共有

帝都入り

作者: rinsan
last update 公開日: 2026-06-13 10:39:41

「梅鈴、何してるのよ! 早く来て、髪を結うのを手伝いなさい!」

籠の簾越しに、杏姐の鋭い怒声が空気を裂いた。

「は、はいっ……! ただいま参ります!」

川辺で手を洗っていた梅鈴は、驚いたように身を翻し、裾を押さえて駆け出した。

その小柄な背が砂埃を上げて遠ざかっていくのを、男はぼんやりと目で追う。

「……あの程度の器量で、皇帝の御目にとまるんだろうかね」

誰に聞かせるでもなく、疲れと皮肉の入り混じった声が漏れた。

籠の中では、化粧道具や装飾品が乱雑に散らばり、揺れるたびに微かな香りが漂う。

杏姐は鏡を覗き込みながら、苛立ちを隠そうともせず言い放った。

「そこの香油を髪に塗ってちょうだい。早くよ、梅鈴」

その声音には、焦りとも虚栄ともつかぬ熱が宿り、

帝都へ向かう道のりよりも、後宮での未来のほうがはるかに重く、

籠の内側に影を落としていた。

梅鈴は、指先にわずかに香る花油をすくい取り、

杏姐の黒髪へと丁寧に塗り込んでいった。

光を受けて艶めく髪は、まるで春の川面のように揺れ、

鏡の中の杏姐はその輝きを誇らしげに見つめている。

「ねえ……新皇帝の陽徳様って、どんな方なのかしら」

鏡越しに細められた瞳は、すでに未来の栄華を映していた。

「噂では、とても美しい御方だと聞いているのよ」

「お嬢様なら、きっと皇帝の御目に留まると思います」

梅鈴は髪を束ねながら、静かに答えた。

その声には、羨望よりも祈りに近い響きがあった。

杏姐はふっと笑い、唇を弧にする。

「ふふ……あんたも嬉しいでしょう?

あんな田舎から抜け出せたんだもの」

「い、いえ……私は、あの村が好きですから」

梅鈴の言葉は、胸の奥にしまっていた土の匂いのように素朴だった。

杏姐は鼻を鳴らし、軽蔑を隠そうともしない。

「いかにも田舎者のあんたらしいわね」

その一言は、香油の甘い香りを切り裂くように鋭く、

梅鈴の胸に静かに沈んでいった。

(いつか…あの村に帰れたら…)

梅林は己の願いを静かに胸に潜めた。

 杏姐一行が帝都へ辿り着いたのは、さらに四日目の夕刻だった。

山影の向こうに広がった光の海を目にした瞬間、一同の胸にざわりと熱が走る。

初めて踏みしめる大都会――

どこまでも続く市の喧騒、色とりどりの布が風にはためき、香辛料の匂いが鼻をくすぐる。

見上げれば、村では想像すらできなかったほど巨大な屋敷が幾重にも連なり、

その壮麗さは、まるで別世界の門が開いたかのようだった。

 やがて、新皇帝の後宮へと続く大門が姿を現す。

黒漆に金の飾りが施されたその門前には、

身なりを整えた者たちが長蛇の列をなし、静かな熱気を帯びていた。

「……すごい。これが帝都……これが後宮……」

梅鈴は息を呑んだ。

胸の奥がきゅうと縮むほどの圧倒的な存在感。

門の向こうに広がる世界は、彼女の知る日常を軽々と飲み込み、

ただ立ち尽くすしかないほど眩しく、遠かった。

この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード

最新チャプター

  • 捨てられた下女は謎多き下官に溺愛される   李婆の古着

    李婆は、湯気のように静かに言葉をつづけた。「……おかしいとは思っていたんだよ。あんなに気立てのいい娘が、身ひとつで追い出されるなんてさ。たとえどんな粗相があったとしても、見知らぬ街へ銭の一つも持たせず放り出すなんて……」老女の声には、長年の世渡りで培った勘と、理不尽を許さぬ強さが滲んでいた。「新皇帝の後宮の期先候補ともあろう女人がする処遇じゃないさ」その言葉が落ちるたび、陽光の胸に小さな棘が刺さる。彼は視線を逸らし、苦笑にもならない息を漏らした。「……ああ。まったく、その通りだな」陽光の返答は短いが、その奥には言い訳も弁解もできない重さが沈んでいた。(李婆の言う通りだ……後宮に、ああいう女が紛れ込んでいるのは確かに問題だな)陽光は眉間に指を当て、思考の底へ沈んでいった。その沈黙を破るように、廊下の向こうから軽やかな足音が近づく。梅鈴が盆に湯気の立つ茶をのせ、そっと戻ってきた。その姿を見た瞬間、陽光の視線は自然と彼女の着物へ吸い寄せられる。「……梅鈴、その着物は……?」問いかける声には、驚きと、どこか言葉にできない感情が混じっていた。梅鈴はぱっと顔を明るくし、袖をふわりと揺らしてみせる。「李婆さんが貸してくださったの。とても素敵でしょう?私なんかが袖を通すのはもったいないくらいの上等品よ」梅鈴が嬉しそうに袖を広げてみせると、陽光はふっと目を細めた。その仕草は、まるで眩しいものを見つめるときのようだった。確かに——昨日の、ぼろぼろで継ぎ当てだらけの着物に比べれば、今日の装いは幾分ましなのかもしれない。だが、くすんだ鶯色に地味な柄が施されたその着物は、若い娘が胸を張って自慢するような華やぎとは程遠い。それでも、その地味さを押しのけるように、彼女の美しさだけが際立っていた。淡い光を受けた横顔は、着物の色をも塗り替えるほどに清らかで、袖を揺らすたび、春の風がそっと触れたかのように周囲の空気がやわらぐ。陽光は思わず息を呑む。着物が彼女を飾っているのではない。彼女が、着物そのものに命を吹き込んでいるのだ。「おい、李婆。もっと若い娘が着るような装いはないのか。梅鈴には、もっと華やかな色の方が似合うだろう」陽光がそう言った瞬間、店の空気がぴたりと止まった。次の刹那——李婆は腹の底から吹き出すように笑い声をあげた。

  • 捨てられた下女は謎多き下官に溺愛される   故郷

    湯気の立つ鍋の香りがまだ店内に残るなか、梅鈴は小鹿のように弾む足取りで陽光へ駆け寄った。「陽光さん!ここで働かせてもらえることになったんです!」その声は、朝の光をそのまますくい取ったように明るく澄んでいた。振り返った陽光は、思わず息を呑んだ。昨日まで旅塵をまとっていた少女が、まるで別人のように凛として立っている。髪は李婆に整えられ、香油のほのかな甘い香りが、梅鈴の動きに合わせてふわりと揺れた。「そ、そうか……よ、よかったじゃないか、梅鈴」言葉を返しながらも、陽光の視線は彼女の変化に追いつけず、戸惑いが胸の奥で静かに波紋を広げていく。梅鈴はそんな陽光の心の揺れに気づくこともなく、ただ嬉しさを抱えきれない様子で微笑んだ。その笑みは、昨日までの不安を洗い流し、新しい居場所を得た少女の輝きそのものだった。陽光が戸口をくぐったその瞬間、奥の薄闇から李婆のくぐもった笑い声が転がり出た。「おやまあ、陽光さん。おはようさんだね」皺の刻まれた頬をにやりとゆるませながら、李婆は湯気の向こうから姿を現した。その視線に含まれた“何かを見透かすような色”に気づき、陽光は胸の鼓動を悟られまいと、わざとらしいほど平静を装う。「あ、ああ……李婆。梅鈴を雇うことにしたって?」声は落ち着いているはずなのに、どこか喉の奥でつまずくような硬さがあった。李婆は肩をすくめ、まるで当たり前のことを告げるように言う。「そうさね。旅費が貯まるまで、店の二階で寝泊まりしてもらって、 その間は店を手伝ってもらうつもりだよ」  李婆はふと梅鈴へ視線を向け、柔らかく顎をしゃくった。「梅鈴、奥で湯を沸かしておくれ。陽光さん、どうせ朝飯を食べていく

  • 捨てられた下女は謎多き下官に溺愛される   変貌

    翌朝。李婆は、鶏の甲高い鳴き声に背中を押されるようにして目を覚ました。寝台の縁に手をつき、ゆっくりと身を起こす。白髪を指先で整えながら櫛を通していると、階下から微かな物音が立ちのぼってきた。こんな早い刻限に――と眉をひそめ、階段を降りる。朝の薄明かりが差し込む食堂では、梅鈴がひとり、黙々と箒を動かしていた。その姿は、夜露を含んだ若木のように慎ましく、どこか凛としている。李婆は思わず足を止めた。静かな朝に響くのは、箒が床を掃く柔らかな音だけだった。「あっ、おはようございます」梅鈴は朝の光を受けてぱっと顔を上げた。「あんた……こんな夜明け前から何をしてるんだい」眠気を押しやりながら李婆が声をかけると、梅鈴は箒を握ったまま、不思議そうに首をかしげた。「何って……店の掃除です。故郷では日が昇ると山へ薪拾いに行ってましたから。都では、どこへ拾いに行けばいいんでしょうか」そのあまりに素朴な問いに、李婆は思わず口元をゆるめた。「ここではね、薪は拾うもんじゃないよ。買うものさ」そう言って、彼女は肩をすくめながらも、山の暮らしがまだ身体に染みついた娘をどこか愛おしげに見つめていた。店の掃除を終えると、梅鈴はためらいもなく家畜小屋へ向かい、餌をやり、水桶を抱えて井戸へと歩き出した。その一連の動きには、無駄がひとつもない。まるで身体そのものが“働く”という営みに馴染みきっているかのようだった。李婆は、軒先に腰を下ろしながらその姿を静かに見つめていた。(ほんとに、よく働く娘だねぇ)感心というより、どこか胸の奥を温めるような思いが滲む。井戸の滑車がぎぃ、と鳴り、冷たい水面が桶の縁に揺れる。梅鈴はその重みを両腕に受け止め、息を整えながら運び出した。その表情には苦しさも不満もなく、ただ淡々と、しかし確かな誠実さだけが宿っている。彼女にとってこれは、田舎で過ごした日々となんら変わらない“いつもの仕事”だった。湯気の立つ鍋が静かに煮え、炊きたての飯の香りが店内に満ち始めた頃、まるでその瞬間を待ち構えていたかのように、陽光が店先へ姿を現した。「梅鈴。昨日はよく眠れたか」勢いよく戸を押し開け、軽やかな足取りで踏み込んだ陽光。だが、振り返った梅鈴の姿を目にした途端、その動きはふっと止まった。目の前に立つ少女を見た瞬間、陽光の胸中で

  • 捨てられた下女は謎多き下官に溺愛される   居場所

    茶椀を置く李婆の指先は、長年の働き者らしく節くれ立ち、しかしどこか寂しげに見えた。「…あたしももういい年でねぇ。最近は腰が痛くて、仕事も思うようにいかないんだよ」ぽつりとこぼれた声は、湯気のように淡く揺れ、梅鈴の胸に染み入った。李婆はゆっくりと顔を上げ、まっすぐ梅鈴を見つめる。「もし、あんたさえよけりゃ…旅費が貯まるまで、この店を手伝ってくれないかい?」思いがけない言葉に、梅鈴は反射的に椅子を蹴るように立ち上がっていた。「い、いいのですか…?」声が震え、胸の奥が熱くなる。李婆は肩をすくめ、照れ隠しのように笑った。「たいした駄賃は払えないよ。けどまあ、部屋は余ってるしね。寝る場所くらいはあるさ」その言葉は、荒野に落ちた一粒の灯火のようだった。行き場を失った少女の心に、ようやく“居場所”と呼べる温もりが灯る。梅鈴は胸の前で手をぎゅっと握りしめ、深く頭を下げた。「…ありがとうございます。わたし、精一杯働きます」李婆は「まったく、律儀な子だよ」と呟きながらも、どこか嬉しそうに目を細めた。店の二階──李婆の住まいへ続く急な階段を上りきると、古い木の匂いがふわりと漂った。李婆は北側の扉の前で足を止め、建付けの悪い戸をぐっと押し開ける。中は薄い埃が舞い、古道具や布包みが積み上がっていた。「ここは物置にしてる部屋なんだがね……しばらく、ここを使っておくれ」梅林は戸口で一瞬ためらい、そっと足を踏み入れた。李婆が「明日中には片付け──」と言いかけたその時、梅林が小さく息を呑む。「……こんな立派な部屋を、本当に私が?」李婆は思わず言葉を失った。物置同然のこの部屋を“立派”と言われるとは思ってもいなかったのだ。梅林は部屋を見回し、子どものように弾んだ声をあげる。「だって、すごいわ。壁に隙間がないんですもの!風が入ってこなくて暖かいし、雨漏りの心配もない。それに……寝台まであるなんて」彼女は寝台にそっと触れ、振り返る。「李婆さん。この寝台、本当に私が使ってもいいの?」その瞳は、長い旅路の果てにようやく見つけた“安全な場所”を確かめるように揺れていた。李婆はそのまっすぐな喜びに胸を突かれ、ほんの少しだけ視線をそらす。「……好きにおし。婆さんの古い寝台でよけりゃね」はしゃぐ梅林の姿を見つめながら、李婆の胸には言いようのない複雑な

  • 捨てられた下女は謎多き下官に溺愛される   美しい髪

    梅鈴が冷たい水を浴びた瞬間、春先の夕暮れの風が肌を撫で、ひやりとした感触が骨の奥まで染みわたった。だが、その冷たさは彼女にとって日々の営みの一部にすぎない。洗い清められた身体に、李婆から借りた古着をそっとまとったとき、ふと胸の奥が温かくなる。(古いけれど…なんて上等な仕立てなの)指先に触れる布は柔らかく、まるで長い旅路の末にようやく見つけた安らぎのようだった。帯をきゅっと締め、姿勢を整えて李婆の前に歩み出る。「上等なお着物を貸していただいて、ありがとうございます」深く頭を下げる梅鈴を、李婆はしばし無言で見つめた。(…こりゃあ驚いた)つい先ほどまで“山猿”と揶揄されていた面影は、どこにもない。そこに立っているのは、洗いざらしの黒髪を夕風に揺らし、澄んだ瞳をまっすぐ向ける、ひとりの美しい少女だった。粗末な暮らしの影は跡形もなく、まるで水面から姿を現したばかりの清らかな精霊のように。籠の外では夕靄がゆるやかに立ちのぼり、李婆はその気配を愉しむように喉の奥でくっくと笑った。(明日陽光さんがあの娘を目にした時こそ見ものだよ)老いた声はどこか含みを帯びていた。「おいで、梅鈴。髪に香油を塗ってあげようね」李婆の節くれだった指が、梅鈴の黒髪をそっとすくい上げる。香油が温められたようにほのかに香り、指先が髪を滑るたび、夜の水面のような艶が静かに広がっていった。「こしがあって、なんて豊かな髪だろうねぇ」李婆はうっとりと目を細め、まるで宝物でも撫でるようにその髪を眺めた。「そんなふうに言われたの……はじめてだわ」梅鈴の声は驚きと、かすかな照れが混じり合い、胸の奥でそっと震えていた。李婆のこしらえた素朴な夕餉を挟み、梅鈴と李婆は、湯気の立つ椀の向こうで、ぽつりぽつりと身の上を語り合った。梅鈴の言葉に、李婆はただ相槌も打たず、長い歳月をくぐり抜けた眼差しで静かに耳を傾けていた。やがて、湯飲みを口に運びながら、李婆はふう、とひと息ついて問いかけた。「それでお前さん……これから、どうするつもりだい」その声音には、詮索ではなく、ひとりの娘の行く末を案じる温かさが滲んでいた。梅鈴は膝の上で指をぎゅっと結び、小さく息を吸ってから答えた。「どこかで仕事を探して……故郷へ戻る旅費を、少しずつ貯めるつもりです」その言葉は、決意というよ

  • 捨てられた下女は謎多き下官に溺愛される   つぎはぎだらけの衣

    陽光は、梅鈴を下町の外れに佇む小さな食堂へと導いた。古びた建物は年季を感じさせるものだったが、どこか暖かくも感じた。建付けの悪い木の扉は、長い年月を吸い込んだように重く、押し開けると微かな油と薬味の香りがふわりと漂う。昼下がりの店内は静まり返り、客の姿はひとつもない。「李婆、いるか!」陽光は奥へ向かって声を張り上げた。「そんな大声を出さなくても聞こえてますよ」帳場の奥から、ゆっくりとした足取りで初老の女が現れた。白髪をひとつに束ね、皺の刻まれた目元には、長年この店を守ってきた者だけが持つ穏やかな強さが宿っていた。陽光は、ふいに「李婆」と呼ばれる老女へ深々と頭を垂れた。「李婆。今夜、この娘を泊めてやってほしい」その声音には、どこか頼み慣れた気安さと、梅林を気遣う真剣さが同居していた。李婆は驚きもせず、長年の諦めを含んだため息をひとつこぼす。「まったく……犬や猫だけじゃなく、今度は人間の娘まで拾ってくるとはね」そう言いながら、ゆっくりと梅林へ視線を移す。老いた瞳は鋭くも温かく、梅林の全身を一度で見抜いた。「まあ……なんて小汚いんだい。まるで山猿じゃないか」その言葉に、陽光が堪えきれず吹き出す。「おいおい。若い娘に山猿はひどいだろう」李婆は梅林に手招きをした。「おいで。中庭で洗ってやるよ」「……あ、ありがとうございます」梅林は陽光に深く礼をし、李婆とともに奥へと消えていく。その小さな背中には、長い旅の埃と、ようやく辿り着いた安堵の気配が静かに揺れていた。「陽光さん……そろそろ戻る時間だろうよ」李婆の声は、叱るでもなく、ただ長い年月の重みを帯びた柔らかな諭しだった。陽光は一瞬だけ迷うように目を伏せ、それから静かに頷く。「……そうだな。李婆、梅林を頼む」短い言葉に、彼の不器用な優しさが滲む。陽光は店の戸口へ向かい、振り返ることなく外気の冷たさへ身を滑らせた。夕闇が街路をゆっくりと沈めていく。陽光はその中を歩きながら、胸の奥でそっと呟く。(明日……また様子を見に行ってみよう)足取りは軽くも重くもなく、ただ静かに、思いを抱えたまま家路へと続いていった。中庭には、古い井戸と小さな菜園が寄り添うように並び、脇にはニワトリとヤギの小屋がひっそりと身を寄せていた。李婆は井戸のそばに椅子を引き寄せ、梅林をそっと座

  • 捨てられた下女は謎多き下官に溺愛される   後宮

    重く閉ざされた後宮の門の前には、女たちの長い列が蛇のように伸びていた。国中から集められた「候補者」たちが、緊張と期待と諦念を胸に、ただ順番を待つしかない。その最後尾に、杏姐の一行も加わっていた。籠の中で揺られながら、杏姐は苛立ちを隠そうともしない。「遅いわねぇ……いつまでこの私を待たせるつもりなのかしら」吐き捨てるような声が籠の薄布を震わせる。やがて、列の前方から役人の怒鳴り声が響いた。「次の者! 出身地と名をここに記入するように!」その声に押されるように、杏姐は慌てて籠から身を滑らせ、地面に膝をつく。化粧の香りがふわりと立ち、彼女は深々と頭を垂れた。「鹿北町より参りまし

  • 捨てられた下女は謎多き下官に溺愛される   帝都への道のり

    都までの道のりは、決して人に優しいものではなかった。帝都までは歩いて十日――その数字が示す以上に、梅鈴にとっては果てしない距離である。供として連なるのは、彼女を除けば皆、肩幅の広い屈強な男たちばかり。彼らの歩幅は大地を割るように大きく、足取りは迷いなく速い。梅鈴は必死に裾を握りしめ、息を切らしながらその背を追った。一歩遅れれば、すぐに置き去りにされてしまいそうな焦りが胸を締めつける。対照的に、籠に揺られる杏姐は、まるで春の庭を散策するかのような優雅さだった。籠の簾越しに差し込む光を受けながら、爪を磨き、甘い菓子をつまみ、ときおり遠くの景色を眺めては、未来の栄華を思い描くように

  • 捨てられた下女は謎多き下官に溺愛される   旅立ちの日④

    梅林が夜通し丹精を込めて縫い上げた杏姐の衣装。けれども、 当然のことながら、ねぎらいの心も、杏姐の口から梅鈴へ向けられる感謝の言葉など一片もない。 むしろ、疲労の色を隠しきれない梅鈴に向けられたのは、氷のように冷えた声音だった。「なにをぐずぐずしているのよ。あんたもさっさと出発の支度をしなさい」唐突な命令に、梅鈴は思わず息を呑む。理解が追いつかず、か細い声が漏れた。「えっ……どういうことでしょうか……?」その戸惑いを嘲るように、杏姐は大げさに肩をすくめた。「はぁ? あんたも都まで付いてくるに決まってるでしょう。 次女の一人も連れずに帝都へ向かうなんて、みっともないにもほど

  • 捨てられた下女は謎多き下官に溺愛される   旅立ち③

    (大変だわ…出発までに仕上げられるかしら――)胸の奥で小さく呟きながら、梅鈴は昼の仕事を淡々とこなし、そのまま杏姐の旅支度へと身を投じていた。夜更け、家々の灯が落ちても、彼女の部屋だけは細い灯火が揺れている。針先が布をすべり、静寂の中にかすかな衣擦れが響いた。膝の上に広げられたのは、鮮やかな花々が咲きこぼれるように染め抜かれた上質な反物。それは、梅鈴自身が一度たりとも袖を通したことのない、遠い世界の光を宿した布だった。指先に触れるたび、彼女はふと、自分とは別の誰かの未来を縫い上げているのだと気づく。それでも針は止まらない。杏姐の旅路が少しでも晴れやかなものとなるように――

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status