LOGIN支度を終え、私は少し緊張しながら重厚な扉を開け、智哉さんが待つ広々としたリビングへと足を踏み入れた。部屋の中央では、隙のない漆黒のタキシードに身を包んだ智哉さんがいた。「お待たせしました」私が声をかけると、彼はゆっくりとこちらを振り返る。視線が交差したのに、微動だにせず私を見つめたまま何の反応も示さない。「智哉さん……?」彼は小さく息を吐き出すと、感情の起伏を感じさせない低い声で、短く応じた。「……あぁ」その声はどこか掠れていて、普段の彼らしくない。私は心配で、ドレスの裾を少しだけ握りしめて歩み寄った。「大丈夫ですか…?」私の不安げな視線を受け止めた智哉さんは、ふっと短く鼻で息を吐き、何事もないかのように平然とした態度を作ってみせた。「あぁ」彼の立ち姿を改めてよく観察した私の視線は、自然と彼の左腕へと吸い寄せられる。そして、そこにあるべきはずの白い塊が消え失せていることに気づき、息を呑んだ。「智哉さん、左腕のギプスはどうしたんですか」私の問いかけに対し、智哉さんは自身の左腕を軽く動かして見せた。「パーティーに無様な格好で出るわけにはいかないからな」「そうですか。でも、無理だけはしないでくださいね」私と智哉さんの間に漂う少しだけ緊迫した空気を打ち破るように、背後からパンッと明るく手を叩く音が響いた。空気を読んだのか読んでいないのか、佐々木さんが満面の笑みを浮かべて私たちの間に割って入り、智哉さんに向かって自信満々に胸を張った。「篠原様! どうでしょう。本日のパーティーで、奥様が誰よりも一番美しく輝くように、私が持てる技術のすべてを使って着飾らせていただきました!」佐々木さんの元気な声に促され、智哉さんの瞳が初めて、全身を真っ直ぐに捉えるように私へと向けられた。「……あぁ。よく似合っている」たった一言。けれど、彼
ついに、レセプションパーティーの当日がやってきた。 豪奢な化粧台の前で、私はこれから始まる未知の戦場への緊張に強張る体を硬くして座っていた。そんな私の背後には、メイク道具一式をプロさながらに広げた佐々木さんが立っている。 「本日は奥様の魅力を最大限に引き出して、誰よりも美しい、最高の状態に仕上げさせていただきますね!」 鏡に映る彼女の頼もしい笑顔を見つめながら、私はガチガチに緊張して冷え切った指先を膝の上でギュッと握りしめた。 「はい。よろしくお願いします」 「それにしても、本当に息を呑むほど素敵なお召し物ですね。このドレスの気品に負けないような、洗練されたエレガントなメイクにしていきましょう!」 佐々木さんの絶賛の言葉を聞いて、私は誇らしいような、気恥ずかしいような、くすぐったい気持ちになった。 私はドレスを見つめながら、自然と綻んでしまう口元を隠すように、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。 「智哉さんが、私のために選んでくれたんです。ドレスに恥じないように、しっかり胸を張らないとですね」 私が智哉さんの名前を出してはにかむと、佐々木さんはとろけるような眼差しになった。 その純粋な反応に少しだけ胸が痛みつつも、私はメイクブラシを手にした彼女に大人しく身を委ねた。 「智哉様がお選びになったんですね! 本当に愛されていらっしゃって、羨ましい限りです」 彼女は手早く私の肌に下地を塗り広げ、魔法のような手つきで顔の印象を変えていく。その心地よいブラシの感触に少しだけ緊張が解け、私はポツリと本音を零した。 「こんな風にお化粧をする機会なんて普段の生活ではないので、佐々木さんにお願いできて本当に助かりました。ありがとうございます」 私の感謝の言葉に、佐々木さんは「とんでもないです!」と明るく笑い、アイシャドウのパレットを開きながら楽しそうに目を細めた。
「はい、なんですか?」私が身構えて返事をすると、彼女の瞳は予想に反して、まるで恋バナに花を咲かせる女子高生のようにキラキラと好奇心に輝いていた。「奥様は…篠原様の、どこがお好きなんですか?」まさかこのタイミングでそんな直球の質問をされるとは。私たちは契約結婚の偽装夫婦だ。本来なら好きという感情など存在しないはずなのに、不器用で優しい彼の手のひらの感触が脳裏をよぎり、胸の奥がドクンと激しく波打つ。「え…っと、それは……」佐々木さんは自分がプライベートに踏み込みすぎたと焦ったのか、慌てて両手を顔の前でブンブンと振った。「あ、ごめんなさい! 決して奥様を困らせるつもりはなくて。すみません。ただ、初日にお庭でお二人にお会いした時の、あの甘い空気感が本当に素敵だったもので……つい気になっちゃって」あの夜の庭での出来事。私がプレゼントしたネクタイピンを、彼が躊躇うことなく身につけてくれたあの瞬間の甘い空気を、彼女は植え込みの陰からしっかりと見ていた。「恥ずかしいところを見られてしまいましたね」でも、タイミングとしてはなかなか良かったのかもしれない。そのお陰で私たちを疑うことなく、仲のいい夫婦だと思ってくれているから。「とんでもないです! まるで映画のワンシーンみたいでした!」「そんなことは…」興奮気味に身を乗り出し、熱を込めて語り始めた。「私の知っている篠原様といえば、仕事の鬼で、他人に一切の情けもかけない恐ろしい方という噂ばかりで。でも、奥様に接する時の表情は、本当に愛おしいものを見るような優しい目をされていて。あんな冷たい方がどうやって恋に落ちたのかなって…」彼女が見たあの甘い空気は、あくまで周囲の目や監視カメラを欺くための、完璧に計算された彼の演技でしかない。でも…。「彼は……本当は、すごく不器用で、優しい人なんです」それは演技でもなんでもない、私の心からの本音だった。微笑
「はい?」呼び止められた佐々木さんは、抱えていたトレイを胸元でしっかりと持ち直すと、目を丸くしてこちらを振り返った。彼女の裏表のない子犬のような表情を見ていると少し罪悪感が湧いたけれど、智哉さんの言葉の奥にあった、あの濁った正体をどうしても知っておきたかった。「佐々木さんはどうして、ここで働こうと思ったんですか?」私の唐突な問いかけに、佐々木さんは「え?」と小さく声を漏らし、パチパチと瞬きを繰り返した。雇い主の妻から突然個人的な動機を探られるなど、彼女にとっては予想外のことだったのだろう。「それは…」私の言葉の裏に何か不満や叱責の意味が含まれていると思ったのか、彼女が少し身構えてしまった。「気を悪くされたならごめんなさい。どうして住み込みの家政婦さんを選んだのか、ただ純粋に気になってしまって」私のフォローを聞いた瞬間、佐々木さんの顔から緊張がスッと抜け落ちた。彼女は「なんだ、そういうことですか!」と屈託のない笑顔を弾けさせると、少し肩の力を抜いて本来の彼女らしい明るい雰囲気を纏う。「一番の理由は…やっぱり、お給料がいいからですかね!」あっけらかんと笑いながらそう答える彼女の正直すぎる言葉に、私は思わず目を丸くした。外商の店員や社交界の人間たちのように、腹の底に黒い思惑を隠して綺麗な言葉を並べる大人ばかりを見てきたせいか、彼女のようにお金という現実的な目的を堂々と口にできる素直さが、今の私にはとても新鮮で心地よかった。「なるほど」私の笑いにつられて、佐々木さんも「えへへ」と少し照れくさそうに笑った。「私としてはずっとここで働きたいくらいなのですが、契約上そうもいかなくて。ですが、どれだけ短期間でも篠原家の家政婦として働いた経歴があれば、次はどこでも引っ張りだこになると思うんです。だから、未来への投資も兼ねて」そういえば、聞いたことがあった。どれだけ優秀な人材であっても、情報漏洩や癒着を防ぐために、この家で働く使用人には厳格な契約
「奥様…?」 窓の外の景色をぼんやりと見つめていた私は、ふいに鼓膜を揺らした穏やかな声にハッと肩を跳ねさせた。 彼女は湯気の立つティーセットを重厚なテーブルに置きながら、私をじっと見つめていた。 「あ、はい…っ」 声の主は、数日前にこの邸宅へやってきた家政婦の佐々木さん。 私よりもいくつか年下で、いつも元気いっぱいの彼女が、今は心配そうに小首を傾げてこちらを覗き込んでいる。 「どうかなさいましたか……?」 「いえ、少し考え事をしていて」 明日のレセプションパーティーのこと。あの恐ろしい戦場を前に、準備に追われているうちにあっという間に時間が過ぎてしまった。 プレッシャーで押し潰されそうになる胸を、温かいティーカップの熱で必死に落ち着かせる。 「そうですか。ご気分が悪いわけじゃないなら良かったです」 彼女の裏表のない子犬のような笑顔に、私の張り詰めていた肩の力が少しだけ抜ける。 「それより、佐々木さんはこちらでの生活には慣れましたか?」 私が突然話を振ると、彼女は少しだけ意外そうな顔をして瞬きをした。 少しの間の後、彼女は手元のトレイを胸の前でしっかりと抱え直し、恭しく頭を下げてから、ゆっくりと口を開いた。 「まだ数日しか経っていないのでなんとも言えませんが…控えめに言って、ここは天国だと思います!」 予想外の少し大袈裟な表現に、私は思わず目を丸くした。 智哉さんは仕事に厳しく、この広大な邸宅の管理も決して楽な仕事ではないはず。それなのに天国とまで言い切る彼女の言葉の真意が読めず、私は首を傾げる。 「天国……ですか?」 私が不思議そうに問い返すと、佐々木さんはどこか夢見るような笑みを口元に浮かべた。
邸宅に到着し、美しくライトアップされた広大な庭園をエントランスに向かって歩いていた時だった。私はギュッと握りしめていた小さな紙袋の感触に勇気をもらい、前を歩く彼の広い背中へと思いきって声をかけた。「あの、智哉さん。少しだけいいですか……?」立ち止まった智哉さんが、ゆっくりとこちらを振り返る。その整った顔に浮かぶのは、いつもの読み取れない無表情。けれど、私がひどく緊張しているのを察したのか、威圧感を消すようにわずかに目元を和らげてくれた。「……どうした」私は早鐘を打つ心臓を押さえながら、背中に隠していた小さな紙袋をそっと差し出した。彼が私のために用意してくれた数々の贈り物に比べれば、ささやかすぎるものだ。それでも、どうしても渡したかった。「これ…もし良かったら、受け取ってください」智哉さんは少し驚いたように目を瞬かせると、私の目と、差し出された箱を交互に見つめた。そして手を伸ばし、そっとそれを受け取ってくれた。「……なんだ、これは」片手で器用に包装を解き、小さな箱を開ける。ベルベットのクッションの上に鎮座しているのは、一切の無駄を省いたシンプルなシルバーのネクタイピン。その裏側には、私が密かにお願いしたピンクサファイアが埋め込まれている。「先ほどのスーツにも、普段のお仕事着にも合わせやすいデザインかと思って……。もし、お気に召さなかったら、遠慮なく捨てていただいて構わ─────」自信のなさから、つい早口で自虐的な言葉を並べてしまう。けれど、智哉さんは私の言葉を遮るようにふっと息を吐くと、箱からネクタイピンを取り出し、今身につけている自身のネクタイへと一切の躊躇なくスッと滑り込ませた。「……どうだ」庭園の柔らかな照明を反射して、ネクタイピンが上品な光を放つ。智哉さんは自身の胸元を軽く整えながら、私の評価を待つように真っ直ぐに見下ろしてきた。その思いがけない即座の行動に、私
「勝手に信じたお前が悪い」その言葉は胸を鋭く突き刺す。自分の愛が一方的な思い込みだったのかと考えると、心臓が締め付けられ呼吸が浅くなる。「もういい。私は、ここを出ていきます」決意は苦しくも確かなものだった。裏切られた愛にすがるより、自分を守るために離れるしかない。震える声で別れを告げると、胸の奥にわずかな自由への希望が芽生えた。「出ていくなら、その前に借金を返済して行け」突然突きつけられた借金という言葉に、頭が真っ白になる。「借金…?」私は、彼にお金を借りたことなんて一度もない。「お前の母親は、俺に5000万円の借金をしている」母が…?母が彼に5000万円もの借金を
今日は私の誕生日だった。 手の込んだものではないけれど、彼の好きな料理を作ってテーブルに並べていた。 朝は何も言われなかったけれど、誕生日だから早めに仕事を切り上げて帰ってきてくれるはず。 そのとき、テーブルの上に置いたスマートフォンが小さく震える。 何気なく画面を覗き込むと、差出人不明のメッセージ通知。 開いてみると、一枚の写真が添付されていた。 「…なにこれ」 そこに写っていたのは、私の婚約者だった。そして彼の隣には、別の名家の令嬢。 ヨットの上で、二人はためらうことなく唇を重ねていた。 指先から力が抜け、スマートフォンを落としそうになる。 頭が真っ白になる。 信じ
翌日、彼は私との契約を守るために弁護士と秘書を伴い、亮介に会いに行った。 私は扉の外で待たされることになり、中で何が行われているのかはまったく分からなかった。 廊下に立ち尽くしながら、時計の針の進みを見つめていた。 中からは声も物音も漏れてこない。 「何を話しているの……」 小さく呟いても、答えは返ってこない。私はただ、扉の前で立ち尽くすしかなかった。 そして、ほんの十分後。 扉が開き、彼が姿を現した。その顔には勝利とも安堵ともつかない影が浮かんでいる。 弁護士が短く頷き、秘書が静かに後ろに控える。 「借金は全て片付けた。だからもう、あいつに従う必要なんてな
妻…結婚……。 それは人生を根底から変える決断だった。けれどなぜ一年なのか、なぜ私なのか。「私とあなたが結婚…?それに1年というのは一体…」結婚という現実味のない響きと、一年という不可解な期限。その両方が私の心を揺さぶり、理解を拒む。「契約結婚だ。それ以上でも以下でもない」その言葉はまるで判を押された契約書の一文のようだった。結婚という言葉が持つはずの温もりや未来への希望はそこにはなく、ただ期限付きの取引の匂いだけが漂う。愛ではなく契約







