LOGIN私は佐々木さんが手配してくれたハイヤーの後部座席に揺られ、都内の一等地にある豪奢な建物の前に降り立った。
政財界の重鎮たちが密談に使うというその完全会員制の高級レストランは、外観からして一般人を一切寄せ付けないような、圧倒的で冷たい威圧感を放っている。 エントランスのガラス扉を抜けると、ふかふかの分厚い絨毯が敷き詰められた空間が広がっていて、ほのかに香る高級な白檀の香りが私の鼻腔をくすぐった。 私がエントランスで小さく深呼吸をしていると、フロントの奥から丁寧な身なりをしたウエイトレスが、足音一つ立てずに滑るように歩み寄ってきた。 「恐れ入ります。本日はどのお部屋もご予約のお客様で満室となっておりまして……」 ウエイトレスのその言葉には、顧客のプライバシーを徹底して守る高級店ならではの「一見様はお断りしております」という無言の圧力が込められていた。 「篠原智哉の連れですが……もう到着されておりますでしょう「それが……」 母は、ただ消え入りそうな声で言葉を濁した。 テーブルの上でギュッと握りしめられた両手は小刻みに震え、その指先は血の気が引いたように真っ白になっている。 「お母さん。その大金、いったいどうやって失ったの」 「『いい事業の投資先があるんです。そこに5000万円を投資すれば、すぐに2倍の一億円になる。そうすれば、両親も文句なしに結婚を認めてくれます』って……」 すぐに2倍になるという、いかにも典型的な詐欺の甘い謳い文句。今の私なら、いや、冷静な状態の人間であれば誰だって一瞬で疑うような、あまりにも胡散臭い投資話だ。 けれど、娘の結婚が破談になるかもしれないという強迫観念に駆られパニックに陥っていた母の耳には、その嘘にまみれた言葉が、暗闇の中に射し込んだ唯一の希望の光のように聞こえてしまったのだ。 私は声を荒げるのを必死に抑え込みながら問い返した。 「投資先……? 亮介がそう言ったの?」 私に鋭く問い詰められた母は、ひどく惨めな思いを噛み締めるようにスッと視線を落とした。 「ええ……彼の言われるがままに書類にサインをして、手続きをして。お金をすべて、指定された口座に振り込んでしまって……」 5000万円という途方もない大金が、あんな男の薄っぺらい口車に乗せられただけで、いとも簡単に送金されてしまった。 どうして、もっと早くに気づけなかったのだろう。どうして、母が一人でそんな恐ろしい決断を下す前に、たった一言でも私を頼ってくれなかったのだろう。 「その前に……どうして、少しでも私に相談してくれなかったの」 私が語気を強めて責め立てると、母は弾かれたように顔を上げた。 その目には大粒の涙が溢れんばかりに溜まっており、娘に隠し事をしていた深い罪悪感と、親としてのどうしようもない切実な愛情が入り交じった痛々しい光が宿っていた。 「だって……あなたにこの話をすれば、『借金してまで結婚なんてできない、亮介と別れる』って言い出すと思ったから……っ」 母の言う通りだった。 もしあの時、結婚の条件として5000万円もの大金を要求されていると知っていれば、いくら亮介に盲目的に依存していた私でも、さすがに破談を選んでいただろう。我が家にはそんな大金を払える当てなどどこにもなく、借金まみれになってまで結婚を強行するほど、私の心は狂ってはいなか
「教えて。どうして亮介なんかに借金を作ってしまったのか」 私が真実をすべて受け止める覚悟を示すように問いかけると、母はテーブルの上でギュッと両手を握りしめた。そして、過去の記憶をポツリポツリと語り始めた。 「あの時、亮介くんに裏でこっそり呼び出されて言われたのよ。『ひよりは、僕たちの家系に見合う人間ではない』って……」 見合う人間ではない? 私を都合のいい家政婦として無給でこき使っておきながら、裏で私の母を呼び出し、そんな屈辱的な言葉を投げつけていたというのか。 私の怒りは頂点に達し、嫌悪感が込み上げてきた。 「私の知らないところで、お母さんにそんな酷いことを言っていたの?」 母は悲しげに視線を伏せ、力なく首を縦に振った。母がどれほど惨めな思いでその言葉を聞いたか想像するだけで、胸が張り裂けそうになる。 「彼はこう言ったわ。『僕はひよりちゃんと結婚したいけれど、親が猛反対している。もっと釣り合いの取れる令嬢と結婚しろとうるさいんです』って」 母の口から語られた亮介の言葉は、どこまでも白々しいものだった。 「両親に反対されてるなんて話、私には一度もしなかったのに」 私が怒りに顔を歪めると、母はひどく掠れた声で弁解した。 「最初は、亮介くんもひよりを悲しませまいと気遣って、親である私にだけこっそり相談してくれたのだと思い込んでいたの」 亮介の本性を知る前、私も同じように操られていた。「君のためだ」「君を悲しませたくないから」なんて甘く優しい言葉でコーティングしながら、それは結局、すべて彼自身の都合を押し通すための身勝手な言い訳に過ぎなかった。 それなのに私は……彼のその底の浅い嘘に騙され、愛されていると錯覚し続けていた。 「それで……ご両親を説得するための条件として、彼から提示されたのがお金の話だったのよ」 「お金……?いくらだったの」 私が低く尋ねると、母は震える唇からその途方もない金額をこぼした。 「彼は平然とした顔で一億だと言ったわ」 私は怒りを通り越して呆れ果て、鼻で短く笑って吐き捨てるように言った。 「馬鹿みたい。そんな大金があるわけないことくらい、あの人だって最初から分かっていたくせに」 「私が払えないと泣いて謝ると、彼が『僕が肩代わりして手配するから大丈夫だ』と言い出したのよ」 一億円なんて、普通の家庭で暮ら
「智哉さんとどうやって知り合ったか、詳しいことは話せない。でも、これだけは信じて。私は心からあの人を愛してるの」母はそれ以上出会いのきっかけについて深く追及することはなかった。代わりに、張り詰めていた母の肩からふっと力が抜け、その瞳にようやく柔らかい光が宿り始めた。「それなら、智哉さんのどんなところに惹かれたの? 私が知る限り、彼はとても冷徹で情を持たない恐ろしい方だと……」「それは…」どうしてそんな質問をするのだろう。単に母親として気になったのか、あるいはまだ疑われて……。「あ、疑っているわけじゃないのよ。ただ、母親として純粋に気になってしまって」智哉さんのどこが好きか。そんなの、数え上げればキリがない。不器用な優しさ、誰よりも重い責任を背負って立つその背中、たまに見せる意地悪な笑顔。私は自然と口角が緩んでしまうのを抑えきれないまま、母に彼の本質を言葉にした。「あの人は、世間が噂するような恐ろしい人なんかじゃない。私が一番辛かった時に、私の意志を尊重して、私に本当の愛情を与えてくれた人なの」ゴシップ誌で語られる彼は、冷徹な合理主義者であり、情を挟まずに敵を切り捨てる氷の御曹司だ。だからこそ母も、彼がただの金と権力で娘を支配しているのではないかと恐れていたのだろう。まぁ、情を挟まない合理主義者というのは、あながち間違いではないけれど。「本当の愛情……?」母の問いかけに、私は深く頷いた。かつての私を都合のいい家政婦として扱い、私の心や自尊心を少しずつ削り取っていった亮介との生活。あれは決して愛などではなく、ただの支配だった。けれど、智哉さんは違う。彼は私に婚約者としての役割を求めながらも、私が傷つかないように、でも自分の足で立てるよういつも一番近くで静かに見守ってくれている。「どんなに私がみっともない姿を見せても、理不尽に噛み付いても、決して見捨てずに私を守ってくれた」私がそう語ると、母は亮介の影を思い起こしたようだった。
「……だ、誰から聞いたわけじゃないわ。ただ、私が色々と考えて、想像しただけで……」 私の追及から逃れるように、母は視線を不自然に泳がせた。 テーブルの上で組まれた母の指先が、落ち着きなくギュッと白くなるほど握りしめられている。 「もしかして……茶髪で背の高い、チャラついた雰囲気の男?」 私がその特徴を口にした瞬間、母の肩が大きく跳ねた。その分かりやすすぎる反応が、私の推測が的を射ていたことを証明していた。 「あの人と知り合いな…あっ……」 母は慌てて自分の口を両手で塞いだ。けれど、一度こぼれ落ちた真実はもう隠せない。 「やっぱり。まさかあの人、うちの借金のことまで話してきたの?」 もし、彼が私たちの抱えていた多額の借金の事実や、それを智哉さんが肩代わりしたという詳細まで把握しているのだとしたら。 焦燥感に駆られ、私はすがるような眼差しで母の次の言葉を待った。 「ち、違うの。あの人から直接、借金のことについて言われたわけじゃないわ。ただ、その……」 その言葉に、私は張り詰めていた息をわずかに吐き出し、胸の奥で安堵の息を漏らした。 どうやら、借金の全貌を掴んでいるわけではなく、カマをかけるために母に接触してきたようだ。 でも、だからといって安心できない。母が少しでも隙を見せたり、不用意な発言をしていれば、それを言質として利用されてしまう危険性があるから。 「隠さないでちゃんと言って。その男に、どこで何を言われたの?」 「近所のスーパーで野菜を選んでいる時に、急に横から話しかけてきてね。『娘さん、可哀想ですね』って」 私の身辺を調べるだけでなく、母の生活圏まで尾行し、彼女が一人になるタイミングを見計らって接触してきた。同情を装ったそ
待ち合わせに指定されたのは、昔よく足を運んでいた、少し古びた静かな喫茶店だった。 カランとドアベルを鳴らして店に入ると、窓際の席に座る母の姿がすぐに目に入った。 久しぶりに顔を合わせた母は、私が記憶しているよりも少しだけ肩が小さく、白髪も増えたように見えた。 「お母さん、久しぶり」 そう言い向かいの席に腰を下ろすと、母はテーブルの上で両手をぎゅっと握り合わせ、私の顔をすがるように見つめてきた。 「久しぶり、元気だった?」 どこか遠慮がちな、それでいてひどく心配そうな声で口を開いた母の瞳は、微かに潤んでいる。 「うん。お母さんも元気にしてた? なかなか会えなくて、ごめんね」 智哉さんの婚約者としての振る舞いや、あの華やかな世界に適応するのに必死で、母を気遣う余裕が全くなかった。 「謝らないで。……私は、元気だったわよ」 私の謝罪を聞いた母は、慌てたように首を横に振って微笑み返してくれた。 「そっか……。それならよかった」 「……あの家で、苦労しているんでしょ。ねぇ、ひより。今からでも戻っておいで」 沈黙を破った母の口から飛び出したのは、私を連れ戻そうとする切実な懇願だった。身を乗り出し、私の手を両手で包み込むように握りしめてきた母の指先は、小刻みに震えていた。 「お母さんの気持ちは嬉しいけど、私は戻らないよ。あの家で、智哉さんの隣で生きていくって決めたから」正確に言えば、彼と契約を結んでいる期間だけは、だけど。 「彼が借金を肩代わりしてくれたから?それなら、これから親子二人で慎ましく暮らして、借金はどうにかして私が返していくから……」 私は母の手を振り払うのではなく、優しく包み込むようにして握り返した。 「違うよお母さん。私が智哉さんを好きなのは、お金を出してくれたからなんかじゃな
「初めてお会いした時は、智哉さんのことを恐ろしい人だと決めつけていました。でも、実際にこうしてそばで接していくうちに、冷たい言葉の裏に隠された温かくて不器用な優しさを知って……」 そこまで言いかけて、私は一度言葉を切った。 これ以上一気に言葉を紡げば、必死に抑え込んでいる本心が、すべて溢れ出してしまいそうだった。 「一人の人間として、尊敬の意味を込めて好きだと思っているのは本当のことですから」 「人間として好き、か。俺の性格を身をもって知っておきながらそう言い切るとは、お前も随分と物好きな変人だな」 彼特有の皮肉めいた言い回しに、私は張り詰めていた緊張が少しだけ解けていく。 「そんなことないですよ。私はただ、智哉さんを正しく理解しただけです」 私のささやかな反論を聞いた智哉さんは、低く喉を鳴らしてククッと笑い目を細めた。 「それにしても、短い期間で驚くほどの変わりようだな」 私自身としては、彼に対する印象が大きく変わったことは自覚しているものの、自分の態度がそこまで劇的に変化したつもりはなかった。 むしろ、彼に迷惑をかけまいと必死に完璧な婚約者を演じようと空回りしている現状を思うと、根本的な不器用さは何も変わっていないのではないかと思ってしまう。 「そうですか……?」 私が不思議そうに聞き返すと、智哉さんは呆れたように短く息を吐き出した。 「あぁ。出会って間もない頃のお前は、常に俺に反発して、隙あらば噛みついてきそうな目をしていたからな」 噛みついてきそうな目というあんまりな表現に、私は思わず目を見開いた。 確かに、最初は彼の冷酷な態度に腹を立てることも多かったけれど、いくらなんでもそこまで野犬のように反抗的だっただろうか。 私は慌てて両手を振り、過去の自分の無礼を取り繕うようにして必死に否定の言葉を口にした。 「まさか! 私が智哉さんに反発だなんて、そんな恐れ多いこと……」 「よく言う。俺のことを疑って、
今日は私の誕生日だった。 手の込んだものではないけれど、彼の好きな料理を作ってテーブルに並べていた。 朝は何も言われなかったけれど、誕生日だから早めに仕事を切り上げて帰ってきてくれるはず。 そのとき、テーブルの上に置いたスマートフォンが小さく震える。 何気なく画面を覗き込むと、差出人不明のメッセージ通知。 開いてみると、一枚の写真が添付されていた。 「…なにこれ」 そこに写っていたのは、私の婚約者だった。そして彼の隣には、別の名家の令嬢。 ヨットの上で、二人はためらうことなく唇を重ねていた。 指先から力が抜け、スマートフォンを落としそうになる。 頭が真っ白になる。 信じ
翌日、彼は私との契約を守るために弁護士と秘書を伴い、亮介に会いに行った。 私は扉の外で待たされることになり、中で何が行われているのかはまったく分からなかった。 廊下に立ち尽くしながら、時計の針の進みを見つめていた。 中からは声も物音も漏れてこない。 「何を話しているの……」 小さく呟いても、答えは返ってこない。私はただ、扉の前で立ち尽くすしかなかった。 そして、ほんの十分後。 扉が開き、彼が姿を現した。その顔には勝利とも安堵ともつかない影が浮かんでいる。 弁護士が短く頷き、秘書が静かに後ろに控える。 「借金は全て片付けた。だからもう、あいつに従う必要なんてな
車に揺られながら実家へと向かう道のりは、やけに長く感じられた。玄関の前に立つと、胸の奥がざわめき、手が震える。ドアノブに触れる指先は冷たく、開ける瞬間をためらう。けれど、深く息を吸い込み、意を決して扉を押し開けた。足を踏み入れると、リビングのソファーに母が座っているのが目に入る。「お母さん…」母の姿を目にした瞬間、胸の奥に押し込めていた感情が一気に溢れ出す。背もたれに身を預ける姿はどこか疲れ切っていて、私の視線を受け止めると小さく肩を震わせた。
妻…結婚……。 それは人生を根底から変える決断だった。けれどなぜ一年なのか、なぜ私なのか。「私とあなたが結婚…?それに1年というのは一体…」結婚という現実味のない響きと、一年という不可解な期限。その両方が私の心を揺さぶり、理解を拒む。「契約結婚だ。それ以上でも以下でもない」その言葉はまるで判を押された契約書の一文のようだった。結婚という言葉が持つはずの温もりや未来への希望はそこにはなく、ただ期限付きの取引の匂いだけが漂う。愛ではなく契約







