笑った。「分かっているでしょう?」分からないふりをする広海に、思わず咎める声が出た。自覚はあったようだ。広海は目をそらす。その反応がおかしい。「こうして見ると、まるで私があなたを虐めているみたい」広海は黙っている。目をそらしたままで。「離婚してあげるわ」広海が顔を上げた。驚いている。信じられないものを見るような顔だった。「何、その顔」実里は笑う。「まだ私があなたを愛していて、離婚したくないって粘るとでも思った?」「実里……」「あなたと同じよ」「……同じ?」咎めるような声だった。実里は呆れてしまう。「こんな生活して
泣き落として向かった近所の病院。最新鋭の設備ではないが、アットホームな雰囲気で、実里は何も不満はなかった。実里の様子を見て、広海もようやく安心したのだろう。ネット上の病院の口コミを見て、「実里は大丈夫だ」と広海は祈るように繰り返していた。自分を愛しているのだからと思えば、泣き落としとか、しなくていい苦労をしたことは忘れられた。.診察中、広海は片時も離れなかった。医者がただの風邪だと言っても広海は納得せず、血液検査まで受けさせられたことは今も恨んでいる。(ただそれを上回る恨みや憎しみが今はあるだけ)付き添いの広海が慌て、医者と患者である実里が宥めるという、笑い話のような診察が終われば、次は薬だった。処方箋を睨みながら、熟読していた。分からないことがあれば、スマートフォンで調べる。検索結果が複数の答えを出せば、秘書に連絡し、薬について調べろと言った。いま病院にいるのではないか、と秘書に呆れられていた。薬局では薬剤師を質問攻めにした。帰宅してからも、処方された薬の名前を一つずつ確認していた。「広海って面倒くさいね」呆れて笑った実里に、広海は平然と答えた。「実里のことだから当然だろ」.(あのときは……)嬉しかった。大切にされているのだと思った。愛されているから、ここまで心配してくれるのだと。――愛しているから。(そう……)実里はゆっくりと目を開けた。胸の奥が痛んだ。今度も、きっと同じなのだ。広海は徹底して、全てを自分で管理しようとする。実里はよく知っている。ただ、今回は実里のためではないだけで。(愛する女のために)実里との子どもを確実に消す。そして実里と離婚して。







