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第63話:旅立ちの準備

last update Last Updated: 2025-07-09 20:23:33

朝の空気は澄んでいた。けれど、それは出立を控えた空気としては静かすぎた。

クラウディア王宮の東棟。外交特使の任を受けたリリウスのもとに、いくつもの報告と準備が積み重ねられている。文官たちは慌ただしく動き、近衛兵は物資の確認を繰り返していた。

それでも──心の中には、なにか決定的な一言が、まだ足りていない気がしていた。

そんな折、執務室の扉が一度だけ静かにノックされる。

「入ってください」

返事の先に現れたのは、カイルだった。

変わらない軍服姿。けれどその胸元には、クラウディアとヴァルドの双紋章をあしらった特別任用の徽章が光っていた。

「話があると聞いた」

その言葉だけで空気が変わる。

リリウスは席を立ち、机を離れる。

「……お時間、割いてくださってありがとうございます」

「堅苦しいな。まあ、そういう立場か」

カイルは口元だけで微笑んでみせたが、その眼差しは真っ直ぐだった。

「先に言っておきたい。今回、俺も一緒に行く」

「……はい?」

一瞬、言葉の意味を取りこぼした。

けれど、すぐにその重さに気づく。

「待ってください。外交特使はあくまでクラウディアの使者で──」

「わかってる。正式な外交任務に、他国の軍人が同行するのは異例中の異例だ。だがこれは命令じゃない、俺個人の意志だ。監視役でも、護衛でも、……なんなら“傭兵”としてでも構わない」

「……なぜ、そこまで?」

リリウスの問いに、カイルは答えをすぐには返さなかった。

窓の方に目をやる。朝の光に白いカーテンがふわりと揺れていた。

「クラウディアとヴァルドが正式に手を取り合った今、あの国──アルヴァレスがどう動くか、誰にも読めない。お前は、国の意志そのものを背負って向かう。その背中が誰にも晒されたままだなんて、俺には我慢ならない」

言葉には力があった。淡々としていながら、絶対に譲らぬ意志がにじむ。

「たとえ建前の上では、ただの付き添いだとしてもいい。俺は“カイル=ヴァルド”として行く。ヴァルドの代表としてではない。……お前の“傍にいる人間”として」

その言葉は、リリウスにとって、これ以上ない支えだった。

「……ありがとうございます。でも、ほんとうに……いいんですか? あなたの立場だって、軽くはないでしょう」

「……そうだな。だからこそ、“言葉じゃなく行動で示せ”って、昔誰かに言われたことを思い出した」

言って、彼はわず
めがねあざらし

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