LOGIN「どうしてこんなこと…!」
胸の奥から突き上げるような怒りと混乱が、声に滲み出る。母の姿が人々の好奇の目にさらされる光景を想像するだけで、胸が締め付けられ、呼吸が苦しくなる。「勘違いするな。俺はただ知らせに来ただけだ」亮介の声は低く落ち着いているようで、どこか冷たさを帯びていた。「あなたじゃないなら、一体誰が…」焦りが声を震わせ、喉が詰まるように苦しい。母を傷つけた犯人が亮介でないなら、誰がこんな残酷なことをしたのか。いや、亮介が嘘をついている可能性だって…「さぁな」亮介は肩をすくめるようにして、無関心を装う。自分が標的にされるならまだ耐えられる、受け止める覚悟もある。けれど、母を巻き込み、尊厳を踏みにじるような残酷なやり方は許せない。「このことを伝えに、わざわざここまで来たの?」問いかけながら、私は必死に亮介の表情を探ろうと目を凝らす。けれど、「と、智哉…。私はただ、彼女のことを心配して」 紫苑さんの無様な姿を、智哉さんは汚いものでも見るかのような冷たい目で見下ろしていた。 私の腰に回す手は痛いほど力強く、彼がどれほど私のために怒ってくれているかがひしひしと伝わってくる。 周囲の招待客たちも、東条の婚約者が篠原のトップの怒りを買ったと悟り、関わり合いになるまいとさらに遠巻きに距離を取り始めた。 「心配?」 智哉さんは紫苑さんを見下ろしたまま微動だにせず、ただ底知れぬ怒りと軽蔑を宿した瞳で彼女を貫いている。 「ひよりさんが、私たちとは違う環境に苦労されるのではないかと思って……っ」 この期に及んでまだ私を見下そうとする紫苑さんの言葉選びに、私は内心で深い溜息をついた。 そんな底の浅い悪意が、智哉さんの前で通用するはずがない。 「つまり、」 智哉さんは嘲るような冷笑を口元に浮かべ、わざとゆっくりとした口調でその言葉の裏にある真意を、公の場で残酷なまでに言語化し始めた。 「そのサロンとやらは、俺の婚約者が苦労を強いられるほど劣悪で未成熟な環境だということか」 「違っ…」 「なら、俺が選び、隣に置くと決めた婚約者が、お前たちが集まる程度の社交場にすら適応できない底辺だと言いたいわけか?」 論理的で逃げ場のない智哉さんの詰問に、紫苑さんは喉の奥で引き攣った音を鳴らし、完全に硬直した。彼女の浅はかな嫌味が、篠原グループ全体への宣戦布告という最悪の形に変換されて突きつけられた。 「決してそんな意味では……っ!」 自らの発言がどれほど取り返しのつかない事態を引き起こしたかをようやく理解した紫苑さんは、必死に首を横に振った。 不穏な空気を察知したのか、人混みを掻き分けて足早に近づいてくる二つの影があった。涙目で立ち尽くす紫苑さ
「まぁ……。ひよりさんはああいう華やかな場にはご興味がないかと思って、遠慮しておりましたの」 彼女のその見え透いた嫌味に対し、私は一切傷ついた素振りを見せず、むしろ目を輝かせてみせた。彼女の悪意など全く気づいていない、純粋で無知なふりをすることが一番の反撃になる。 「とんでもありません。せっかくですから、皆様とぜひ親睦を深めたいと思っておりますの」 「ふふ、私が取りまとめているとはいえ、あそこは拒むような場所ではありませんわ。わざわざ私に許可を取らなくてもよろしくてよ」 自分がサロンの支配者であることを誇示しつつ、「誰でも入れるような場所に、わざわざ許可を求めてくるなんて滑稽だ」と私を見下すことで、なんとかマウントを取り返そうとしているらしい。 「では、私が参加しても問題ないということですね?」 彼女は私を頭の先から足の先まで値踏みするように舐め回すと、同情を装ったひどく嫌らしい声で、私の不確定な立場を嘲笑い始めた。 「もちろん。ですが、あそこは奥様方の集まりですから。まだ婚約者のひよりさんでは、少し…馴染みにくいかもしれませんわね」 以前の誕生日パーティーで私が味わった惨めな孤立を思い出させ、再び私を精神的に追い詰めようとする、彼女特有の陰湿で計算高い攻撃だった。 かつての私なら、この陰湿な言葉に萎縮し、逃げ出していたかもしれない。けれど、今の私には智哉さんが与えてくれた居場所と、彼を支えたいという強い覚悟がある。 私はグラスを持つ手に僅かに力を込めると、彼女の言葉の矛盾を突くために、わざとコロンと小さく首を傾げてみせた。 「まあ。それはどうしてですか?」 「え?」 私の予想外の反応に、紫苑さんは間の抜けた声を漏らした。 「どうして婚約者だと、サロンの空気に馴染めないとおっしゃるのでしょうか?」 私が明確な圧を持って
「俺のそばから離れるなって言ったくせに…」業界の若きトップである智哉さんのもとにはひっきりなしに挨拶の客が訪れ、今は少し離れた場所で重役たちの相手をするのに忙しそうにしている。『俺の目の届くところにいろ』と訂正されたものの、子供扱いされているようで少しだけ可笑しかった。「忙しいから仕方ないんだけど」グラスのワインを一口飲んだその時。ひどく甘ったるい香水がふわりと鼻をかすめ、聞き覚えのある声が背後からかけられた。「ひよりさん」振り返ると、そこには豪奢なドレスに身を包んだ紫苑さんが立っていた。完璧に作り込まれたその笑顔の裏に、どれほどの毒が隠されているか私は痛いほど知っている。本来なら顔も合わせたくない相手だが、逃げ隠れすれば智哉さんの顔に泥を塗ることになる。「紫苑様。本日は盛大なレセプション、おめでとうございます」私の隙のない挨拶に対し、紫苑さんは一瞬だけ面白くなさそうに目を細めたけれど、すぐに憂いを帯びた表情を作り上げた。そして周囲の招待客にも聞こえるように、少しだけトーンの高い声を出した。「ありがとうございます。それと、先日は本当にごめんなさい」私は彼女のペースに巻き込まれないよう、あくまで冷静にその真意を探るように問い返した。 「先日、ですか……?」私にだけ不備のある招待状を渡し、会場で恥をかかせようと画策したことだろう。結局智哉さんの圧倒的な力によって、彼女自身の首を絞める結果になったのだけど。今さらその話題を持ち出してくるのは、あくまで手違いだったと公の場で私に認めさせ、自身の潔白を証明するため。「えぇ。手違いで、あなたに不備のある招待状をお渡ししてしまって…ずっと心苦しく思っていたんです」彼女の底の浅い魂胆が透けて見え、私は内心で呆れ果てていた。ここで私が怒りを見せれば「過去の些細なミスをいつまでも根に持つ心の狭い女」として周囲に印象付けられてしまう。感情的
人混みへと消えていった朝倉さんの背中を鋭い目で見送った後、智哉さんは不愉快そうに低く舌打ちをした。そして、完璧にセットされた自身の髪を無造作に掻き乱し、低い声で吐き捨てるように呟く。 「また後で、何か面倒なことを仕掛けてくる気だな」 智哉さんを私の過去の因縁に巻き込んでしまったという罪悪感に押し潰されそうになり、私は小さくうつむいた。 「すみません…私のせいで」 私が謝ると、智哉さんは呆れたような、優しい眼差しを私に向けた。 「お前が謝る必要はない。ただ俺の側から離れなければ済む話だ」 その頼もしい言葉に胸が熱くなるけれど、どうしても朝倉さんが去り際に残した不気味な言葉が脳裏にこびりついて離れなかった。 「はい。ですが、朝倉さんのさっきの反応が、どうしても気になって……」 もしかすると、既に私が亮介と元婚約関係にあり、彼が紫苑さんに乗り換えて私を捨てたことすら掌握済みかもしれない。 私が抱いた懸念を伝えると、智哉さんはそれを否定することなく状況を分析し始めた。 「どういうルートで情報を仕入れたのかは知らないが、おそらくお前と東条の過去を知っているんだろうな」 「やっぱり、そうですよね」 顔を青ざめさせる私を見て、智哉さんは周囲の視線を警戒しながらも、私を安心させるようにポンと軽く肩に触れた。 「だが、あいつのあの探るような態度は、まだ完全な確信までは持てていないという証拠だ」 その言葉に少しだけ救われたものの、朝倉さんのあの執拗で計算高い性格を思えば、このまま大人しく引き下がるとは到底思えない。 私は不安を隠しきれず、ドレスの裾をギュッと握りしめて問いかけた。 「この後、彼からさらに鎌をかけられたりするのでしょうか……」 「まぁ、バレたらその時だ。それが俺たちに損害を与えるような致命的な情報ではないからな」
朝倉さんの卑劣な挑発に対し、私は怯むことなく真っ直ぐに彼を見据えた。「あなたが根も葉もない嘘ばかりおっしゃるので、最後まで聞いていられなかっただけです」私の強気な反論を聞いても、朝倉さんは痛痒も感じていないように口角を上げた。自信に満ちたねっとりとした声で、自分が握っている情報が絶対の真実であると仄めかしてくる。「俺の情報網が外れたことなんて、今まで一度もないよ」彼のその自信過剰な態度を打ち砕くように、智哉さんが鼻で笑った。「よく言う。三年前にガセネタを掴まされて、事業を傾かせかけたのはどこの誰だったか」智哉さんの鋭い一撃に、朝倉さんは一瞬だけ顔をしかめたが、すぐにわざとらしく肩をすくめてみせた。けれど、彼は何か面白いものを見つけたように目を細めた。「それは随分前の話だろ? けど、確かに…二人の雰囲気があの時とは随分変わったみたいだね」彼に突然雰囲気が変わったと指摘され、私は心臓がドキリと跳ねた。契約関係でしかなかったあの頃と違い、今の私と智哉さんの間には、名前のない何かが芽生え始めている。友情と言うには大袈裟だけれど…それ以上に……。私は動揺を悟られないよう小さく首を傾げた。「そうですか?」私の微かな動揺を見逃す朝倉さんではない。「うん。この関係に慣れてきたのかな?」これ以上彼に好き勝手言わせておけば、いつボロが出るか分からない。周囲には他の招待客もいるのに。私は焦りと怒りから、思わず声を少しだけ荒げて彼の言葉を遮ろうとした。「……朝倉さんっ」私が声を尖らせると、朝倉さんは両手を軽く上げて降参のポーズをとった。ただ、その目には微塵も反省の色はなく、むしろ私の反応を面白がっているよう。「はいはい。さっきの様子も見させてもらってたよ」「さっきのって……」朝倉さんは楽しそうに笑った。彼にとって
彼は周囲の招待客たちの視線を気にすることなく、少しだけ私の耳元へと顔を寄せ、どこか面白がるような、感心したような低い声でポツリと呟いた。 「……意外だな」 突然の発言に意味が分からず、私はコロンと小さく首を傾げて彼を見上げた。 「え?」 智哉さんは微かに口角を上げ、目を細めた。 「真正面から食い下がるとは思っていなかった」 彼の言葉に、私は少しだけ気恥ずかしくなって視線を逸らした。 ただ守られるだけの弱い存在でいたくなかったし、何より彼を不当に貶められることがどうしても許せなかった。 私は自分自身に言い聞かせるように、彼の妻となる人間としての覚悟とプライドを込めて、少しだけ胸を張って強がってみせた。 「……私は、智哉さんの婚約者ですよ」 私の言葉を聞いて、智哉さんはひどく満足そうに、柔らかく甘い視線を私に向けた。 「あぁ。それでいい」 彼が私の髪にそっと触れようと指先を伸ばしかけた、その二人だけの親密な空気が完成しようとしたまさにその瞬間。 「……厄介な奴に見つかったな」 智哉さんの手が止まり、背後からひどく軽薄で甘い声が割り込んできた。 「やあ、智哉。それに、ひよりちゃん。今日の主役はすっかり君たちみたいだね。一段と綺麗になったんじゃないかな」 声のした方へ振り向くと、そこにはシャンパングラスを片手に、余裕めいた薄ら笑いを浮かべて立つ朝倉さんの姿があった。 「朝倉さん…」 「気安く俺の妻の名を呼ぶな」 警戒心を露わにする私を見て、朝倉さんは楽しそうに目を細めた。 智哉さんが私に対して執着を見せれば見せるほど、彼にとっては奪い甲斐のある弱点として面白く映るのだろう。朝倉はグラスを揺
翌日、彼は私との契約を守るために弁護士と秘書を伴い、亮介に会いに行った。 私は扉の外で待たされることになり、中で何が行われているのかはまったく分からなかった。 廊下に立ち尽くしながら、時計の針の進みを見つめていた。 中からは声も物音も漏れてこない。 「何を話しているの……」 小さく呟いても、答えは返ってこない。私はただ、扉の前で立ち尽くすしかなかった。 そして、ほんの十分後。 扉が開き、彼が姿を現した。その顔には勝利とも安堵ともつかない影が浮かんでいる。 弁護士が短く頷き、秘書が静かに後ろに控える。 「借金は全て片付けた。だからもう、あいつに従う必要なんてな
車に揺られながら実家へと向かう道のりは、やけに長く感じられた。玄関の前に立つと、胸の奥がざわめき、手が震える。ドアノブに触れる指先は冷たく、開ける瞬間をためらう。けれど、深く息を吸い込み、意を決して扉を押し開けた。足を踏み入れると、リビングのソファーに母が座っているのが目に入る。「お母さん…」母の姿を目にした瞬間、胸の奥に押し込めていた感情が一気に溢れ出す。背もたれに身を預ける姿はどこか疲れ切っていて、私の視線を受け止めると小さく肩を震わせた。
妻…結婚……。 それは人生を根底から変える決断だった。けれどなぜ一年なのか、なぜ私なのか。「私とあなたが結婚…?それに1年というのは一体…」結婚という現実味のない響きと、一年という不可解な期限。その両方が私の心を揺さぶり、理解を拒む。「契約結婚だ。それ以上でも以下でもない」その言葉はまるで判を押された契約書の一文のようだった。結婚という言葉が持つはずの温もりや未来への希望はそこにはなく、ただ期限付きの取引の匂いだけが漂う。愛ではなく契約
「どうして私が…それより、どうして私の名前────」 言葉を最後まで続けることはできなかった。 胸の奥から湧き上がる疑問と恐怖を、声にしようとした瞬間、彼の腕が私の腰を強く引き寄せた。 近すぎる距離に心臓が跳ねる。抗う間もなく、彼の唇が私に重なった。 問いかけは宙に消え、答えを知る前に沈黙が支配する。 彼は唇を離すと、ただ静かに微笑んだ。その笑みは優しさとも冷たさとも取れる曖昧なものだった。 「何をしている……







