LOGIN翌日、彼は私との契約を守るために弁護士と秘書を伴い、亮介に会いに行った。
私は扉の外で待たされることになり、中で何が行われているのかはまったく分からなかった。 廊下に立ち尽くしながら、時計の針の進みを見つめていた。 中からは声も物音も漏れてこない。 「何を話しているの……」 小さく呟いても、答えは返ってこない。私はただ、扉の前で立ち尽くすしかなかった。 そして、ほんの十分後。 扉が開き、彼が姿を現した。その顔には勝利とも安堵ともつかない影が浮かんでいる。 弁護士が短く頷き、秘書が静かに後ろに控える。 「借金は全て片付けた。だからもう、あいつに従う必要なんてない」 その言葉が告げられた瞬間、私は息を呑んだ。 何をどうして、どんな交渉があったのか。知る由もない。ただ、重苦しい鎖が外れる音だけが心に響いていた。 その足で、彼の別荘に向かうことになった。 リムジンの後部座席。広いはずの空間なのに、彼が隣にいるだけで息苦しいほどの圧迫感があった。 窓の外を流れる街の灯りは遠く、まるで別世界のもののように見える。 彼は黙したまま腕を組んで座っていたが、やがてゆっくりと顔をこちらへ向けた。 鋭い視線に射抜かれ、心臓が跳ねる。 そして指先が顎に触れ、なぞるように動いた。 冷たく支配的な仕草なのに、意に反して胸の奥が熱を帯び、羞恥が波のように押し寄せる。 「……怖いか?」 低く響く声が車内の静けさを破る。口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。 「怖い……わけじゃない。ただ……」 言葉を探す私の声は震えていた。 彼はわずかに口元を歪め、挑発するような笑みを浮かべる。 「ならいい。お前は俺のものだ。忘れるな」 その言葉に心臓が跳ね、視線を逸らす。 けれど彼は逃がさないように顎を軽く持ち上げ、目を合わせさせる。 「芝居は最後までやり切れ。途中で降りることは許さない」 彼の声は低く、しかし確信に満ちていた。 私はただ、息を詰めるしかなかった。 車は静かに走り続け、やがてリムジンが静かに停まった。 ドアが開かれると夜の冷たい空気が頬を撫で、私は震える足で外へ降りた。 見上げれば、山頂にそびえる邸宅が闇の中に浮かび上がっている。 重厚な門、広い石畳、そして威圧的なほど大きな玄関。 すべてが彼の所有物であり、私を飲み込むために存在しているように思えた。 邸宅の奥へと導かれ、書斎の扉が開かれる。 整然とした空間に足を踏み入れると、机の上に置かれた一枚の書類が目に入った。 契約書。 彼はそれを手に取り、私の前へ差し出す。 「声に出して読め」彼は周囲の招待客たちの視線を気にすることなく、少しだけ私の耳元へと顔を寄せ、どこか面白がるような、感心したような低い声でポツリと呟いた。 「……意外だな」 突然の発言に意味が分からず、私はコロンと小さく首を傾げて彼を見上げた。 「え?」 智哉さんは微かに口角を上げ、目を細めた。 「真正面から食い下がるとは思っていなかった」 彼の言葉に、私は少しだけ気恥ずかしくなって視線を逸らした。 ただ守られるだけの弱い存在でいたくなかったし、何より彼を不当に貶められることがどうしても許せなかった。 私は自分自身に言い聞かせるように、彼の妻となる人間としての覚悟とプライドを込めて、少しだけ胸を張って強がってみせた。 「……私は、智哉さんの婚約者ですよ」 私の言葉を聞いて、智哉さんはひどく満足そうに、柔らかく甘い視線を私に向けた。 「あぁ。それでいい」 彼が私の髪にそっと触れようと指先を伸ばしかけた、その二人だけの親密な空気が完成しようとしたまさにその瞬間。 「……厄介な奴に見つかったな」 智哉さんの手が止まり、背後からひどく軽薄で甘い声が割り込んできた。 「やあ、智哉。それに、ひよりちゃん。今日の主役はすっかり君たちみたいだね。一段と綺麗になったんじゃないかな」 声のした方へ振り向くと、そこにはシャンパングラスを片手に、余裕めいた薄ら笑いを浮かべて立つ朝倉さんの姿があった。 「朝倉さん…」 「気安く俺の妻の名を呼ぶな」 警戒心を露わにする私を見て、朝倉さんは楽しそうに目を細めた。 智哉さんが私に対して執着を見せれば見せるほど、彼にとっては奪い甲斐のある弱点として面白く映るのだろう。朝倉はグラスを揺
会場の扉が開くと、眩いシャンデリアの光と豪奢な空間が広がっていた。 行き交う招待客の視線が、智哉さんに一斉に集まる。彼は私の腰にそっと手を添え、優雅にエスコートしながら、このパーティーの主催者である東条家のもとへと歩み寄った。 「本日は、盛大なレセプションにご招待いただき感謝いたします」亮介の父親が、顔いっぱいに愛想の良い笑みを浮かべて出迎えた。 「これはこれは、篠原社長ではないですか。お越しいただき光栄の至りです」 彼の背後から、見覚えのある男が姿を現した。 亮介は智哉さんを一瞥した後、ねっとりとした視線を私へと絡みつかせ、馴れ馴れしい笑みを浮かべて距離を詰めてきた。 「ひよりさん、お久しぶりですね。一段と美しくなられた」 背筋に冷たいものが走る。私たちの過去を、なかったことにしようとしているのだろうか。 腰に添えられた智哉さんの手に微かに力がこもるのを感じ、私は彼を安心させるように堂々と微笑み返した。 「東条様、この度はおめでとうございます。お招きいただき光栄です」 私の隙のない挨拶が気に入らなかったのか、わざとらしく眉を下げてみせた。 智哉さんという婚約者が隣にいるにも関わらず、まるで二人だけの秘密があるかのような、嫌らしい声で囁きかけてくる。 「そんな他人行儀なご挨拶、ひどいじゃないですか」 智哉さんを挑発しようとする彼の浅はかな意図が透けて見え、私は内心で呆れ果てていた。 ここで私が動揺すれば彼の思う壺だ。 「そうですか? 東条様に対する礼儀として、当然の振る舞いかと存じますが」 私の冷たい反応を余裕の表れと捉えたのか、亮介はさらに一歩近づき、周囲の客にも聞こえるようなわざとらしい声で爆弾を落としてきた。
「はい。覚悟はしてます」 「まともな味方をつけるまでに相当な時間がかかるだろう。篠原の妻と分かれば、お前から甘い蜜だけを吸おうと群がってくるハイエナのような奴らばかりだからな」 彼が日々、そんな相手に一人で戦っているのだと思うと、ますます私がしっかりしなければという思いが強くなる。 私は恐怖を飲み込み、覚悟を決めるようにギュッと膝の上のドレスを握りしめると、彼を安心させるために力強く頷いてみせた。 「心配しないでください。上手くやってみせます」 私の固い決意を聞き届けた智哉さんは、小さく頷いて納得したようだった。 けれど、彼はふと何か引っかかっていたことを思い出したように眉をひそめ、訝しげな視線を私へと向けてきた。 「そもそも、そのサロンの話をどこで聞いたんだ」 急に話題が変わったことに私は小さく瞬きをした。 「サロンの話ですか? さっき、お仕度をしてもらっている時に、佐々木さんが教えてくれたんですけど…」 私が佐々木さんの名前を出した瞬間、車内の空気が一気に数度下がったような錯覚を覚えた。 「智哉さん…?」 「あまり、あの家政婦と親しくするな」 「え、どうしてですか」 初日に彼自身が彼女を評した言葉と、今の彼の態度がどうしても結びつかない。 「適度な距離を保て」 彼女の人柄まで否定するような言い方に、私は戸惑いを隠せずに反論の声を上げてしまった。 「でも、初日に智哉さんご自身が、『彼女は信頼できる人間だから間違いない』って、そうおっしゃっていたじゃないですか」
「でも、あそこでは各界の裏の繋がりとか、有益な情報がたくさん集まるって……」 私の必死の反論を遮るように、智哉さんはひどく呆れたような深いため息をついた。 「あんな場所で飛び交う、嘘か本当かも分からない無責任な噂話を鵜呑みにしてどうする気だ」 彼の冷ややかな正論に、私はぐっと言葉に詰まった。 「智哉さんは、それが嘘でも真実でも巧みに利用できる方なのだと思っていました」 私の口から出た生意気な言葉に、智哉さんは怒るどころか、自信に満ちた薄い笑みを口元に浮かべた。 「俺は、世論や権力を使って嘘を真実に変えることができる側の人間だ」 「それなら」 「だからこそ、他人が流した安っぽい嘘をわざわざ拾って信じる必要など、どこにもない」 住む世界が違いすぎる彼の言葉に、私は完全に返す言葉を失った。 私なんかが小手先の情報収集をしようと身を粉にしたところで、何でも思い通りに動かせる彼には、本当に何の役にも立たないんだ。 「すみません。少しでも智哉さんのお役に立てればと思ったんですけど。ただの余計なお節介でした」 完全に心を閉ざして俯く私を見て、智哉さんは「チッ」と小さく舌打ちをした。 少しだけバツが悪そうに顔を背けながら、彼は不器用すぎるフォローの言葉を付け加えた。 「俺のために無理をしてあんな場所へ行くというのなら、必要ないと言っているんだ」 「はい。分かりまし─────」 私の言葉に被せるように、智哉さんは窓の外の夜景を睨みつけたまま口を開いた。 「だが、お前があそこで交友関係を広げて楽しみたいというのなら…勝手にすればいい」 結局のところ、私が傷つかないように遠ざけたかっただけなのかもしれない。
窓の外の夜景が静かに後方へと流れていく中、私はふと、隣に座る智哉さんの強い視線が、先ほどからずっと私に向けられていることに気がついた。「あの、智哉さん? どうかしましたか?」流れる街灯の光が車内を定期的に照らし出し、彼の整った顔立ちを仄暗く浮かび上がらせる。「…いや」「ど、どこかおかしいですか? メイクが派手すぎるとか」私が不安になって身を縮めながら尋ねると、智哉さんは微かに眉をひそめ、ふっと短く息を吐き出した。そして、私から一切視線を外すことなく口を開く。「ただ、それなりに見えるようになったから少し驚いただけだ」素直じゃない彼の言葉に、私はポカンと目を丸くしてしまった。それなりに見えるなんて、さっきのよく似合っているという褒め言葉から随分と格下げされている。「もう…。でも、一応は褒めてくれているんですよね。ありがとうございます」私が少し不服そうにお礼を言うと、智哉さんは喉の奥でくくっと低く笑った。「それにしても、あの家政婦といつの間に仲良くなったんだ。メイクを任せるとは」私は彼を怒らせないよう、彼女の厚意を必死に弁解すべく慌てて口を開いた。「佐々木さんがメイクアップアーティストの資格を持っているらしくて、お願いしたんです」私が身振り手振りを交えて懸命に説明すると、智哉さんは疑り深い目を向けたまま、微かに眉間へ皺を寄せた。 そして、深くシートに背中を預け直し、不満げな低い声で短く応じた。 「そうか」智哉さんはそれだけ短く吐き捨てると、興味を失ったように視線を窓の外へと向けた。これ以上彼女の話題を続けるのは得策ではないと悟り、私は少しだけ車内の張り詰めた空気を変えようと試みる。「あの、智哉さん。ご婦人方が定期的に集まる社交サロンというものをご存知ですか?」私が恐る恐る尋ねると、窓の外を見ていた智哉さんはピクリと反応し、微かに眉をひそめてこちらを振り返った。
支度を終え、私は少し緊張しながら重厚な扉を開け、智哉さんが待つ広々としたリビングへと足を踏み入れた。部屋の中央では、隙のない漆黒のタキシードに身を包んだ智哉さんがいた。「お待たせしました」私が声をかけると、彼はゆっくりとこちらを振り返る。視線が交差したのに、微動だにせず私を見つめたまま何の反応も示さない。「智哉さん……?」彼は小さく息を吐き出すと、感情の起伏を感じさせない低い声で、短く応じた。「……あぁ」その声はどこか掠れていて、普段の彼らしくない。私は心配で、ドレスの裾を少しだけ握りしめて歩み寄った。「大丈夫ですか…?」私の不安げな視線を受け止めた智哉さんは、ふっと短く鼻で息を吐き、何事もないかのように平然とした態度を作ってみせた。「あぁ」彼の立ち姿を改めてよく観察した私の視線は、自然と彼の左腕へと吸い寄せられる。そして、そこにあるべきはずの白い塊が消え失せていることに気づき、息を呑んだ。「智哉さん、左腕のギプスはどうしたんですか」私の問いかけに対し、智哉さんは自身の左腕を軽く動かして見せた。「パーティーに無様な格好で出るわけにはいかないからな」「そうですか。でも、無理だけはしないでくださいね」私と智哉さんの間に漂う少しだけ緊迫した空気を打ち破るように、背後からパンッと明るく手を叩く音が響いた。空気を読んだのか読んでいないのか、佐々木さんが満面の笑みを浮かべて私たちの間に割って入り、智哉さんに向かって自信満々に胸を張った。「篠原様! どうでしょう。本日のパーティーで、奥様が誰よりも一番美しく輝くように、私が持てる技術のすべてを使って着飾らせていただきました!」佐々木さんの元気な声に促され、智哉さんの瞳が初めて、全身を真っ直ぐに捉えるように私へと向けられた。「……あぁ。よく似合っている」たった一言。けれど、彼
車に揺られながら実家へと向かう道のりは、やけに長く感じられた。玄関の前に立つと、胸の奥がざわめき、手が震える。ドアノブに触れる指先は冷たく、開ける瞬間をためらう。けれど、深く息を吸い込み、意を決して扉を押し開けた。足を踏み入れると、リビングのソファーに母が座っているのが目に入る。「お母さん…」母の姿を目にした瞬間、胸の奥に押し込めていた感情が一気に溢れ出す。背もたれに身を預ける姿はどこか疲れ切っていて、私の視線を受け止めると小さく肩を震わせた。
妻…結婚……。 それは人生を根底から変える決断だった。けれどなぜ一年なのか、なぜ私なのか。「私とあなたが結婚…?それに1年というのは一体…」結婚という現実味のない響きと、一年という不可解な期限。その両方が私の心を揺さぶり、理解を拒む。「契約結婚だ。それ以上でも以下でもない」その言葉はまるで判を押された契約書の一文のようだった。結婚という言葉が持つはずの温もりや未来への希望はそこにはなく、ただ期限付きの取引の匂いだけが漂う。愛ではなく契約
「勝手に信じたお前が悪い」その言葉は胸を鋭く突き刺す。自分の愛が一方的な思い込みだったのかと考えると、心臓が締め付けられ呼吸が浅くなる。「もういい。私は、ここを出ていきます」決意は苦しくも確かなものだった。裏切られた愛にすがるより、自分を守るために離れるしかない。震える声で別れを告げると、胸の奥にわずかな自由への希望が芽生えた。「出ていくなら、その前に借金を返済して行け」突然突きつけられた借金という言葉に、頭が真っ白になる。「借金…?」私は、彼にお金を借りたことなんて一度もない。「お前の母親は、俺に5000万円の借金をしている」母が…?母が彼に5000万円もの借金を
今日は私の誕生日だった。 手の込んだものではないけれど、彼の好きな料理を作ってテーブルに並べていた。 朝は何も言われなかったけれど、誕生日だから早めに仕事を切り上げて帰ってきてくれるはず。 そのとき、テーブルの上に置いたスマートフォンが小さく震える。 何気なく画面を覗き込むと、差出人不明のメッセージ通知。 開いてみると、一枚の写真が添付されていた。 「…なにこれ」 そこに写っていたのは、私の婚約者だった。そして彼の隣には、別の名家の令嬢。 ヨットの上で、二人はためらうことなく唇を重ねていた。 指先から力が抜け、スマートフォンを落としそうになる。 頭が真っ白になる。 信じ