Se connecter「どうして私が…それより、どうして私の名前────」
言葉を最後まで続けることはできなかった。 胸の奥から湧き上がる疑問と恐怖を、声にしようとした瞬間、彼の腕が私の腰を強く引き寄せた。 近すぎる距離に心臓が跳ねる。抗う間もなく、彼の唇が私に重なった。 問いかけは宙に消え、答えを知る前に沈黙が支配する。 彼は唇を離すと、ただ静かに微笑んだ。その笑みは優しさとも冷たさとも取れる曖昧なものだった。 「何をしている……!」 鋭い声が会場に響き渡り、空気が一瞬で張り詰めた。 激怒した亮介が、迷いなくこちらへ詰め寄ってくる。 「何って、見れば分かるだろ?」 そして周囲に聞こえないように、低い声で囁く。 「嫉妬なんて、惨めだぞ」 その言葉を浴びせられた瞬間、亮介の顔が怒りで歪んだ。 「……なんだと!?」 激情に駆られた亮介は、思わず彼の胸倉を掴む。 「おっと。俺に手を出す前に、親父さんが俺を敵に回す覚悟があるか聞いてみろ」 亮介が父親の方を見ると、父親は鋭い声で制した。 「やめろ、亮介」 その一言には、場を収める威厳と、軽率な行動を許さない強い圧力が込められていた。 亮介は父親の制止の声に一瞬ためらったが、ゆっくりと手を離した。 その仕草には、怒りと屈辱、そして父親の威圧に従わざるを得ない葛藤が滲んでいた。 彼は余裕の笑みを浮かべたまま、何も言わずに亮介を見下ろす。 「息子が無礼を働きました。申し訳ございません」 その声は震えていて、普段の威厳ある姿とは違い、必死に場を取り繕っているように見えた。 周囲の視線が突き刺さり、私自身も居心地の悪さに耐えられず、指先をぎゅっと握りしめる。 「息子さんの振る舞いが、家の名を汚さないことを願います。次は謝罪だけでは済まないかもしれませんからね」 淡々と告げられる言葉は脅しではなく、事実を突きつけるような重さを持っていた。彼の横顔は揺るぎなく、まるで氷の壁のように冷たい。 「息子には厳しく言い聞かせますので、どうか本日のところはご容赦ください」 「…彼女が少々疲れているようですので、しばし席を外させていただけますでしょうか」 彼の視線が私に向けられた瞬間、心臓が跳ねた。 私はただ気まずさに押し潰されそうになっていただけで、体調は何も悪くないのだけれど…。 「もちろんです」 場の緊張がわずかに緩んだように感じられ、息苦しさがほんの少し和らぐ。 けれどその安堵は長く続かなかった。 亮介が静かに口を開く。 「失礼ですが……お二人は、どのようなご関係ですか」 亮介の視線が私と彼の間を行き来し、周囲の空気が再び重くなる。 「彼女は、私の大切な婚約者です」 その言葉に、私は目を見開いた。 「婚約者…?」 私の声は震え、かすれた。 彼はわずかに顎を動かし、少し離れた場所に控えていた人物へ視線を送った。 視線を受け取った男は、静かな足取りで近づいてくる。 そして柔らかな笑みを浮かべ、穏やかな声で切り出した。 「ひより様、休憩室へお連れいたします」 「あ、はい…」 そう言うと、私は促されるまま歩き出す。 休憩室へ向かう足取りは自然とその男に合わせられ、背後に残るパーティー会場のざわめきが遠ざかっていく。 背後ではまだ亮介と彼が何かを話しているようだったが、言葉は届かず、ただ低い声の響きだけが残る。 私は振り返ることもできず、ただ前を向いて歩き続けた。 隣を歩く男は無言のまま、時折こちらへ視線を向ける。 その眼差しに何を読み取ればいいのか分からず、私はただ視線を逸らした。 休憩室に着くと、男が先に扉へと歩み寄る。無駄のない動作で取っ手に手をかけ、静かに押し開ける。 そして男は一歩身を引き、私に道を譲るように身を傾けた。 「ごゆっくりお休みくださいませ」 私は小さく頷きながら足を踏み入れようとしたが、胸の奥に引っかかるものがあった。 思わず声が漏れる。 「あの、あの方は……」 あの人は、どうして私にあんなことをしたのか。彼は一体何者なのか。婚約者だと宣言したその言葉は本当なのか。 頭の中で疑問が渦を巻き、息苦しさに変わっていく。 その瞬間、背後から低い声が響いた。 「俺がなんだって?」 背後から低い声が響いた瞬間、心臓が跳ねるように大きく脈打った。 振り返るとそこに立っていたのは、私の唇を奪った彼だった。背筋がぞくりと震え、空気が一気に張り詰める。 「…私は、いつからあなたの婚約者になったのでしょう」 言葉は震え、問いかけというよりも心の奥に渦巻く混乱が漏れ出たようだった。 知らないはずの未来が、勝手に形を与えられているようで、恐怖と不安が胸を締め付ける。 「説明はこれからだ。立ったままでは長くなる、座れ」 その言葉に抗うことはできなかった。私は小さく頷き、彼の後に続いて休憩室へ足を踏み入れる。 重厚な扉が閉じられると、外のざわめきは完全に遮断され、静けさが支配する空間が広がった。 静けさが広がるほどに、彼の存在感が強く迫ってくる。 私は一瞬ためらいながらも、促されるまま腰を下ろした。クッションが身体を受け止め、緊張で張り詰めていた背筋がわずかに沈む。 説明という言葉に期待と恐れが入り混じり、私はただ次の言葉を待つしかなかった。 「俺の妻になれ。期間は一年だ」「長くお仕えしておりますから。……ですので、どうかあの方の不器用な優しさを許して差し上げてください」秘書のその言葉には、長年あの方に仕えてきたからこその深い理解と、静かな信頼が込められていた。確かにその通りだ。冷徹で感情を見せないあの人の行動の裏にある不器用な優しさを、私は知ってしまった。私は、彼へ向けて小さく首を横に振った。許すだなんて、そんなおこがましいこと、思えるはずがない。「許すも何も本当は感謝してるんです。私一人じゃ……きっと何もできなかったはずなので」私のその言葉に嘘はなかった。今回のことだけじゃない。お母さんの借金のことだってそう。途方に暮れていた時、契約という冷たい名目の元で、確実に私を救い上げてくれたのは他でもないあの人だった。そんなふうに思っていると、ふいに冷たい空気が肌を刺した。雨芯まで冷え切った体が、ブルッと無意識に震えた。「……くしゅっ」静まり返ったリビングに、私の間の抜けた小さなくしゃみの音が響き渡った。途端に羞恥心が込み上げてきて、私は慌てて両手で口元を覆い隠す。鼻をすする私を見て、秘書の端正な顔立ちにふっと心配そうな影が差す。「お体が冷え切ってしまっていますね。今日はもう、お部屋でゆっくりお休みになってください」私は素直に頷いた。温かいベッドに潜り込んで、とにかく今は眠りたい。「はい、そうします」私は彼に軽く頭を下げると、部屋へと向かうために一歩を踏み出そうとした。右足にぐっと体重を乗せた、まさにその瞬間だった。「……っ、」足首の奥底から、まるで鋭い針で深く刺されたかのような強烈な痛みが。足首の痛みを庇おうにもうまくバランスが取れず、ふっと膝からすべての力が抜け落ちていく。冷たい床に叩きつけられる衝撃を覚悟して、私は思わずぎゅっと両目を閉じた。けれど、いくら待っても予想していた鈍い痛みはやって来なかった。ハッとして目を開けると、咄嗟に腕
「…え、でも、ここにいるよう指示されたって」 家に私を一人にさせないのは、私を逃がさないための見張りなのだと思っていた。私の疑心暗鬼に満ちた視線を真っ向から受け止めても、彼は表情一つ崩すことはなかった。 「家にひより様を1人にはしておけないので、傍で守るよう」 守る。そのたった二文字の言葉が、私の頭の中で何度も反響し、これまでの世界を根本からひっくり返していくような強烈なめまいを覚えた。 私を監視し、縛り付けるためではなく、危険から遠ざけ、安全を確保するためにそばに置いていたというの? あの時の智哉さんの冷え切った視線と、突き放すような冷たい口調が脳裏に蘇る。 「守る…私を?」 自分の口からこぼれ落ちた言葉は、どこか現実味を帯びていなかった。 私の呆然とした呟きに対し、彼はゆっくりと、力強く頷いてみせた。 「智哉様は、彼が来ることも見越しておられました」 その瞬間、背筋にぞくりと冷たいものが走った。 智哉さんは、涼介の狂気じみた行動をあらかじめ予測していたからこそ、私を無理やりにでも自分の手の届く範囲に置いて…。 「涼介のことを理解していたから…」 だからあのとき、チャイムが鳴った時、秘書は私に部屋に戻るように言ったのか。よく考えれば、この家の主である彼が自分の家でわざわざチャイムを鳴らすはずがない。 智哉さんが帰ってきたのだとばかり思い込んでいた自分の鈍感さが呪めかしい。 そして秘書は、私が涼介と接触しないように、必死で防波堤になってくれていたのだ。 それなのに、私は……。 母の現状を知らされて自ら彼の前に出てしまった。 「ここへ来たのも、彼からひより様を遠ざけるためだったのです」 「私のためにここに…?」 震える声で紡いだ私の言葉は、静かな部屋の空気に溶けていった。 智哉さんが私のためにそこまでしてくれていたという事実が、これまでの私の凝り固まった価値観を優しく打ち砕いていく。 「智哉様は万が一を警戒しておいででしたが、私はここなら安全だろうと…。まさか、ここにいることまで突き止めてしまうほど執着質だったとは」 涼介の執着心。その言葉の響きだけで、皮膚の下をぞわぞわと不快な虫が這い回るようなおぞましさを感じた。 「それならそうと言ってくれれば」 私だって子供ではないのだから、事情を説明されれば黙って従ったし、何
「手を煩わせてしまってすみません」申し訳なさで胸がいっぱいになり、私は消え入るような声で謝罪を口にした。私のせいで、本来なら必要のない労力を使わせてしまっている。「いえ」秘書は表情を崩すことなく、事務的な、けれど拒絶ではない短い言葉を返した。「智哉さんにも迷惑をかけてしまって、」彼はただ黙々と包帯を巻くばかりで、何も言わなかった。…気まずい。耐えがたいほどの静寂が、部屋の中に膜を張ったように居座っている。衣擦れの音だけが耳に障り、手当てを受ける自分の足首に視線を落とすと、秘書の指先が驚くほど正確に動いているのが見える。どうすればいいのか分からず、私はただ呼吸を浅くして、この息苦しい時間が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。「そんな風には思っていないかと」秘書が顔を上げず、包帯を固定しながら沈黙を破った。意外な言葉に、心臓が跳ねる。智哉さんの意思を代弁するかのようなその響きには、確かな重みがあった。「え?」私の耳が信じられなかった。智哉さんが私を迷惑だと思っていないなんて。「ただ、帰りの遅いひより様を心配されておられました」心配という、智哉さんとは最も無縁だと思っていた単語が、秘書の唇から滑り出した。「心配?私を?」そんなはずがない。私はただ、彼の所有物の一つとして管理されているだけだ。「……ええ。お帰りにならないあなたを待つ間、智哉様は仕事も手につかないご様子で。最後にはいてもたってもいられなくなったようで、家を飛び出して行かれましたよ」「そんなふうには…」私は首を弱々しく振り、否定しようとした。だって、私を見つけた時の彼の目は、凍りつくほど冷たかった。あの視線は心配しているのではなく、ただ、死なれたら困るから仕方なく探しに来たような、そんな感じがしたのだけれど。「あんなに取り乱した智哉様を拝見したのは、私
「それが、俺たちの契約だろう。お前を誰にも汚させず、無傷でここにいさせる」「そうでしたね。ただ、次からはちゃんと教えて欲しいです」守られているといえば聞こえはいいけれど、私は何も知らされないまま彼の敷いたレールの上を歩かされているだけだ。その孤独に似た不安を拭いたくて、精一杯の抗議を口にした。彼の瞳が、私の言葉を受けてわずかに細められた。「それは、お前が」「智哉さんの足を引っ張るような真似はしませんから」私は彼の言葉を遮るように、あえて毅然とした口調で言い放った。泥だらけの惨めな姿で、膝をついている今の私には説得力がないかもしれないけど。「…はぁ。いつまでそこにいるつもりだ」彼が投げかけたのは、私への言葉ではなかった。「すみません。盗み聞きするつもりはなかったのですが」廊下の暗がりに佇んでいた秘書が、ゆっくりと光の中に足を踏み入れた。主人の帰宅を確認し、報告事項を携えてやってきたところ、偶然にも私たちの密やかな場面に居合わせてしまったのだろう。声をかけるべきか、あるいは立ち去るべきか。その一瞬の迷いが彼をその場に留まらせ、結果として、私たちの会話を聞く形になってしまった。彼は一礼すると、感情を読ませない冷静な瞳をわずかに伏せた。「ちょうどいい。後の処置は、お前に任せる」智哉さんは、先ほどまで私の手を包んでいた熱い掌を、驚くほどあっさりと離した。立ち上がると、膝についたわずかな埃を払うようにスラックスを整える。「まだ話は終わってないじゃないですか」これから隠し事はしないと、そう言われていない。私の呼びかけに、彼が足を止めることはなかった。「急ぎの仕事が残っている」私を突き放したわけではないのだろうけれど、彼の優先順位が瞬時に仕事へと切り替わるその冷徹なまでの切り替えの早さに、私は置いてけぼりを食らったような奇妙な寂しさを覚えた。「承知いたしました。あとのことは
智哉さんは無言のまま、家へと運んでくれた。 玄関の重厚なドアが開くと、温かく柔らかな光が私の視界を優しく包む。 智哉さんは靴を脱ぐ間も私を降ろさず、そのままリビングへと直行し、ソファの前で足を止める。そして、壊れ物を扱うような手つきで、ゆっくりと私をソファに下ろした。 柔らかなクッションに体が沈み込み、ようやく自分の体重から解放された足首が、じりじりと熱い痺れを放ち始める。 泥で汚れたスニーカーが高級なソファを汚してしまうのが気になったけれど、それを察した智哉さんが私を制した。 「動くな。余計に酷くなる」 彼は私の返事を待たず、そのまま床に膝をついた。見上げる高さにいたはずの彼が、今は私の足元で、泥だらけのスニーカーに手を掛けている。 「あの……汚いですから、自分で……」 「動くなと言ったはずだ」 智哉さんの声は低く、そしてどこか張り詰めた糸のような緊張感があった。彼は丁寧に、私の足首に負担をかけないよう細心の注意を払いながら、泥にまみれた靴紐を一本ずつ解いていく。 私のために膝をつき、私の足を介抱するその姿を見て、私は胸の奥が焼けるように熱くなった。 言葉足らずで、不器用で、強引さの裏側にある本当の優しさに、私はこの期に及んでようやく触れた気がした。 智哉さんはスニーカーを脇に置くと、今度は私の靴下に手をかけた。 泥と土にまみれた白い生地が、彼の綺麗な指先を汚していく。私は申し訳なさで身を縮めたけれど、彼はそんなことなど気にも留めない様子で、腫れ上がった患部を露出させた。 「……っ」 露わになった足首は、元の形が分からないほどに膨らみ、どす黒い熱を放っている。 智哉さんの喉が、ひどく緊張したように動いた。 「氷を持ってくる」 智哉さんは立
「帰りたくなったら勝手に帰ります。だから、先に帰ってください」絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たくて硬い。拒絶することでしか、自分を保てなかった。けれど、彼は私の突き放すような言葉を気にかける様子もなく、無言のまま私の前にゆっくりと膝をついた。湿った土が、彼の高価なスラックスを汚しているはずなのに、彼はそんなことなど眼中にないようだった。大きな手が、私の汚れたスニーカーの上から、ズキズキと熱を帯びた足首を、包み込むようにそっと掴む。その掌から伝わってくる、あまりの圧倒的な温かさに、冷え切って張り詰めていた心が音を立てて軋んだ。触れられた場所から、強ばっていた全身の力が抜けていきそうになるのを、私は必死に堪えた。「私なら大丈夫ですから」「いいから見せろ」彼は覗き込むように顔を近づけると、私の吐息が届くほどの至近距離で、静かに呟いた。「……ひどく、痛むか?」暗闇の中で、懐中電灯の光が私たちの間をぼんやりと照らし出している。「っ、大丈夫です」声を震わせないようにするのが精一杯だった。足首は熱を帯び、ドクンドクンと脈打つたびに、刺すような激痛が神経を逆なでしていた。「嘘が下手だな」彼は、私の瞳を覗き込むようにして、逃げ場を塞ぐように小さく笑った。「嘘なんかじゃないです」見透かされたことが悔しくて、私はわざと反抗的な視線を彼にぶつけた。奥歯を噛み締め、燃えるような熱を持つ足首を、私はあえて無理やり地面に突き立てた。「ただ少し挫いただけで、なんともないです」自分に言い聞かせるように言葉を吐き出し、私は震える膝を叩いて一歩を踏み出す。けれど、地面を蹴るたびに、視界が白く飛ぶほどの衝撃が足を駆け上がる。「そんなに俺に触れられるのが嫌か」彼の問いに、胸が詰まる。「そういう訳じゃないです。ただ…あ